第44話 毒竜襲来! 八歳の少年が仲間を率いる時!
もし、誰かにこう聞かれたら、俺はどう答えるだろう。
――君は、勇者になりたいか?
前世の俺なら、きっと笑って答えただろう。
ゲームの中なら、なってみたい。
強力な魔法を使い、巨大な魔物を倒し、仲間たちと世界を救う。
そんな冒険には、憧れがあった。
けれど、現実は違う。
目の前に巨大な牙が現れたとき。
身体が震え、心臓が壊れそうなほど激しく鼓動したとき。
それでも、誰かを守るために立ち上がれるのか。
その答えを、俺はまだ知らなかった。
少なくとも――今日の朝までは。
◇
「レオン! 早く行こうよ!」
「待って、リナ! まだ荷物を確認してるから!」
ヴァイス男爵家の屋敷前。
俺は、小さな革鞄の中身を確認していた。
水筒。
包帯。
簡単な魔導照明具。
方位磁針。
それから、緊急時に使用する信号用の魔導器具。
……よし。
全部ある。
「準備できたよ」
「やった!」
リナが、嬉しそうに飛び跳ねた。
赤茶色の髪が揺れ、頭の上の狐耳がぴんと立つ。
今日の彼女は、動きやすい赤い上着に短いズボン、丈夫な革靴を履いていた。
大きな尻尾は、朝から元気よく左右に揺れている。
「森だよ、森! 何か面白いもの、見つかるかな?」
「今日は遊びじゃなくて、魔法の訓練だからね」
「分かってるって!」
……本当かなあ。
俺が苦笑していると、隣から小さな声が聞こえた。
「……レオンくん」
振り返ると、エリスが立っていた。
赤い髪を青いリボンでまとめ、淡い水色の上着に白いスカート。
足元には、森を歩くための革靴を履いている。
緑色の瞳が、少し不安そうに俺を見つめていた。
「……森って、魔物がいるの?」
「うん。でも、今日は比較的安全な場所だけを歩く予定だよ」
「……そうなんだ」
「それに、護衛の人も一緒だから」
俺がそう言うと、エリスは少し安心したように微笑んだ。
「……うん」
そのとき。
「皆様、お待たせいたしました」
聞き慣れた声が響いた。
マルタだった。
栗色の髪を銀色の髪留めでまとめ、白いブラウスの胸元には深紅のリボン。
濃紺の上着とプリーツスカートには銀色の縁取りが施され、肩には小さな青いケープが掛かっている。
腰には、訓練用の短い木杖を下げていた。
「本日は、私が魔法訓練の指導を担当いたします」
「よろしくお願いします!」
俺たちが声をそろえると、マルタは微笑んだ。
「ただし、出発前に大切なお話がございます」
その声が、少しだけ真剣になる。
「森の中では、必ず私か護衛の指示に従ってください。勝手に走り出したり、知らない生き物に近づいたりしてはいけません」
「はーい!」
リナが元気よく手を挙げた。
すると。
「特に、リナ様」
「えっ!?」
「お約束できますね?」
「……できます!」
マルタが微笑む。
「よろしい」
……さすがマルタ。
リナの性格をよく分かっている。
そのとき、屋敷の扉が開いた。
「レオンハルト」
「父上!」
ラインハルト父上が、俺たちの前に現れた。
その隣には、革鎧を着た護衛の男性が立っている。
「本日の護衛は、トーマスに任せる」
「よろしくお願いいたします、若様」
トーマスは、軽く頭を下げた。
ベルンハイムでの修理仕事にも同行した、経験豊富な護衛だ。
「よろしくお願いします!」
俺も頭を下げた。
父上は、俺たちを順番に見渡した。
「森の奥には入るな。異変を感じたら、訓練を中止して戻ること」
「はい!」
「それから、レオンハルト」
「……はい?」
「何か起きたとき、お前一人で解決しようとするな」
俺は、少しだけ息を呑んだ。
父上の目は、真剣だった。
以前、俺は無理に雷の魔力を身体へ流し、危うく命を落としかけたことがある。
あのときのことを、父上は忘れていない。
……俺だって、忘れていない。
「……分かりました」
俺は、しっかり頷いた。
「必ず、みんなと相談します」
父上は、少しだけ表情を和らげた。
「よろしい。では、気をつけて行ってきなさい」
◇
屋敷から森の入口までは、歩いてそれほど遠くなかった。
朝の陽光が木々の隙間から差し込み、地面にはまだら模様の影が広がっている。
風が吹くたびに葉が揺れ、鳥たちの鳴き声が響いた。
「わあ!」
リナが、目を輝かせた。
「気持ちいい!」
彼女は大きく息を吸い込んだ。
尻尾が、嬉しそうに揺れる。
「レオン! あそこに赤い花がある!」
「本当だね」
「こっちには、変な形のキノコ!」
「触らないでね」
「分かってるって!」
……本当に分かっているのだろうか。
俺が少し心配していると、エリスが小さく笑った。
