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今度は私が選びます

「迎児、帰ってきた私に何か言うことは?」

「お帰りなさいませ。それから、帳面が三冊ございます」

「労いより先に仕事を出すな!」


桃花山では呼延灼と戦い、敵味方まとめて前かがみにし、私は見事に弾切れになった。

せめて二龍山では休めると思っていたのに、待っていたのは兵糧と薬と武器の収支である。


「巧雲様」

「今度は何?」

「今日は、いつもより静かな気がいたします」

「何が!?」

「分かりません」

「分からないものを感じないで!」


しかも最近の迎児は、私の様子が少し変わるだけで妙にこちらを見る。

嫌な予感しかしない……


そして帳面を開いた私は、もっと嫌なものを見ることになった。


二龍山――このままじゃ、守れない。

二龍山へ戻った私を待っていたのは、官軍ではなかった。

帳面だった。

「巧雲様、お帰りなさいませ」

迎児が両手で抱えている。

一冊ではない。三冊ある。

嫌な予感しかしない。

「……迎児、それ何?」

「今回の出兵中に動いた兵糧、薬、武器、荷車、それから曹正様より届いた物資の記録でございます」

「私、今帰ってきたところなんだけど」

「ですので、すぐにご確認いただけるようまとめておきました」

「できる子になりすぎてない!?」

嬉しいのは本当だ。

私がいない間でも帳面をまとめ、物資の出入りを追えるようになったのだから、少し前の迎児とは比べものにならない。

ただし、帰還した主人へ三冊まとめて差し出すところまで成長してほしかったかと言われると、少し考えたい。

迎児は私の顔を見て、それから首を傾げた。

「それと巧雲様」

「何?」

「今は、静かでございますね」

「……何が?」

迎児自身も困ったような顔になった。

「分かりません。ただ、桃花山へ向かわれる前より、何かが静かなような気がいたします」

「何かって何?」

「ですから、それが分からないのでございます」

どうして分かるの。

私自身、今のフェロモンがどうなっているのか感覚では分からない。

ただ、桃花山で使い切ったあとから何も出ない。

それだけは間違いない。

迎児は、それを説明できないまま何となく感じ取っているらしい。

少し離れた岩の上では、孫二娘が面白そうにこちらを眺めていた。

「よォ、悪魔! 派手にやったらしいねェ」

「帰って最初にそれですか!?」

「敵も味方もまとめて前かがみにしたって?」

「誰から聞いたんですか!」

「帰ってきた男どもだよォ」

振り返ると、二龍山へ戻ってきた男たちの何人かが露骨に目を逸らした。

しかも私が帳面を胸の前へ抱え直しただけで、一人が反射的に腰を落とす。

「出ませんから!」

「分かってます!」

「だったら立ってください!」

「その言い方がもう嫌なんです!」

桃花山から二龍山まで、妙な後遺症まで持って帰ってきてしまったらしい。

孫二娘が腹を抱えて笑っている。

「まだ効いてんじゃないか?」

「効いてません! 迎児も静かだって言ってます!」

「わたくしは、何が静かなのか分かっておりません」

「そこで梯子を外さないで!」

迎児本人にも説明できないらしい。

余計に怖い。

「では巧雲様、こちらからお願いいたします」

「切り替えが早いのよ……」

仕方なく一冊目を開いた。

そこで、笑っていられなくなった。

兵糧の減りが大きい。

出兵した者たちへ持たせた分だけではなく、途中で回した乾飯、負傷者へ食べさせた粥、予備として積んだものまで、思っていた以上に動いている。

二冊目は薬と布だった。

傷薬、傷口を巻く布、煎じ薬に使う材料、酒まで減っている。

武器も無傷ではない。

槍の穂先は修理待ち、弓弦は交換が必要で、矢もかなり使った。

荷車に至っては、一台が車輪を傷め、もう一台も軸を直さなければ遠出には使えないらしい。

「……こんなに?」

思わず声が小さくなった。

迎児が頷く。

「今回は桃花山へ向かわれた方が多うございましたので」

「山に残った人数は?」

「こちらでございます」

三冊目――

見たくない。

でも見ないわけにはいかない。

頁を開くと、二龍山に残っていた人数は思っていたよりずっと少なかった。

孫二娘が横から覗き込む。

「そりゃそうさ。魯智深も楊志も武松も出て、戦える連中もかなり連れてったんだから」

「その間に二龍山が攻められていたら?」

「アタシらでやるしかなかったねェ」

「……守れました?」

「相手によるねェ」

孫二娘は笑わなかった。

それで十分だった。

私はもう一度、帳面を見る。

桃花山は守った。

呼延灼本人が出てきたところまで耐え、最後には梁山泊の援軍も間に合った。

けれど、そのために何も失わなかったわけではない。

