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乙女ゲームの退学予定モブ、改造魔法で最強の魔導機甲を造る!  作者: ジャクロの精霊


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第23話 狐少女を守るため、素手で岩刃熊に挑む! 紅蓮の必殺拳と、初めて見せた彼女の涙

魔導甲冑《オメガ》を完成させるために必要なものは、何だろうか。


 強固な装甲。高出力の魔力炉。精密な関節機構。そして、四基の推進器を制御するための技術。


 もちろん、どれも必要だ。


 けれど、最近になって、俺はもう一つ大切なことに気づいた。


 それは、俺自身の魔法をもっと上手に扱えるようになることだ。


 どれほど優秀な魔導甲冑を造っても、操縦する俺が魔力を無駄遣いしていたら意味がない。


 先日の盗賊との戦いでは、雷魔法を無理に使ったせいで、自分の体を傷つけてしまった。


 あんな失敗は、もう繰り返したくない。


 だから今日は、魔法の制御を練習することにした。


 ただし、俺には一つだけ誤算があった。


 まさか、森であんな魔獣と遭遇するなんて。


 そして、その戦いが、リナとの関係を大きく変えることになるなんて。


     ◇


「レオンハルト様。本当にお一人で大丈夫ですか?」


 朝食を終えた俺が屋敷の裏門へ向かうと、マルタが心配そうに声をかけてきた。


 今日は動きやすい服装に着替えている。


 白いシャツに濃紺の上着、丈夫な革のズボン。足元には、森を歩くための短いブーツ。


 腰には小さな道具袋を下げ、左手首にはアリアの宿る黒い腕輪をつけていた。


「大丈夫だよ。父上にも許可をもらってるし」


「ですが、先日の怪我もようやく治ったばかりです」


「うん。だから今日は無茶しない。森の入口にある訓練場までしか行かないよ」


 ヴァイス家の屋敷の裏手には、小さな森が広がっている。


 その一角には、父上や兄上たちが昔から使用している訓練場があった。


 周囲には簡単な防護柵が設けられており、普段は危険な魔獣が近づかないよう管理されている。


 もっとも、絶対に安全というわけではない。


「アリアもいるからね」


『周辺警戒は可能ですが、すべての危険を事前に検知できるわけではありません』


「……そういうことは、もう少し安心できる言い方でお願い」


『事実を正確にお伝えしたまでです』


 相変わらず容赦がない。


 マルタは苦笑した。


「お昼までにはお戻りくださいね」


「うん。約束する」


「それから、魔力を使いすぎないこと」


「分かってる」


「怪我をしたら、隠さず報告すること」


「……はい」


「危険を感じたら、すぐに逃げること」


「はい!」


 まるで母上が三人いるみたいだ。


 いや、心配してくれるのはありがたいんだけど。


 俺はマルタに手を振り、森へ向かった。


 その背後で。


 屋敷の窓から、琥珀色の瞳が俺を見つめていたことには気づかなかった。


     ◇


「……あいつ、どこ行くんだ?」


 リナは二階の窓から、裏門へ向かう俺の姿を眺めていた。


 赤茶色の髪から伸びた狐耳が、ぴくりと動く。


 隣では、エリスが小さな刺繍枠を持っていた。


 昨日、ベラから教えてもらったばかりの刺繍を練習しているらしい。


「……レオンハルトくん……?」


「そう。あいつ」


 リナは窓に手をついた。


「……また、変なことしてるんじゃないだろうな」


「……魔法の練習……するって……言ってたよ……」


「……魔法?」


 リナの耳が立った。


 エリスは小さく頷いた。


「……昨日、マルタさんに……話してた……」


「……ふうん」


 リナは腕を組んだ。


 あの青と銀の魔導甲冑。


 《オメガ》。


 八歳の少年が造っているという、奇妙な機械。


 正直、まだ信じられなかった。


 それに、あいつはいつも笑っている。


 自分たちを助けたときも。


 エリスが人魚だと分かったときも。


 昨日、工房で機械が故障したときでさえ。


 ……何なんだ、あいつ。


 リナは唇を尖らせた。


「……ちょっと見てくる」


 エリスが顔を上げた。


「……え?」


「何してるか、確かめてくるだけだ」


「……で、でも……マルタさんに……」


「すぐ戻るって!」


 リナは窓から離れた。


 そして、廊下へ出ると、使用人たちの目を避けながら階段を下りていった。


 狐獣人の耳は、人間よりもずっと優れている。


 足音が近づけば、すぐに分かる。


 そうして彼女は、誰にも気づかれずに裏門へ出た。


 ……少なくとも、本人はそう思っていた。


     ◇


 森の訓練場へ到着した俺は、まず周囲を確認した。


 木々の間から朝日が差し込み、地面には細かな光の模様ができている。


 鳥の鳴き声。


 葉を揺らす風。


 遠くで流れる小川の音。


 静かで、気持ちのいい場所だった。


「……よし」


 俺は訓練用の木杭を三本並べた。


 それぞれの距離は、五メートルほど。


 今日の目標は、魔法の威力を上げることではない。


 必要な量の魔力だけを使い、狙った場所に正確に作用させることだ。


「アリア。計測をお願い」


『承知しました。魔力消費量と身体負荷を記録します』


「じゃあ、まずは水から」


 俺は右手を前へ伸ばした。


「《水球》」


 掌の前に、小さな水の球が生まれる。


 直径は十センチほど。


 以前なら、もっと大きくしていた。


 でも今日は、これでいい。


 俺は水球をゆっくり動かした。


 右へ。


 左へ。


