二龍山を離れます
「迎児、青州が落ちたって」
「はい、魯智深様、楊志様、武松様もお戻りになります」
「よかった……本当によかった」
「では、お迎えいたしましょう」
「そうね。今度こそ普通に『お帰りなさい』って――」
「巧雲様」
「何?」
「皆様、巧雲様を見た瞬間、まずフェロモンが出ていないか確認なさるのでは?」
「私を不発弾みたいに言わないで!」
でも、笑って迎えるだけでは終われない。
青州は落ちた。
だから今度は、二龍山のこれからを決めなければならない。
「迎児、帳面を持ってきて」
「三冊ございます」
「……こんな時だけ準備が良すぎる!」
逃げ込んだこの山を、離れるかもしれない。
青州が落ちた。
その知らせが二龍山へ届いた翌日の昼過ぎ、山道の向こうから見慣れた三人が上がってきた。
魯智深様、楊志様、武松様――三人とも無事だった。
それを確認した瞬間、胸の奥に詰まっていたものがようやく下りた。
「お帰りなさい!」
迎児と一緒に駆け寄ると、魯智深様が大きく手を上げた。
「おう! 戻ったぞ!」
武松様も笑った。
楊志様だけは私を見るなり、ぴたりと足を止めた。
「……出てないな?」
「第一声がそれですか!?」
青州から命がけで帰ってきた人たちを、こちらは真っ先に無事だったことを喜んだというのに、向こうが確認したのは私のフェロモンである。
武松様まで微妙に腰を引いていた。
「念のためだ」
「出ません! 完全に空です!」
「そうか」
「そこで安心しないでください!」
魯智深様が豪快に笑った。
「ワシは別に気にせんぞ!」
「魯智深様も前かがみになってたでしょう!」
「なったな!」
「そんな堂々と認めることじゃありません!」
あの日、私のフルバーストを浴びた男たちは、敵も味方も関係なく全員きっちり身体だけ反応した。
理性は残る。
襲ってはこない。
それでも勃つ。
本当に最低な兵器である。
しかも今では、私が胸元へ手をやっただけで反射的に身構える者までいる。
実際にはもう一滴も出ないのに、男たちの身体だけが昨日を覚えているらしい。
「とにかく、お三方とも無事でよかったです」
そう言うと、武松様が少しだけ表情を緩めた。
「二龍山も無事だったようだな」
「はい、ただそのことでお話があります」
楊志様の顔から、さっきまでの妙な警戒が消えた。
「何だ?」
「中で話しましょう。迎児、帳面をお願い」
「はい」
迎児は待ってましたとばかりに三冊抱えた。
楊志様の眉が動く。
「三冊?」
「私も帰ってきた日に同じ顔をしました」
孫二娘も呼び、卓の上へ帳面を並べた。
魯智深様が一冊目を開こうとしたので、私は慌てて押さえる。
「全部読まなくて大丈夫です」
「そうか?」
「全部やったら青州をもう一回落とせるくらい時間がかかります」
「そこまでか?」
「巧雲様、そこまではかかりません」
「迎児は真面目に訂正しなくていいの!」
迎児だけが少し残念そうだった。
さては全部説明するつもりだったな。
私は一冊目へ手を置いた。
「今回の出兵で兵糧も薬もかなり動きました。武器の修理も必要ですし、荷車もすぐ遠出に使える状態ではありません」
楊志様が頷く。
「戦をした以上、それは仕方ない」
「はい、物資だけなら時間をかければ補充できます。問題はそこじゃありません」
三冊目を開いて、二龍山に残っていた人数を見せると、三人の表情が変わった。
武松様が頁を覗く。
「少ないな」
「はい」
私は一度、息を整えた。
「今回、二龍山が無事だったのは、私たちがここを守り切ったからではありません。攻められなかったからです」
楊志様の目が細くなった。
「呼延灼が桃花山へ集中したからか」
「そうです」
私たちは桃花山を助けるために戦える人をかなり出した。
それ自体は間違っていないし、助けなければ桃花山が危なかった。
けれど、その時に呼延灼が別働をこちらへ向けていたら、二龍山は薄い守りで受けるしかなかった。
「白虎山が狙われれば助けに出る。桃花山でも同じです。でも、そのたびに二龍山が薄くなる。逆にこちらを固めれば、他を助けに行けません」
魯智深様が腕を組む。
「なら人を増やすか?」
「私も考えました」
人を集め、兵糧を増やし、武器を揃える。
山道をもっと固める方法もあるだろう。
だから、あれからも本当に他に方法はないのか考えていた。
「でも、それをするには時間も物も必要です。今回みたいなことが、その準備を待ってくれる保証はありません」
楊志様が帳面を閉じた。
「しかも人を増やせば、その分だけ兵糧が要る」
「はい」
黙っていた孫二娘が口を挟む。
