また、来たの?
潘巧雲でございます。
昨日、家には石秀殿の席が増えました。
今日は寺へ出かけず、静かに過ごすつもりでした。
けれど、来る人は来ます。
お断りしたはずの方。
来てほしくない方。
そして、それを見ている方。
何もしていないのに危ない、ということがあるようです。
石秀という席が増えた翌日、家の中は何事もなかったように動いていた。
朝になれば水を汲む音がする。
台所から湯気が立つ。
迎児が廊下を急ぎ、楊雄は支度を済ませて出ていく。
昨日、あの家に他人の椅子が一つ増えたことなど、誰も気にしていないようだった。
気にしているのは私だけだ。
そういう時、自分の方が間違っているのではないかと思いそうになる。
夫が良い男だと言った。
迎児も良い方のようだと言った。
石秀本人も、礼を失してはいない。
なら、嫌がる私の心が狭いのか。
そう考えかけて、やめた。
狭くて結構だ。
私の部屋は、もともと狭い。
その狭い場所へ、勝手に人を入れられたくないと思うくらいは許されてもいい。
「奥様、本日はお寺へは」
迎児が衣を畳みながら言った。
私は少し手を止めた。
「行かないわ」
「はい」
迎児はすぐに頷いた。
理由を聞かなかった。
助かった……
寺へ行きたくない。
それだけなら、まだ簡単だ。
問題は、寺へ行かなくても寺の方から来るかもしれない、ということだった。
裴如海――
昨日までなら、ただ失礼な坊主で済んだ。
若い女に、寂しさだの慰めだのと口にする、距離の取り方を知らない男。
けれど今は違う。
楊雄には石秀がいる。
石秀は人を見る。
こちらの言葉を受け取って、置き場所を決める目をしていた。
見られたくない。
私がどれだけ裴如海を拒んでいても、場面だけを切り取られれば別の話になる。
寺の僧。
亡き夫の供養。
若い妻。
夫ではない男。
嫌な材料だけは、最初から揃っている。
「迎児」
「はい」
「今日は、なるべく門の近くへ一人で行かないで」
迎児の指が、布の端で止まった。
「……何か、ございましたか」
「まだ何も」
まだ、という言葉に、自分で嫌な重さを感じた。
迎児はそれ以上聞かなかった。
ただ、ほんの少しだけ顔を強張らせた。
この子も分かっている。
何かある時は、先に空気が変わる。
音がする前に、家の中のどこかが冷える。
午前のうちは何も起きなかった。
昼を過ぎても、楊雄は戻らなかった。
石秀も来なかった。
そのまま日が傾けば、今日は無事に終わるのではないかと思った。
でも、甘かった。
門の外で、微かに声がした。
「こちらに、奥方様は」
私は部屋の中にいた。
声だけで分かった。
裴如海だ。
迎児が立ち上がる音がした。
私はその音を聞き、廊下へ出た。
「迎児、下がって」
迎児が振り返る。
目が揺れていた。
「ですが」
「いいから」
強く言いすぎたかもしれない。
迎児は唇を結び、半歩下がった。
門のところに、下男が困った顔で立っていた。
その向こうに裴如海がいる。
僧衣は整っている。
顔も穏やかだ。
けれど、その穏やかさが気に入らなかった。
人の家の門前に来て、困らせている自覚のない顔だった。
「奥方様」
裴如海は、私を見ると少しだけ頭を下げた。
「本日は、お寺へお見えになりませんでしたので」
「だから、家まで来たのですか」
笑わずに聞いた。
裴如海の表情が一瞬だけ固まった。
すぐに柔らかい顔へ戻る。
「いえ、御供養の件で、念のためお伝えしたいことが……」
「供養のことは、寺の年長の方を通してくださいと申し上げたはずです」
「ええ。ですが、急ぎのことでしたので」
急ぎ――
便利な言葉だ。
急ぎと言えば、相手の拒絶を越えてよいと思っている。
