表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/36

また、来たの?

潘巧雲でございます。


昨日、家には石秀殿の席が増えました。

今日は寺へ出かけず、静かに過ごすつもりでした。

けれど、来る人は来ます。

お断りしたはずの方。

来てほしくない方。

そして、それを見ている方。


何もしていないのに危ない、ということがあるようです。

石秀という席が増えた翌日、家の中は何事もなかったように動いていた。

朝になれば水を汲む音がする。

台所から湯気が立つ。

迎児が廊下を急ぎ、楊雄は支度を済ませて出ていく。

昨日、あの家に他人の椅子が一つ増えたことなど、誰も気にしていないようだった。

気にしているのは私だけだ。

そういう時、自分の方が間違っているのではないかと思いそうになる。

夫が良い男だと言った。

迎児も良い方のようだと言った。

石秀本人も、礼を失してはいない。

なら、嫌がる私の心が狭いのか。

そう考えかけて、やめた。

狭くて結構だ。

私の部屋は、もともと狭い。

その狭い場所へ、勝手に人を入れられたくないと思うくらいは許されてもいい。

「奥様、本日はお寺へは」

迎児が衣を畳みながら言った。

私は少し手を止めた。

「行かないわ」

「はい」

迎児はすぐに頷いた。

理由を聞かなかった。

助かった……

寺へ行きたくない。

それだけなら、まだ簡単だ。

問題は、寺へ行かなくても寺の方から来るかもしれない、ということだった。

裴如海――

昨日までなら、ただ失礼な坊主で済んだ。

若い女に、寂しさだの慰めだのと口にする、距離の取り方を知らない男。

けれど今は違う。

楊雄には石秀がいる。

石秀は人を見る。

こちらの言葉を受け取って、置き場所を決める目をしていた。

見られたくない。

私がどれだけ裴如海を拒んでいても、場面だけを切り取られれば別の話になる。

寺の僧。

亡き夫の供養。

若い妻。

夫ではない男。

嫌な材料だけは、最初から揃っている。

「迎児」

「はい」

「今日は、なるべく門の近くへ一人で行かないで」

迎児の指が、布の端で止まった。

「……何か、ございましたか」

「まだ何も」

まだ、という言葉に、自分で嫌な重さを感じた。

迎児はそれ以上聞かなかった。

ただ、ほんの少しだけ顔を強張らせた。

この子も分かっている。

何かある時は、先に空気が変わる。

音がする前に、家の中のどこかが冷える。

午前のうちは何も起きなかった。

昼を過ぎても、楊雄は戻らなかった。

石秀も来なかった。

そのまま日が傾けば、今日は無事に終わるのではないかと思った。

でも、甘かった。

門の外で、微かに声がした。

「こちらに、奥方様は」

私は部屋の中にいた。

声だけで分かった。

裴如海だ。

迎児が立ち上がる音がした。

私はその音を聞き、廊下へ出た。

「迎児、下がって」

迎児が振り返る。

目が揺れていた。

「ですが」

「いいから」

強く言いすぎたかもしれない。

迎児は唇を結び、半歩下がった。

門のところに、下男が困った顔で立っていた。

その向こうに裴如海がいる。

僧衣は整っている。

顔も穏やかだ。

けれど、その穏やかさが気に入らなかった。

人の家の門前に来て、困らせている自覚のない顔だった。

「奥方様」

裴如海は、私を見ると少しだけ頭を下げた。

「本日は、お寺へお見えになりませんでしたので」

「だから、家まで来たのですか」

笑わずに聞いた。

裴如海の表情が一瞬だけ固まった。

すぐに柔らかい顔へ戻る。

「いえ、御供養の件で、念のためお伝えしたいことが……」

「供養のことは、寺の年長の方を通してくださいと申し上げたはずです」

「ええ。ですが、急ぎのことでしたので」

急ぎ――