「……リナちゃん、楽しそう」
「うん。元気すぎるくらいだよ」
マルタも微笑んでいた。
「ふふっ。ですが、周囲に興味を持つことは悪いことではございません」
「……そうだね」
「ただし、危険なものを見分ける知識も必要でございます」
そう言って、マルタは道端の植物を指差した。
「例えば、あちらの葉をご覧ください」
俺たちは、彼女の指差す方を見た。
細長い葉の植物が、地面から伸びている。
「この植物は、葉に触れると軽いかぶれを起こすことがございます」
「えっ!?」
リナが、慌てて手を引っ込めた。
……危なかった。
今、触ろうとしていたな。
「だからこそ、森では慎重に行動する必要があるのです」
「……はーい」
リナが、少しだけ肩を落とした。
俺は思わず笑ってしまった。
◇
森の入口から少し進んだところに、小さな広場があった。
近くには浅い小川が流れ、地面も比較的平らだ。
トーマスが周囲を確認し、頷いた。
「ここなら問題なさそうです」
「ありがとうございます」
マルタは頭を下げた。
そして、俺たちを見渡した。
「では、訓練を始めましょう」
最初は、魔力の集中。
昨日と同じく、手のひらへ魔力を集める練習だ。
ただし、今回は周囲の音や風に気を取られないようにする。
「……よし」
俺は、目を閉じた。
胸の奥に意識を向ける。
魔力を、ゆっくりと指先へ流す。
……焦らない。
必要な分だけ。
手のひらに、淡い光が灯った。
「……できた」
俺は、静かに息を吐いた。
「お見事でございます」
マルタが微笑んだ。
「昨日よりも、ずっと安定しておりますね」
「本当?」
「はい」
……よかった。
少しずつだけど、上達しているらしい。
次は、リナだった。
「よーし!」
彼女は、両手を広げた。
淡い魔力が身体の周囲に広がる。
そして。
ふわっ。
隣に、もう一人のリナが現れた。
「どう!?」
「すごい!」
俺が声を上げると、リナは得意そうに笑った。
しかし、今日はそれだけでは終わらない。
「では、リナ様」
マルタが、静かに声をかけた。
「そのまま、ゆっくり歩いてみましょう」
「うん!」
リナは、一歩踏み出した。
幻影も、同じように動く。
二歩。
三歩。
……おお。
今度は、消えない。
「やった!」
リナが、嬉しそうに振り返った。
その瞬間。
ぽふんっ!
幻影が消えた。
「……あ」
俺は、思わず笑った。
「……惜しい!」
「もう!」
リナは頬を膨らませた。
「絶対、次は成功するから!」
……うん。
その意気だ。
エリスは、小川のそばで訓練していた。
水面へ手をかざし、ゆっくりと目を閉じる。
すると、小さな波紋が広がった。
「……流れてる」
エリスが、静かに呟いた。
「……水の中の魔力が、ゆっくり動いてる」
俺は、隣にしゃがんだ。
「どんな感じ?」
「……うーん」
エリスは、少し考えた。
「水が流れる方向と、魔力が動く方向が……少し違うの」
「……へえ」
俺は、目を見開いた。
……面白い。
水そのものの流れと、魔力の流れは必ずしも一致しないのか。
これは、魔導機械の冷却装置にも応用できるかもしれない。
……いや。
今日は研究の日じゃない。
俺は、慌てて頭を振った。
危ない危ない。
また工房のことを考えてしまった。
◇
昼前。
俺たちは、少し休憩することになった。
トーマスは周囲を見回り、マルタは持参した水筒を配ってくれた。
「ありがとうございます!」
俺が受け取ると、彼女は微笑んだ。
「どういたしまして」
リナは、芝生の上に座り込んだ。
「……疲れたあ!」
「まだ午前中だよ」
「だって、幻影を維持するのって大変なんだもん!」
彼女は、尻尾をぱたぱたと動かした。
エリスも、小さく頷いた。
「……魔力を使うと、少し眠くなるね」
「そうだね」
俺は、空を見上げた。
木々の隙間から、青い空が見える。
……平和だなあ。
そう思った、そのときだった。
「……あれ?」
エリスが、小さく声を漏らした。
俺は振り返った。
「どうしたの?」
彼女は、小川を見つめていた。
「……水が」
「……水?」
「……変なの」
俺は、首を傾げた。
エリスは、ゆっくりと立ち上がった。
「さっきまで、きれいに流れていた魔力が……」
彼女は、少しだけ顔を曇らせた。
「……急に、乱れてる」
俺は、小川を見た。
水面には、特に変わった様子はない。
しかし。
よく見ると。
川岸の草が、ところどころ茶色く変色していた。
「……ん?」
俺は、しゃがみ込んだ。
葉の先端が、黒ずんでいる。
近くの石にも、奇妙な染みがあった。
……何だ、これ?