「山一つで官軍と張り合おうって方が、そろそろ無理なんじゃないかねェ」
誰も笑わなかった。
今の二龍山が弱いわけではない。
魯智深様も楊志様も武松様もいて、ほかにも戦える人たちはいる。
それでも官軍が本気で数を揃えてくれば、誰かが外へ出た瞬間に別の場所が薄くなる。
今回、それが数字になって目の前へ出ただけだ。
私は懐から書状を取り出した。
「そのタイミングで、梁山泊からこれが届きました。閻婆惜さんからです」
魯智深様が受け取り、読み始める。
楊志様と武松様も横から目を通した。
最後の一文に来たところで、三人とも黙った。
『青州の件が落着いた後、二龍山の皆様にも梁山泊への合流をご検討いただけませんでしょうか』
しばらく誰も話さなかった。
最初にこの書状を読んだ時とは、もう意味が違っている。
これは私一人の進路ではなく、二龍山そのものをどうするかという話になっていた。
魯智深様が書状を卓へ置いた。
「巧雲よ。お前はどう思う?」
私は三人を見る。
「このまま二龍山に残るのは、下策だと思います」
言葉にすると、やっぱり重かった。
ここは私と迎児が逃げ続けた末に、ようやく「ここにいていい」と思えた場所だった。
しかも、ここを居場所にしているのは私たちだけではない。
梁山泊へ入るというのは、看板を掛け替えるだけではない。
今まで自分たちで決めてきたことも、これからは梁山泊全体の方針と無関係ではいられなくなる。
「梁山泊へ入れば、二龍山は今までと同じではいられません。それも分かっています」
楊志様が静かに言った。
「向こうの命令で動くことも増える」
「はい」
「ここを離れたくない者もいるだろう」
「いると思います」
武松様が続ける。
「戦える者だけの話でもない。ここで暮らしている連中も動くことになる」
「だから、無理に連れていくのは違うと思います。残りたい人、別の場所へ行きたい人には、その人の意思を聞くべきです」
魯智深様は黙っていた。
珍しく、すぐには何も言わない。
その顔を見て、私はようやく気づいた。
この人にとっても二龍山は、ただの防衛拠点ではない。
魯智深様たちがここで積み上げてきた時間がある。
私が帳面を見て「効率が悪いから移りましょう」と言えば済む話ではなかった。
「……すみません」
思わず口から出た。
魯智深様が眉を上げる。
「何を謝る?」
「私は数字から考えました。でも、二龍山を捨てるって、そんな簡単な話じゃないですよね」
魯智深様はしばらく私を見てから、ふっと笑った。
「当たり前だ」
胸が少し痛んだ。
「だがな」
大きな指が、三冊目の帳面を叩いた。
「ここに残ることにこだわって、山の者を死なせたらもっと馬鹿だ」
私は顔を上げた。
「山を守るために人がおるんじゃない。人が生きるために山を使っとるんだろう」
私が帳面を前にして辿り着いた答えと、ほとんど同じだった。
少しだけ喉が詰まった。
楊志様はもう一度、閻婆惜さんの書状を読んでいる。
「軍事だけで考えるなら、俺も合流に賛成だ」
はっきり言った。
「今回、三山で互いに穴を埋めたから持った。次も同じように相手が動くとは限らん。梁山泊と別々に兵を動かすより、最初から一つの指揮で動いた方が無駄も減る」
武松様も頷いた。
「俺も異論はない。ただし、山の連中にはきちんと話すべきだ」
そこで一度、言葉が止まった。
三人が私を見る。
何だろう。
嫌な予感がした。
魯智深様が楊志様を見る。
楊志様が武松様を見る。
武松様が魯智深様を見る。
やめて……
その無言の打ち合わせ、すごく嫌……
「巧雲」
三人が、ほとんど同時に口を開いた。
「楊雄と石秀がいるぞ」
綺麗に揃った。
「そこで三人揃うんですか!?」
孫二娘が盛大に吹き出した。
迎児まで口元を押さえている。
笑うところじゃない。
いや、揃いすぎてちょっと面白かったけど。
楊志様は真顔だった。
「これは冗談ではない。梁山泊へ入れば、お前はあの二人と同じ山寨で暮らすことになる」
「分かっています」
「本当にいいのか?」
武松様が続ける。
「怖くないのか?」
少しだけ迷った。
でも、ここで格好をつける必要はない。
「怖いです」
三人とも黙っている。
「顔を合わせたいとは思いません。近づいてほしくもありません。できれば一生関わりたくないです」
そこは今でも変わらない。
私は楊雄を許したわけではない。
石秀のことだって同じだ。
「でも、あの二人が梁山泊にいるから私が行けないとなったら、結局、今でもあの二人に私の行き先を決められてることになるでしょう?」
魯智深様の目が細くなった。
「あの人がいるからって、私の行き先まで決められたくありません」
