見知らぬ床板
次に目を覚ましたのは板張りの床の上。
先ほどの河川敷を思えば、屋内で目覚められたのは天と地の差の高待遇だ。
ただ、河川敷より状況が悪化している事が一つある。
わたしが後ろ手に縛られて床に転がされているという事。
目覚めと共に自覚する、殴られた後の目の奥に残る鈍痛が不快で、わたしはゆっくりと寝返りを打った。
体重が乗っていた方の腕がじんわり痺れる。
冷えていた指の先に血が通うのを感じながら寝返りを打った先には、畳が一段高くなった高砂のような場所があった。
そして、その高砂には男が一人座っている。
驚いたわたしの意識は一気に覚醒してその男を見た。
河川敷の男達とは違い、身なりも顔立ちも随分と爽やかだ。歳は三十手前か、そこそこ若い。
わたしより少し歳上くらいだろうか。しかし若く見える割には、妙な威圧感というか、強者の風格みたいなモノがよく出ている。
男はわたしを真っ直ぐ見ていた。わたしと目が合うと、男はニヤリと笑った。
「目が覚めたか」
多分そんなような事を男は言った。低くて、少し掠れたような、どこか甘さのある声だった。
幾つか質問をされたけれど、やはりさっぱり言葉が分からない。
ただ、先ほどの男達の言葉と違い、何となく現代に通じるものがある。
古典で習ったような言葉だった。
わたしが分からない素振りを見せていると、彼は少し考えて質問を変えてきた。
正確な意味は分からないけれど、これは何となく分かった。お前はどこから来たのかと、そう聞いているのだろう。
嬉々として話そうとして、直ぐにうかつに現代の話はできないと思った。
わたしを怪しい者だと判断すれば、向こうは簡単にどうとでも出来てしまうのだ。
第一、この男も腰に刀を差している。
タイムスリップの様な妙なカタカナ語は使わずに、わたしはゆっくり、言葉を選んで彼に伝えた。
いつの間にか此処へ居たこと、敵意はないこと、帰りたいがどうすれば良いのか分からないこと。
話の間中、縛られた手首がヒリヒリと痛んだ。
その痛みが、これが夢で無い事を伝えてくるのが辛かった。
自分の中でこの一連の現実を整理して話をすると、置かれた状況が本当にどうしようも無いことに気づいて、自然と涙が溢れた。
この場所には身元の保証人もいなければ、そもそも言葉すら話せない。
状況としては最悪の部類に入るだろう。
一度自覚してしまうと、絶望する。
堪えきれずに溢れた涙を拭きたいのに、手すら自由を奪われているのが更に惨めだった。
拭えない涙が畳に染みるほど、大人気なく泣きながら話すわたしに、彼は少し困った顔をして頭を掻いた。
それからおもむろに高砂を降りると、何処からか小刀を出して、わたしの手首を縛っていた麻縄を唐突に斬った。
わたしはお礼を言う余裕がなくて、とにかく話を続けながら、自由になった両腕で涙を拭う。
着ていたジャケットの裾はたちまち黒く汚れたので、多分パンダ目で酷い顔面をしているだろうけれど、もはやそれを気にする余裕は無かった。
話終わると、通じたのか通じていないのか、彼は使用人らしい人を呼び、わたしに濡れた布と一着の着物を差し出した。
わたしはその布で涙というかぐしょくじょになった顔全体を拭って、それから着物を受け取った。
これに着替えろという事だろうか。
着物はずっしりと重く柄は繊細で、かなり良い物なんじゃ無いかと思う。
立つことを促されると、次に部屋を案内された。
大きな屋敷の端を板張りの廊下がぐるりと囲っていて、壁はほとんど無く部屋と部屋は襖で区切られている。
こういう建築の名前を昔、歴史の授業で習ったような気がしたけれど、あまり得意じゃなかったので覚えていない。
その並んだ襖の一角を開けられて中へ通されると、そこはこぢんまりとした個室になっていた。
文机だけが置かれている。
わたしの後ろから使用人風の女性が現れて、部屋の端に布団代わりなのか、薄いゴザみたいなものを置いて行った。
どうやら、身の置き場が無いなら此処に居ても良いという事らしい。
反対の襖をそっと開けると乱雑に物が置かれた部屋だったので、この部屋ももしかしたらさっきまでは物置の一つだったのかもしれない。
もっと納屋とか、最悪牢屋とかに案内されるものだと思っていたけれど、ここは本当にきちんとした部屋だった。
小さな押し入れのような空間だけれど、掃除がされていて生活には困らなさそうだ。
何故こんな良い待遇なのかは分からないけれど、これはとても有難い話だった。
こうしてわたしは、現代を離れどの時代の何処なのかも分からない、言葉さえ通じないこの場所で、なんとか衣食住を得たのである。




