表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/36

知らないフリをします

潘巧雲でございます。


逃げるには、まず家の中を覚えなければなりません。

衣服、馬屋、門、それから石秀殿が来る時間。

ですが、調べている顔をしてはいけません。


――今は、何も知らないフリをいたします。

夜になっても、家は静かにならなかった。

昼間ほど人の声はしない。

けれど、その分だけ戸を閉める音や、水を汲む音がよく通る。

炭を動かす小さな音まで、灯りのそばへ寄ってくるようだった。

私は針箱を開け、灯りの前に座っていた。

縫うものはない。

でも、手元に何か置いておきたかった。

何もせずに座っていれば、考えている顔になる。

針を持っていれば、ただの夜なべに見える。

そう見えてほしかった。

迎児は部屋の隅で、いつもより丁寧に、布を畳んでいる。

丁寧すぎて、かえって落ち着かない。

昼の出来事を、まだ引きずっているように見える。

「迎児」

「はい」

返事が少し早い。

私は針に糸を通すふりをする。

灯りが揺れて、糸の先がぼやける。

「楊雄様の替えの衣服は、どこにしまってあるの?」

迎児の手が止まった。

「奥様……?」

「あなたがいない時に困るでしょう。私、この家の物の場所をまだよく知らないもの」

嘘ではない。

ただ、今知りたい理由を全部言っていないだけだ。

迎児はしばらく私を見ていたが、やがて畳みかけの布へ視線を戻した。

「奥の箱でございます。官服は、別に」

「別?」

「濡らしてはならぬものですから」

「普段の上衣は?」

「衣桁の下の箱に。古いものは、右側でございます」

私は頷いた。

頷きながら、針の先で布を押さえる。

奥の箱に替えの衣服。

官服は別。

普段の上衣は、衣桁の下。

古いものは右。

覚えなければ……

そう思ったことまで顔に出ないように、糸の先を指で撚った。

「馬屋は遠いの」

迎児が、今度ははっきり顔を上げた。

「馬屋、でございますか」

「ええ。今日、門先で少し騒がしかったでしょう。馬の声がした気がしたの」

聞きながら、自分の声が少し軽すぎると思った。

けれど、重くしてはいけない。

「奥様は、馬に近づかれません」

「近づかないわ。場所を知らないと思っただけ」

迎児は唇を結んだ。

それでも答える。

「西の裏手でございます。門からは見えにくいところに」

西の裏手。

「馬は何頭いるの」

「楊雄様の馬が一頭。あとは、借りることもございます」

一頭。

女二人で一頭。

迎児は乗れるのか。

そこまで聞けば、不自然になる。

私は針を布に刺す。

縫い目は歪んだが、気にしないことにした。

「門は、夜になると誰が閉めるの」

迎児の顔が、ほんの少し曇る。

「下男の陳小九でございます。けれど、最後に楊雄様が確かめられる日もございます」

「毎日ではないのね」

「はい。お戻りが遅い日は、陳小九だけでございます」

陳小九が、基本夜の門を閉める。

楊雄が見る日と見ない日がある。

私は布を持ち直す。

もうそろそろやめるべきだと思った。

そう思ったのに、口が動く。

「石秀殿は、夜にもいらっしゃるの」

迎児の手が止まった。

今度は一瞬ではなかった。

聞きすぎた……

私は笑った。

何でもないわ、という顔で。

「昨日のように急にお客様が増えると、支度が乱れるでしょう。あなたが困ると思っただけ」

迎児は、すぐには答えない。

畳んでいた布の端を、指で押さえている。

「石秀様は……昼が多うございます。朝早くにお見えになることも。夜は、楊雄様がお連れになる時だけかと」

「そう」

私はそれ以上聞かなかった。

朝と昼。

特に昼が多い。

楊雄と一緒なら夜。

石秀殿がいない時間の方を覚える。

「奥様」

迎児が小さく呼んだ。

「なに」

「何を、なさるおつもりでございますか」

部屋の灯りが揺れた。

外で誰かが歩いたのか、戸の隙間から細い風が入った。

私はすぐには答えなかった。

答えれば、この子は知ってしまう。

知った顔は、隠しにくい。

「今は、知らない方がいいわ」

迎児の目が揺れた。

「あなたを信用していないのではないの」

先に言わなければならないと思った。

「ただ、知っている顔になると困るの」

迎児は黙った。

分からないふりをしようとして、できない顔をしている。

賢い子は、こういう時にかわいそうだ。

私は布を置いた。

「馬屋のことも、衣服のことも、家のことを聞かれたと思いなさい」

「忘れろとは、仰らないのですか」

「忘れられないでしょう」

迎児は小さく頷いた。

「だから、顔に出さないで」

声が少しきつくなった。

迎児が傷ついた顔をする。

それを見て、私はすぐに後悔した。

けれど、ここで優しくしすぎれば、この子は泣く。

泣けば、明日の顔に残る。

石秀殿は、たぶんそれを見る。

「今日は、ここまでにしましょう」

迎児は深く頭を下げた。

「はい」

声が、か細い。

かわいそうだと思った。

