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柴進様の副官になりました

「迎児、柴進様がいた!」

「はい、よかったですね。巧雲様」

「ちょっと行ってくる!」

「お待ちください。なぜ走るのでございますか?」

「久しぶりに会えたんだから、いいでしょう!」

「現在の速度ですと、再会ではなく衝突になるかと」

「大丈夫よ。柴進様なら受け止めてくれるって!」

「受け止めた後について申し上げております」


何よ……迎児ったら心配性なんだから。

確かに少し勢いはついているけれど、抱きつくくらいなら問題ない。

柴進様に触れれば、空っぽのフェロモンだって少しは戻るかもしれない。

……いや、今はそんなことどうでもいい。

会いたかった。

それだけなんだから。


「では巧雲様、ひとつだけ」

「何?」

「どうか柴進様をお倒しになりませんよう」

「倒すわけないでしょう!」


そう言って、私は地面を蹴った。

数秒後――

迎児の心配が正しかったことを、私は柴進様の上で知ることになる。

柴進様まで、あと一歩。

私は地面を蹴った。

「柴進様!」

「巧雲――うわっ!」

久しぶりに会えたその嬉しさだけで走った結果、自分がどれくらいの勢いになっているのかなんて考えていなかった。

でも、柴進様は受け止めてくれた。

そこまではよかった。

私が胸へ飛び込んだ勢いを受け止めきれず、その身体が後ろへ傾いた。

「あ……」

まずいと思った時には遅かった。

柴進様が仰向けに倒れ、その上へ私まで覆いかぶさる。

咄嗟に両手をついたおかげで顔面衝突だけは避けられた。

「柴進様、大丈夫ですか!?」

「あ、ああ。私は大丈夫だが……」

怪我はないらしい。

安心して顔を上げると、周囲が静まり返っていた。

迎児も、孫二娘も、魯智深様たちも、揃ってこちらを見ている。梁山泊の人たちまで足を止めていた。

何?

私、そんなに派手に転んだ?

自分の身体を見下ろした。

柴進様は仰向け。

その腰を、私はしっかり跨いでいた。

「…………」

誰も何も言わない。

お願いだから何か言って!!

「違います!」

耐えきれず叫ぶと、孫二娘が首を傾げた。

「何がだい?」

「全部です!」

「まだ何も言ってないよォ?」

「その顔で分かります!」

慌てて退こうとしたら、今度は足がもつれた。

倒れかけた私の腕を柴進様が掴む。

「危ない!」

「あ、ありがとうございます……」

その瞬間だった。

身体の奥に、ぽっと熱が灯った。

懐かしい。

いや、別に懐かしくなくていい。

桃花山で全部使い切ってから、どれだけ休んでも戻らなかった感覚だ。

私は柴進様に掴まれた腕を見た。

やっぱり。

「巧雲様?」

迎児が近づいてくる。

「……戻っております」

「何が?」

事情を知らない柴進様だけが首を傾げた。

孫二娘は一発で察したらしい。

「補給できたかい?」

「その言い方やめて!」

すると、魯智深様、楊志様、武松様が揃って一歩下がった。

何で!?

