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補給先、梁山泊

「迎児、二龍山を離れることになったわ」

「はい、梁山泊へ合流するのでございますね」

「ここへ逃げ込んだ時は、こんな形で出ていくなんて思わなかったな……」

「では、荷造りを始めましょう」

「そうね。帳簿も薬も、必要なものは全部――」

「柴進様もお忘れなく」

「梁山泊にいる人を荷造りしないで!」


二龍山を畳み、梁山泊へ向かう。

今度は追われて逃げるんじゃない。

自分で決めて、次の場所へ行く。

ただし、ひとつだけ問題がある。


「迎児」

「はい」

「私のフェロモン、まだ空なのよね」

「補給先は梁山泊にございます」

「だから柴進様を物資扱いしないで!」


逃げるためではない荷造りが、始まった。

二龍山が梁山泊への合流を決めた翌朝から、山の中は妙に忙しくなった。

戦の後片付けなら何度もやった。

壊れた武器を集め、使った薬を数え、減った兵糧を帳面へ戻す。

けれど今回は、それだけではない。

今度は山そのものを畳む。

「巧雲、そっちの箱は持ってくのかい?」

「持っていきます」

「こっちは?」

「それもです」

「じゃあ、この束は?」

「もちろん持っていきます」

「……あんた、帳面だけで荷車一台使うつもりじゃないだろうねェ」

「使いません!」

朝から孫二娘がうるさい。

私は机の前に座り、二龍山で使ってきた帳簿を一冊ずつ確認していた。

兵糧、薬、武器、荷車、人員、それからここ数か月の出入りまで、必要な記録は梁山泊へ持っていく。

すでに役目を終えたものは残し、今後も必要になるものだけを分けているのに、横から孫二娘が片っ端から覗き込んでくる。

「それ、まだ要るのかい?」

「要ります」

「こっちも?」

「要ります」

「じゃあ巧雲本人も?」

「要ります! 何で私まで荷物に入ってるんですか!」

迎児が筆を止めた。

「巧雲様は人員でございます」

「訂正の方向がおかしい!」

孫二娘が腹を抱えて笑う。

こんな調子で、朝から全然静かにならない。

魯智深様は山に残る者と梁山泊へ向かう者の確認に回り、楊志様は武器や馬、荷車の振り分けを見ている。

武松様は力仕事へ駆り出されていて、さっきから大きな箱を何個も運んでいた。

私は戦えない。

だから最後まで、私にできることをやる。

「巧雲様、薬の帳面はこちらでよろしいですか?」

「そうね。それは持っていく方。こっちの古い受払だけ残して」

「承知いたしました」

迎児の手はもう慣れたものだった。

私が言うより先に必要な束をまとめ、紐をかけ、荷車へ載せる順番まで考えている。

その姿を見ていた孫二娘が、にやっとした。

「立派な副官になったねェ」

「でしょう?」

「巧雲が抜けても仕事できそうだ」

「何で私を抜くんですか!?」

迎児まで少し笑っている。

ひどい。

でも、こうして二人と一緒に帳面を整理していると、妙な感じがした。

この机で何度、数字を数えただろう。

兵糧が足りず、薬が減り、荷車が壊れ、誰がどこへ行った――そんなことばかり考えてきた机なのに、いざ離れるとなると、ただの板と脚には見えなくなる。

気づけば、手が止まっていた。

「巧雲?」

孫二娘がこちらを見る。

「何でもありません」

「何でもない顔じゃないねェ」

「心理分析しないでください」

「まだ何も言ってないよォ?」

「顔がもう分析始めてるんですよ!」

孫二娘が吹き出した。

何だろう、この人……

私も孫二娘も、この世界の人間ではない。

それくらいは分かっている。

けれど、前に誰だったのかまでは知らないし、聞いてもいない。

それなのに、ときどき妙に人の気持ちへ踏み込んでくる。

しかも踏み込んだあと、絶対にまともな慰め方をしない。

「まァ、持ってけるもんは持ってきな」

「帳面ですか?」

「思い出までここへ置いてく必要はないだろ」

一瞬だけ、返事が出なかった。

孫二娘はそれ以上何も言わず、次の箱を勝手に開けた。

「これは?」

「人がしんみりしてる時に荷造りへ戻るの早すぎません!?」

やっぱり台無しだ。

でも、それでよかった。

ここを離れるのは寂しい。

それを大げさに言葉へしたら、たぶん余計に離れにくくなる。

私は箱の蓋を閉じた。

「それは残します」

「やっと残すものが出たねェ」

「何でも持っていくわけじゃありませんから!」

昼前には、荷車の半分ほどが埋まった。

兵糧や武器は楊志様が確認し、私たちは帳簿と薬、それから細々した生活用品をまとめていく。

そこで孫二娘が、私の衣類を入れた包みを持ち上げた。

「巧雲」

「何ですか?」

「これだけ?」

「そうですけど?」

「女の引っ越しにしちゃ少なくないかい?」

「逃げてきた人間に何を期待してるんですか!」

口にした瞬間、ほんの少しだけ空気が変わった。

けれど孫二娘は顔色ひとつ変えず、包みを荷車へ載せる。

「じゃあ、これから増やしゃいい」

「……そうですね」

今度は、逃げるための荷造りじゃない。

自分で次の場所へ行くための荷造りだ。

それだけで、同じ荷物なのに少し違って見えた。

「ところで」

「何ですか?」

「梁山泊に着いたら、最初に誰を探すんだい?」

嫌な聞き方をする。

「閻婆惜さんです。帳簿を渡さないといけませんから」

「へェ」

