第30話 元魔導機甲乗りのメイド、久しぶりの休日! 忘れられた庭園に眠る不思議な泉
マルタ・エーレンフェルトには、長年続けている習慣があった。
夜明け前に起床し、身支度を整え、屋敷の使用人たちと一日の仕事を確認する。
それから厨房へ向かい、朝食の準備が滞りなく進んでいるかを確かめる。
レオンハルトが起きる時刻になれば、部屋を訪ねて体調を尋ねる。最近は怪我の具合も確認しなければならない。
そして、時間に余裕があれば、訓練場の整備を行う。
それが、ヴァイス男爵家に仕えるメイドとしての彼女の日常だった。
ところが、その朝。
「……おや?」
いつもどおり目を覚ましたマルタは、寝台の脇に置かれた小さな紙を見て、動きを止めた。
そこには、屋敷の女主人であるヘレナの筆跡で、こう書かれていた。
『明日は必ず休むこと。仕事は禁止です。――ヘレナ』
マルタはしばらく紙を見つめた。
「……そうでした」
今日は休日だった。
昨日、ヘレナから直接言い渡されたのである。
北の旧採掘路で起きた落石事故のあと、彼女が十分な休息を取っていないことを心配したらしい。
もちろん、マルタ自身は疲労を感じていないわけではなかった。
久しぶりに魔導作業機の操縦席へ座り、危険な斜面を歩いたのだ。体の奥には、普段の家事とは違う疲れが残っている。
それでも、仕事を休むほどではないと思っていた。
「……さて」
マルタは寝台から立ち上がった。
「まずは厨房の様子を――」
そこまで言って、再び紙を見る。
『仕事は禁止です』
「…………」
マルタは静かに寝台へ腰を下ろした。
窓の外では、小鳥が鳴いている。
朝日はまだ低く、部屋の床に細長い光を落としていた。
いつもなら、この時間にはすでに廊下を歩いているはずだ。
しかし、今日は何もする必要がない。
「……休日とは、こんなにも静かなものだったでしょうか」
独り言に答える者はいなかった。
マルタは少し考えたあと、もう一度横になってみた。
天井を見つめる。
一分。
二分。
そして三分。
「……やはり、落ち着きませんね」
結局、彼女は起き上がった。
◇
そのころ、ヴァイス男爵家の厨房では、アンナとベラが朝食の準備を進めていた。
焼きたてのパンの香りが漂い、大きな鍋からは野菜のスープの湯気が上がっている。
「おはようございます」
マルタが厨房へ顔を出すと、アンナが振り返った。
「あら、マルタさん。おはようございます」
「パンの焼き上がりはいかがですか?」
「順調ですよ。あと少しで全部焼けます」
「そうですか。では、食器の準備を――」
「駄目です」
アンナが即答した。
マルタは目を瞬かせる。
「……何がでしょう?」
「今日はお休みでしょう?」
「ええ。ですが、食器を並べる程度なら」
「それもお仕事です」
隣で野菜を切っていたベラも頷いた。
「奥様から言われています。マルタさんには、今日は何もさせないようにって」
「……そこまで徹底しなくても」
「駄目です」
二人の声が重なった。
マルタは困ったように微笑んだ。
「分かりました。それでは、お邪魔にならないようにします」
そう言って厨房を出ようとしたところで、アンナが声をかけた。
「マルタさん」
「はい?」
「たまには、ご自分のために時間を使ってくださいね」
その言葉に、マルタは少しだけ足を止めた。
「……自分のために、ですか」
「ええ。お菓子を食べに行くとか、お買い物をするとか」
ベラも笑った。
「綺麗な服を見に行くのもいいですよ」
「服、ですか……」
マルタは自分の姿を見下ろした。
今日も、いつもの黒いメイド服を着ている。
白いエプロンも、きちんと結んでいた。
アンナはそれを見ると、呆れたように笑った。
「まずは、その服を着替えるところからですね」
◇
朝食の席で、俺は少し奇妙な光景を目にしていた。
「……マルタ?」
いつもなら食事の準備を手伝っている彼女が、今日は食堂の入口で何となく落ち着かない様子を見せていたのだ。
しかも、メイド服ではない。
深い青色の長袖のワンピースに、白い襟飾り。
腰には細い革のベルトを巻き、足元には茶色の編み上げ靴。
髪はいつもより緩くまとめられ、控えめな銀色の髪留めが光っていた。
普段のきっちりした雰囲気とは違い、少し柔らかな印象を受ける。
「……どうかなさったのですか、レオンハルト様?」