兵糧も薬も減り、武器は傷み、人は疲れている。

そのうえ救援へ出たため、二龍山そのものの守りまで薄くしていた。

もし呼延灼が桃花山だけではなく、別働をこちらへ回していたら。

もし青州軍が二手に分かれていたら。

頁の上で指が止まった。

「巧雲様?」

迎児が声をかけてきた。

「何?」

「いえ……」

また首を傾げている。

「どうしたの?」

「先ほどとは、少し違う感じがいたしましたので」

「何が?」

「分かりません」

それだけだった。

何を考えているのか当てるわけでもない。

怖いのか、迷っているのか、それすら分かっていない。

ただ、私の中で何かが変わった時だけ、迎児が妙にこちらを見る。

以前なら、フェロモンが強くなった時に真っ先に気づく程度だった。

今も、その延長なのかもしれない。

それ以上は、私にも迎児にも分からなかった。

「……迎児」

「はい」

「最近、ちょっとだけ怖いわ」

「巧雲様ほどではございません」

「何と比べたの!?」

孫二娘が横で吹き出した。

私は額を押さえながら、もう一度人数を見る。

今回、二龍山が守れたのではない。

攻められなかっただけだ。

「迎児、今の人数なら兵糧はどれくらい持つ?」

「平時でしたら急には尽きません。ただし、もう一度同じ規模で出兵なさる場合は話が変わります」

「薬は?」

「補充が必要でございます」

「武器は?」

「曹正様より、修理できるものから回すとのことでございます」

「荷車は?」

「一台はしばらく休ませた方がよろしいかと」

「荷車まで休むの……」

私も休ませてほしい。

だが帳面は容赦がない。

孫二娘が悪い顔をしてこちらを見る。

「例のやつ撃てばいいじゃないか」

「撃てません」

「柴進がいないから?」

「そうです!」

どうして二龍山へ帰ってきて早々、こんな補給事情を説明する羽目になるのだろう……

「寝ても戻らないのかい?」

「戻りません」

「食っても?」

「戻りません」

「薬は?」

「たぶん無理です」

「じゃあ柴進に会えば?」

「触れれば戻るはずですけど、今ここにいないでしょう!」

孫二娘が妙に真剣な顔で頷いた。

「兵糧より補給条件が厳しいねェ」

「私を軍需物資に数えないでください!」

横で迎児が筆を取った。

「書かなくていいから!」

「まだ何も書いておりません」

「今の顔、絶対書く気だったでしょう!」

危ない……

このままでは本当に『潘巧雲 一名 補充条件・柴進接触』と記帳されかねない。

もっとも、仮にあれが使えたところで、防衛戦力としてまともに数えることはできない。

敵味方を選べず、範囲も出力も安定しないうえ、一度使い切れば柴進様に触れるまで戻らない。

楊志様が二度と戦力として数えないと言ったのは正しい。

私は帳面を閉じた。

「……やっぱり、このままじゃ駄目ね」

迎児がこちらを見る。

今度は何も言わなかった。

ただ、少しだけ眉を寄せた。

その程度でいい。

私が何を考えたのかまで分かられてたまるか。

「このままじゃ、二龍山だけでは守りきれない」

口にしてしまうと、思った以上に重かった。

二龍山には戦える者がいて、麓には曹正様の店もある。

道も地形も、こちらの方がよく知っている。

それでも、本気の官軍を何度も受け止める余裕はない。

他の山を助ければ、こちらが薄くなる。

こちらを守れば、外へ出られない。

白虎山や桃花山が狙われたように、一つずつ潰されたら終わる。

次も梁山泊が間に合う保証などない。

「怖いかい?」

孫二娘が聞いた。

「怖いわよ。私、戦えないもの」

刀を持っても役に立たず、弓も駄目だ。

男を前かがみにするという、何の冗談か分からない力だけはあるけれど、今はそれすら空っぽである。

だから私は数字を見て、人と物の動きを追い、逃げ道を探す。

それで生き延びてきた。

「次に同じことが起きる前に、考えないと」

孫二娘が少しだけ笑った。

「逃げるかい?」

「それも選択肢です」

「二龍山を捨てる?」

「必要なら」

言ってみると、不思議なくらい抵抗はなかった。

私は一度、楊雄から逃げ、家を捨てた。

あの時だって、残れば死んでいた。

せっかく作った場所だからといって、そこで全員死ぬまでしがみつく必要はない。

居場所を守ることと、場所に縛られることは違う。

問題は、ここを出るならどこへ行くかだった。

「梁山泊、かねェ?」

孫二娘が先に言った。

私は答えなかった。

考えていなかったわけではない。

梁山泊とは同盟を結んでいる。

今回も正式に救援を頼み、実際に来てくれた。

閻婆惜さんもいる。

柴進様もいる。

最後の一人だけ、今考えると別の意味まで混ざるので困る。

迎児が、またこちらを見た。

「……何?」