「まだ何も出してませんよ!」

「分かっている!」

「だったら離れないでください!」

「念のためだ!」

楊志様が真顔で言った。

何への念なの。

桃花山でフェロモンを全部ぶっ放した結果、男という男が戦どころではなくなった光景を、この人たちは忘れていないらしい。

私だって忘れたいけれど、自分が原因なのだから忘れられるはずもない。

「巧雲、いったい何の話だ?」

柴進様に聞かれた。

「それは、その……後で説明します」

できれば説明したくない。

あなたに触ると補充されます、なんて本人へどう伝えればいいの。

孫二娘が私の肩をぽんと叩いた。

「よかったじゃないか。無事に補給先まで着いてねェ?」

「柴進様を目的地みたいに言わないで!」

梁山泊へ来て最初にやったことが、柴進様を押し倒したうえにフェロモンの補給確認。

先行きが不安すぎる……

◇ ◇ ◇

二龍山から来た者たちの配置について話し合いが始まったのは、それから間もなくのことだった。

戦える人たちは話が早い。

問題は私だった。

私は武芸なんてできない。

桃花山ではフェロモンを使ってしまったけれど、あんなものを本職にされては困る。

敵味方を見分けてくれないうえ、まともに浴びた男の身体が勝手に反応する。

兵器として考えても欠陥品だと思う。

というか、兵器として考えないでほしい。

私は迎児と一緒に、二龍山から持ってきた帳面を閻婆惜さんの前へ並べた。

閻婆惜さんは何冊かめくったあと、一冊を開いたまま顔を上げた。

「潘巧雲さん、これはあなたが?」

「途中からです。最初は全然分からなかったんですけど、必要に迫られて」

「巧雲様が確認されたものを、わたくしが記録することもございました」

迎児が補足する。

「それ、私が忘れるからでしょう?」

「はい」

即答しないで。

閻婆惜さんが笑いながら、別の帳面も開いた。

「兵糧だけではありませんね。薬の残りや荷車の状態、人の出入りまで記録してある」

「誰がどこへ行ったか分からなくなると困るので。怪我人が出れば薬も減りますし、荷車が壊れたら運べる量も変わりますから」

話しているうちに、自分でも少し不思議になった。

二龍山へ逃げ込んだ頃の私は、こんなこと何一つ知らなかった。

戦えないし、特別な力があるわけでもない。

だから自分にできることを探し続け、その結果として残ったのが、この帳面だった。

「単純な倉の管理へ回すのは、少しもったいないですね」

「え?」

「誰かの補佐につく方が向いていると思います。判断する人のそばで、必要な情報をまとめる役目です」

それなら二龍山でやっていたことと近い。

誰が怪我をし、何が足りず、次に何を用意すべきなのか。

私は決める人ではなかったけれど、決めるために必要なものを揃えることはできた。

「問題は、誰のところへ置くかですが」

閻婆惜さんが考え込んだところで、

「柴進殿がよい!」

後ろから声が飛んできた。

振り返る。

魯智深様だった。

なぜか楊志様と武松様まで一緒にいる。

「え?」

魯智深様は私ではなく閻婆惜さんを見ていた。

「巧雲を柴進殿の副官にしてやってくれ!」

「待ってください。何で魯智深様が私の就職活動してるんですか!」

「しゅうしょく?」

「あ、そこはいいです!」

楊志様が一歩前へ出た。

「柴進殿は人の扱いに慣れている。食客を多く抱えてきた者でもあるし、人や物の出入りも多い。巧雲が二龍山でしていたことを活かすなら、確かに相性は悪くないはずだ」

まともだ。

ちゃんと私が二龍山でやってきた仕事を考えてくれている。

一瞬でも疑ってごめんなさい。

「それに柴進殿なら、巧雲に触れられる!」

魯智深様が続けた。

前言撤回。

「それが本命でしょう!」

全部台無しだ。

孫二娘が呆れた顔で魯智深様を見る。

「せっかく楊志が建前を綺麗に組み立てたのに、何で全部ぶち壊すんだい」

「建前ではない!」

楊志様が怒った。

「巧雲の仕事ぶりを評価しているのは本当だ!」

「ありがとうございます!」

「だが、フェロモンの問題も切り離せん!」

「そこまで正直にならなくていいです!」

武松様まで頷いている。

「桃花山で使い切ってから、戻らなかったのだろう?」

「そうですけど」

「先ほど柴進殿に触れたら戻った」

「そうですけど!」

「ならば柴進殿の近くにいた方がいい」

理屈は通っている。

通っているのが腹立たしい。

「私を何だと思ってるんですか?」

三人が黙った。

「そこは即答してください!」

孫二娘が盛大にため息をついた。

「まあ、フェロモン抜きでも悪くない人事だと思うよ」

「孫二娘まで?」

「巧雲は頭から全部仕切るより、横で不足を見つける方が向いてる。二龍山でもそうだったじゃないか?」

それは自分でも分かる。

「柴進は人を抱え込むのが得意だからねェ。巧雲みたいに帳面持って追いかけ回す奴が一人くらいいた方がいい」

「追いかけ回してません」

「これからやるんだよ」

勝手に決めないで……

けれど閻婆惜さんは納得したらしい。

「仕事の内容だけを考えても、柴進さんの補佐は合っていますね。フェロモンについては……」

こちらを見る。

「緊急時の問題として考えておきましょう」

「できれば考えないでください」

「それは無理です」

即答された。

閻婆惜さん、こういうところ強い。

「では、あとは柴進さんと潘巧雲さん本人の希望ですね」

「私は――」

言いかけたところで、後ろから声がした。

「私は構わないぞ」

振り返る。

柴進様が立っていた。

またいつからいたの!?