「いや……その服、初めて見たから」
俺が答えると、マルタは自分の服を見下ろした。
「休日ですので、私服に着替えてみました」
「似合ってるよ」
「……ありがとうございます」
彼女は少し照れたように微笑んだ。
すると、隣でパンを食べていたリナが勢いよく顔を上げた。
「おおっ! マルタ、今日はメイドじゃないのか!」
「メイドであることに変わりはありませんよ、リナ様」
「でも、仕事しないんだろ?」
「はい。本日はお休みをいただいております」
リナはにやりと笑った。
「じゃあ、今日はあたしたちに命令するの禁止な!」
「……命令、ですか?」
「そう! 訓練しろとか、走るなとか、お菓子を食べすぎるなとか!」
マルタは穏やかに微笑んだ。
「リナ様。そういえば、昨日の平衡訓練の記録ですが――」
「ほら! もう仕事してる!」
リナが叫んだ。
俺は思わず吹き出した。
エリスも口元を押さえて笑っている。
「……マルタ、今日は休んでね」
エリスが優しく言うと、マルタは少し困ったように頷いた。
「……そうですね。気をつけます」
母上が楽しそうに笑った。
「ほら、マルタ。子供たちにまで言われてしまったわね」
「面目ございません、奥様」
「謝らなくていいのよ」
母上は紅茶のカップを置いた。
「今日は好きなところへ出かけてきなさい。夕食の時間を気にする必要もないわ」
「ですが、レオンハルト様の体調が……」
「それは私たちが見ているわ」
父上も新聞代わりの報告書から顔を上げた。
「工房での作業も、今日は私が監督する。心配するな」
「……承知いたしました」
マルタはようやく頷いた。
俺は笑いながら言った。
「マルタ、楽しんできてね」
「はい。ありがとうございます、レオンハルト様」
そう答えた彼女は、いつもより少しだけ戸惑っているように見えた。
……まあ、無理もないか。
あれだけ働いている人が、急に一日休めと言われても、何をしたらいいか分からないよな。
前世の俺も、仕事が忙しかったころは似たようなことがあった。
休みの日なのに、つい仕事のことを考えてしまう。
……いや、今はそんなことより。
俺は目の前のパンを手に取った。
今日は父上と一緒に、オメガの操縦席を改良する予定だ。
昨日までに考えた設計案を、ようやく試せる。
マルタが休んでいる間に、少しでも進めておきたい。
◇
午前十時を過ぎたころ。
マルタは屋敷を出て、領内の町へ向かっていた。
今日は護衛としてではなく、一人の客として町を歩く。
それだけのことが、彼女には少し不思議だった。
市場には、野菜や果物を並べた露店が続いている。
焼き菓子の甘い香り。
行商人たちの呼び声。
荷車の車輪が石畳を転がる音。
以前よりも、町には活気があった。
「……随分と賑やかになりましたね」
マルタは小さく呟いた。
レオンハルトが改良した水路と揚水装置。
そのおかげで、村の畑には以前より安定して水が届くようになった。
まだ領地全体が豊かになったわけではない。
しかし、作物の収穫量が少しずつ増え、町へ運ばれる品物も多くなっている。
道端では、農夫たちが収穫物の値段について話し合っていた。
子供たちは小さな水路のそばで遊び、母親たちがその様子を見守っている。
マルタは、その光景を眺めながら微笑んだ。
「……レオンハルト様のおかげですね」
あの小さな少年は、いつも何かを考えている。
壊れた機械を見つければ修理方法を探し、困っている人を見れば放っておけない。
時には、危険を顧みず行動してしまうこともある。
そのたびに、マルタは心配させられてきた。
けれど。
彼が領地の人々を笑顔にしていることも、確かだった。
「おや?」
不意に、背後から声がした。
「もしかして……マルタさんじゃないか?」
振り返ると、灰色の髭を生やした年配の男性が立っていた。
大きな荷車の隣で、革製品を並べている。
「……失礼ですが?」
「覚えていないかい? 昔、北の街道で行商をしていたハインツだよ」
マルタは目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと表情を和らげた。
「……ハインツさん?」
「そうだとも!」
男性は嬉しそうに笑った。
「いやあ、久しぶりだ! あのころは随分と世話になったねえ」
「お元気そうで何よりです」
