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潘巧雲です。
ついに最終話です。
長かったような、逃げ回っていたらいつの間にかここまで来ていたような……何とも言えない気分です。
「巧雲様」
「何?」
「最終話にあたり、一つ確認しておきたいことがございます」
「うん。何でも聞いて」
「柴進様との接触後、フェロモンの数値に変化はございましたか?」
「最終話のまえがきで聞くことじゃないよね!?」
「重要事項でございます」
「私の物語の締めくくりなの! もうちょっとこう、感慨とかないの!?」
迎児は少し考えてから、真顔で頷いた。
「ございます。ですので測定いたしましょう」
「何でそうなるの!?」
せめて最後くらい、普通に終わらせてほしい。
私はそう願っています。
「巧雲様」
「今度は何?」
「その願いは、かなり難しいかと」
「始まる前から諦めないで!」
それでは最終話。
私の物語がどう着地するのか――どうか最後まで見届けてください。
翌朝――
迎児は、朝から私の顔をじっと見ていた。
「……何?」
「巧雲様、少々よろしいでしょうか?」
「その言い方、嫌な予感しかしないんだけど」
昨夜、柴進様と手を握ったまま、しばらく二人で過ごした。
それだけだ。
本当に、それだけ。
仕事が終わった後も帰りたくなくて、もう少しここにいてもいいかと尋ねた。
柴進様は笑って頷いてくれて、そのまま手を重ねてくれた。
思い出すだけで顔が熱くなる。
なのに迎児は、私のそんな乙女心など知ったことではないと言わんばかりに、何かを確かめるような目でこちらを観察していた。
やがて、小さく頷く。
「戻っております」
「何が?」
「フェロモンでございます」
一瞬で乙女心を殺された。
「朝一番に確認すること!?」
「重要事項でございますので」
「私にとっては昨夜の余韻の方が重要なの!」
「そちらについても観察可能でございますが」
「しなくていい!」
迎児は少し残念そうだった。
何でよ?
「それで、どれくらい戻ったの?」
結局、聞いてしまう自分も嫌になる。
迎児は私の顔をもう一度確かめ、それから淡々と言った。
「昨日までとは明らかに違います。フェロモンの悪魔、復活でございます」
「誰が悪魔よ!」
「へえ……とうとう復活したのかい」
「二娘さんまで!」
いつの間に来たのだろう。
迎児の隣に孫二娘が立っていた。
それだけではない。少し離れたところには扈三娘と玉楼までいる。
「何で増えてるんですか!」
「面白そうだったからねェ」
「人のフェロモンを朝の見世物にしないでください!」
扈三娘が首を傾げながら、周囲を見回した。
「でも、何となく分かるわね。さっきから男連中の様子がおかしくない?」
言われて振り向く。
魯智深様が一歩下がった。
楊志様も一歩下がった。
武松様に至っては、何も言わず二歩下がった。
「ちょっと!」
「戻ったな」
魯智深様が低い声で言った。
「戻った」
楊志様まで頷く。
「何で絶望したみたいな顔してるんですか!」
答えはなかった。
桃花山で私がフェロモンを全部ぶっ放した時の光景を、この人たちはまだ忘れていないらしい。
私だって忘れたい。
敵味方の区別もなく、男という男の身体に強制的な反応を起こさせ、まともに戦えなくしてしまった。
あれを必殺技扱いする気はないし、まして職業にするつもりもない。
なのに周囲を見れば、事情を知っている梁山泊の男たちが、私を中心にして少しずつ距離を取り始めている。
失礼にもほどがある。
その中に王英までいた。
「あの王英まで引いてるんですけど!」
「そこは結構深刻だねェ」
二娘さんの声に王英が反応した。
二人の目が合う。
「何だい?」
二娘さんが笑うと、王英はさらに一歩下がった。
「判断できるんじゃない!」
思わず指を差してしまった。
「だったら最初から全部その判断力で生きてくださいよ!」
王英は聞こえなかったふりをした。
ところが、その視線が扈三娘へ移った途端、顔つきが少し変わった。
何を考えたのかは知らない。
ただ、二娘さんよりは近づきやすいと思ったらしい。
それが、とんでもない判断ミスだった。
「王――」
扈三娘が王英に気づいた。
次の瞬間には、王英が地面に伏せていた。
「え?」
私には途中が見えなかった。
王英の腕を背中側へ回し、玉楼が何事もなかったような顔で押さえている。
「ご安心ください、三娘様。制圧いたしました」
「アタシ、まだ何もされてないんだけど!?」
「存じております」
「じゃあ何で制圧したのよ!」
「近づいてまいりましたので」
「俺はまだ何も――」
「動かないでくださいませ」
「はい」
何もかもが早い。
「相変わらず玉楼は仕事が早いねェ」
「三娘様のお手を煩わせるほどでもございませんので」
「玉楼、アタシがやってもよかったのよ?」
「存じております」
たぶん王英は、相手を選んだつもりだったのだろう。