「巧雲が手伝ってくれるなら、私も助かる」

「柴進様……」

「巧雲はどうだ?」

私は抱えていた帳面へ目を落とした。

逃げ込んだ二龍山で、何とか生きていくために覚えた仕事。

それを今度は、自分で選んで来た梁山泊で続けられる。

しかも柴進様のそばで。

「やります」

顔を上げた。

「私でよければ、柴進様の副官をやらせてください」

「こちらこそ頼む」

柴進様が笑った。

閻婆惜さんも頷く。

「では決まりですね。潘巧雲さんには、柴進さんの副官についてもらいます」

その瞬間だった。

「おおお……!」

背後から嗚咽が聞こえた。

まさか……

振り返ると、魯智深様が泣いていた。

楊志様まで顔を背けて目元を拭っている。

武松様は天井を仰いで、深く息を吐いた。

「よかった……」

「これで安心できる……」

「長かった……」

「そんなに!?」

思わず叫んだ。

「そんなに私から離れたかったんですか!?」

「違う!」

「じゃあ何で三人とも泣いてるんですか!」

答えない。

孫二娘が腕を組んだまま、冷たい目で三人を眺めた。

「娘を嫁に出す父親みたいな顔してるけど、実態は危険物の管理責任者を柴進に引き渡して喜んでるだけじゃないか」

三人とも黙った。

「否定してくださいよ!」

◇ ◇ ◇

こうして私は、柴進様の副官になった。

始めてみれば、仕事は思った以上に多かった。

柴進様のところには人がよく来る。

相談を持ち込む人もいれば、書状を届ける人もいる。

人が動けば物も必要になり、そのたびに確認することが増える。

でも、嫌ではなかった。

二龍山で覚えたことが役に立つ。

「柴進様、昨日の分が合いません」

「どこだ?」

「ここです。出した方は十二、受け取った方は十一になっています」

二冊を並べると、柴進様が私の隣から覗き込んだ。

肩が触れた。

身体の奥が少し熱くなる。

私は反射的に離れた。

「巧雲?」

「何でもありません!」

危ない。

別に、触れた瞬間にフェロモンが噴き出すわけじゃない。

それでも、桃花山で空っぽになったものが少しずつ戻ってくる感覚はある。

意識するなという方が無理だ。

書状を渡す時に指が触れれば離れ、同じ帳面を覗いて腕が当たれば、また距離を取る。

そんなことを繰り返しているうちに、とうとう柴進様に聞かれた。

「巧雲」

「はい?」

「私は何かしたか?」

「え?」

「触れるたびに逃げるだろう」

見られてた。

当たり前か。

「嫌なことをしたなら言ってくれ」

「違います!」

大声が出た。

柴進様が驚いている。

「柴進様が嫌なわけじゃありません。むしろ、その……逆というか」

逆って何。

自分で言って恥ずかしくなった。

「私の問題なんです」

「そうか」

柴進様はそれ以上聞かなかった。

無理に踏み込んでこないのはありがたいはずなのに、なぜか少し寂しい。

近づかれれば逃げるくせに、追ってこなければ寂しがるなんて、自分でも面倒くさいと思う。

それでも、一緒にいる時間は少しずつ長くなった。

最初は仕事がある時だけだったのに、そのうち仕事が終わってからも、二龍山や十字坡の話をするようになった。

柴進様の屋敷にいた時の話もした。

たった三日――

それでも、こうしてまた柴進様のそばにいることになるなんて、あの時の私は考えてもいなかった。

「不思議ですね」

「何がだ?」

「いえ。あの時は三日しかいなかったのに、今は柴進様の副官ですから」

「そうだな」

柴進様が笑う。

私も笑った。

あの三日間は、逃げる途中で立ち寄っただけだった。

でも今は違う。

自分でここにいて、明日もまた柴進様の隣で仕事をする。

そう思うと、少し嬉しかった。

いつの間にか、こうして二人で過ごす時間が好きになっていた。

ある夜、最後の書状を片づけると、柴進様が帳面を閉じた。

「今日はここまでにしよう」

「はい」

返事をした。

でも、私は立たなかった。

柴進様が不思議そうにこちらを見る。

「巧雲?」

「何ですか?」

「仕事は終わったぞ」

「分かってます」

「では、なぜ帰らない?」

言われて、自分でも初めて気づいた。

帳面はもう閉じているし、片づける書状もない。

副官としてここに残る理由は、どこにもなかった。

それなのに帰りたくなかった。

「……もう少し、ここにいてもいいですか?」

柴進様が少し驚いた。

言ってから急に恥ずかしくなる。

「いや、別に深い意味は――」

「もちろんだ」

言い訳を最後まで言わせてもらえなかった。

柴進様が笑っている。

私は黙って座り直した。

二龍山へ行った時の私は、逃げる場所を探していた。

今は違う。

梁山泊へ来ることを自分で決め、柴進様の副官になることも自分で決めた。

そして今ここに残っているのは、仕事だからでも、フェロモンを補給したいからでもない。

ただ、柴進様のそばにいたい。

それだけだった。

「巧雲」

「はい」

柴進様の手が、私の手に重なった。

いつもなら身体の奥で戻ってくるフェロモンを気にして、慌てて離れていた。

今度は離れなかった。

むしろ、少しだけ指を動かして握り返した。

柴進様も手を引かない。

部屋にはもう、仕事なんて一つも残っていなかった。

それでも私たちは、しばらくそのままでいた。

柴進様に触れるだけでも戻るフェロモンの悪魔が、もっと深く結ばれた時にどうなるのか――その答えを、私はまだ知らなかった。

巧雲様は、無事に柴進様の副官となられました。

魯智深様たちが涙を流して喜ばれた理由については、わたくしから申し上げる必要もないでしょう。


「迎児まで私を危険物扱いしてない?」

「そのようなことはございません」

「じゃあ何で目を逸らすの?」

「柴進様のおそばでしたら安心かと」

「やっぱり危険物扱いしてる!」


ですが、ひとつ気になることがございます。


「巧雲様」

「何?」

「最近、柴進様に触れても逃げなくなりましたね」

「……見てたの?」

「はい、測定も続けておりますので」

「何を!?」

「もちろん、フェロモンでございます」

「やめて!」


触れるだけでも、少しずつ戻っております。

では、もっと深く結ばれた場合はどうなるのでしょう。


「迎児、その顔やめて。嫌な予感しかしない」

「奇遇ですね。わたくしもでございます」


次回、測定結果をご報告いたします。

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