見たそうです
潘巧雲でございます。
来てほしくない方が来た後は、 見てほしくない方が見ております。
石秀殿は、嘘をつく方ではないのでしょう。
――それが一番、厄介です。
楊雄が戻ったのは、日が落ちる少し前だった。
足音で分かった。
昨日とは違う。
機嫌よく門をくぐる音ではない。
酔っているわけでもない。
けれど、まっすぐでもなかった。
何かを持って帰ってきた足音だ。
私は部屋の中で、手を止める。
迎児も気づいたのだろう。
水差しを置く音が、いつもより小さかった。
「奥様……」
「いいわ。下がっていて」
迎児は返事をしなかった。
返事をしないことで、嫌だと言っていた。
けれど、この家では迎児が前に出るほど危ない。
私は目だけで促す。
迎児は唇を結び、奥へ下がった。
すぐに廊下の向こうから、楊雄の声がする。
「巧雲」
家に入ってくるなり、自分の名前を呼ばれる。
妻の名を呼ぶ声ではなかった。
逃げるなと言う時の声だ。
私は立ち上がり、衣を整えた。
整えたところで何が変わるわけでもない。
それでも、崩れた姿で前に出たくなかった。
「はい」
部屋の入口に出ると、楊雄が立っていた。
顔は赤くない。
酒の匂いもしない。
その代わり、目の奥が冷たい。
怒っているのではない。
怒る前の顔だった。
「今日、寺の者が来たそうだな」
そうだな――
もう、誰かから聞いている言い方だった。
「はい。裴如海様が参りました」
「名まで分かっているのか」
言葉の先が、少しだけ尖った。
私は一度、息を整えた。
「前に寺でお会いしましたので」
「会ったのか」
「亡き前夫の供養の場でございます」
楊雄は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、こちらの言葉がまっすぐ受け取られていないことが分かる。
私は続けた。
「以前、直接お声を掛けられました。その時点で、今後は寺の年長の方を通すよう申し上げてあります」
「だが、今日も来た」
「はい」
「お前に会いに」
「供養の件と申しておりました。私は、家へ来ないよう改めて申し上げました」
楊雄は私を見ていた。
話を聞いている目ではない。
どこにほころびがあるかを探す目だ。
「袖を取られたそうだな」
来た――
私は、胸の奥が小さく沈むのを感じた。
石秀だ。
見られたのだ。
あるいは、全てを見たと思ったのだ。
そして、それはもう楊雄に届いている。
「取られました」
隠しても仕方がない。
「私は、触れないでくださいと申しました」
「石秀が見た」
楊雄の声が低くなった。
「そうですか」
「そうですか、ではない」
「では、何と申し上げればよろしいのでしょう」
口に出した瞬間、言いすぎたと分かった。
だが、戻せない。
楊雄の眉がわずかに動く。
「お前は、最近よく口が立つ」
「事実を申し上げております」
「事実か」
楊雄は短く笑った。
笑い声ではなかった。
刀の鞘を鳴らしたような音だった。
「寺の僧が、夫の留守に家まで来る。お前は門先へ出る。袖を取られる。石秀がそれを見る」
ひとつひとつ並べられると、形だけが残る。
私が拒んだことも。
迎児を下がらせたことも。
夫の名で寺へ申し入れると言ったことも。
そういった中身は、全部削られる。
「その場に迎児も、下男もおりました」
「下男に何が分かる」
「迎児は見ております」
「迎児はお前の下女だ」
分かっていた答えだった。
それでも、実際に聞くと冷えた。
迎児の言葉は、最初から使えないものにされる。
私のそばにいるから……
私を庇うだろうから……
下女だから……
つまり、この家で私に近い者の言葉ほど軽くなる。
「石秀は嘘をつく男ではない」
楊雄が言った。
私は、思わず楊雄を見た。
嘘――
たしかに、石秀は嘘をついていないのかもしれない。