「おかげさまでな。今は息子に荷運びを任せて、こうして店番をしているよ」
ハインツはマルタの服装を見て、少し驚いた顔をした。
「今日はお仕事じゃないのかい?」
「はい。お休みをいただきまして」
「そいつは珍しい!」
彼は大きく笑った。
「昔から働き者だったからなあ。休むのが下手なのは相変わらずか」
「……お恥ずかしい限りです」
マルタも苦笑した。
ハインツはしばらく彼女を見つめたあと、懐かしそうに目を細めた。
「覚えているかい? 北の街道で、俺の荷車が動けなくなったときのことを」
マルタの表情が少し変わった。
「……ええ。雨のひどい日でしたね」
「そうそう。あのとき、あんたが来てくれなかったら、どうなっていたことか」
彼は荷車の車輪を軽く叩いた。
「本当に助かったよ。改めて礼を言わせてくれ」
マルタは静かに頭を下げた。
「私は、任務を果たしただけです」
「それでも、助かった人間にとっちゃ大きなことなんだよ」
ハインツは笑った。
「今でも、あんたの乗っていた大きな魔導機甲を覚えている。あれは頼もしかった」
マルタは少しだけ目を細めた。
「……《グランガード》ですね」
「そう、それだ!」
ハインツは懐かしそうに頷いた。
「頑丈そうな機体だったなあ。あんたが操縦席から降りてきたときは、まさかあんな若い娘さんが乗っているとは思わなかったよ」
マルタは小さく笑った。
そして、ふと遠くを見るような目をした。
◇
――雨が降っていた。
山の斜面を叩く激しい雨。
ぬかるんだ街道。
その中央で、一台の荷車が車輪を泥に取られていた。
『こちら第三巡回隊。街道北側で立ち往生している荷車を確認しました』
若いマルタは、魔導機甲の操縦席から報告していた。
当時の彼女は、今より少し短い髪をしていた。
身につけているのは、防衛隊の紺色の制服。
胸元には、小さな銀色の徽章が輝いている。
操縦席の外では、雨が装甲を激しく叩いていた。
『周辺に魔物の反応は?』
通信装置から上官の声が響く。
『現時点では確認できません。ただし、視界が悪いため警戒を続けます』
『了解。民間人の安全を最優先にしろ』
『はい!』
マルタは操縦桿を握り直した。
灰色の重装甲魔導機甲。
速度は決して速くない。
しかし、頑丈な脚部と大きな腕を備え、街道の防衛や障害物の撤去に適した機体だった。
マルタは機体を荷車のそばへ移動させた。
『大丈夫ですか!』
外部伝声装置から声をかける。
荷車の御者が顔を上げた。
『た、助けてください! 車輪が泥にはまってしまって!』
『分かりました。少し離れていてください!』
マルタは慎重に機体の腕を伸ばした。
荷車の下へ補助具を差し込み、車輪にかかる重さを少しずつ減らしていく。
無理に引けば、荷車が壊れてしまう。
だから、焦らず。
ゆっくりと。
泥に埋まっていた車輪が、少しずつ持ち上がった。
『……よし』
マルタは小さく息を吐いた。
荷車が無事に街道へ戻ると、御者が何度も頭を下げた。
『ありがとうございます! 本当にありがとうございます!』
マルタは操縦席の中で微笑んだ。
『お気をつけて。まだ雨が強いですから』
そして、機体を再び歩かせた。
雨の向こうには、守るべき街道が続いていた。
◇
「……マルタさん?」
ハインツの声で、彼女は我に返った。
「あ……失礼しました」
「いやいや。懐かしい話をしてしまったね」
「いいえ」
マルタは微笑んだ。
「私も、久しぶりに思い出しました」
ハインツは店先から小さな革の袋を取り出した。
「そうだ。これを持っていきなさい」
「……これは?」
「旅先で使う小物入れだよ。丈夫な革で作ってある」
「いえ、そのようなものをいただくわけには……」
「昔のお礼さ。受け取ってくれ」
マルタは少し迷った。
けれど、ハインツの笑顔を見て、静かに頷いた。
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「それでいい」
ハインツは満足そうに笑った。
別れ際、彼はふと真面目な顔になった。
「……それにしても、あんたが無事でよかった」
マルタは一瞬、動きを止めた。
「……え?」
「いや、昔の隊のことを聞いてな。大変だったんだろう?」
マルタはすぐには答えなかった。
風が吹き、店先に吊るされた革紐が小さく揺れた。