 そして、木杭の周囲を一周させる。


 水球は形を崩さずに浮かび続けた。


「……よし」


『魔力の揺らぎは前回より減少しています』


「いい感じだね」


 次は風。


 水球を消し、足元に落ちていた葉を一枚拾った。


「《微風》」


 指先から生まれた風が、葉を持ち上げる。


 強すぎれば飛んでいってしまう。


 弱すぎれば落ちる。


 その中間を維持する。


「……っと」


 葉がふわりと浮いた。


 俺は慎重に魔力を調整した。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


『安定しています』


「……やった!」


 俺は思わず笑顔になった。


 こういう地味な練習こそ大切なんだ。


 オメガの推進器も同じ。


 ただ強い風を発生させれば飛べるわけじゃない。


 四基の推進器が、それぞれ適切な出力を維持しなければ、機体は簡単に姿勢を崩してしまう。


 今はまだ飛べないけど、いつか必ず完成させたい。


「……次は火だな」


 俺は木杭から離れ、石で囲んだ訓練用の炉へ向かった。


 掌を開く。


「《小炎》」


 ぽっ。


 指先に小さな炎が灯った。


 橙色の光。


 温かな熱。


 俺はその炎を見つめた。


 火属性魔法は、威力を上げるだけなら比較的簡単だ。


 でも、狙った場所だけを加熱するのは難しい。


 熱が周囲へ広がるからだ。


「……もっと小さく」


 炎を縮める。


「……もっと集中させて」


 さらに魔力を絞る。


 すると、炎の中心が赤から白に近い色へ変わった。


『警告。局所温度が上昇しています』


「……分かってる」


 俺はすぐに魔力を弱めた。


 炎が消える。


「……ふぅ」


 まだ難しいな。


 でも、今の感覚は覚えておこう。


 金属加工にも使えるかもしれない。


 そのときだった。


 かさっ。


 背後の茂みから、小さな音が聞こえた。


「……ん?」


 俺は振り返った。


 木々の間には、誰もいない。


「……アリア?」


『近距離に小型の生体反応があります』


「……魔獣?」


『詳細不明。ただし、反応は人間に近い大きさです』


 俺は眉をひそめた。


 人間に近い?


 まさか。


「……リナ?」


 茂みが大きく揺れた。


「なっ!?」


 そこから、赤茶色の狐耳が飛び出した。


「な、何で分かったんだよ!」


 俺は思わず笑ってしまった。


「……やっぱり」


 リナが茂みから姿を現した。


 動きやすい服に着替え、尻尾を大きく膨らませている。


 顔は真っ赤だった。


「……お前、いつから気づいてたんだ!?」


「今だよ」


「……嘘つけ!」


「本当だって」


 俺は苦笑した。


「それより、どうしてここに?」


 リナは腕を組んだ。


「……別に」


「……別に?」


「……お前が変なことしてないか、見に来ただけだ!」


「……なるほど」


「勘違いするなよ! 心配したわけじゃないからな!」


 俺は思わず笑った。


「分かったよ」


「……何笑ってんだ!」


「いや、何でもない」


 リナは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 けれど、その視線は訓練用の木杭へ向いていた。


「……さっきの魔法、お前がやったのか?」


「うん」


「……火も?」


「そうだよ」


 リナは少し驚いたようだった。


「……魔導甲冑だけじゃないんだな」


「まあね。魔法も練習しないと」


「……ふうん」


 彼女はしばらく俺を見つめた。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……ちょっとだけ、すごいな」


「え?」


「な、何でもない!」


 また顔を背けられた。


 ……素直じゃないなあ。


 俺は苦笑しながら、道具袋を片付け始めた。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか」


「……もう終わり?」


「うん。今日は十分練習したし」


「……ふうん」


 リナは少し残念そうだった。


 もしかして、もっと見たかったのかな。


 そんなことを考えた、その瞬間。


 森の奥から。


 低い唸り声が聞こえた。


「……グルルルル……」


 俺の手が止まった。


 リナの耳が、ぴんと立つ。


「……何だ?」


 彼女が呟いた。


 次の瞬間。


 ドシンッ。


 地面が揺れた。


 木々の間から、巨大な影が現れた。


     ◇


「……なっ!?」


 俺は息を呑んだ。


 現れたのは、巨大な熊だった。


 ただし、普通の熊ではない。


 全身を覆う濃い灰色の毛皮。


 肩や背中には、岩のような硬い装甲が突き出している。


 しかも、その岩は鋭く尖っていた。


 まるで、無数の刃を背負っているようだった。


 前脚には、黒い鉱石のような巨大な爪。


 その先端は、短剣のように鋭い。


 体長は三メートルを超えているだろう。


 そして、黄色く濁った瞳が、俺たちを睨んでいた。


『警告。大型魔獣を確認』


 アリアの声が響いた。


『外見的特徴から、岩刃熊《ロックブレードベア》と推定されます』


「……岩刃熊!?」


 俺は思わず声を上げた。


 知っている。


 この魔獣は、ゲームにも登場していた。


 岩のように硬い外皮と、刃物のように鋭い爪を持つ危険な魔獣。


 普通の剣では、まともに傷をつけることさえ難しい。


 しかも、怒ると背中の岩刃を飛ばしてくることがある。


 ……何で、こんな場所に!?