そのとき。
「レオンハルト様」
マルタの声が、少し低くなった。
「……そこから離れてください」
「……え?」
「すぐに」
俺は、慌てて立ち上がった。
マルタは、変色した植物をじっと見つめていた。
その表情から、先ほどまでの柔らかさが消えている。
「……トーマス様」
「はい」
「周囲の確認をお願いいたします」
トーマスは、すぐに剣の柄へ手を伸ばした。
「……何か?」
「まだ分かりません」
マルタは、静かに答えた。
「ですが、この植物の変色は自然なものではないようです」
俺は、息を呑んだ。
……まさか。
そのとき。
森の奥から、鳥たちが一斉に飛び立った。
バサバサバサッ!
「……っ!?」
リナの耳が、ぴんと立った。
「……何?」
次の瞬間。
ズシン。
地面が、わずかに揺れた。
……え?
ズシン。
もう一度。
今度は、はっきりと分かった。
何か、大きなものが歩いている。
「……皆様」
マルタが、静かに言った。
「すぐに、帰りましょう」
その声には、迷いがなかった。
◇
俺たちは、急いで来た道を戻り始めた。
トーマスが先頭。
その後ろに、リナとエリス。
俺とマルタが、最後尾を歩く。
……何だ?
さっきの音。
大型の魔物だろうか。
この辺りには、危険な魔物はあまり出ないはずなのに。
俺は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
そのとき。
リナが、突然足を止めた。
「……レオン」
「……何?」
彼女の耳が、後ろへ倒れていた。
尻尾も、ぴたりと動きを止めている。
「……変な匂いがする」
「……匂い?」
「うん」
リナは、鼻を押さえた。
「……苦いような、嫌な匂い」
俺は、周囲を見回した。
すると。
木々の間から、薄い緑色の霧が漂ってくるのが見えた。
……霧?
いや。
違う。
あれは――。
「全員、止まれ!」
トーマスが叫んだ。
俺たちは、反射的に足を止めた。
次の瞬間。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
グルルルル……。
背筋が凍った。
……何だ?
この声。
まるで、巨大な獣が喉を鳴らしているような。
そして。
バキッ!
太い木の枝が、折れた。
続いて、巨大な影が木々の間から現れた。
紫がかった黒い鱗。
鋭い爪。
長い尾。
背中には、大きな翼。
そして、緑色に輝く二つの瞳。
……。
……。
俺は、息を呑んだ。
「……ドラゴン?」
目の前に現れたのは。
巨大な竜だった。
その口元からは、緑色の液体が滴っている。
地面へ落ちた液体が、草を黒く変色させた。
ジュッ……。
小さな音がした。
……毒。
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
マルタが、低い声で呟いた。
「……毒竜」
……毒竜!?
俺は、思わず彼女を見た。
「……知ってるの?」
「軍の資料で見たことがございます」
マルタの表情は、険しかった。
「毒性の強い霧を吐き、爪や牙にも毒を持つ竜種です」
……そんな。
目の前の竜は、まだ成長途中のように見える。
だが、それでも俺たちの何倍もの大きさがあった。
そして。
グルルルル……!