やがて、彼女は穏やかに微笑んだ。
「……もう、ずいぶん前のことです」
ハインツは何か言いかけたが、それ以上は尋ねなかった。
「そうか。すまなかったね」
「いいえ」
マルタは小さく頭を下げた。
「どうぞ、お元気で」
「ああ。あんたもな」
店を離れたあと、マルタはしばらく無言で歩いた。
胸の奥に、懐かしい記憶が残っていた。
雨。
街道。
グランガードの操縦席。
そして、もう戻ることのできない時間。
「……さて」
彼女は小さく息を吐いた。
「せっかくのお休みです。暗い顔をしていてはいけませんね」
そう自分に言い聞かせ、再び歩き始めた。
◇
一方、そのころ。
俺たちは工房で、オメガの改良作業を進めていた。
「……よし。これで固定具の位置は変えられるかな」
俺は設計図を見つめながら呟いた。
オメガの操縦席。
以前は、体を固定することばかり考えていた。
でも、マルタに指摘されて気づいたことがある。
緊急時には、すぐに脱出できなければならない。
だから、固定具を外すための操作を簡単にし、座席の側面にも少し余裕を持たせることにした。
もちろん、衝撃を受けたときに勝手に外れては困る。
そのため、二段階の解除機構を考えている。
「……父上、ここを見てください」
俺が図面を差し出すと、父上は顎に手を当てた。
「ふむ……通常時は固定され、解除操作を二つ続けることで外れる仕組みか」
「はい」
「悪くない。だが、操縦士が怪我をして片手しか使えない場合はどうする?」
「……あ」
俺は手を止めた。
……そうか。
両手が使えるとは限らない。
戦闘中に腕を怪我することだってある。
「……もう少し考えます」
父上は頷いた。
「それでいい。急いで完成させる必要はない」
俺は鉛筆を持ち直した。
そのとき、リナが工房の隅から声を上げた。
「レオン! ちょっと見てくれ!」
「……ん?」
振り返ると、リナが床に並べた木片の上を跳び回っていた。
右へ。
左へ。
そして、くるりと方向転換。
「どうだ!」
彼女は得意そうに胸を張った。
「……何してるの?」
「ヴァーミリオン・フォックスの動き!」
「……え?」
リナは尻尾を揺らした。
「ほら、あたしの機体は速く動くんだろ? だったら、こういう動きができた方がいいじゃん!」
なるほど。
俺は少し考えた。
ヴァーミリオン・フォックス。
リナのために考えている、赤と白の魔導機甲。
素早い地上機動と、狐人族の幻影能力を生かすことを目指した機体だ。
まだ設計段階だけれど、リナ自身がどう動きたいのかを知ることは大切だ。
「……確かに、方向転換は重要だね」
「だろ!」
リナが嬉しそうに笑った。
「でも、急に向きを変えると、脚の関節に大きな負担がかかるんだ」
「……じゃあ、もっと丈夫にすればいい!」
「それも必要だけど、重くなりすぎると速く動けなくなるよ」
「……むう」
リナは腕を組んだ。
俺は笑った。
「だから、軽さと丈夫さのバランスを考えないとね」
「……難しいな」
「うん。でも、一緒に考えよう」
リナはすぐに笑顔になった。
「おう!」
そのとき、エリスがそっと近づいてきた。
「……レオンくん」
「どうしたの?」
「……セイレーンのことなんだけど……」
「うん」
エリスは少し恥ずかしそうに指を組んだ。
「……水の中では……私、足が変わるでしょう……?」
「ああ、人魚の姿になるんだよね」
「……うん」
彼女は頷いた。
「……そのときも……操縦できるようにしたい……」
俺は少し考えた。
確かに。
セイレーンは、水中でも活動できる魔導機甲にしたい。
でも、エリスが人魚の姿になったとき、普通の操縦席では使いにくいだろう。
足元の踏み板も、そのままでは操作できない。
「……なるほど」
俺は設計図を取り出した。
「じゃあ、操縦席の形を変えられるようにしようか」
「……変えられる……?」
「うん。陸上では普通の座席。水中では、エリスの尻尾に合わせた形にするんだ」
エリスの緑色の瞳が輝いた。
「……できるの……?」
「すぐには難しいけど、考えてみるよ」
俺は笑った。
「エリスが無理な姿勢で操縦するのは嫌だからね」
エリスは頬を赤らめた。
「……ありがとう、レオンくん」
リナが横から顔を出した。
「じゃあ、あたしのも変形するようにしようぜ!」
「……何に変形するの?」