『通常の生息域から外れています。原因は不明です』


 俺は歯を食いしばった。


 今は理由を考えている場合じゃない。


「リナ」


「……な、何だよ……」


 彼女の声が震えていた。


「……ゆっくり下がって」


「……え?」


「俺の後ろにいて。絶対に走らないで」


 リナは目を見開いた。


「……お、お前……」


「大丈夫。まだ襲ってきてない」


 俺は熊を見つめた。


 岩刃熊は低く唸りながら、こちらの様子を窺っている。


 今なら、逃げられるかもしれない。


 俺は右手をゆっくり上げた。


「《土壁》」


 地面から、低い土の壁がせり上がる。


 俺たちと熊の間を遮るように。


 そのまま後退する。


 一歩。


 また一歩。


 しかし。


 パキッ。


 リナの足元で、乾いた枝が折れた。


「……っ!」


 岩刃熊の耳が動いた。


 黄色い瞳が、リナを捉える。


 次の瞬間。


「グオオオオオッ!!」


 巨大な咆哮が森に響き渡った。


 熊が突進してきた。


 ドガァンッ!


 土壁が、一撃で砕け散る。


「……っ!?」


 速い!


 あの巨体で、何て速度だ!


「リナ! 下がれ!」


 俺は叫んだ。


 けれど、リナは動けなかった。


 目の前に迫る巨大な魔獣。


 鋭い爪。


 圧倒的な殺気。


 恐怖で、足がすくんでしまったのだ。


「……あ……」


 リナの口から、小さな声が漏れた。


 岩刃熊が右前脚を振り上げる。


 黒い岩の爪が、朝日に鈍く光った。


 ……まずい!


 俺は地面を蹴った。


「《風歩》!」


 足元に風を集中させる。


 体が一気に前へ飛び出した。


 リナの肩を掴み、横へ押し出す。


「きゃっ!?」


 彼女の体が草の上へ転がった。


 その直後。


 ザシュッ!


「……ぐっ!?」


 熱い痛みが、俺の脇腹を走った。


 視界が揺れる。


 岩刃熊の爪が、俺の右脇腹をかすめていた。


 いや。


 かすめたなんてものじゃない。


 服が裂け、赤い血が滲み出している。


「……っ、あ……!」


 俺はよろめいた。


 右手で傷口を押さえる。


 指の間から、温かいものが流れた。


 ……やられた。


 距離を読み違えた。


 リナを押し出すことに意識を集中しすぎて、自分の回避が遅れたんだ。


『警告。右側腹部に損傷を確認』


 アリアの声が響いた。


『出血を検出。直ちに戦闘を離脱してください』


「……分かってる……!」


 俺は歯を食いしばった。


 だが、岩刃熊は逃がしてくれそうになかった。


 巨大な頭をこちらへ向け、再び唸り声を上げる。


「……レオン……?」


 リナの声が聞こえた。


 彼女は地面に座り込んだまま、俺を見つめていた。


 琥珀色の瞳が、大きく開かれている。


「……お前……血が……」


「……大丈夫」


 俺は無理に笑った。


「……ちょっと、失敗しただけだよ」


「……嘘……」


 リナの声が震えた。


「……そんなに……血が……」


 俺は彼女を見た。


「リナ。木の陰に隠れて」


「……で、でも……!」


「お願い」


 俺は静かに言った。


「……今は、俺の言うことを聞いて」


 リナは唇を噛んだ。


 そして、震える足で立ち上がった。


 近くの大木の陰へ走る。


 その姿を確認して、俺は熊へ向き直った。


 ……さて。


 どうする?


 オメガは屋敷の工房だ。


 武器も持っていない。


 しかも、右脇腹には傷がある。


 正面から戦えば、まず勝てない。


 だったら。


 魔法を組み合わせるしかない。


     ◇


「《氷槍》!」


 俺は左手を突き出した。


 空気中の水分と魔力が集まり、三本の氷の槍が形成される。


 それを岩刃熊へ放った。


 ヒュンッ!


 ガキィンッ!


 氷の槍が岩の装甲に当たる。


 しかし。


「……硬っ!」


 槍は砕け散った。


 装甲には、わずかな傷しかついていない。


 岩刃熊が咆哮する。


「グオオオッ!」


 巨大な前脚が地面を叩いた。


 ドゴンッ!


 土と石が跳ね上がる。


 俺は横へ飛んだ。


「《風歩》!」


 風の力で距離を取る。


 しかし、脇腹に鋭い痛みが走った。


「……ぐっ!」


 着地が乱れる。


 膝をつきそうになった。


『警告。身体負荷が上昇しています』


「……分かってるって……!」


 俺は息を整えた。


 痛い。


 ものすごく痛い。


 でも、まだ倒れるわけにはいかない。


 リナがいる。


 彼女を置いて逃げるわけにはいかない。


 ……いや。


 違う。


 俺が倒れたら、リナも危ない。


 だからこそ、冷静にならないと。


 俺は熊の動きを観察した。


 硬い岩の装甲。


 鋭い爪。


 巨大な体。


 でも、弱点がないわけじゃない。


 関節の内側。


 首の下。


 装甲が薄い部分があるはずだ。


 俺は左手を地面へ向けた。


「《泥沼》!」


 岩刃熊の足元の土が柔らかく変化する。


 巨体が沈み込んだ。


「グルルッ!?」


 熊が足を取られる。


 よし!


 俺はさらに魔力を流した。


「《氷結》!」


 泥の表面が凍りつく。


 熊の前脚を一時的に固定した。


 だが。


 バキィンッ!


 次の瞬間、氷が砕け散った。


「……っ!」


 強すぎる!


 岩刃熊は怒り狂ったように咆哮した。


 背中の岩刃が、赤黒く輝き始める。


『警告。魔力反応増大』


 アリアの声が鋭くなる。


『背部岩刃の射出動作を確認』


「……まずい!」


 俺は咄嗟に地面へ手をついた。


「《土壁》!」


 厚い土の壁がせり上がる。


 その直後。


 シュバババッ!


 鋭い岩刃が飛来した。


 ドドドドッ!