便利な言葉だ。

急ぎと言えば、相手の拒絶を越えてよいと思っている。

「では、その急ぎの件を、そこにいる者へ伝えてください。私は奥へ戻ります」

「奥方様」

裴如海の声が少し近くなった。

門を越えたわけではない。

だが、近づこうとする気配があった。

下男が困っている。

迎児は息を止めている。

誰も、はっきり止められない。

結局、私が言うしかない。

「裴如海様」

名前を呼ぶと、彼は少し嬉しそうな顔をした。

その顔で、もう駄目だった。

「直接お話しすることはございません」

はっきりと拒絶したつもりだった。

裴如海の目が、柔らかさを残したまま細くなる。

「そのように、私を避けられずとも……」

「避けております」

今度は、彼が黙った。

「分かりにくかったなら、私の言い方が悪うございました。私は、あなたと二人で話すつもりはありません。文も不要です。言伝も不要です。家へ来ることも、おやめください」

下男が気まずそうに目を伏せた。

迎児の肩が小さく震える。

裴如海は、少しだけ笑った。

「奥方様は、ずいぶんご自分を頑なに守られる」

「守らなければならないからです」

「私が、何か害をなすとでも」

「害をなす方は、たいてい最初にそうおっしゃいます」

言った瞬間、風が吹いた。

しまった、とは思わなかった。

ただ、これは言いすぎではなく、言ってしまった後が面倒な言葉だとは分かった。

裴如海の顔から、笑みが消える。

「……そこまで申されますか」

「申します」

私は門の内側で立ったまま、さらに畳み掛けるように続けた。

「亡き前夫の供養に、あなたの慰めは要りません。今の夫の留守に、若い僧が門前へ来ることも迷惑です。迎児へ声をかけることも、おやめください」

「迎児殿へは、ただ取り次ぎを」

「おやめください」

言葉を重ねた。

相手に逃げ道を渡すと、そこからまた入ってくる。

「今後、同じことがあれば、寺へ申し入れます。私ではなく、夫の名で」

本当は楊雄の名など使いたくない。

けれど、この場では効く。

裴如海の顔が、はっきり変わった。

私個人の拒絶より、夫の名の方が重い。

それがこの世界だ。

腹立たしいが、使えるものは使う。

「それほどまでに、私を悪し様に」

裴如海の唇がわずかに動いた。

怒りか、恥か。

どちらでもいい。

「悪し様に申されたくなければ、悪し様に見えることをなさらないでください」

そう言って奥へ戻ろうとした時だった。

「お待ちください」

裴如海が手を伸ばし、私の袖を取った。

強くはない。

けれど、はっきりと止める力だった。

下男が息を呑む。

迎児が小さく声を上げた。

私は、反射的に腕を引いた。

「触れないでください」

声を荒げそうになる。

裴如海は、すぐに手を離した。

だが、一度触れられた。

門先で夫の留守中に。

嫌いな若い僧に。

その形だけが残る。

裴如海は慌てたように頭を下げた。

「失礼をいたしました。決して、そのようなつもりでは」

そのようなつもり――

また便利な言葉だ。

「どのようなつもりであれ、今ので十分です」

私は袖を押さえたまま言った。

「お帰りください」

今度こそ、裴如海は黙った。

そして、深く頭を下げた。

「承知いたしました。奥方様のお心は、よく分かりました」

分かっていない。

分かる男なら、ここへ来ていない。

触れようともしていない。

「では、失礼いたします」

裴如海は背を向けた。

僧衣の裾が、門前の土を擦る。

私は彼が角を曲がるまで見張った。

そこでようやく、息を吐いた。

「奥様」

迎児が駆け寄ってきた。

「大丈夫」

そう言ったが、私の手は少し震えていた。

大丈夫ではない。

今のやり取りは、私の中では拒絶だ。

迎児にも、下男にも、たぶんそう見えた。

けれど、少し離れたところから見ればどうか?