「でっかい狐!」
「……それは、ちょっと別の話かな」
「えーっ!」
リナが不満そうに叫ぶ。
エリスはくすくす笑った。
俺もつられて笑った。
……本当に、賑やかだな。
でも。
こういう時間が、俺は好きだった。
◇
昼食後。
父上が別の仕事へ戻ったあと、俺は工房の窓際で設計図を眺めていた。
机の上には、オメガ、ヴァーミリオン・フォックス、セイレーンの三枚の図面。
まだ完成しているのはオメガの試作機だけだ。
それも、飛行機能は未完成。
右脚の改良も必要。
武装だって、十分とは言えない。
……先は長いな。
俺は椅子にもたれかかった。
すると、ふと前世の記憶がよみがえった。
『ターボナイト ~エターナル・ハーツ~』。
王立魔導騎士学院を舞台にした、あの乙女ゲーム。
主人公のソフィア・エヴァーハートが、学院でさまざまな人物と出会い、事件に巻き込まれていく物語だ。
ゲームの中には、魔導機甲を使った実技試験もあった。
特に印象に残っているのは、複数の操縦士が協力して課題を達成する試験だった。
攻略対象の青年たちは、それぞれ得意分野が違う。
正面から突破する者。
仲間を支援する者。
状況を分析して指示を出す者。
プレイヤーの選択によって、試験の展開も少しずつ変わっていた。
「……そういえば」
俺は小さく呟いた。
あのゲームでは、協力することが重要な場面が何度もあった。
それなのに、俺は今まで、自分の機体を強くすることばかり考えていた。
……駄目だな。
リナとエリスの機体を造るなら、三機がどう連携するかも考えなければならない。
オメガが前に出る。
ヴァーミリオン・フォックスが素早く動いて周囲を確認する。
セイレーンが水魔法で支援する。
……いや。
最初から役割を決めつけるのもよくない。
二人が何をしたいのか、ちゃんと聞くべきだ。
俺は鉛筆を手に取った。
設計図の余白に、新しい項目を書き加える。
『三機連携時の安全な通信方法』
『操縦士ごとの得意分野』
『緊急時の救助手順』
そして、最後に。
『全員で帰還すること』
俺は、その文字をしばらく見つめた。
……マルタが教えてくれたことだ。
いつか、三機で空を飛ぶ。
その夢を叶えるためにも、絶対に忘れないようにしよう。
◇
午後。
マルタは町を離れ、ゆっくりと郊外の道を歩いていた。
市場で買った小さな包みを片手に持ち、もう片方の手にはハインツから贈られた革の袋を下げている。
包みの中には、焼き菓子が入っていた。
レオンハルトたちへの土産にしようと思って買ったものだ。
「……結局、子供たちのことを考えてしまいますね」
マルタは苦笑した。
休日なのだから、自分のために時間を使えばいい。
そう言われたばかりなのに。
気づけば、リナが喜びそうな甘い菓子や、エリスが好みそうな小さな髪飾りを探していた。
レオンハルトには、工房で使えそうな革製の道具入れを買った。
……これでは、いつもとあまり変わりませんね。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
誰かの喜ぶ顔を思い浮かべながら買い物をするのは、仕事とは少し違う楽しさがある。
マルタは空を見上げた。
薄い雲が流れ、午後の日差しが草原を照らしている。
遠くには、北方の山々が見えた。
かつて彼女が巡回していた街道も、あの山の向こうへ続いている。
「……少し、歩いてみましょうか」
マルタは、昔よく通った小道へ足を向けた。
その道は、町の外れにある林へ続いていた。
木々の間から、涼しい風が吹いてくる。
鳥の声。
葉の擦れる音。
遠くで流れる小川のせせらぎ。
マルタはゆっくりと歩いた。
急ぐ必要はない。
誰かに呼ばれることもない。
ただ、自分の歩幅で進めばいい。
そんな時間が、思いのほか心地よかった。
しばらく歩くと、道の脇に古い石柱が見えてきた。
「……あら?」
マルタは足を止めた。
石柱には、蔦が絡みついている。
表面には文字が刻まれていたが、風雨にさらされてほとんど読めなくなっていた。
その向こうには、細い石畳の道が続いている。
「……こんな道がありましたか」
マルタは首を傾げた。
この辺りには何度も来たことがある。
けれど、林の奥へ続く石畳の道には覚えがなかった。
もしかすると、以前は草木に覆われていたのかもしれない。