「では、その急ぎの件を、そこにいる者へ伝えてください。私は奥へ戻ります」
「奥方様」
裴如海の声が少し近くなった。
門を越えたわけではない。
だが、近づこうとする気配があった。
下男が困っている。
迎児は息を止めている。
誰も、はっきり止められない。
結局、私が言うしかない。
「裴如海様」
名前を呼ぶと、彼は少し嬉しそうな顔をした。
その顔で、もう駄目だった。
「直接お話しすることはございません」
はっきりと拒絶したつもりだった。
裴如海の目が、柔らかさを残したまま細くなる。
「そのように、私を避けられずとも……」
「避けております」
今度は、彼が黙った。
「分かりにくかったなら、私の言い方が悪うございました。私は、あなたと二人で話すつもりはありません。文も不要です。言伝も不要です。家へ来ることも、おやめください」
下男が気まずそうに目を伏せた。
迎児の肩が小さく震える。
裴如海は、少しだけ笑った。
「奥方様は、ずいぶんご自分を頑なに守られる」
「守らなければならないからです」
「私が、何か害をなすとでも」
「害をなす方は、たいてい最初にそうおっしゃいます」
言った瞬間、風が吹いた。
しまった、とは思わなかった。
ただ、これは言いすぎではなく、言ってしまった後が面倒な言葉だとは分かった。
裴如海の顔から、笑みが消える。
「……そこまで申されますか」
「申します」
私は門の内側で立ったまま、さらに畳み掛けるように続けた。
「亡き前夫の供養に、あなたの慰めは要りません。今の夫の留守に、若い僧が門前へ来ることも迷惑です。迎児へ声をかけることも、おやめください」
「迎児殿へは、ただ取り次ぎを」
「おやめください」
言葉を重ねた。
相手に逃げ道を渡すと、そこからまた入ってくる。
「今後、同じことがあれば、寺へ申し入れます。私ではなく、夫の名で」
本当は楊雄の名など使いたくない。
けれど、この場では効く。
裴如海の顔が、はっきり変わった。
私個人の拒絶より、夫の名の方が重い。
それがこの世界だ。
腹立たしいが、使えるものは使う。
「それほどまでに、私を悪し様に」
裴如海の唇がわずかに動いた。
怒りか、恥か。
どちらでもいい。
「悪し様に申されたくなければ、悪し様に見えることをなさらないでください」
そう言って奥へ戻ろうとした時だった。
「お待ちください」
裴如海が手を伸ばし、私の袖を取った。
強くはない。
けれど、はっきりと止める力だった。
下男が息を呑む。
迎児が小さく声を上げた。
私は、反射的に腕を引いた。
「触れないでください」
声を荒げそうになる。
裴如海は、すぐに手を離した。
だが、一度触れられた。
門先で夫の留守中に。
嫌いな若い僧に。
その形だけが残る。
裴如海は慌てたように頭を下げた。
「失礼をいたしました。決して、そのようなつもりでは」
そのようなつもり――
また便利な言葉だ。
「どのようなつもりであれ、今ので十分です」
私は袖を押さえたまま言った。
「お帰りください」
今度こそ、裴如海は黙った。
そして、深く頭を下げた。
「承知いたしました。奥方様のお心は、よく分かりました」
分かっていない。
分かる男なら、ここへ来ていない。
触れようともしていない。
「では、失礼いたします」
裴如海は背を向けた。
僧衣の裾が、門前の土を擦る。
私は彼が角を曲がるまで見張った。
そこでようやく、息を吐いた。
「奥様」
迎児が駆け寄ってきた。
「大丈夫」
そう言ったが、私の手は少し震えていた。
大丈夫ではない。
今のやり取りは、私の中では拒絶だ。
迎児にも、下男にも、たぶんそう見えた。
けれど、少し離れたところから見ればどうか?