毒竜が、こちらを見た。
……まずい。
完全に、気づかれた。
◇
「全員、後退!」
トーマスが叫んだ。
俺たちは、慌てて後ろへ下がった。
しかし。
毒竜が、巨大な翼を広げた。
バサッ!
強い風が吹き荒れる。
「きゃっ!」
エリスが、思わずしゃがみ込んだ。
リナも、尻尾を押さえている。
俺は、必死に踏ん張った。
……くそっ。
風圧だけで、こんなに強いのか。
毒竜が、口を大きく開いた。
喉の奥に、緑色の光が集まっていく。
「……っ!」
マルタが叫んだ。
「伏せてください!」
次の瞬間。
「――《土壁》!」
ゴゴゴッ!
地面が盛り上がった。
俺たちの前に、厚い土の壁が現れる。
そして。
ブシュウウウッ!
緑色の霧が、壁へ激突した。
ジュウウウ……!
嫌な音が響く。
土の表面が、黒く変色していく。
「……っ!」
マルタが、苦しそうに顔を歪めた。
俺は、思わず叫んだ。
「マルタ!」
「……大丈夫でございます!」
しかし、彼女の額には汗が浮かんでいた。
……まずい。
昨日、マルタは言っていた。
今の身体では、以前と同じ量の魔力を扱えるとは限らない。
このままでは、長く持たない。
俺は、必死に周囲を見回した。
……どうする?
どうすればいい?
オメガはない。
武器もない。
相手は、巨大な毒竜。
……勝てるわけがない。
その考えが、頭をよぎった。
胸が苦しくなる。
足が震える。
……怖い。
本当に、怖い。
前世で遊んでいたゲームとは違う。
失敗したら、やり直せない。
ここで誰かが倒れたら。
……死ぬかもしれない。
俺は、拳を握りしめた。
そのとき。
「……レオンくん」
小さな声が聞こえた。
エリスだった。
彼女は、震える手で俺の袖を握っていた。
「……どうしよう」
俺は、彼女を見た。
その隣では、リナが耳を伏せている。
マルタは、必死に土壁を維持している。
トーマスは、剣を構えていた。
……。
俺は、息を呑んだ。
……そうだ。
俺だけじゃない。
みんな、怖いんだ。
でも。
誰かが、決めなければならない。
どこへ逃げるのか。
誰が、何をするのか。
……俺が。
俺が、考えなきゃ。
いや。
違う。
俺一人で、全部やる必要はない。
父上が言っていたじゃないか。
――一人で解決しようとするな。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
そして。
「……みんな!」
声を張り上げた。
「俺の話を聞いて!」
◇
全員が、俺を見た。
俺は、必死に頭を働かせた。
……考えろ。
毒竜の攻撃。
緑色の霧。
周囲の地形。
小川。
そして、みんなの能力。
……そうだ。
俺たちには、それぞれ得意なことがある。
「トーマスさん!」
「はい!」
「みんなを守りながら、退路を確保してください!」
「承知しました!」
「マルタ!」
「はい!」
「土壁を長く維持しなくていい! 攻撃を防いだら、すぐに下がって!」
マルタが、少し驚いたように俺を見た。
しかし。
「……承知しました!」
すぐに頷いた。
「エリス!」
「……は、はい!」
「小川の流れを調べて! 安全に渡れる場所があるか知りたい!」
エリスは、震えながらも頷いた。
「……やってみる!」
「リナ!」
「……うん!」
「幻影を作れる?」
リナは、少しだけ唇を噛んだ。
「……できる!」
「じゃあ、毒竜の注意を引いて! でも、絶対に近づかないで!」
「……分かった!」
俺は、全員を見渡した。
……よし。
これなら。
これなら、逃げられるかもしれない。
しかし。
問題は、毒の霧だ。
マルタの土壁だけでは、長く防げない。
……なら。
俺が、やるしかない。
俺は、両手を前へ出した。
……魔力。
身体の奥から、ゆっくりと魔力を集める。
前世の知識。
この世界で学んだ魔法。
そして、昨日の訓練。
……落ち着け。
必要なのは、大きな力じゃない。
正確な制御だ。
「――《風流操作》!」
俺の手のひらから、風が生まれた。
最初は、小さな流れ。
それを、少しずつ広げていく。
……よし。
風の向きを変える。
毒竜から流れてくる緑色の霧を、俺たちの進路から遠ざけるように。
ゴオオッ!