道の両側には、白い小さな花が咲いていた。
古い石畳の隙間からも、柔らかな草が伸びている。
「……綺麗ですね」
マルタは微笑んだ。
少しだけ、歩いてみよう。
そう思い、石畳へ足を踏み入れた。
◇
道は、思ったより長く続いていた。
木々の間を抜けると、やがて古い石造りの門が見えてきた。
門の上部には、蔦に覆われた紋章が刻まれている。
しかし、長い年月のせいで形は崩れ、何を表しているのか分からない。
「……昔の庭園でしょうか」
マルタは門の前に立った。
門扉は片側が外れ、地面に倒れている。
周囲に人の気配はない。
ただ、門の向こうには、思いがけない光景が広がっていた。
古い庭園。
石畳の小道。
苔むした彫像。
そして、色とりどりの花々。
手入れされていないはずなのに、花は不思議なほど美しく咲いていた。
白い花。
淡い紫色の花。
小さな青い花。
その間を、蝶がゆっくりと飛んでいる。
「……まあ」
マルタは思わず声を漏らした。
庭園の中央には、円形の広場があった。
その真ん中に、古い噴水が置かれている。
白い石で造られた噴水。
縁には細かな模様が刻まれ、中央には小さな女性像が立っていた。
女性像は両手で水瓶を抱えている。
水瓶からは、細い水が静かに流れ落ちていた。
「……まだ、水が流れているのですね」
マルタは驚いた。
これほど古い庭園なのに、噴水が動いている。
しかも、水は驚くほど澄んでいた。
底に沈んだ小石まで、はっきりと見える。
水面には、午後の日差しが反射している。
マルタはゆっくりと噴水へ近づいた。
縁の石には、何か文字が刻まれている。
「……これは……?」
彼女は身をかがめた。
古い文字だった。
現在使われている文字とは少し形が違う。
読める部分もあるが、全体の意味は分からない。
指先で苔を少し払うと、短い文章が現れた。
『……失われし……』
その先は欠けていた。
さらに別の部分には、こんな言葉が残っている。
『……時の……』
「……時?」
マルタは首を傾げた。
何かの記念碑だろうか。
あるいは、古い詩が刻まれているのかもしれない。
彼女はしばらく文字を眺めた。
しかし、どれだけ考えても意味は分からなかった。
「……専門家でなければ、難しそうですね」
マルタは小さく笑った。
レオンハルトなら、こういうものに興味を持つかもしれない。
そう思った瞬間、彼女は自分で苦笑した。
「……また、レオンハルト様のことを考えてしまいました」
今日は休日なのに。
それでも、あの少年が目を輝かせながら古い文字を調べる姿を想像すると、自然と笑みが浮かんでしまう。
……本当に、変わったお方です。
八歳とは思えないほど、機械に詳しい。
時には大人顔負けの発想をする。
けれど、甘い菓子を喜び、リナやエリスと笑い合い、失敗すれば悔しそうな顔をする。
そんなところは、年相応の少年だった。
マルタにとって、レオンハルトは大切な主家の子供であり、守るべき存在だった。
そして今では、未来を楽しみにしている教え子でもある。
「……あの方たちが、無事に夢を叶えられるといいですね」
マルタは静かに呟いた。
噴水の水面が、風に揺れた。
◇
しばらくして、マルタは庭園の奥にある石のベンチへ腰を下ろした。
木漏れ日が足元に落ちている。
彼女は市場で買った小さな焼き菓子を一つ取り出した。
蜂蜜と木の実を使った、素朴な菓子だった。
「……いただきます」
一口食べる。
優しい甘さが広がった。
マルタは目を細めた。
「……美味しいですね」
誰かに急かされることもなく、静かな庭園で菓子を味わう。
それだけのことが、こんなにも贅沢に感じられるとは思わなかった。
ふと、昔のことを思い出した。
防衛隊に所属していたころ。
任務の合間に、仲間たちと休憩したことがあった。
古い詰所。
粗末な木の椅子。
温かい飲み物。
そして、くだらない冗談を言い合う声。
あのころも、忙しかった。
危険な任務も多かった。
それでも、笑い合う時間はあった。
……皆さんは、今ごろどうしているのでしょう。
マルタは菓子を持つ手を止めた。
懐かしさとともに、胸の奥に小さな痛みが生まれる。
もう会えない人もいる。
連絡が途絶えた人もいる。
そして、自分は今、ヴァイス男爵家で働いている。
後悔しているわけではない。
あの家には、守りたい人々がいる。