 土壁に突き刺さる。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 そして。


 バガァンッ!


 壁が砕け散った。


「……うわっ!」


 俺は後ろへ転がった。


 岩の破片が頬をかすめる。


 ……危なかった。


 あと少し遅れていたら、まともに食らっていた。


 俺は荒い息を吐いた。


 右脇腹が、ずきずきと痛む。


 血も止まっていない。


 このまま長引けば、確実に不利になる。


「……アリア」


『はい』


「……あの熊の装甲、どれくらい硬い?」


『正確な数値は取得できません。ただし、通常の氷属性攻撃では貫通が困難と推定されます』


「……だよね」


 俺は唇を噛んだ。


 ならば、外側から壊すのではなく。


 衝撃を、一点に集中させる。


 その考えが浮かんだ瞬間。


 前世の記憶が、脳裏をよぎった。


     ◇


 赤い機体。


 燃えるような拳。


 そして、敵へ向かって放たれる必殺の一撃。


 前世で見た、ロボットアニメ。


 『レッドバロン』。


 俺は子供のころから、ああいう作品が大好きだった。


 巨大な機械が拳を振るい、強敵を打ち倒す。


 理屈なんて分からなくても、ただ格好よかった。


 そして、ある必殺技があった。


 ――デスブロー。


 その名前を思い出した瞬間、俺の心臓が強く脈打った。


 ……そうだ。


 あの技を、そのまま再現することはできない。


 俺は巨大ロボットじゃないし、今の体は八歳の子供だ。


 でも。


 魔法なら。


 俺の魔法なら、似たようなことができるかもしれない。


 拳の周囲に炎を集中させる。


 風で動きを補助する。


 そして、衝撃を一点に集める。


 ただし、問題がある。


 そんな高出力の魔法を、素手で使ったことはない。


 失敗すれば、拳を傷つける。


 最悪の場合、腕が動かなくなるかもしれない。


『レオンハルト様』


 アリアが警告した。


『現在の身体状態で新規の高負荷魔法を使用することは推奨しません』


「……分かってる」


『特に、雷属性による身体強化は危険です』


「……雷は使わない」


 俺は小さく答えた。


 先日の失敗を忘れたわけじゃない。


 自分の体に雷を流して、無理やり動かすなんてことは、もうしない。


 使うのは、火と風。


 そして、俺自身の体を守るための魔力制御。


 ……できるか?


 いや。


 やるしかない。


 俺は右手を握りしめた。


 その瞬間、脇腹に激痛が走った。


「……ぐっ!」


 血が、また滲んだ。


 俺は歯を食いしばった。


 このままでは、魔力を集中できない。


 ……せめて、出血だけでも抑えないと。


 俺は左手を傷口の近くへかざした。


「……《小炎》」


 指先に、小さな炎が灯る。


『警告。開放創への熱作用は組織損傷を拡大させる危険があります』


「……分かってる……!」


 俺は魔力を極限まで絞った。


 傷口の表面に、ほんの一瞬だけ熱を集中させる。


「……っ、ああっ!」


 焼けつくような痛みが走った。


 視界が白くなる。


 俺は慌てて魔法を解除した。


「……はぁ……はぁ……!」


 傷口の一部は熱で塞がったように見えたが、痛みはむしろ強くなっていた。


 出血も完全には止まっていない。


『熱損傷を追加確認。止血効果は不十分です』


「……くそっ」


 やっぱり、こんな方法で簡単に治せるわけがない。


 俺は道具袋から布を取り出し、傷口へ押し当てた。


 痛みをこらえながら、上着の内側で固定する。


 ……これで少しは持ってくれ。


 でも、もう時間がない。


 岩刃熊が、こちらへ向かって歩き始めていた。


     ◇


「……レオン……!」


 大木の陰から、リナが俺を見つめていた。


 彼女の顔は真っ青だった。


 俺の服には血が滲み、立っているだけでも辛そうなのが分かる。


 それなのに。


 俺は、まだ熊の前に立っていた。


「……何で……」


 リナの唇が震えた。


「……何で、逃げないんだよ……」


 彼女は自分の手を見た。


 小さな手。


 震える指。


 狐獣人としての力はある。


 けれど、今の彼女には、それをうまく使うことができない。


 昨日、屋敷で見せた幻術も、恐怖で勝手に発動しただけだった。


 もし、あのとき自分がついてこなければ。


 もし、枝を踏まなければ。


 もし、恐怖で動けなくならなければ。


 レオンハルトは、怪我をしなかったかもしれない。


「……あたしの……せいで……」


 リナの目に、涙が浮かんだ。


 そのとき。


 俺が両拳を握りしめた。


 そして、静かに呟いた。


「……行くぞ」


     ◇


 俺は深く息を吸った。


 右拳に魔力を集中させる。


 炎が生まれた。


 最初は小さな橙色の光。


 それが徐々に強くなり、赤い炎へ変わっていく。


 続いて、左拳にも魔力を流す。


 両拳を包むように、炎が渦を巻いた。


 ただ燃やすだけじゃない。


 炎を外へ広げず、拳の周囲に留める。


 手の皮膚へ直接熱が伝わらないよう、薄い風の層を作る。


 炎の形を維持する。


 魔力の流れを整える。


 俺は歯を食いしばった。


「……ぐっ……!」


 ものすごい負荷だ。


 少しでも集中を失えば、炎が暴走する。


『魔力消費量が急上昇しています』


「……あと少し……!」


 俺は拳を見つめた。


 赤い炎。


 その中心が、徐々に白く輝き始める。


 そして。


 ボウッ!