風が、木々の間を吹き抜けた。
緑色の霧が、横へ流れていく。
「……っ!」
俺は、歯を食いしばった。
……重い。
思っていたより、魔力を使う。
しかも、霧のすべてを押し返せるわけじゃない。
風が乱れれば、こちらへ流れてくる可能性もある。
「トーマスさん! 今のうちに!」
「了解!」
トーマスが、リナとエリスを誘導した。
マルタも、土壁から手を離して後退する。
……よし。
そのまま。
そのまま、逃げるんだ。
◇
しかし。
毒竜は、簡単には逃がしてくれなかった。
グオオオオッ!
巨大な咆哮が、森に響いた。
俺は、思わず耳を押さえた。
次の瞬間。
毒竜が、翼を広げて跳び上がった。
……まずい!
空から回り込まれる!
「リナ!」
「分かってる!」
リナが、両手を広げた。
淡い魔力が広がる。
そして。
ふわっ!
森の反対側に、もう一人のリナが現れた。
「こっちだよー!」
幻影が、木々の間を走り出す。
毒竜の頭が、そちらへ向いた。
……よし!
しかし。
幻影は、長く維持できない。
数秒後。
ぽふんっ!
消えてしまった。
「……っ!」
リナが、苦しそうに息を吐いた。
「……ごめん、レオン!」
「十分だよ!」
俺は、叫んだ。
「ありがとう!」
その瞬間。
毒竜が、再びこちらを向いた。
……くそっ。
もう、気づかれたか。
俺は、両手を前へ出した。
……次は。
火。
ただし、森の中で大きな炎を使うわけにはいかない。
火災になれば、逃げ道まで失ってしまう。
だから。
ほんの一瞬だけ。
「――《火花弾》!」
俺の指先から、小さな火の玉が飛び出した。
それは、毒竜の顔の手前で弾けた。
パァン!
鋭い音と、眩しい光。
毒竜が、思わず頭を振った。
……よし!
攻撃というより、目くらましだ。
これなら、森を燃やす危険も比較的小さい。
ただし。
……っ!
俺は、思わず膝をつきかけた。
魔力の消費が、想像以上に大きい。
風の魔法を維持した直後に、火の魔法を使ったせいだ。
「レオンハルト様!」
マルタが、俺の肩を支えた。
「無理をなさらないでください!」
「……大丈夫」
「ですが……!」
「……まだ、歩ける」
俺は、必死に立ち上がった。
……ここで倒れるわけにはいかない。
でも。
無理に魔法を使い続ければ、俺も動けなくなる。
……考えろ。
もっと、効率のいい方法を。
◇
「レオンくん!」
エリスの声が響いた。
「……こっち!」
彼女は、小川の方を指差していた。
「少し下流に、石が並んでる場所があるの!」
「……渡れる?」
「……うん。でも……」
エリスは、少しだけ顔を曇らせた。
「……水の中に、変な魔力が混じってる」
俺は、息を呑んだ。
……毒か。
川の水まで、汚染されている可能性がある。
「触らない方がいい?」
「……うん。たぶん」
俺は、すぐに頷いた。
「分かった。石の上だけを通ろう!」
トーマスが、先に小川へ向かった。
そして、石の位置を確認する。
「若様! こちらです!」
「みんな、急いで!」
俺たちは、川へ向かって走り出した。
しかし。
背後から、巨大な影が迫ってきた。
……っ!
毒竜だ!
グオオオオッ!
口を開き、緑色の液体を吐き出そうとしている。
……まずい!
今度は、霧じゃない。
直接、毒液を飛ばしてくるつもりだ。
「マルタ!」
「はい!」
「小さな土壁を、斜めに作れる!?」
マルタが、目を見開いた。
「……斜めに?」
「うん! 毒液を、俺たちから遠い方へ流したい!」
彼女は、一瞬だけ考えた。
そして。
「……承知しました!」
両手を前へ出した。
「――《土壁》!」
ゴゴッ!
地面から、斜めに傾いた土の壁が現れた。
次の瞬間。
バシャアッ!
緑色の毒液が、壁へ激突した。
ジュウウウッ!
土の表面が、黒く変色する。
しかし、壁が斜めになっていたおかげで、毒液の大部分は横へ流れ落ちた。
……よし!
