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運命の先へ


 いくつか季節が変わって、漸く最後の一節を書き終わって、わたしはこの夜筆を置いた。

 随分と時間が掛かってしまったけれど、脳裏に鮮明に焼き付いた豊田での日々は色褪せない。


 この時代の言葉を、この時代の文字で記す事。

それは、言葉も文字も知らなければ良かったと馬上で泣いた日、生きる事が呪いの様だと絶望した夜、そういう過去の自分を追い越した証だと思えた。


 御館様や豊田の皆の為と言いながら、わたしはわたしを許す為に、この物語を綴って居たのかもしれない。


 書き上げた紙料を纏めて一息吐く。

この時代、紙は非常に貴重なものだったけれど、奥州は紙の産地であるため、比較的安価で手に入った。

 ここから都まで運ばれる頃には、輸送費に人件費に希少性も加わって、きっと高級品になるのだろう。


 気が付けば夜はすっかり更けて、燭台の灯りは小さくなり、今にも途切れそうに揺らいでいた。

 何となく眠る気になれずに、新しい油を足そうと戸棚へ向かう。

油壺を手にして文机を振り返ったところで、開け放たれた板戸の向こうから、急に強い風が入ってきた。


 風のない穏やかな夜の筈だったから、何処からか沸いたような、妙な胸騒ぎのする風だった。

 その風に煽られた蝋燭の火が消えて、辺りは一瞬で暗闇となる。

風はそのまま部屋の中で大きく唸り、書き上げたばかりの紙料を巻き上げた。


 巻き上がった初めの十数枚が、奥州の夜闇に消えてゆく。

 その向こうに、懐かしい黒髪を見た気がした。

こんな暗闇に、何も見えるはずがないのに。


「待って!」


 反射的にわたしは声を上げて、小袖の裾を翻して屋敷の外に駆け出した。

紙料が大切だったんじゃない。

 この嘘の様な、夢の様な、運命の様な出来事の先を、ただ確かめたかっただけだった。

確かめないといけないと、そう思ったのだ。


 細い月の微かな光が、紙料をぼんやり白く浮かび上がらせる。

もう風は吹いていない様な気がするのに、まるで操られているかのように、それは美しく揺蕩って流されてゆく。

 音は無い。

自分の呼吸音も、衣擦れの音も、不思議と暗闇に響かなかった。


 どのくらい走っただろう。

息が切れるような、でもまだ走れるような、それは不思議な心地だった。

 そうして暫く行燈の様に仄白く闇夜を照らす紙料を追い続けて、何処をどう走ったのか分からないうちに、わたしはついに足元の何かに躓いた。

 正確には、躓いたような気がした。

それが硬いのか柔らかいのかも、鋭いのか丸いのかも分からない。


 しかし躓いた勢いで傾ぐ体は、なす術なく真っ直ぐ前へ倒れてゆく。

まるで強烈な眩暈の様だった。

それはいつか感じたのと同じ感覚。


 咄嗟に前に出していた手が、何か硬く、ひんやりとした物に触れた。

 はっとして、一つ瞬きをした先には光。

 硬く冷えた石畳。

 そびえ立つ建物群。

 昼間の様に明るい街灯。

 遠く聞こえる喧騒。

 ここは––––


 此処は、東京。

 十数年前、わたしが消えた場所だった。



 気が付けばわたしは白砂の敷き詰められた開けた空間で、その中心の石畳に座り込んでいた。

左側のビルから漏れ出る灯りがやけに明るくわたしを照らしている。

 着ている綺麗めのオフィスカジュアルには汚れ一つ無く、指先のネイルも綺麗に色付いている。

あの日のまま、東京にいた日のわたしが、ここにいた。


 まるで、長い白昼夢を見ていた様だった。

 今は、いつだろう。

わたしの姿はあの日のままだけれど、一度は時を飛んでいるのだから、今が本当にあの日なのかは分からない。

 

 わたしは慌てて、近くに落ちていた鞄を引き寄せて中を探った。

十数年振りに触るスマホは酷く懐かしくて眩しい。

 軽くタップして開けば、時刻は夕暮れを少し過ぎた黄昏時。

カレンダーは紛れもなくあの日と同じ日付を示している。

 わたしは、本当に戻ってきたのだ。

その事実は、わたしを酷く動揺させた。


 あれ程帰りたいと願った日々も遠く過ぎ、わたしはもう、奥州に骨を埋める覚悟で居た。

 豊田兵の略奪を止められず、小春丸の死も悼まず、貞盛の妻達も気遣えなかった私は、もう現代には戻れないと思ったから。

だからもう、昔のように素直な気持ちで喜べなかったのだ。


 奥州へ残してきた人達の事も気掛かりだった。

 滝姫様はまだお若いし、良門様はまだ幼い。

大体、わたしが急に消えてしまったのだから、皆心配するだろう。

わたしの事を不毛に探したりはしないだろうか。


 あの手記はどうなるだろう。

奥州に居るとは言え、追手が来ないとも限らない。

 風に飛ばされた紙料がどこかに落ちて、邪な者の手に渡ったりして、もしそれで奥州の彼らに類が及ぶ様なことがあったら、わたしは悔やんでも悔やみきれないだろう。


 でも案外、わたしの存在ごと歴史から消える事もあるかもしれない。

 そもそもわたしは、本当に豊田に居たのだろうか。この記憶は正しく白昼夢だったのかもしれない。

この日に戻ってきた今、それはもう確かめようが無いのだ。


 そう考えた瞬間、ぞっとして、心臓が消えた様に体の中心に冷たさを覚えた。

 急にこの世にわたし一人だけしかいない様な孤独と焦燥感に駆られて、わたしはそれを埋める様に、顔を上げて通りに目を向けた。

 歩道をよぎる人の姿が見えると、途端に人恋しくなってしまって、通りに出ようと素早く立ち上がる。


 それから握りしめていたスマホをしまう為にバッグを開くと、底に何か見慣れない、だけどとても懐かしい物があるのが目についた。


「これ……」


 頭の奥が痺れるような感覚を鎮めるように、急いで底から取り出すと、それは木製の細い板。

わたしは浅く息を吸った。


 これは、扇子。

 広げると美しい花が描かれている。

わたしが豊田で大切にしていた物だった。


 ぐらぐらと心が揺れて、視界が滲んだ。

涙が溢れそうで、慌てて視線を上げれば、滲む視界の先に石碑が見えた。

 刻まれた梵字の右側には、“平将門”の文字。

それは、わたしが救えなかった人の名前。


 白昼夢なんかじゃ無い。

わたしは確かに平安時代の坂東で、ちゃんと浮草として生きていたのだ。

 そう思った途端に、焦がれるような思いが心の内側から溢れ出て、熱い雫が頬を伝った。


 東京の夜はこんなに明るかっただろうか。

街灯の灯りが目に染みて、滲む視界を彩った。

 わたしは暫く、石碑の前で泣き続けた。


 

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