若い僧が家を訪ねてきた。
妻が門先へ出た。
しばらく言葉を交わした。
僧が手を伸ばした。
妻が腕を引いた。
僧は頭を下げて去った。
それだけなら、いくらでも別の意味をつけられる。
「奥様、あの……」
迎児が何か言いかけた。
その時、道の向こうに人影が見えた。
石秀だった。
私は動けなかった。
石秀は荷を担いでいた。
おそらく潘公の店の用事だろう。
こちらへ近づいてくる足は、急いではいない。
けれど、その目はこちらを見ていた。
どこから見ていた――
裴如海が来たところからか。
私が拒んだところからか。
袖を取られたところからか。
それとも、僧が頭を下げて帰るところだけか。
石秀は門の前まで来ると、いつものように丁寧に頭を下げた。
「義姉さん」
私は返事をするまで、一拍遅れた。
「石秀殿」
「今のは、寺の御僧でしたか」
声は穏やかだった。
問い詰める響きはない。
それが嫌だった。
問い詰めてくれた方が、まだ返せる。
穏やかな問いは、答えた後でどこへ置かれるか分からない。
「亡き前夫の供養の件だそうです」
嘘ではない。
裴如海がそう言って来たのは事実だ。
だが、事実をそのまま言っても、真実になるとは限らない。
石秀は頷いた。
「左様でしたか」
それだけだった。
それだけで、何を納めたのか分からない。
「兄貴は、まだお戻りでは?」
「ええ」
「では、また後ほど伺います」
石秀はそれ以上聞かなかった。
門の前で立ち止まりすぎることもなく、荷を担ぎ直して去っていく。
背中が遠ざかる。
私は、今度こそ寒気を覚えた。
裴如海よりも、石秀の沈黙の方が怖かった。
「奥様……」
迎児の声が震えていた。
この子も見たのだ。
石秀の目を。
あの、受け取って置き場所を決める目を。
「何もしていないわ」
自分に言い聞かせるように言った。
迎児が頷く。
「はい。奥様は、何も」
そこで言葉が切れた。
何もしていない。
何もしていないのに、危ない。
この世界では、それが通らない。
女が門先に立っただけで、話になる。
男が頭を下げただけで、意味が生まれる。
その場にいた者の言葉より、あとから語る者の声の方が大きくなる。
私は門の外を見た。
裴如海はもういない。
石秀もいない。
道には、何事もなかったように人が通っている。
何事もなかった。
そう言えるのは、今だけかもしれない。
「迎児」
「はい」
「さっきのことを、誰かに聞かれたら」
迎児の顔が青くなった。
「私は、見たまま申し上げます。奥様は、きちんとお断りに」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「無理に庇わなくていい」
迎児が目を見開いた。
「でも」
「あなたが私を庇って、嘘をついたと言われたら困るでしょう」
「嘘ではございません」
「それでも」
この家では、正しさだけでは足りない。
誰が言ったか。
誰の言葉が重いか。
それで、同じ出来事の形が変わる。
迎児の言葉は軽い。
私の言葉も、たぶん軽い。
石秀の言葉だけ、きっと重くなる。
楊雄が信じれば、なおさらだ。
「見たことだけを言いなさい。余計なことは言わないで」
迎児は悔しそうに唇を噛んだ。
「……はい」
その顔を見て、胸が痛んだ。
この子は、私を助けようとしてくれている。
けれど私は、その助け方まで止めなければならない。
迎児まで巻き込まれたら、逃げる道がさらに細くなる。
部屋へ戻っても、落ち着かなかった。
裴如海の声が残っている。
石秀の目も残っている。
袖を取られた感触も消えない。
門前の土の色まで、やけに鮮明に思い出せた。
私は机の前に座り、手を握った。
拒んだ――
はっきり拒んだ。
二度と来るなと言った。
それなのに、胸の奥には断り切れた感覚がなかった。
むしろ、何かを始めてしまった気がした。
悪いのは裴如海だ。
約束を破って、家まで来た。
私が責められる筋合いはない。
だが、筋合いなど、この家では誰が気にする。
楊雄がどう受け取るか。
石秀がどう言うか。
裴如海が次に何をするか。
私の知らないところで、話は勝手に動く。
その中に、私の言葉は入らないかもしれない。
窓の外で、風が少し鳴った。
私は顔を上げた。
遠くへ行く道を、まだ知らない。
馬の場所も、金のありかも、夜に門を抜ける手順も分からない。
けれど、覚えなければならない。
寺には行かない。
父の家にも頼れない。
夫には話せない。
石秀には見られた。
なら、次に必要なのは説明ではない。
準備だ。
私は迎児を呼ぼうとして、やめた。
今すぐ口に出せば、この子の顔に出る。
まだ早い――
でも、もう遅くはできない。
門先に残った足跡は、夕方には消えるだろう。
けれど、石秀の目に入ったものは消えない。
私はそのことだけを、はっきり覚えた。
また来たの――
そう思った相手は、裴如海だけではなかった。
面倒なものは、一度閉めても別の戸口から入ってくる。
そして今度は、見ている男までついてきた。
迎児でございます。
奥様は、きちんとお断りしておりました。
私も、それを見ております。
ですが、石秀様が見たのは、きっと別のところです。
――見たことが同じでも、話は同じにはならないようです。