 両拳が、紅蓮の光に包まれた。


「……できた……!」


 俺は目を見開いた。


 炎は拳の周囲で渦を巻き、まるで二つの小さな太陽のように輝いていた。


 もちろん、完全ではない。


 熱はまだ強すぎるし、長時間維持できるものでもない。


 でも。


 今なら、一撃だけ放てる。


『警告。使用可能時間は極めて短いと推定されます』


「……十分だ!」


 俺は岩刃熊を睨んだ。


 巨大な魔獣が、再び咆哮する。


「グオオオオオッ!!」


 その瞬間。


 俺は地面を蹴った。


「《風歩》!」


 風が足元で弾ける。


 体が前へ飛び出した。


 岩刃熊が前脚を振り上げる。


 俺は体を低くした。


 頭上を、鋭い爪が通り過ぎる。


 風圧で髪が揺れた。


 ……今だ!


 俺は左拳を突き出した。


「はあああっ!」


 ドゴンッ!


 紅蓮の拳が、熊の前脚の関節へ叩き込まれた。


 炎が弾ける。


「グオオッ!?」


 岩刃熊が悲鳴を上げた。


 硬い装甲の隙間へ、衝撃が伝わったのだ。


 だが、まだ倒れない。


 熊が反対の前脚を振り上げる。


 俺は横へ跳んだ。


 脇腹が痛む。


 視界が揺れる。


 それでも、足を止めなかった。


 岩刃熊の巨体が、わずかに傾く。


 さっきの一撃で、前脚の動きが鈍くなっている。


 ……そこだ!


 俺は地面へ左手を向けた。


「《土隆起》!」


 熊の足元から、土の柱が突き上がった。


 巨体が持ち上がる。


 岩刃熊が体勢を崩した。


 首の下。


 岩の装甲が薄い部分が、露わになる。


 俺は右拳に残った魔力を集中させた。


 炎が、さらに強く輝く。


 赤。


 橙。


 そして、白。


 拳の周囲で、紅蓮の光が渦を巻いた。


 前世の記憶が蘇る。


 あのアニメの必殺技。


 いつか自分も、あんな一撃を放ってみたいと思っていた。


 でも、今は憧れのためじゃない。


 守りたい人がいるから。


 俺は叫んだ。


「紅蓮撃――!」


 右拳を引く。


 風が背中を押した。


 そして。


「デスブロォォォォッ!!」


 ドガァァァァンッ!!


 紅蓮の拳が、岩刃熊の首元へ叩き込まれた。


 凄まじい衝撃が響き渡る。


 炎が爆ぜ、熱風が周囲の落ち葉を吹き飛ばした。


 岩刃熊の巨体が、大きく揺れる。


「グ……オ……」


 黄色い瞳が見開かれた。


 次の瞬間。


 ドズゥゥンッ!!


 巨大な魔獣が、地面へ倒れた。


 土煙が舞い上がる。


 木々が揺れる。


 そして。


 静寂が訪れた。


「……はぁ……はぁ……」


 俺は荒い息を吐いた。


 両拳を包んでいた炎が、ゆっくりと消えていく。


 指先が痺れていた。


 拳には赤い火傷の痕が残っている。


 そして、右脇腹からは、再び血が滲み出していた。


 ……勝った。


 オメガなしで。


 自分の魔法だけで。


 あの岩刃熊を倒したんだ。


 でも。


「……っ!」


 膝から力が抜けた。


 俺はその場に崩れ落ちた。


「……くそ……」


 体が重い。


 魔力を使いすぎた。


 しかも、傷口が痛む。


『レオンハルト様』


 アリアの声が響いた。


『……驚きました』


「……え?」


『現在の身体能力と魔力量から推定した戦闘結果を、大きく上回っています』


 俺は苦笑した。


「……褒めてくれてる?」


『はい。魔法の組み合わせと攻撃の集中は、非常に優れた判断でした』


「……そっか」


『ですが』


 アリアの声が、少し厳しくなる。


『身体への負荷は許容範囲を超えています。新技術の成功と、今回の行動の安全性は別問題です』


「……うん」


 俺は静かに頷いた。


「……分かってる」


 勝てたからって、無茶をしてよかったわけじゃない。


 それは、俺自身が一番よく分かっていた。


 そのとき。


「……レオン!!」


 悲鳴のような声が響いた。


     ◇


 リナが走ってきた。


 赤茶色の髪を揺らし、尻尾を大きく振りながら。


 その顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。


「……レオン!」


 俺の前に膝をつく。


「……お、お前……!」


 彼女は俺の服を見た。


 赤く染まった右脇腹。


 火傷した拳。


 震える指。


 そのすべてを見た瞬間、リナの顔から血の気が引いた。


「……血……」


 小さな声だった。


「……まだ……出てる……」


「……うん。ちょっとね」


 俺は無理に笑った。


 けれど、リナは笑わなかった。


「……馬鹿……」


 ぽろり。


 涙が落ちた。


「……大馬鹿……!」


 俺は目を見開いた。


「……リナ?」


「……何で……!」


 彼女は俺の上着を掴んだ。


「……何で、あたしなんか庇ったんだよ……!」


 声が震えていた。


「……あたしが勝手についてきたのに……!」


 涙が、次々とこぼれる。


「……あたしが枝を踏んだから……!」


「……リナ」


「……あたしが逃げられなかったから……!」


 彼女は顔を伏せた。


「……全部……あたしのせいで……!」


 俺は言葉を失った。


 リナの肩が、小刻みに震えている。


「……ごめん……」


 か細い声。


「……ごめんなさい……」


 彼女は泣いていた。


 今まで、どれだけ怖い思いをしても、必死に強がっていた女の子が。


 俺の前で、初めて声を上げて泣いていた。


「……うぅ……」


 リナは俺の服を握りしめた。


「……あたし……また……誰かが……」


 そこで言葉が途切れた。


 俺は静かに彼女を見つめた。


 ……また?