「何ですか、その顔」

「別にィ」

「絶対何かありますよね?」

「柴進もいるけどねェ」

「ぶっ!」

危うく持っていた筆を落とした。

迎児がすぐ拾う。

「巧雲様」

「何でもない!」

「まだ何も申し上げておりません」

「その顔やめて!」

孫二娘は完全に面白がっている。

「会いたいんだろ?」

「……会いたいですよ」

「触りたい?」

「何でそこまで聞くんですか!」

「補給条件の確認だよォ」

「柴進様を兵站物資みたいに扱うな!」

迎児がまた筆を取った。

「迎児、書かなくていいからね?」

「まだ何も書いておりません」

「その『まだ』が怖いの!」

孫二娘は笑いながら荷車へもたれた。

「でも、実際まだ空なんだろ?」

「空です」

「寝ても?」

「戻りません」

「食っても?」

「戻りません」

「薬は?」

「戻りません!」

「面倒な身体だねェ」

「私もそう思いますよ!」

本当に面倒だ。

あれだけ大騒ぎしたフェロモンの悪魔は、今のところ完全に沈黙している。

柴進様に実際に触れない限り、補充されない。

分かっている。

分かっているけれど、梁山泊へ着いた途端に補給条件を確かめるような真似はしない。

たぶん。

「巧雲」

「何ですか?」

「今、目が泳いだよォ」

「泳いでません!」

孫二娘、今日ずっと絡んでくる。

午後になると、山の中から少しずつ荷物が消えていった。

空いた棚や軽くなった倉を見るたび、昨日までは当たり前にそこにあったものが、ひとつずつ過去になっていく気がする。

私は最後に帳場へ戻り、机の上を手で撫でた。

ここで、生き延びる方法を覚えた。

剣も槍も使えない私でも、帳面をつけ、物を数え、人の動きを追えば役に立てる。

そしてここには、私と迎児を受け入れ、守ってくれた人たちがいた。

「巧雲様」

振り向くと、迎児が入口に立っていた。

「終わりましたか?」

「うん」

もう一度だけ、何もなくなった机を見る。

少し寂しい。

でも、それでいい。

「行こうか」

「はい」

外へ出ると、孫二娘が腕を組んで待っていた。

「遅いよォ」

「最後くらい浸らせてくださいよ」

「浸りすぎると置いてくよ?」

「何でそんなに姐御みたいなんですか!」

「誰が姐御だい」

「今の言い方ですよ!」

笑いながら、荷車の列へ向かった。

二龍山を出る時、私は一度だけ振り返った。

ここへ逃げ込んだ時は、また追われて出ていく日が来るかもしれないと思っていた。

でも、今日は違う。

追われて出るんじゃない。

私は自分で、次へ行く。

それなら、ちゃんと前を向ける。

「巧雲、置いてくよォ!」

「今行きます!」

最後まで孫二娘がうるさい。

けれど、その声があったから、振り返るのは一度で済んだ。

梁山泊までの道は、思ったより長く感じた。

途中で何度も荷車を止め、人数を確認し、積荷を確かめる。

楊志様には「移動中まで帳面を見るな」と言われたけれど、そう言われて見ないでいられるなら苦労はしない。

「巧雲」

「今度は何ですか、孫二娘さん」

「柴進に会った時の予行演習でもしとくかい?」

「しません!」

「まず歩いて近づく」

「普通ですね」

「次に抱きつく」

「勝手に進めないでください」

「そのまま補給」

「そこから先は黙って!」

迎児が口元を押さえている。

「迎児も笑わない!」

「申し訳ございません」

「全然申し訳なさそうじゃない!」

そんなことをしているうちに、ようやく梁山泊が見えてきた。

胸の奥が少しだけ騒がしくなる。

山寨へ入ると、こちらを迎える人たちの中に楊雄と石秀の姿もあった。

二人を見た瞬間、身体はわずかに強張ったけれど、足までは止まらない。

迎児がいて、魯智深様たちがいて、孫二娘もいる。

私はもう、あの頃のように一人ではなかった。

だから、そのまま歩けた。

その二人より、もっと先にいる人を見るまでは。

「……柴進様」

自分でも驚くほど小さな声だった。

柴進様がこちらを見る。

目が合った。

その瞬間、帳簿も荷物も、楊雄も石秀も、全部どこかへ吹き飛んだ。

「巧雲?」

聞こえた。

次の瞬間には、私は走っていた。

「巧雲!?」

後ろで孫二娘が叫ぶ。

迎児も何か言った。

でも止まれない。

柴進様が目を見開く。

距離が一気に縮まっていく。

これ、抱きつく勢いじゃない。

たぶん――タックルだ。

柴進様まで、あと一歩。

私は地面を蹴った。

二龍山を離れ、私たちは梁山泊へ到着いたしました。

巧雲様は楊雄様と石秀様をご覧になっても、足を止めません。

以前とは違います。

今の巧雲様には、共に歩く方々がおられます。


ところが、そのお二人より先に柴進様を見つけた途端、すべてが変わりました。


「巧雲様」

「何?」

「ずいぶん速く走られるのですね」

「そこ!?」

「帳面仕事が中心でしたので、存じませんでした」

「私だって走る時くらいあるわよ!」

「柴進様へ向かう時だけでしょうか?」

「迎児?」


抱きつくのかと思いました。

ですが、あの勢いでは少々違う気もいたします。


「迎児、何で距離を取ってるの?」

「念のためでございます」

「戻ってきて!」


巧雲様と柴進様の距離は、あと一歩。


次回、接触いたします。

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