でも。
「……っ!」
マルタが、片膝をついた。
「マルタ!」
俺は、慌てて駆け寄った。
彼女の顔は、少し青ざめていた。
「……申し訳ございません」
「謝らないで!」
俺は、彼女の腕を支えた。
「十分だよ! もう魔法は使わなくていい!」
「……ですが」
「今度は、俺たちが守る番だから!」
マルタが、少し驚いたように俺を見た。
そして。
小さく微笑んだ。
「……承知しました」
◇
俺たちは、小川へ向かった。
トーマスが先頭に立ち、石の上を慎重に渡っていく。
エリスが、その後ろに続いた。
リナも、尻尾でバランスを取りながら渡る。
……よし。
あと少し。
しかし。
グオオオオッ!
毒竜が、再び咆哮した。
そして、巨大な翼を広げた。
……まずい。
飛び越えてくるつもりだ!
俺は、周囲を見回した。
木々。
岩。
小川。
そして、毒竜。
……考えろ。
どうすれば、少しでも時間を稼げる?
そのとき。
俺は、川岸の湿った地面を見た。
……そうだ。
水。
土。
そして、風。
……全部を使う必要はない。
必要な場所に、必要な魔法を使えばいい。
「トーマスさん!」
「はい!」
「みんなを先に渡らせてください!」
「若様も、すぐに!」
「分かってます!」
俺は、片手を地面へ向けた。
……水属性。
湿った土の中にある水分を、少しだけ動かす。
「――《水流操作》!」
地面の表面に、小さな水の流れが生まれた。
湿った土が、さらに柔らかくなる。
……よし。
次は。
風。
俺は、もう片方の手を前へ出した。
「――《風流操作》!」
小さな突風が、地面を吹き抜けた。
湿った土の表面が、毒竜の進行方向へ飛び散る。
……っ!
俺は、歯を食いしばった。
……きつい。
二つの魔法を続けて使うだけでも、かなり疲れる。
しかし。
毒竜が、地面へ降り立った。
ズシン!
その巨大な前脚が、柔らかくなった土へ沈み込んだ。
「……!」
毒竜の身体が、わずかに傾いた。
……よし!
倒すほどの効果はない。
でも、ほんの一瞬だけ動きを鈍らせることができた。
「今だ!」
俺は、叫んだ。
「全員、渡って!」
◇
トーマスが、マルタを支えながら小川を渡った。
リナとエリスも、反対側へ到着する。
……よし。
あとは、俺だけだ。
俺は、石の上へ足を踏み出した。
一歩。
二歩。
……あと少し。
そのとき。
背後から、低い唸り声が聞こえた。
グルルルル……。
……っ!
振り返る。
毒竜が、こちらを見ていた。
緑色の瞳。
鋭い牙。
そして、口元から滴る毒液。
……まずい。
もう、動けるようになったのか。
毒竜が、口を開いた。
喉の奥に、緑色の光が集まっていく。
……っ!
俺は、息を呑んだ。
……間に合わない。
そう思った瞬間。
「レオン!」
リナの声が響いた。
彼女は、両手を広げていた。
ふわっ!
俺の隣に、もう一人の俺が現れた。
……え!?
リナの幻影魔法。
今度は、俺の姿を作ったのか!?
毒竜の視線が、一瞬だけ幻影へ向いた。
その隙に。
「若様!」
トーマスが、俺の腕を掴んだ。
「こちらへ!」
俺は、引き寄せられるように最後の石を飛び越えた。
そして。
ドサッ!
反対側の地面へ転がり込んだ。
……っ!
痛い。
でも。
生きてる。
俺は、荒い息を吐いた。
「……ありがとう」
トーマスが、俺を立ち上がらせた。
「礼は、無事に屋敷へ戻ってからです」
俺は、思わず笑った。
「……はい!」
◇
しかし、まだ安心できなかった。
毒竜は、小川の向こう側に立っている。
巨大な翼を広げ、こちらを睨みつけていた。
……飛んでくるかもしれない。
俺は、周囲を見回した。
森の出口までは、まだ少し距離がある。
このまま追いかけられたら、逃げ切れるか分からない。
……どうする?