袖を取られたところを見た。
僧が頭を下げて去ったところを見た。
門先で私が話しているところを見た。
それだけなら、嘘ではない。
けれど、全部ではない。
「石秀殿が嘘をついたとは申しておりません」
「ならば何だ」
「見えたものと、起きたことは違います」
楊雄の目が細くなった。
「言い訳か」
来た――
やはり、そこへ戻る。
説明すれば、言い訳になる。
黙れば、後ろめたさになる。
謝れば、落ち度になる。
私は前にそれを知った。
知ったのに、また同じ場所へ立たされている。
「言い訳ではございません。裴如海様には、二度と家へ来ないよう申し上げました」
「なぜ、二度も言う必要がある」
「一度で通じなかったからです」
「なぜ、一度で通じない」
「それは私に聞かれても困ります」
楊雄の顔に、はっきり不快が浮かんだ。
妻の答えとしては、正しくないのだろう。
けれど、問いそのものが間違っている。
裴如海が来た理由を、なぜ私が責められなければならないのか。
「お前の振る舞いに、何かあったのではないか」
「ございません」
「僧が理由もなく、嫁いだ女の家へ来るか」
「来たから、困っております」
楊雄は黙った。
今度の沈黙は、少し長かった。
私はその間に、部屋の端を見た。
衣桁に、楊雄の古い上衣が掛かっている。
その奥に、外出用の官服をしまう箱がある。
位置を確認する。
なぜ今、それを見るのか。
それは、自分でも分かっていた。
夫が、私の説明だけを信じていないからだ。
楊雄が呟くように言う。
「石秀は、お前を案じて知らせたのだ」
案じて――
便利な言葉だ。
裴如海も慰めと言った。
潘公は心配と言った。
楊雄は案じてと言う。
どれも私のためのような顔をして、私の上に置かれる。
「ありがたいことでございます」
私はそう言った。
本当にありがたいと思っていないことは、たぶん声で伝わった。
「その言い方は何だ」
「石秀殿が見たことを、兄上であるあなたへお伝えになった。それが義弟としての務めなら、私から申し上げることはございません」
楊雄の目つきが変わった。
「石秀を悪く言う気か」
「いいえ」
「ならば何だ」
「私は、触られた側です」
初めて、言葉が強くなった。
「袖を取ったのは裴如海様です。家へ来たのも裴如海様です。私は断りました。それでも、今こうして私が問われております」
楊雄は私を見下ろした。
背が高いわけではない。
けれど、この家ではいつも上から来る。
「問われるだけのことがあったからだ」
その一言で、胸の奥が静かになった。
怒りではない。
諦めでもない。
もっと冷たいものだった。
そうか――
この人は、最初から私を守る場所には立っていない。
妻が門先で袖を取られた。
それを聞いて、まず心配するのではない。
誰が悪いかを決める前に、妻の振る舞いを疑う。
それが夫だというなら、この夫はやはり駄目だ。
「承知いたしました」
私が言うと、楊雄は眉を寄せる。
「何を承知した」
「今後は、より気をつけます」
「何に気をつける」
これも、分かっていた返しだった。
「やましいことがないなら、気をつけることなどあるまい」
私は、もう答えなかった。
答えれば、また揚げ足を取られる。
楊雄はしばらく私を見ていたが、やがて鼻を鳴らした。
「しばらく寺へは行くな」
「はい」
「門先へも不用意に出るな」
「はい」
「石秀が来たら、きちんと礼を尽くせ。あいつは俺のためを思って言ったのだ」
「はい」
それだけ答えた。
楊雄はまだ何か言いたそうだったが、結局それ以上は言わなかった。
奥へ行く背を、私は黙って見送る。
廊下に、少し遅れて迎児が姿を見せた。
「奥様」
顔が暗い。
影で聞いていたのだろう。
聞かせたくないものを、聞かせてしまった。
「大丈夫」
今度は、嘘だと分かっていて言った。