よりによって、扈三娘を。
しかも、その隣には林冲様と正面からやり合える玉楼がいる。
選択肢が全部間違っている。
「朝から何をしているんだ?」
声がして、男たちの間が割れた。
柴進様だった。
私を避けていた人たちが道を開ける中、柴進様だけが普段と変わらない足取りで近づいてくる。
そのまま私の前まで来た。
「巧雲、どうした?」
「……柴進様は平気なんですか?」
「何がだ?」
本当に分かっていない顔だった。
昨日より確実に戻っているらしいフェロモンの中を、普通に歩いてきたのである。
二娘さんが感心したように腕を組んだ。
「梁山泊中が引いてるのに、柴進だけ普通に近づいてくる」
「だから何ですか!」
「いやァ、相性がいいんだねェ」
「何の相性ですか!」
答えなくていい。
絶対にろくでもない答えが返ってくる。
私は柴進様の袖を掴み、その場から逃げるように仕事へ向かった。
◇ ◇ ◇
副官になってみると、思っていた以上に仕事は多かった。
柴進様のところには毎日のように人が来る。
相談を持ち込む者もいれば、書状を届ける者もいる。
必要な物資を揃えるだけでなく、人をどこへ回すか考えなければならないこともあった。
二龍山で帳面と格闘していた経験が、ここではそのまま役に立った。
送ったはずの荷と届いた数が合わなければ確かめ、怪我人が増えれば薬の残りにも目を配る。
誰かを動かす話が出た時には、その人たちが食べる分まで考えなければならない。
派手ではないけれど、私はこういう仕事が嫌いではなかった。
戦えなくても、フェロモンなんかなくても、こうして役に立てるのなら私はここにいていい。
そう思える仕事があることが、何より嬉しかった。
「巧雲、この書状も見てくれるか?」
「はい。……あ、柴進様。こっちの数と合ってません」
「本当だな」
同じ帳面を覗き込む。
肩が触れた。
以前なら反射的に離れていたのに、今はもう逃げなかった。
柴進様も気にした様子はない。
「巧雲様」
背後から声がした。
嫌な予感がする。
振り向けば、迎児がこちらを見ていた。
「何?」
「測定を」
「仕事中にしないで!」
「では、後ほど」
「後でもしなくていい!」
迎児は素直に引き下がった。
たぶん諦めてはいない。
あの子は私の副官みたいな顔をしながら、時々研究者みたいになる。
そんな日がしばらく続くうちに、柴進様と仕事をする時間も自然と増え、触れることをいちいち意識しなくなった。
書状を渡す時に指が触れ、同じ帳面を覗けば肩も当たる。
以前なら、そのたびにフェロモンのことを考えていたけれど、今は違う。
柴進様の隣にいること自体が、少しずつ当たり前になっていた。
◇ ◇ ◇
その日の仕事が終わったのは、かなり遅い時間だった。
最後の書状を片づけ、柴進様が帳面を閉じる。
「今日はここまでにしよう」
「はい」
返事をしたのに、私は立たなかった。
副官になった最初の夜と同じだった。
ここに残る理由は、もうない。
それでも帰りたくなかった。
柴進様が私を見る。
「巧雲」
「はい?」
少し迷ってから、柴進様は静かに尋ねた。
「一つ聞いてもいいか?」
「何でしょう」
「お前が私のそばにいるのは、あの力が戻るからなのか?」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
柴進様も、触れればフェロモンが戻ることに気づいていたのだ。
私自身にも理由は分からないけれど、それとこれとは違う。
「それだけじゃありません」
すぐに答えた。
ここだけは迷いたくなかった。
「最初は、逃げることばかり考えていました」
楊雄の許から逃げて、柴進様の屋敷にたどり着いて、そこからまた十字坡へ行った。
二龍山にも流れ着いた。
ずっと、次にどこへ逃げれば生きられるのかを考えていた気がする。
「でも、梁山泊へ来たのは自分で決めました。柴進様の副官になることも、自分で決めました」
柴進様は黙って聞いている。
「だから、これも自分で決めたいんです」
「これ?」
「……柴進様のそばにいることです」
言ってしまった。
恥ずかしくなって俯きかけたけれど、逃げるのは嫌だった。
顔を上げる。
「フェロモンが戻るからじゃありません。仕事があるからでもありません」
息を吸った。
「柴進様と一緒にいたかったからです」
しばらく返事がなかった。
長く感じたのは、たぶん私だけだ。
やがて柴進様の手が伸びてきた。
私の手に重なる。
昨夜と同じ温かさだった。
「私もだ」
それだけだった。
なのに、それ以上は何も要らないと思った。
私が笑うと、柴進様も笑った。
どちらから近づいたのかは覚えていない。
ただ、その夜。
私はもう、柴進様から離れなかった。
◇ ◇ ◇
朝の光で目が覚めた。
いつもの寝床とは違う。
そう思った次の瞬間、すぐ隣に柴進様がいることに気づいた。
近い。
というより、同じ寝床なのだから近くて当然なのだけれど、目を開けて最初に見るには心臓に悪い。