若い僧が家を訪ねてきた。

妻が門先へ出た。

しばらく言葉を交わした。

僧が手を伸ばした。

妻が腕を引いた。

僧は頭を下げて去った。

それだけなら、いくらでも別の意味をつけられる。

「奥様、あの……」

迎児が何か言いかけた。

その時、道の向こうに人影が見えた。

石秀だった。

私は動けなかった。

石秀は荷を担いでいた。

おそらく潘公の店の用事だろう。

こちらへ近づいてくる足は、急いではいない。

けれど、その目はこちらを見ていた。

どこから見ていた――

裴如海が来たところからか。

私が拒んだところからか。

袖を取られたところからか。

それとも、僧が頭を下げて帰るところだけか。

石秀は門の前まで来ると、いつものように丁寧に頭を下げた。

「義姉さん」

私は返事をするまで、一拍遅れた。

「石秀殿」

「今のは、寺の御僧でしたか」

声は穏やかだった。

問い詰める響きはない。

それが嫌だった。

問い詰めてくれた方が、まだ返せる。

穏やかな問いは、答えた後でどこへ置かれるか分からない。

「亡き前夫の供養の件だそうです」

嘘ではない。

裴如海がそう言って来たのは事実だ。

だが、事実をそのまま言っても、真実になるとは限らない。

石秀は頷いた。

「左様でしたか」

それだけだった。

それだけで、何を納めたのか分からない。

「兄貴は、まだお戻りでは?」

「ええ」

「では、また後ほど伺います」

石秀はそれ以上聞かなかった。

門の前で立ち止まりすぎることもなく、荷を担ぎ直して去っていく。

背中が遠ざかる。

私は、今度こそ寒気を覚えた。

裴如海よりも、石秀の沈黙の方が怖かった。

「奥様……」

迎児の声が震えていた。

この子も見たのだ。

石秀の目を。

あの、受け取って置き場所を決める目を。

「何もしていないわ」

自分に言い聞かせるように言った。

迎児が頷く。

「はい。奥様は、何も」

そこで言葉が切れた。

何もしていない。

何もしていないのに、危ない。

この世界では、それが通らない。

女が門先に立っただけで、話になる。

男が頭を下げただけで、意味が生まれる。

その場にいた者の言葉より、あとから語る者の声の方が大きくなる。

私は門の外を見た。

裴如海はもういない。

石秀もいない。

道には、何事もなかったように人が通っている。

何事もなかった。

そう言えるのは、今だけかもしれない。

「迎児」

「はい」

「さっきのことを、誰かに聞かれたら」

迎児の顔が青くなった。

「私は、見たまま申し上げます。奥様は、きちんとお断りに」

「いいえ」

私は首を横に振った。

「無理に庇わなくていい」

迎児が目を見開いた。

「でも」

「あなたが私を庇って、嘘をついたと言われたら困るでしょう」

「嘘ではございません」

「それでも」

この家では、正しさだけでは足りない。

誰が言ったか。

誰の言葉が重いか。

それで、同じ出来事の形が変わる。

迎児の言葉は軽い。

私の言葉も、たぶん軽い。

石秀の言葉だけ、きっと重くなる。

楊雄が信じれば、なおさらだ。

「見たことだけを言いなさい。余計なことは言わないで」

迎児は悔しそうに唇を噛んだ。

「……はい」

その顔を見て、胸が痛んだ。

この子は、私を助けようとしてくれている。

けれど私は、その助け方まで止めなければならない。

迎児まで巻き込まれたら、逃げる道がさらに細くなる。

部屋へ戻っても、落ち着かなかった。

裴如海の声が残っている。

石秀の目も残っている。

袖を取られた感触も消えない。

門前の土の色まで、やけに鮮明に思い出せた。

私は机の前に座り、手を握った。

拒んだ――

はっきり拒んだ。

二度と来るなと言った。

それなのに、胸の奥には断り切れた感覚がなかった。

むしろ、何かを始めてしまった気がした。

悪いのは裴如海だ。

約束を破って、家まで来た。

私が責められる筋合いはない。

だが、筋合いなど、この家では誰が気にする。

楊雄がどう受け取るか。

石秀がどう言うか。

裴如海が次に何をするか。

私の知らないところで、話は勝手に動く。

その中に、私の言葉は入らないかもしれない。

窓の外で、風が少し鳴った。

私は顔を上げた。

遠くへ行く道を、まだ知らない。

馬の場所も、金のありかも、夜に門を抜ける手順も分からない。

けれど、覚えなければならない。

寺には行かない。

父の家にも頼れない。

夫には話せない。

石秀には見られた。

なら、次に必要なのは説明ではない。

準備だ。

私は迎児を呼ぼうとして、やめた。

今すぐ口に出せば、この子の顔に出る。

まだ早い――

でも、もう遅くはできない。

門先に残った足跡は、夕方には消えるだろう。

けれど、石秀の目に入ったものは消えない。

私はそのことだけを、はっきり覚えた。

また来たの――

そう思った相手は、裴如海だけではなかった。

面倒なものは、一度閉めても別の戸口から入ってくる。

そして今度は、見ている男までついてきた。

迎児でございます。


奥様は、きちんとお断りしておりました。

私も、それを見ております。

ですが、石秀様が見たのは、きっと別のところです。


――見たことが同じでも、話は同じにはならないようです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