 その一言が、胸に引っかかった。


 でも、今は聞くべきじゃない。


 リナが話したくなったときに、聞けばいい。


「……リナ」


 俺は左手を伸ばした。


 彼女の肩に、そっと触れる。


 リナが顔を上げた。


 涙で濡れた琥珀色の瞳が、俺を見つめている。


「……俺が、庇いたかったんだ」


「……え……?」


「リナが怪我するの、嫌だったから」


 彼女は唇を震わせた。


「……でも……お前が……」


「……うん。俺も怪我しちゃった」


 俺は苦笑した。


「……正直、かなり痛い」


 リナの顔が歪んだ。


「……だったら……!」


「……ごめん」


 俺は静かに言った。


 リナが目を見開いた。


「……え?」


「……怖い思いをさせたね」


 俺は彼女を見つめた。


「守るって言ったのに、こんなに心配させちゃった」


 リナは何も言わなかった。


 ただ、涙が止まらなかった。


 俺は少し迷ったあと、尋ねた。


「……抱きしめてもいい?」


 リナは目を丸くした。


 しばらく黙っていたが。


 やがて、小さく頷いた。


「……うん……」


 俺は彼女をそっと抱きしめた。


 脇腹が痛んだので、強く抱くことはできなかった。


 それでも、リナは俺の肩に顔を埋めた。


「……う……うぅ……!」


 彼女の手が、俺の上着を握りしめる。


「……怖かった……!」


 その声は、今まで聞いたことがないほど弱々しかった。


「……お前が……死んじゃうかと思った……!」


 俺は息を呑んだ。


 リナは泣きながら続けた。


「……やっと……エリスと……安心できる場所に来たのに……!」


 彼女の声が震える。


「……また……誰かがいなくなるの……嫌だ……!」


 俺は目を閉じた。


 そして、ゆっくりと彼女の背中を撫でた。


「……うん」


 小さく答える。


「……俺も、いなくなりたくないよ」


 リナが顔を上げた。


「……だったら……!」


「……だから、次はもっと上手に守る」


 俺は静かに言った。


「……一人で全部何とかしようとしない。危ないときは、ちゃんと助けを呼ぶ」


 リナは涙を拭った。


「……約束……?」


「……うん。約束する」


 彼女はしばらく俺を見つめた。


 そして、小さく頷いた。


「……絶対だからな……」


「……うん」


 俺は微笑んだ。


「……絶対」


     ◇


 そのとき、俺の脳裏に、前世の記憶が蘇った。


 日本で暮らしていたころ。


 俺は、ごく普通の会社員だった。


 毎日、仕事に追われていた。


 朝早く家を出て、夜遅く帰る。


 休日は疲れて眠るだけ。


 そんな生活の中で、俺はいつの間にか、人と深く関わることを避けるようになっていた。


 誰かに頼られるのが怖かった。


 失敗して、迷惑をかけるのが嫌だった。


 だから、困っている人を見ても、見て見ぬふりをしたことがある。


 ある雨の日。


 駅の階段で、荷物を落として困っている人がいた。


 周囲の人たちは、忙しそうに通り過ぎていく。


 俺も、その一人だった。


 助けようと思った。


 けれど、足が止まらなかった。


 ……誰かが助けるだろう。


 そう自分に言い聞かせて、その場を離れた。


 後になって、何度も思い出した。


 たった一言。


「大丈夫ですか?」


 そう声をかけるだけでよかったのに。


 俺は、それすらできなかった。


 あのときの後悔は、今でも覚えている。


 だから、この世界では。


 誰かが困っていたら、手を伸ばしたいと思った。


 でも。


 今、泣いているリナを見て、気づいた。


 助けることだけを考えて、自分が傷つくことを軽く見ていたのかもしれない。


 俺が怪我をすれば。


 俺を心配する人がいる。


 父上も。


 母上も。


 兄上たちも。


 マルタも。


 そして、リナも。


 ……そうだ。


 守るっていうのは、自分が倒れていいという意味じゃない。


 俺自身も、ちゃんと生きて帰らなきゃいけないんだ。


 俺はリナの頭をそっと撫でた。


「……ありがとう、リナ」


 彼女が顔を上げた。


「……え?」


「……俺のこと、心配してくれて」


 リナは目を見開いた。


 そして、頬を赤くした。


「……ば、馬鹿……!」


 涙を拭いながら、怒ったように言う。


「……心配するに決まってるだろ……!」


 俺は思わず笑った。


「……そっか」


「……笑うなよ……!」


「……ごめん」


 リナはもう一度、俺の肩に顔を埋めた。


 その小さな体は、まだ震えていた。


 俺は静かに彼女を抱きしめた。


 ……大丈夫。


 もう少ししたら、屋敷へ帰ろう。


 そして、ちゃんと治療してもらおう。


 そう思った瞬間。


『レオンハルト様』


 アリアの声が響いた。


『応急処置を継続してください。出血量が増加しています』


「……え?」


 俺は傷口を見た。


 布が、赤く染まっていた。


 ……まずい。


 思ったより深い。


『先ほどから、屋敷への緊急連絡を試みています。現在、通信は成立していません』


「……そっか」


 俺は小さく息を吐いた。


 森の中では、通信が不安定になるのかもしれない。


 ならば、自分たちで戻るしかない。


 でも、今の体では……。


 俺が立ち上がろうとした、そのとき。


「……レオン?」


 リナが不安そうに俺を見た。


「……顔、白いぞ……」


「……ちょっと、疲れただけ……」


 そう答えた瞬間。


 視界が、ぐらりと揺れた。


「……あれ……?」


 地面が近づいてくる。


 ……まずい。


 意識が。


「レオン!!」


 リナの叫び声が響いた。


     ◇