ラインハルト。
ヘレナ。
学院へ旅立ったアルブレヒトとセドリック。
そして、レオンハルト、リナ、エリス。
彼らと過ごす日々は、穏やかで温かい。
けれど、ときどき。
操縦席の感触を思い出すことがある。
魔導機甲の駆動音。
足元から伝わる振動。
視界の向こうに広がる街道。
……私は、もう一度乗りたかったのでしょうか。
先日のワークランナーの操縦を思い出す。
久しぶりに操縦桿を握ったとき、胸の奥が高鳴った。
機体が一歩を踏み出した瞬間、懐かしい感覚が戻ってきた。
けれど、落石に巻き込まれかけたとき。
彼女の頭に浮かんだのは、自分のことではなかった。
観測台にいる子供たちの顔だった。
……心配させてしまいましたね。
レオンハルトが、怖かったと打ち明けたときの表情。
あれは忘れられない。
マルタは静かに息を吐いた。
「……私は、今の暮らしが好きなのですね」
その言葉を口にすると、不思議と心が軽くなった。
昔の自分を否定する必要はない。
けれど、今の自分も大切にしたい。
そう思えた。
◇
午後の日差しが、少しずつ傾き始めていた。
マルタはベンチから立ち上がり、服についた小さな葉を払った。
「……そろそろ戻りましょうか」
庭園を出る前に、もう一度噴水へ目を向ける。
澄んだ水が、静かに流れていた。
その光景があまりにも美しく、彼女は少しだけ足を止めた。
「……本当に、不思議な場所ですね」
噴水の縁には、古い石の飾りがいくつも並んでいる。
その一つに、小さな青い花が咲いていた。
マルタは近づき、花を眺めた。
花びらは透き通るように薄く、中心には淡い銀色の模様がある。
「……珍しい花ですこと」
彼女は手を伸ばしかけた。
しかし、すぐに引っ込める。
せっかく咲いているのだから、そのままにしておこう。
そう思った。
そのとき。
ひらり。
頭上から、一枚の枯れ葉が落ちてきた。
風に流され、噴水の水面へ落ちる。
マルタは何気なく、その動きを目で追った。
そして、足元の石畳に気づくのが一瞬遅れた。
「……あら?」
靴の裏が、苔に覆われた石の上を滑った。
つるり。
「……っ!」
マルタは反射的に体をひねった。
長年の訓練で身につけた動きだった。
重心を低くし、片足を踏み出す。
普段なら、それで十分に立て直せる。
だが。
踏み出した先にも、湿った苔があった。
「……しまっ――!」
足が滑る。
体が傾く。
手を伸ばしたが、噴水の縁には届かなかった。
次の瞬間。
ばしゃんっ!
マルタは、噴水の中へ落ちた。
◇
「……っ、冷たい!」
水が顔にかかり、マルタは思わず目を閉じた。
幸い、噴水は深くなかった。
大人なら、腰の少し上ほどの深さだ。
彼女はすぐに足をつき、体を起こそうとした。
「……まったく、何をしているのでしょう」
自分でも呆れてしまう。
元魔導機甲乗りが、苔で滑って噴水へ落ちるなんて。
もしリナが見ていたら、きっと大笑いしただろう。
レオンハルトも、驚いたあとで心配そうに駆け寄ってくるに違いない。
マルタは濡れた髪をかき上げた。
「……服を乾かさなければ」
そう呟いたときだった。
水面の下で、何かが光った。
「……え?」
最初は、日差しが反射したのだと思った。
しかし、光は消えなかった。
噴水の底。
古い石の隙間から、淡い青色の光が広がっていく。
細い線が、円を描くようにつながった。
そして、その円の内側に、複雑な模様が浮かび上がった。
「……魔導陣?」
マルタは息を呑んだ。
魔導機甲の操縦士だった彼女には、それが単なる装飾ではないことが分かった。
何らかの魔法的な仕組みが、起動している。
だが、どのような術式なのかは分からない。
「……まずいですね」
彼女はすぐに噴水から出ようとした。
ところが。
足元の水が、突然温かくなった。
「……っ?」
冷たかったはずの水が、春の日差しを浴びたような温度に変わる。
同時に、体の奥へ奇妙な感覚が広がった。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、全身がふわりと軽くなる。
「……何、これ……?」
マルタは噴水の縁へ手を伸ばした。
しかし、指先が届かない。
……おかしい。
さっきまでは、すぐ近くにあったはずなのに。
彼女はもう一歩踏み出した。
その瞬間、足元で布が絡まった。