逃げたことを後悔してはいないし、あの時は逃げるしかなかった。
今だって必要なら逃げるけれど、自分が安全に生きられる場所を選べるようになった今、楊雄の都合で選択肢を減らすつもりはない。
魯智深様が大きく息を吐いた。
「そこまで決めておるなら、ワシから言うことは一つだ」
大きな拳を握る。
「楊雄が妙な真似をしたら、ワシが止める」
武松様がすぐに言った。
「石秀もだ」
怖い。
ものすごく頼もしいけど怖い。
楊志様が二人を睨む。
「お前らは殴る話から入るな」
止めるの、そこなんですね。
「巧雲。合流するなら、先に閻婆惜へ条件を出せ」
「条件ですか?」
「楊雄と石秀を勝手に近づけさせない。居場所も役目も可能な限り分ける。お前が望まない限り、楊雄や石秀と二人きりで話をさせない」
さすが楊志様。
拳より先に規則が出てくる。
「入ってから揉めるのは下策だ。入る前に決めろ」
「はい」
「下策って、私の言葉を返しましたね?」
「使える言葉だから使っただけだ」
孫二娘がにやにやしている。
「似てきたねェ」
「誰と誰がですか」
「巧雲と楊志」
「どこが!」
「一緒にするな」
楊志様から即座に拒否された。
私だって傷つきますよ……
笑いが収まったところで、魯智深様が卓を見回した。
「なら、決めるか」
空気が変わった。
今度こそ誰もふざけなかった。
「二龍山の者には、これから事情を話す。無理強いはせん。それでも山寨としてどうするか、ワシらの考えは揃った」
楊志様が頷く。
武松様も頷いた。
私は息を止めた。
魯智深様が閻婆惜さんの書状を手に取る。
「二龍山は、梁山泊へ合流する」
決まった。
その一言だけで、見慣れた部屋が少し違って見えた。
明日すぐ山が消えるわけではない。
この建物も、門も、道もそのままだ。
それでも、二龍山だけで生きていく時間には終わりが来る。
ここは逃げ込んだ私たちを守ってくれて、帳面を持つ私でも人の役に立てるのだと教えてくれた場所だった。
寂しくないと言えば嘘になる。
それでも、この場所を残すために人を失うより、人が生き残るために場所を変える方を選ぶ。
私はそれでいいと思った。
「巧雲」
武松様が呼ぶ。
「何かあったら呼べ」
「はい」
「ワシもおるぞ!」
「ありがとうございます」
楊志様も少し間を置いて言った。
「二人ともいなければ俺がいる」
三人を見ると、梁山泊に楊雄と石秀がいても、それを理由に諦める必要はないと思えた。
一人で梁山泊に行くわけではない。
胸の奥が少し熱くなった。
その瞬間、三人が揃って半歩下がった。
「……何で下がったんですか?」
「いや」
「私、何も出てませんよ!?」
「分かっている」
「じゃあ戻ってきてください!」
「身体が覚えてるんだ!」
楊志様が叫んだ。
守ると言った直後に逃げないでほしい。
孫二娘が腹を抱えて笑い、迎児まで肩を震わせている。
「迎児まで笑わないで!」
「申し訳ございません。ですが巧雲様、今は少し……」
「何!?」
「分かりません」
「またそれ!?」
本当に何も出ていない。
たぶん。
きっと。
私は咳払いして、閻婆惜さんへの返書を引き寄せた。
返書には、梁山泊への合流を決めたことと、二龍山の者たちへ事情を説明すること、それから楊雄と石秀との接触について事前に取り決めたい旨を、順に書いていく。
これは逃走届ではない。
降伏文でもない。
私たちが次に生きる場所を選ぶための返事だ。
筆を置き、最後にもう一度だけ周りを見た。
魯智深様も楊志様も武松様も、迎児も一緒にいる。
二龍山で過ごした時間まで消えるわけではないのだから、私は行ける。
次の行き先は梁山泊に決まった。
そしてそこには――私が命からがら逃げた男、楊雄がいる。
二龍山は、梁山泊へ合流することになりました。
巧雲様は決まってからもしばらく、帳面を閉じたまま部屋の中を見回しておられました。
「迎児」
「はい」
「ここ、結構好きだったのよね」
「存じております」
「……そっか」
それだけ言って、少し笑われました。
ここへ来た時の巧雲様は、逃げることばかり考えておられました。
けれど今は、自分で次の行き先を選んでおられます。
「私、一人じゃないのよね」
「魯智深様も、楊志様も、武松様もいらっしゃいます」
「そうよね」
三人とも、楊雄様と石秀様から巧雲様を守ると仰いました。
ただし――
「皆様、巧雲様が嬉しそうになった瞬間、半歩下がっておられました」
「そこは忘れて!」
お守りくださる三人にも、巧雲様のフェロモンだけは別問題のようです。
次は梁山泊――
巧雲様が自分で選んだ行き先です。




