第10話:引き返す理由
エンジンを切る。
***
音が、消える。
***
それまで当たり前にあった振動も、機械音も、
一瞬で途切れる。
***
静かだった。
***
波の音だけが、遠くで続いている。
***
目の前には、細い分かれ道。
***
草に隠れるようにして、奥へ伸びている。
***
車から降りる。
***
ドアを閉めた瞬間。
***
空気が、少しだけ変わった気がした。
***
音が遠い。
***
さっきまでと同じ場所のはずなのに、
一歩、外に出ただけで切り離されたような感覚。
***
足元の砂が、軽く音を立てる。
***
一歩、近づく。
***
ただの道に見える。
舗装もされていない、細い土の道。
***
それだけだ。
***
「……」
***
ここまで来て、足が止まる。
***
行けばいい。
それだけのことだ。
***
でも。
***
ポケットの中のスマホを握る。
***
画面を開く。
***
電波はある。
通知も来ている。
***
なのに。
***
地図だけが、表示されない。
***
白いまま。
***
現在地が、どこにもない。
***
時間を確認する。
***
思っていたより、遅い。
***
このまま進めば、戻る頃には暗くなる。
***
それだけじゃない。
***
この先に何があるのか、分からない。
***
道かどうかも、分からない。
***
深く息を吐く。
***
「……今日はやめるか」
***
口に出してみる。
***
言葉にした途端。
***
少しだけ、現実に戻る。
***
そうだ。
急ぐ必要はない。
***
場所は分かった。
***
また来ればいい。
***
それでいいはずだ。
***
視線を上げる。
***
分かれ道は、変わらずそこにある。
***
何も変わらない。
***
ただ。
***
じっと、こちらを見ている気がした。
***
一歩だけ、踏み出す。
***
土の上に、足を乗せる。
***
乾いた感触。
***
沈まない。
***
ただの地面だ。
***
もう一歩。
***
道の中に、ほんの少しだけ入る。
***
振り返る。
***
車は、すぐ後ろにある。
***
戻れる距離だ。
***
そう確認して、少しだけ安心する。
***
視線を前に戻す。
***
道は、続いている。
***
奥は、少し暗い。
***
木が、影を落としている。
***
風が吹く。
***
葉が揺れる。
***
その隙間で。
***
一瞬だけ。
***
奥に、何かが動いた気がした。
***
息が止まる。
***
目を凝らす。
***
何もない。
***
ただの影。
***
それだけだ。
***
「……」
***
足が、動かない。
***
進めばいい。
***
でも。
***
胸の奥が、静かにざわつく。
***
理由は分からない。
***
ただ――
***
ここから先に進むべきじゃない。
***
そんな感覚だけが、はっきり残る。
***
ゆっくりと、足を引く。
***
土の上から、アスファルトへ戻る。
***
一歩。
***
また一歩。
***
完全に道から離れる。
***
その瞬間。
***
背中に、視線を感じた気がした。
***
振り返る。
***
分かれ道は、変わらない。
***
ただ、そこにあるだけだ。
***
何もない。
***
それでも。
***
さっきより、少しだけ“奥行き”が深くなった気がした。
***
「……帰るか」
***
小さく呟く。
***
車に戻る。
***
ドアを開ける。
***
シートに座る。
***
妙に、安心する。
***
閉じた空間。
音のある場所。
***
エンジンをかける。
***
振動が戻る。
***
現実が、戻る。
***
前を見る。
***
いつもの道だ。
***
まっすぐ続いている。
***
バックミラーを見る。
***
分かれ道が、小さく映る。
***
さっきより、はっきりしている気がした。
***
目を逸らす。
***
アクセルを踏む。
***
車が、動き出す。
***
そのまま、走る。
***
しばらくして。
***
無意識に、バックミラーを見る。
***
――まだ、見えている。
***
距離の割に。
***
小さくならない。
***
「……おかしいだろ」
***
呟く。
***
それでも、車は止めない。
***
前だけを見る。
***
それなのに。
***
視界の端で、分かる。
***
ミラーの中のそれが。
***
少しずつ。
***
“広がっている”。
***
遠ざかっているはずなのに。
***
近づいてくるみたいに。
***
喉が、乾く。
***
目を逸らす。
***
もう、見ない。
***
そう決める。
***
それでも。
***
次にミラーを見たとき。
***
そこにはもう――
***
“ただの道”には見えなかった。