俺は、鞄へ手を伸ばした。
……あ。
そうだ。
緊急信号用の魔導器具。
出発前に、確認したじゃないか。
俺は、小さな筒状の器具を取り出した。
「トーマスさん!」
「はい!」
「これ、使えますか!?」
トーマスは、器具を見ると頷いた。
「信号筒ですな!」
「はい!」
「使いましょう!」
俺は、魔力を少しだけ流した。
……よし。
必要なのは、ほんの少し。
器具の先端が、赤く輝いた。
そして。
ヒュウウウッ!
赤い光が、空へ打ち上がった。
森の上空で、眩しい光が弾ける。
パァン!
……これで。
屋敷の警備兵たちが、気づいてくれるはずだ。
しかし。
毒竜が、再び翼を広げた。
……っ!
俺は、歯を食いしばった。
……まだ、来るのか。
そのとき。
マルタが、俺の隣へ立った。
「レオンハルト様」
「……マルタ?」
「これ以上、魔法を使ってはいけません」
俺は、少し驚いた。
「……でも」
「今のレオンハルト様は、かなり魔力を消耗しておられます」
……っ。
確かに。
手足が、少し震えている。
頭も、ぼんやりしてきた。
……これ以上は、危険かもしれない。
マルタは、静かに続けた。
「指揮官が倒れてしまっては、皆を導くことができません」
俺は、息を呑んだ。
……指揮官。
その言葉が、胸に響いた。
……そうだ。
俺は、みんなを守りたい。
でも。
自分が倒れてしまったら、意味がない。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
そして。
「……分かった」
ゆっくり頷いた。
「もう、無理はしない」
マルタは、微笑んだ。
「それでこそ、私の小さな騎士様でございます」
……まったく。
こんなときまで、その呼び方か。
でも。
少しだけ、気持ちが軽くなった。
◇
俺たちは、森の出口へ向かって走った。
トーマスが先頭。
リナとエリスが、その後ろ。
俺とマルタが、最後尾。
……いや。
今度は、違う。
俺は、みんなの位置を確認しながら声をかけた。
「リナ! 疲れてない!?」
「大丈夫!」
「エリス!」
「……うん!」
「マルタ!」
「問題ございません!」
……よし。
全員、動ける。
そのとき。
背後から、巨大な翼の音が聞こえた。
バサッ!
……っ!
俺は、振り返った。
毒竜が、木々の上へ飛び上がっていた。
……まずい。
追ってくる!
しかし。
次の瞬間。
森の向こうから、複数の声が響いた。
「若様ーっ!」
……え?
俺は、目を見開いた。
木々の間から、武装した兵士たちが現れた。
ヴァイス家の警備兵だ。
その先頭には、見覚えのある人物がいた。
「レオンハルト!」
「……父上!?」
ラインハルト父上だった。
……どうして!?
父上は、俺たちの姿を見ると、すぐに駆け寄ってきた。
「無事か!?」
「は、はい!」
俺は、慌てて答えた。
「みんな、無事です!」
父上は、俺たちを順番に確認した。
そして、マルタの顔色を見ると、眉をひそめた。
「……マルタ」
「申し訳ございません、旦那様」
「謝罪は後だ。まずは屋敷へ戻る」
父上は、警備兵たちへ指示を出した。
「森の入口を封鎖しろ! 毒竜には近づくな! 領民を避難させ、王都へ報告を送れ!」
「はっ!」
兵士たちが、一斉に動き出した。
俺は、父上を見上げた。
「……父上」
「何だ?」
「……毒竜は、まだ森にいます」
「分かっている」
父上は、静かに頷いた。
「だからこそ、今は撤退する」
俺は、少しだけ息を呑んだ。
……そうだ。
今、俺たちができることは、戦うことじゃない。
生きて帰ることだ。
俺は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
◇
屋敷へ戻ったころには、すっかり夕方になっていた。
母上は、俺たちの姿を見るなり駆け寄ってきた。
「レオンハルト!」
「……母上!」
次の瞬間。
ぎゅっ!