 どれくらい時間が経ったのだろう。


 遠くで、誰かの声が聞こえた。


「……こっちです!」


 リナの声。


「……早く! レオンが……!」


 続いて、聞き慣れた声が響いた。


「レオンハルト!」


 父上だ。


 ……ああ。


 来てくれたんだ。


 俺は薄く目を開けた。


 ぼやけた視界の中に、父上とセドリック兄上の姿が見える。


 父上は俺の脇腹を確認し、顔色を変えた。


「……何ということだ……!」


「父上……」


 俺が声を出すと、父上はすぐに顔を近づけた。


「レオン! 喋るな!」


「……ごめん……なさい……」


「謝るのは後だ!」


 父上は俺の傷口に清潔な布を押し当てた。


 セドリック兄上が周囲を確認する。


「父上、あそこに岩刃熊が倒れています!」


「……何だと!?」


 父上が驚いたように顔を上げた。


 巨大な岩刃熊。


 その体は、まだ森の奥に横たわっていた。


 セドリック兄上は信じられないという表情をしている。


「……まさか、レオンが……?」


 俺は苦笑した。


「……ちょっと……頑張った……」


「馬鹿者!」


 父上の声が響いた。


 俺はびくりと肩を震わせた。


 父上は怒っていた。


 けれど、その目には強い心配が浮かんでいた。


「……お前は、まだ八歳なんだぞ……!」


 その声が、少し震えていた。


「……何度、無茶をすれば気が済むんだ……!」


 俺は何も言えなかった。


 ただ、目を伏せた。


「……ごめんなさい……」


 父上は深く息を吐いた。


 そして、俺を慎重に抱き上げた。


「……帰るぞ。すぐに治療を受けさせる」


 俺は小さく頷いた。


 そのとき。


「……あ、あの……!」


 リナが声を上げた。


 父上が振り返る。


 リナは震えながら立っていた。


 顔には涙の跡が残っている。


「……あたしが……」


 彼女は唇を噛んだ。


「……あたしが、勝手についてきたから……!」


 父上は黙って彼女を見つめた。


「……あたしのせいで、レオンが……!」


 リナの目から、再び涙がこぼれた。


 俺は慌てて口を開いた。


「……違う……」


 父上が俺を見た。


「……レオン?」


「……俺が……守りたかったんだ……」


 俺はリナを見つめた。


「……リナのせいじゃ……ない……」


 リナは目を見開いた。


 父上はしばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……二人とも、帰ってから話そう」


 その声は、さっきよりも穏やかだった。


「今は、レオンの治療が先だ」


 リナは涙を拭った。


「……うん……」


 そして、父上の後ろを歩き始めた。


 俺は薄く目を閉じた。


 ……よかった。


 リナが無事で。


 それだけで、今は十分だった。


     ◇


 屋敷へ戻ると、すぐに治療が始まった。


 母上は俺の姿を見た瞬間、顔を真っ青にした。


 マルタも驚き、急いで清潔な布と薬を用意した。


 領地にいる治療師が呼ばれ、俺の脇腹を診察した。


「……傷は深いですが、幸い、致命的な部分には達していません」


 治療師の言葉に、母上が大きく息を吐いた。


「……よかった……」


 しかし、治療師は続けた。


「ただし、傷口の一部に熱による損傷があります。これは……?」


 俺は目を逸らした。


「……自分で……火魔法を……」


「……何ですって?」


 母上の声が低くなった。


 ……あ。


 これはまずい。


 父上も腕を組んだ。


「……レオン」


「……はい」


「……後で、詳しく話を聞こうか」


「……はい……」


 俺は小さくなった。


 治療師は慎重に傷を処置し、回復魔法を使って損傷した組織の修復を助けた。


 完全に治るまでには、まだ時間が必要らしい。


 両拳の火傷も治療された。


 そして、俺には数日間の安静が言い渡された。


 ……オメガの修理も、しばらくお休みか。


 ちょっと残念だけど。


 今回は、仕方がない。


     ◇


 夜。


 俺は自分のベッドに横になっていた。


 脇腹には包帯が巻かれ、両手にも薄い薬布が当てられている。


 窓の外には、静かな月明かり。


 部屋の中には、小さなランプが灯っていた。


「……はぁ」


 俺は天井を見つめた。


 今日は、本当に大変だった。


 岩刃熊。


 紅蓮撃。


 そして、リナの涙。


 ……まさか、こんな一日になるなんて。


『レオンハルト様』


 アリアの声が響いた。


「……何?」


『本日の戦闘記録を整理しました』


「……もう?」


『はい。新たに使用された複合魔法について、興味深い結果が得られています』


 俺は少しだけ顔を上げた。


「……紅蓮撃のこと?」


『はい。火属性魔法を拳の周囲に集中させ、風属性魔法で熱と衝撃の方向を制御する技術です』


「……うん」


『理論上、魔導甲冑の近接戦闘機構へ応用できる可能性があります』


 俺は目を見開いた。


「……オメガに?」


『はい。ただし、現在の機体構造では、同等の出力に耐えられないと推定されます』


「……そっか」


 俺は小さく笑った。


 でも。


 可能性があるなら、試してみたい。


 もちろん、今すぐじゃない。


 ちゃんと体を治してからだ。


「……アリア」


『はい』


「……今日の俺、少しは強くなれたかな」


 少しの沈黙。


 そして、アリアが答えた。


『魔法制御技術には、明確な進歩が確認されました』


「……そっか」


『ですが』


 アリアの声が、少しだけ柔らかくなったように感じた。


『本日、あなたが得たものは、それだけではないと思われます』


「……え?」


『リナ様との関係にも、変化が生じています』