迎児は首を横に振りかけて、途中で止める。
この子は賢い。
ここで泣けば、私が困ると分かっている。
「お茶を」
「いいえ。少し、一人にして」
迎児は深く頭を下げて、下がった。
一人になると、部屋の中の音が変わる。
さっきまでの問答が、壁に薄く残っているようだった。
寺のこと。
掴まれた袖のこと。
石秀のこと。
私の言葉より、石秀の見たものの方が大事なこと。
私はゆっくり座った。
まだ逃げるとは言っていない。
迎児にも言っていない。
でも、もう考えないわけにはいかない。
説明はした。
でも、届かなかった。
なら、次に見るべきものは言葉ではない。
衣服、金、刃物、馬、門。
まず、場所を覚えなければならない。
私は部屋を見回した。
楊雄の官服をしまう箱。
普段使わない男物の帯。
壁に立てかけられた朴刀。
奥の棚に置かれた小さな銭箱。
鍵の位置。
ひとつずつ、目に入れる。
すぐに持ち出せるか。
音を立てるか。
迎児が扱える重さか。
夜に取りに来られるか。
考えると、頭が少しだけ動き出した。
怖い時ほど、手順が要る。
それは現代でも同じだった。
役員が怒鳴っても、会議が飛んでも、資料が消えても、まず確認する。
誰がいるか。
何が足りないか。
どの順番で動かすか。
今も同じだ。
違うのは、失敗した時に怒られるだけでは済まないこと。
私は立ち上がり、何気ない顔で箱の前を通った。
蓋の留め具を見た。
鍵は掛かっていない。
中身はまだ確認できない。
次に、壁の朴刀を見た。
長い――
重たそうだ。
私が振り回せるものではない。
けれど、持っているだけなら意味はある。
女二人より、官服を着た若い男二人に見えた方がいい。
そこまで考えて、息が止まった。
私はもう、迎児を連れて逃げることを考えている。
迎児を置いていくという選択は、最初から頭に浮かばなかった。
あの子が私を庇おうとすれば、嘘をついたと言われる。
私がいなくなれば、何を知っていたと責められる。
裴如海も、楊雄も、石秀も、迎児をただの下女として扱うだろう。
だから連れて行く。
行き先はまだない。
馬の場所も、町の外へ出る道も知らない。
それでも、知らないままではいられない。
夜になったら、迎児に聞く。
馬屋はどこか。
門は誰が閉めるか。
楊雄の替えの衣服は別にあるか。
女が触っても不自然でない金はあるか。
聞き方を間違えてはいけない。
逃げると悟らせるのではなく、家の用向きとして聞く。
迎児の顔に出させないためにも、少しずつ……
ふと、袖を見た。
裴如海に取られた場所だ。
袖に跡など残っていない。
当然だ。
ほんの一瞬、指が掛かっただけなのだから。
それなのに、私はそこを払った。
一度か二度――
袖は何も答えない。
門先の足跡は消える。
袖の感触も、そのうち消える。
けれど、石秀が見たものは、もう私の手では消せない。
楊雄の中にも置かれてしまった。
見たそうです――
たったそれだけで、私の言葉は後ろへ追いやられる。
私は、官服の箱をもう一度見る。
説明が届かないなら、届く場所まで逃げるしかない。
その時、廊下の向こうで迎児の足音がした。
軽く、ためらう足音。
私は顔を上げた。
まだ言わない。
でも、必ず言う。
その時は、命令ではなく、お願いでもなく、事実として告げる。
ここを出ます。
あなたも来なさい。
そこまで考えて、初めて少しだけ息ができた。
怖さは消えない。
疑いも消えない。
石秀の目も、楊雄の声も残っている。
けれど、次に数えるものは決まった。
言葉ではない。
逃げるために使えるものだ。
迎児でございます。
奥様は、まだ何も仰いません。
ですが、官服の箱も、朴刀も、門の方も見ておられました。
何をお考えかは聞きません。
――置いていかれないことだけは、分かりました。




