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旅路

 「武蔵国、ですか……?」


 わたしが御館様に頼まれた物を揃えて部屋に入ると、中では軍議が行われていた。

 郎党達は下座で皆一様に首を傾げている。

 何だろうと思って、わたしは運んだものを順に並べながら、軍議に耳を傾けた。


「ああ。国司と郡司の間で諍いが起きているらしく、ろくに政も行われていない様子。民が憐れでならん。少し行って、収めてこようかと思ってな。」


 御館様の言葉は、いつに無く唐突だった。

 わたし達の住まう豊田郡は下総国にあるから、武蔵国は全く関係のない土地だ。

そもそも、現代ならまだしも交通手段が徒歩か馬か手漕ぎの船かしか無いこの時代では、武蔵は下総からちょっとで行ける距離ではない。

 一体何がどうしたのか、皆が目配せをし合っていると、御館様が一つ咳払いをして話始めた。


 事のあらましはこうだ。

 武蔵国に朝廷から新しく国司が選ばれ赴任してきた。

 権守である興世王と、介の源経基。

 今で言う中央省庁のキャリア官僚にあたるこの二人が赴任早々、地方官僚である足立郡司の武蔵武芝という男と揉めたのだ。

 国司達が執り行おうとした検注という執務を、郡司武芝が拒否した事が原因だった。

 検注とは土地の測量の事で、これによって税をどれ程徴収するか決まるらしい。

いきなり朝廷から派遣された役人が、先祖代々受け継いできた自分達の土地を測って、これだけ税を納めよなどと言ってくるのは、その土地の領主や領民達には堪らなく不快な事。

しかも厳しい額の税を課されるのである。

 その為に、どうやら慣習的に郡司による検注の拒否は、どの国でも慣例的に行われてきた事らしい。

 しかし武蔵国においては、検注を拒否された国司達がそれに激怒し、兵を連れて郡司武芝の領地を焼き、私財を略奪してしまったのだ。

 ただ幸か不幸か、武芝は役職で言えば国司に劣るが昔から武蔵国に領土を持つ豪族で、財も有れば兵もあった。

 それ以降、武芝は私財の返還を求めて私兵を使って挙兵し、聞く耳を持たない興世王達との小競り合いが続いていると言う。


「諍いの理由は分かりましたが、それを何故に兄者が?武蔵には返す恩も繋がる縁も無いはずでは?」


「無関係の地の諍いに手を出すとなると、火事場泥棒だと思われないか心配です。」


「収めると言っても、どうするのです?誰を訪ねて武蔵へ行けば良いのやら……。」


 弟君達や郎党達が次々にそう言って顔を顰める。

 御館様には悪いけれど、郎党達の困惑はもっともだと思った。

この時代は関係の無い隣国の諍いになど、関与しないのが常であるから。

 この間の良兼達との戦で官符が出ているのにもかかわらず、他国が御館様に援軍を送らなかったのも、それがこの時代の普通だから。

余計な火の粉が降り掛かるのは誰だって避けたいのだ。

 皆がそう言ってやんわり止めても、御館様は引かなかった。


「まぁ聞け。まずは、郡司である武芝と会ってみようと思う。武蔵から流れてきた者達によれば、武芝は良吏なのだそうだ。検注が行われれば、今より厳しく税を取り立てられる。特に今、西は飢饉に海賊被害にと荒れているからな。民の暮らしを守る為に、武芝による検注の拒否は妥当だ。民の安寧を考えられる男が、仲裁に来た俺を追い返す様な真似はしないだろう。」


「しかし、此れはあくまで他国の事では?」


 郎党の一人がそう切り込んだのを、御館様は一つ頷いてから言葉を返す。


「それについても問題は無かろう。国司の横暴に苦しむのは、何も武蔵国だけでは無い。いずれ此処下総でも同じ事が起きるか分からん。同じ坂東の民同士。今から関係を築くのも悪く無いだろう。」


 民の為だと言われてしまえば、皆に返す言葉はなかった。

それに、一連の合戦を経て、有事の際の味方を血族以外に作っておきたいという思惑もあれば、反対する理由はもう無くなる。

 御館様を筆頭に、豊田の郎党達は武蔵へ赴くことに決まった。

 