 俺は目を丸くした。


 そして、思わず笑ってしまった。


「……そうだね」


 リナ。


 あの強がりで、いつも怒っている狐の女の子。


 今日、初めて俺の前で泣いた。


 そして、俺のことを心配してくれた。


 ……少しは、信じてもらえたのかな。


 そんなことを考えていると。


 コンコン。


 扉を叩く音が聞こえた。


「……誰?」


 少しの沈黙。


 そして。


「……あたし」


 聞き慣れた声だった。


 俺は目を見開いた。


「……リナ?」


     ◇


 扉が、ゆっくりと開いた。


 リナが立っていた。


 白い寝間着を着て、赤茶色の髪を下ろしている。


 狐耳は、いつもより少し下がっていた。


 手には、小さな籠を持っている。


「……入っていいか?」


 俺は驚いた。


 リナが、自分から許可を求めてきた。


「……もちろん」


 彼女は静かに部屋へ入った。


 そして、ベッドの横にある椅子へ座った。


「……これ」


 小さな籠を差し出す。


 中には、焼き菓子が入っていた。


「……マルタが、持ってけって」


「……そっか」


 俺は笑った。


「ありがとう」


 リナは顔を背けた。


「……別に」


 しばらく沈黙が続いた。


 俺は彼女を見つめた。


 リナは膝の上で、両手を握りしめている。


 何か言いたそうだった。


「……リナ?」


「……何だよ」


「……どうしたの?」


 彼女は唇を噛んだ。


 そして、小さく呟いた。


「……まだ、痛いか?」


 俺は少し驚いた。


「……うん。ちょっとね」


 リナの耳が下がった。


「……そっか……」


 俺は慌てて続けた。


「でも、ちゃんと治療してもらったから大丈夫だよ」


「……本当か?」


「うん」


 リナはしばらく俺を見つめていた。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……ごめん」


 俺は目を丸くした。


「……え?」


「……今日のこと……」


 彼女は俯いた。


「……勝手についていって……」


 声が震えていた。


「……お前に、怪我させて……」


 俺は静かに首を振った。


「……リナ」


「……何だよ……」


「……もう、謝らなくていいよ」


 リナが顔を上げた。


「……でも……!」


「……俺も、無茶しちゃったから」


 俺は小さく笑った。


「……父上にも、すごく怒られたし」


 リナは少し驚いた。


「……怒られたのか?」


「うん。めちゃくちゃ」


 俺が苦笑すると、リナの口元が少しだけ緩んだ。


「……ふっ」


 小さな笑い声。


 けれど、すぐに真剣な表情へ戻った。


「……なあ」


「……ん?」


「……もう、あたしのために怪我するなよ」


 俺は目を見開いた。


 リナは俯いたまま続けた。


「……あたし……あんなの、もう見たくない……」


 その声は、少し震えていた。


 俺は静かに頷いた。


「……うん」


 そして、彼女を見つめた。


「……約束する。もっと気をつけるよ」


 リナは顔を上げた。


 琥珀色の瞳が、俺を見つめている。


「……絶対だからな」


「……うん」


 俺は笑った。


「……絶対」


 リナは少しだけ安心したように息を吐いた。


 そして、立ち上がった。


「……じゃあ、もう寝る」


「うん。おやすみ」


 彼女は扉へ向かった。


 けれど、途中で足を止めた。


 そして、振り返らずに呟いた。


「……おやすみ、レオン」


 俺は目を見開いた。


 ……え?


 今。


 レオンって。


 初めて、名前を短く呼んでくれた。


「……おやすみ、リナ」


 俺が答えると、彼女は小さく頷いた。


 そして、部屋を出ていった。


 扉が静かに閉まる。


 俺はしばらく、その扉を見つめていた。


 そして。


「……アリア」


『はい』


「……今の、聞いた?」


『はい』


「……レオンって呼んでくれた」


『確認しています』


 俺は思わず笑顔になった。


「……そっか」


 胸の奥が、少し温かくなる。


 痛みはまだある。


 体も疲れている。


 明日から、しばらく安静にしなければならない。


 でも。


 今日の出来事は、きっと忘れないだろう。


 俺は静かに目を閉じた。


 守るために必要なのは、強さだけじゃない。


 自分自身を大切にすること。


 誰かの気持ちを理解すること。


 そして、約束を守ること。


 そのすべてを、今日、少しだけ学んだ気がした。


 いつか、オメガが完成したら。


 今度こそ、誰も傷つけずに守れるようになりたい。


 俺自身も。


 リナも。


 エリスも。


 大切な家族も。


 みんなで笑って帰れるように。


 そんな未来を思い描きながら、俺は眠りについた。


 ――なお、このときの俺はまだ知らなかった。


 岩刃熊が本来の生息域を離れ、屋敷近くの森へ現れた理由を。


 そして、その異変が、ヴァイス領で起こり始めている別の問題につながっていることを。


 けれど、それはもう少し先の話だ。


 今夜だけは、穏やかな眠りを許してほしい。


 何しろ、明日になれば母上からも、たっぷりお説教を受けることになるのだから。

この章を読んでいただき、本当にありがとうございます!


楽しんでいただけたなら幸いです。もしお時間があれば、コメント欄でご感想をお聞かせいただけると嬉しいです。また、もしこの物語が気に入っていただけたら、星評価をいただけると大変励みになります。


お時間とご支援、本当にありがとうございました!

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