昨夜のことが一気に蘇ってきた。
慌てて掛布を胸元まで引き上げる。
そこで初めて、布の下に何も身につけていないことを改めて意識してしまった。
柴進様も同じだった。
「…………」
これは夢ではない。
昨夜、私は柴進様と結ばれたのだ。
そう思った途端、顔まで熱くなった。恥ずかしくて仕方がないのに、嫌ではなかったし、後悔もしていない。
触れるだけでフェロモンが戻る理由なんて、私にだって説明できないけれど、そんな理由で柴進様を選んだわけじゃない。
好きだから、一緒にいたかった。
ただ、それだけだ。
隣で柴進様が身じろぎした。
「巧雲?」
「お、おはようございます」
「おはよう」
普通に挨拶されてしまった。
何でそんなに落ち着いているの。
こっちは裸で同じ寝床にいるという現実を、今まさに全身で理解しているところなのに。
「巧雲様」
「はい、おはようござ――」
反射的に答えてから固まった。
今の声は柴進様ではない。
ゆっくり振り向くと、迎児がいた。
「…………何で?」
「測定に参りました」
「何でいるの!?」
私は掛布を掴み、首元まで一気に引き上げた。
柴進様の分まで持ってきてしまった。
「巧雲」
「すみません! でも今は貸してください!」
「構わないが……」
「柴進様は構ってください!」
「へえ。昨夜はお楽しみだったねェ」
「二娘さんまで!?」
入口の方に孫二娘がいる。
その後ろから扈三娘が顔を覗かせ、さらに呂玉楼まで立っていた。
何、この一団。
何で人が裸で寝ている朝に四人も集まってくるの。
「帰ってください!」
「測定がまだでございます」
「服を着てからにして!」
「数値に影響が出る可能性はございません」
「そういう問題じゃない!」
二娘さんが寝床のこちらと柴進様を交互に見て、にやにやしている。
「なるほどねェ」
「何も分析しないでください!」
「まだ何も言ってないよォ?」
「顔が言ってます!」
扈三娘は完全に笑っている。
「巧雲、掛布取りすぎじゃない?」
「三娘さんはどっちの味方なの!?」
「面白い方」
「最低!」
玉楼だけはいつも通りだった。
いつも通りすぎて、それはそれで嫌だ。
「玉楼さん! せめて三娘さん連れて出ていって!」
「三娘様がお望みでしたら」
「アタシはもうちょっと見てたい」
「かしこまりました」
「かしこまらないで!」
朝から何なの、この人たち。
せっかく昨夜、人生でもかなり大事な選択をしたはずなのに、余韻というものが一欠片も残っていない。
その時、迎児が黙った。
「……迎児?」
返事がない。
さっきまで私が裸だろうが柴進様と一緒だろうが平然としていたのに、今度は妙に真剣な顔でこちらを見ている。
「どうしたの?」
「巧雲様」
「何?」
「百十九パーセントでございます」
「…………は?」
聞き間違えたと思った。
「何パーセント?」
「百十九パーセントでございます」
「何で百を超えるのよ!」
「わたくしにも分かりかねます」
「測定してる人が分からないでどうするの!」
昨日まで、触れるだけで少しずつ戻っていた。
それが一晩で百十九。
おかしい。
絶対におかしい。
二娘さんが私を見る。
次に柴進様を見る。
そして、とても嫌な笑い方をした。
「柴進」
「何だ?」
「何したんだい?」
「聞くなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
私の叫びが、朝の梁山泊に響いた。
こうして私は、柴進様の副官になった。
逃げる場所ばかり探していた私が、ようやく自分でいる場所を決めた。
ここで仕事をして、好きな人の隣にいる。
それを自分で選べるところまで、私は来た。
この先に何が待っているのかは分からない。
それでも、もう逃げるために次の場所を探す必要はない。
そして――
フェロモンの悪魔は、百十九パーセントまで充填された。
残り、一パーセント。
それが何を起こすのか。
この時の私は、まだ知らなかった。
巧雲様の物語は、これにて一区切りでございます。
楊雄様の許から逃げ出した頃には、次にどこへ身を寄せるかばかり考えておられました。
ですが今は、ご自分で梁山泊を選び、柴進様の副官となり、そのお隣にいることまでお決めになりました。
わたくしとしても、喜ばしい限りでございます。
「迎児……ちゃんと見ててくれたのね」
「もちろんでございます」
「何だか最後くらい、普通に終われそう」
「はい。なお、フェロモンは百十九パーセントでございます」
「今それ言う必要ある!?」
大切な記録ですので。
「しかも百十九って何なのよ! 百で満タンじゃなかったの!?」
「わたくしにも分かりかねます」
「最後まで役に立たない測定器!」
巧雲様、ご安心ください。
居場所も、お仕事も、柴進様も、もう逃げる必要はございません。
ただし――
「残り一パーセントでございます」
「何が起きるのよ!?」
それは、また別のお話でございます。