 そうしてこの日から、屋敷の中は旅の準備に忙しくなった。

今は大人しくなったとはいえ、いつまた良兼達が攻めてくるかもしれない石井の屋敷に、妻子を残して行く訳にいかないと、武蔵への旅には多くの者を連れて行く事にしたからだ。


「浮草、お前も共に来い。」


 御館様にそう言われ、わたしも旅に同行する事になった。


 わたしにとってこの旅は、この時代へ来て初めての遠出だ。

 武蔵と言えば、昔の東京という認識で居たけれど、平安時代は地形からしてあまりにも違う。

下総も大半は水脈と湿地帯だけれど、武蔵はかなりの部分が海である。

多分現代の東京湾の昔の姿だと思われる広大な湾と、その周辺には汽水の川や干潟が広がっている。

 遮るものの何もない自然のまま荒々しい海岸は圧巻だった。


「お前の国がどの様な場所かは知らないが、この景色も中々のものだろう。」


 丁度、夕陽が沈む頃だった。

 いつの間に側に来ていたのだろう。野営先に選んだ高台から、薪を集める手を休めてそれを眺めていたわたしに、御館様が声を掛けてきた。


「こんな綺麗な景色、初めて見ました。」


 心から、そう思った。それ以外は言えなかった。

現代では決して見ることが出来ない景色。

あまりにも綺麗で、ここが現代から遠く離れた平安の地だという事をありありと見せつけられた様で、それが澱を溜め続けた心に染みて苦しかった。


「そうか。」


 御館様は、そう言ったきり燃えるように揺らぐ水平線を見つめ続けていた。

 

 やがて煌々とした光が鈍り、群青が濃くなる。

 現代に居た頃、わたしはこの時間が一番好きだった事を思い出した。

これから来る夜は、日中のしがらみや仕事からわたしを解放して、自由にしてくれるから。

 でもこの時代では違う。

夜は不自由なものだと思った。平安の暗闇の底には恐怖がある。

この時代の人々が神仏や妖を信じるのも、そういう暗闇の向こうの見えない畏怖や恐怖を、何か見える形にして理由を付けて、安心したかったのではないかと思う。


 そんな事を考えていると、高台に風が吹き始めた。

風が夜を運んで来る。

街灯など無いから、早く戻らなければ直ぐに暗くなって何も見えなくなってしまう。

 急がなければと思った時だった。


「……良兼とは、俺の嫁取りの際に既に不仲に為って居た。」


「え?」


 薪を集め終わってしまおうと海に背を向けようとしたわたしに、唐突に御館様がそう溢した。

何だろうと思って顔を見上げても、御館様は視線をずっと海へ向けている。

まるで独り言の様に、わたしに話しかけているのだ。

 わたしは、その意味を考えながら共に海を見る。

波間を縫って夕陽へ向かう光の帯が、途方もなく美しかった。


「国香とは、領地の件で揉めて居たし、嵯峨源氏とはそもそも家系としての折り合いが悪い。」


「……はい。」


「貞盛とは、都に居た時期が被っていたが、あまり親しく話をした事はない。」


「……はい。」


「此れはその様な、些細なわだかまりの成れの果てだ。俺の過去に、お前は居なかった。」


 はっとしてわたしは御館様のお顔をもう一度見た。

けれど逆光が眩しくて、その表情を窺い知る事は出来なかった。

 ややあって、戻るぞ、と言うと御館様は踵を返して去っていった。

 既に夕陽は水平線の彼方を一筋染めるだけで、すっかり夜の帷が落ちている。

野営先の篝火に向かって薄闇の中を真っ直ぐ歩いていく、御館様の姿が優美だった。

 遠回しな言い方だったけれど、これは確かにわたしを気遣っての言葉だろう。

わたしが正月以来少し塞いでいた事を、何処かで気付かれていたのだろうか。

 返せないほどの優しさを、どうしたら良いだろう。この時代は辛い事も多いけれど、御館様に会えてよかったと思った。


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