けれど、かわいそうで済むなら、私はもう少し楽だった。

その時、外で足音がした。

迎児が顔を上げる。

私は灯りを見るふりをして、耳だけを廊下へ向けた。

下男の歩き方ではない。

少し軽い。

それでいて、ためらいのない足音……

石秀殿だ。

なぜ分かったのか、自分でも嫌だった。

人の足音を覚え始めている。

「義姉さん」

廊下の向こうから声がした。

礼儀正しい声だった。

だから、余計に困る。

迎児が慌てて布をまとめかけた。

その手が少し速い。

駄目よと、私は視線で止めた。

ゆっくりと、何もないように……

迎児は息を呑み、手を緩めた。

「石秀殿」

私は入口の方へ向いたが、あえて立たず、急いで出もしなかった。

奥の女が、夜に男の声へすぐ反応するのはよくない。

変な目で見られるかもしれない。

「兄貴はおいででしょうか」

「奥にいらっしゃると思います」

「左様ですか。遅い時分に失礼いたしました」

それだけなら、奥へ行けばいい。

けれど、石秀殿はすぐには足を動かさなかった。

廊下の向こうから、こちらの灯りを見ている気配がある。

私は針箱へ目を落とした。

「縫い物でございますか」

「はい。少し」

「夜は目を悪くなさいます」

気遣いの言葉だった。

普通なら、礼を言うところだ。

「お気遣い、ありがとうございます」

それ以上は言わない。

石秀殿は、少しだけ沈黙した。

その沈黙が、こちらの部屋の中まで入ってくるようだった。

針箱、布、迎児、灯り。

そして、私の手。

それから、何を見ただろう。

私は布の端を指で押さえた。

慌てて隠すものはない。

隠すものがない顔をする。

「義姉さん」

「はい」

「昼のこと、兄貴にはお伝えしました」

知っている――

私から見たら、ただのチクリ魔にしか感じられない。

「そのようでございますね」

「差し出がましいとは思いましたが、兄貴の家のことですので」

兄貴の家――

言葉は正しい。

正しいから、腹が立つ。

「石秀殿は、義弟でいらっしゃいますから」

私は静かに言った。

「ご心配くださったのでしょう」

石秀殿は少し黙った。

「義姉さんが、困っておいでのようにも見えました」

「困っておりました」

「ならば、なおさら」

「困っている女に必要なのは、見たままを夫へ届けることだけでしょうか」

言ってしまった。

迎児が息を止めたのが分かった。

石秀殿の気配も、少し変わる。

私は続けず、針を布に刺した。

言い過ぎた後は、言い足さない方がいい。

しばらくして、石秀殿が言った。

「……失礼いたしました」

丁寧だった。

悪い人ではない。

本当に、それが一番困る。

「兄貴に用がありましたので、奥へ参ります」

「はい」

足音が離れていく。

私は、完全に消えるまで動かなかった。

迎児も同じだった。

やがて奥の方で、楊雄の声がした。

石秀殿の声も混じる。

何を話しているかまでは分からない。

分からない方がいい。

今は、分からない顔でいるしかない。

迎児が小さく息を吐いた。

「奥様……」

「石秀殿の前で、私の顔を見ないで」

迎児が顔を上げた。

「……はい」

返事までに、少し間があった。

傷ついたのだと思う。

この子は、分からない時ほど私を見る。

怖い時も、困った時も、先に目で聞いてくる。

それを禁じるのは、ひどい。

「ごめんなさい」

「奥様が謝ることでは……」

「あるわ」

私は小さく言った。

「でも、見られるの。あなたが私を見るところまで」

迎児は口を閉じた。

言い返さないでくれたことに、私は少しだけ救われた。

奥から、楊雄の笑い声がする。

大きくはなかった。

でも、機嫌が直ったような笑いでもない。

男同士で何かを確かめ合う時の声だ。

私は針箱を閉じた。

馬屋を知らないふり。

門の閉まる時刻を知らないふり。

官服の箱の留め具を見ていないふり。

何も決めていないふり。

知らないふりは、弱さではない。

今の私に使える、数少ない道具だ。

灯りが小さく揺れた。

壁に映った影も揺れる。

まだ道はない。

けれど、西の裏手に馬屋がある。

奥の箱に官服がある。

門は陳小九が閉める。

石秀殿は、夜にはあまり来ない。

今日は、それだけでいい。

逃げるために覚えたことを、逃げる顔で持っていてはいけない。

私は針箱をしまい、迎児に言った。

「明日は、いつも通りにして」

迎児は頷いた。

「いつも通り、でございますね」

「ええ」

いつも通り――

その言葉ほど難しいものは、今はなかった。

それでも、やるしかない。

石秀殿に見られないように。

楊雄に疑われないように。

迎児を壊さないように。


――知らないフリをして、私はこの家を覚える。

迎児でございます。


奥様は、私に何も知らない顔をするよう仰いました。

ですが、馬屋も、官服も、門のことも、しっかり覚えておいでです。


石秀様に見つからぬよう、私も知らないフリをいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