「……え?」
見下ろす。
青いワンピースの裾が、水の中で大きく広がっていた。
腰のベルトが緩んでいる。
袖口から伸びていたはずの手が、いつの間にか布の奥へ引っ込んでいた。
「……どういう……」
マルタは慌てて袖を引き上げた。
そこから現れたのは、小さな手だった。
指が短い。
手のひらが小さい。
まるで、子供の手のようだった。
「……え?」
彼女は目を見開いた。
胸が激しく鳴り始める。
何が起きているのか分からない。
けれど、確かなことが一つあった。
自分の体が、変わっている。
マルタは震える手で、頬に触れた。
顔の輪郭が違う。
肩幅も狭くなっている。
濡れた髪が、いつもより長く感じられた。
そして。
視界が、低い。
「……そんな……」
彼女は噴水の縁を見上げた。
先ほどまで腰ほどの高さだった石の縁が、今では胸よりも高い位置にある。
足元の水も、さっきより深く感じられる。
マルタは慌てて両手で縁をつかみ、体を引き上げた。
だが、腕に力が入らない。
「……っ!」
一度、手が滑った。
彼女は水の中へ戻り、息を整えた。
……落ち着きなさい。
そう自分に言い聞かせる。
危険な状況で慌ててはいけない。
それは、かつて何度も教わったことだった。
まずは、状況を確認する。
そして、安全な場所へ移動する。
マルタは噴水の内側にある低い石段を見つけた。
そこへ足をかけ、慎重に体を持ち上げる。
濡れた服が重い。
それでも、何とか縁を越えることができた。
石畳の上へ降り立つ。
そして。
彼女は、自分の姿を見下ろした。
「…………」
ワンピースは、まるで大人の服を無理やり着せられた子供のように、ぶかぶかになっていた。
袖は長すぎる。
裾は地面を引きずっている。
靴は大きすぎて、歩くたびに脱げそうだった。
腰のベルトは、もはや役に立っていない。
マルタは、ゆっくりと噴水へ振り返った。
水面は、すでに静かになっていた。
先ほどまで輝いていた魔導陣も消えている。
何事もなかったかのように、細い水が流れ落ちていた。
「……これは……」
マルタは噴水へ近づいた。
そして、水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは。
茶色の髪をした、小さな少女だった。
丸みを帯びた頬。
大きな瞳。
幼い顔立ち。
年齢は、おそらく八歳ほど。
レオンハルトやリナ、エリスと同じくらいの少女。
マルタは息を止めた。
少女も、同じように目を見開いている。
彼女が右手を上げると、水面の少女も右手を上げた。
頬に触れる。
水面の少女も、頬に触れる。
「…………」
長い沈黙が流れた。
やがて、マルタは震える声で呟いた。
「……わ、私……?」
水面の少女が、同じように口を動かした。
マルタは自分の喉に手を当てた。
声まで変わっている。
高く、幼い声。
けれど、頭の中は何も変わっていなかった。
自分の名前も。
ヴァイス男爵家で働いていることも。
魔導機甲を操縦していた過去も。
レオンハルトたちと過ごした日々も。
すべて覚えている。
ただ、体だけが。
子供になっていた。
「……どうして……」
マルタは水面を見つめた。
そこに映る少女は、困惑した表情で彼女を見返していた。
しばらくして、マルタは小さく息を吸った。
「……まずは、屋敷へ戻らなければ」
そう呟き、一歩踏み出す。
しかし。
ずるっ。
「……きゃっ!」
大きすぎる靴が脱げ、彼女は慌てて石畳へ手をついた。
幸い、転ぶことはなかった。
けれど、その姿勢のまま、しばらく動けなかった。
「…………」
マルタは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、誰もいない古い庭園。
静かな噴水。
そして、長すぎる袖と裾。
彼女は、思わず呟いた。
「……レオンハルト様たちに、何と説明すればよいのでしょう……」
その声は、幼い少女のものだった。
秋の風が、庭園の花々を揺らした。
噴水の水面には、もう不思議な光は残っていない。
ただ一人。
突然八歳ほどの姿になってしまった元魔導機甲乗りのメイドが、途方に暮れて立ち尽くしていた。
――そして彼女は、まだ知らない。
屋敷へ帰り着くことさえ、今の自分には思った以上に難しいということを。