「いえ……今、また少しだけ違ったような気がいたしましたので」

「何が?」

「分かりません」

「じゃあ言わなくていいの!」

危ない。

本当に、ほんの少しだけ何かを拾っている。

それ以上ではない。

それ以上になられても困る。

そんなことを考えていると、山道の方から声が飛んできた。

「潘巧雲殿! 書状です!」

使いの者が、折り畳んだ書状を持って上がってくる。

「どこから?」

「梁山泊です」

胸が跳ねた。

迎児が私を見る。

それだけだった。

「……何?」

「いえ」

言わない。

何も当てない。

でも、また何か感じたらしい。

やめてほしい。

私は書状を受け取り、差出人を見る。

柴進様ではなかった。

差出人は、閻婆惜。

少しだけ残念だった自分は無視することにした。

「閻婆惜さんからだわ」

封を開いた。

閻婆惜さんの文は簡潔だった。

青州の戦が片づいた後のこと。

二龍山を含む周辺の山寨が、今後も今の形のまま官軍へ対抗し続けるのは難しいと考えていること。

そして最後に、一つの提案が記されていた。

私は、その一文で手を止めた。

『青州の件が落着いた後、二龍山の皆様にも梁山泊への合流をご検討いただけませんでしょうか』

孫二娘が横から覗く。

「何だって?」

「……合流しませんか、って」

ついさっき、私が考え始めたことと同じだった。

目の前には、減った兵糧と薬、修理待ちの武器を記した帳面がある。

その上に、閻婆惜からの書状が重なった。

二龍山を守りたい。

そう思っていた。

でも、本当に守りたいのは山なのだろうか。

私は帳面を開き直した。

帳面に並んでいるのは、ただの数字ではない。

兵糧を食べ、傷を負えば薬を使い、武器を持って山を守っている人たちの暮らしだ。

迎児も孫二娘も、魯智深様たちも、その向こうにいる。

場所だけ残して、その人たちを失ったら何の意味もない。

「……そうか」

思わず声が漏れた。

孫二娘がこちらを見る。

「何だい?」

「私、勘違いしてました」

逃げてきた私にとって、二龍山はやっと手に入れた居場所だった。

だから、ここを出ることは居場所を失うことだと思っていた。

違う。

居場所というのは、山の名前ではない。

ここで一緒に生きている人たちのことだ。

なら、守るべきものを間違えてはいけない。

「青州の戦が終わったら、みんなに話します」

「梁山泊へ行くって?」

「まだ決定じゃありません。魯智深様たちの考えも聞きます」

そこは私一人で決めることではない。

でも、自分の答えだけは出しておく。

私は閻婆惜さんの書状を、帳面の上へ置いた。

「私は、合流した方がいいと思う」

口にすると、不思議なくらい静かだった。

追われたからでも、負けたからでも、怖くなって逃げ出すだけでもない。

この山より、ここにいる人たちを守りたい。

そのために梁山泊へ入る方がいいと判断した。

迎児が私を見つめている。

何か感じたのかもしれない。

けれど、まだ何も分からないらしく、黙っている。

それでいい。

今度の答えは、自分で口にする。

「返事は、青州が終わってからにします」

「そうかい」

「でも、その時は私から皆さんに提案します」

孫二娘が笑った。

「楊雄がいる梁山泊へ、自分から行くのかい?」

「行きます」

私は帳面を閉じた。

「あの人がいるからって、私の行き先まで決められたくありません」

青州では、まだ戦が続いている。

二龍山の先がどうなるかも、まだ決まっていない。

それでも一つだけ決めた。

守るのは、山じゃない。

ここで生きている人たちだ。

そして、私がどこで生きるかを決めるのは楊雄ではない。

梁山泊へ行く。

今度は、私が選ぶ。

巧雲様は、帳面を三冊ご覧になったあと、しばらく黙っておられました。


「迎児」

「はい」

「私、梁山泊へ行くことになるかもしれない」

「楊雄様がおられますが」

「いるわね」

「よろしいので?」

「だからって、あの人に私の行き先まで決めさせたくないの」


以前なら避けるしかなかった場所を、今度は自分で選ぶ。


立派になられました。


「巧雲様」

「何?」

「今、少し何かが変わった気がいたします」

「また!? 何が!?」

「分かりません」

「分からないものを感じないで!」


ただ、梁山泊には一つ問題がございます。


柴進様がいらっしゃいます。


しかも巧雲様のフェロモンは、休んでも食べても戻らず、柴進様と実際に触れ合った時にしか補充されません。


「迎児」

「はい」

「今、絶対ろくでもないこと考えたでしょ」

「何も申しておりません」

「顔が言ってるのよ!」


行き先と補充先が、同じ場所になりました。

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