強く抱きしめられた。
「……無事でよかった」
母上の声が、少し震えていた。
俺は、胸の奥が熱くなった。
「……ごめんなさい」
「いいのよ」
母上は、俺の頭を優しく撫でた。
「帰ってきてくれただけで、十分よ」
……うん。
俺は、静かに頷いた。
そのあと、俺たちは医師の診察を受けた。
幸い、誰にも毒による症状は見られなかった。
ただし、俺とマルタは魔力をかなり消耗していたため、今日は安静にするよう言われた。
リナも、幻影魔法を何度も使ったせいで疲れている。
エリスは、緊張が解けた途端に眠くなってしまったらしい。
……みんな、よく頑張った。
俺は、ベッドに腰を下ろしながら、静かに息を吐いた。
……本当に。
生きて帰れて、よかった。
◇
夜。
父上が、俺の部屋を訪ねてきた。
「レオンハルト」
「……父上」
俺は、慌てて姿勢を正した。
父上は、椅子に腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
……怒られるかな。
俺は、少し緊張した。
すると。
「トーマスから、話を聞いた」
父上が、静かに口を開いた。
「……はい」
「お前が、皆に指示を出したそうだな」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
「魔法も使ったと聞いた」
「……はい」
父上は、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……怖かったか?」
俺は、少し驚いた。
……怖かったか。
そんなの。
決まっている。
「……はい」
俺は、小さく答えた。
「すごく、怖かったです」
父上は、静かに頷いた。
「そうだろうな」
俺は、拳を握りしめた。
「……でも」
「……うむ?」
「みんなが、もっと怖がっているように見えて……」
俺は、少しだけ顔を上げた。
「……俺が、何とかしなきゃって思ったんです」
父上は、黙って聞いていた。
「でも、途中で分かりました」
「……何がだ?」
「俺一人じゃ、何もできないってことです」
俺は、静かに続けた。
「マルタが土壁を作ってくれたから、毒を防げました」
「……うむ」
「リナが幻影を作ってくれたから、逃げる時間ができました」
「……そうか」
「エリスが川の流れを調べてくれたから、安全な道を見つけられました」
俺は、父上を見つめた。
「トーマスさんも、ずっと俺たちを守ってくれました」
そして。
「……だから」
俺は、小さく息を吸い込んだ。
「みんながいたから、帰ってこられたんです」
父上は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……そうか」
静かに頷いた。
そして、俺の頭へ手を置いた。
「よく分かったな、レオンハルト」
「……え?」
「指揮官とは、誰よりも強い者のことではない」
父上は、ゆっくりと続けた。
「仲間の力を理解し、それを正しく使い、全員を生きて帰す責任を負う者のことだ」
俺は、息を呑んだ。
「……はい」
「だが、忘れるな」
父上の表情が、少し厳しくなった。
「お前は、まだ八歳だ」
「……はい」
「今日のような危険を、二度と自分から求めてはいけない」
俺は、しっかり頷いた。
「……分かりました」
父上は、少しだけ微笑んだ。
「それでいい」
そして、立ち上がった。
「今日は、ゆっくり休みなさい」
「……はい」
父上が扉へ向かった。
その背中を見ながら、俺は小さく呟いた。
「……父上」
「何だ?」
「……ありがとうございました」
父上は、少しだけ振り返った。
そして。
「……お前が無事で、よかった」
そう言って、静かに部屋を出ていった。
◇
その夜。
俺は、ベッドに横になっていた。
窓の外には、無数の星が輝いている。
……毒竜。
あんな魔物が、この世界には存在する。
俺は、改めて思い知らされた。
この世界は、ゲームの中じゃない。
危険は、本物だ。
痛みも。
恐怖も。
そして、命も。
……全部、本物なんだ。
俺は、ゆっくりと拳を握った。
……もっと、強くなりたい。
でも。
ただ、強い魔法を使えるようになりたいわけじゃない。
もっと、冷静に考えられるようになりたい。
もっと、仲間の力を理解したい。
そして。
いつか、オメガが完成したとき。
みんなと一緒に、どんな危険にも立ち向かえるようになりたい。
俺は、目を閉じた。
……今日。
俺は、初めて本当の意味で、仲間を率いることの難しさを知った。
怖かった。
失敗するかもしれなかった。
でも。
みんなが、俺を信じてくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
……いつか。
俺たち四人が、それぞれの魔導機甲に乗る日が来たら。
そのときは。
今日よりも、もっと上手に指示を出せるようになりたい。
俺は、小さく微笑んだ。
「……誰も、置いていかない」
静かな部屋に、俺の声が響いた。
「……みんなで、帰るんだ」
それが、俺の目指す騎士の姿だ。
そして。
俺が、いつか本当の指揮官になるための。
最初の一歩だった。
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