知らない言葉が出ました
「迎児、昨日のことを説明しろって言われたわ」
「何をでございますか?」
「全部よ」
「敵味方の殿方が前かがみになった件も?」
「そこを言いたくないの!」
「では、弾切れの件を」
「もっと嫌!」
「柴進様に触れなければ補充できない件は?」
「迎児、私を追い詰めるのやめて!」
援軍で来た扈三娘様に、よりによって一番説明しづらいところを聞かれてしまった。
しかも――なぜか、あの人を見ていると妙な感じがする。
「巧雲様?」
「何でもないわ。たぶん」
そう思っていた。
まさか、お互いの口から知らない言葉が出てくるまでは。
「昨日、何したの?」
扈三娘様に真正面から聞かれた。
逃げたい。
呼延灼の騎馬が山を上がってきた時より、今の方がよほど逃げたい。
私は帳面を胸の前へ抱えたまま、助けを求めて周囲を見回した。
楊志様は目を逸らし、武松様は知らない顔をしている。
魯智深様だけは、どう見ても面白がっていた。
「魯智深様」
「何じゃ?」
「助けてください」
「ワシには説明できん」
「知ってますよね!?」
「知ってはおるが、ワシの口から説明することではなかろう!」
正論なのが腹立たしい。
少し離れたところにいる周通殿は、私と目が合っただけで腰を落としかけた。
「だから出ませんって!」
「分かってるけど身体が先に動くんだよ!」
最悪の後遺症である。
扈三娘様が周通殿を見て、それから私を見る。
その隣では呂玉楼様が槍を持ったまま普通に立っていた。
女性だから当然ながら、フェロモンについては何の警戒もしていない。
「……何をしたら、ああなるの?」
「私にも、どこから説明したらいいのか……」
呂玉楼様が首を傾げる。
「昨日、桃花山の兵が妙な様子だったとはお聞きしております。敵も味方も、揃って前かがみになったそうでございますが」
とうとう言われてしまった……
初対面の女性二人を前に、よりによってそこから説明しなければならないらしい。
「それはですね……私から、何か出るんです」
「何か?」
「何かです」
「そこを聞いてるんだけど?」
「私だって詳しく知りません!」
本当に知らない。
前世で秘書課にいた時、こんな研修は受けていない。
転生後の業務範囲が広すぎる。
「それで、その何かを男の人が浴びると、理性はあるんですけど、身体だけが勝手に反応するんです」
「どう反応するの?」
扈三娘様、容赦がない。
私は少し離れた男たちを見る。周通殿が首を横に振っていた。
言うな、という顔である。
でも聞かれたのだから仕方ない。
「……勃ちます」
「ぶっ!」
扈三娘様が吹いた。
呂玉楼様は目を見開いたものの、すぐに真顔へ戻る。
周通殿は両手で顔を覆った。
「言ったぁ……」
「聞かれたからでしょう!」
扈三娘様は口元を押さえていた。
笑っているのかと思ったら、耳まで赤い。
「それを……戦で使ったの?」
「私も最初は、戦で使うものじゃないと思ってました!」
「最初は?」
「使いました」
「使ったんだ……」
「呼延灼にも効きました」
「本人にも!?」
そこは驚くらしい。
呂玉楼様は笑わなかった。
むしろ、兵器の査定でも始めるような顔になる。
「敵味方は選べるのでしょうか?」
「選べません」
「届く範囲は?」
「分かりません」
「強さの調整は?」
「多少なら……でも正確には無理です」
「何度でもお使いに?」
「弾切れしました」
呂玉楼様が黙った。
「……兵器として扱ってよいものなのですか?」
「楊志様にも同じようなことを言われました」
離れたところから声が飛んできた。
「俺は二度と戦力として数えんと言った!」
聞こえていたらしい。
扈三娘様がまた肩を震わせる。
「しかも補充には条件があります」
「まだあるの?」
「柴進様に触れないと戻りません」
「何で!?」
扈三娘様の声が裏返った。
そこは私が一番聞きたい。
「寝ても戻りませんし、食べても駄目です。たぶん薬も効きません」
「柴進に触るだけ?」
「はい」
「……何、その仕様」
「私が知りたいです!」
呂玉楼様はまだ真顔だった。
「では、柴進殿が遠くにいる間は使えぬのですね?」
「完全に空です」
「それで男の方々が距離を取っておられるのですか?」
「実際には、もう一滴も出ないんですけどね」
周通殿が顔を上げた。
「その言い方もやめろ!」
知りません。
私が始めた言い方ではない。
扈三娘様はとうとう笑いをこらえきれなくなったらしく、肩を震わせながら私を見る。
「ごめん。いや、笑っちゃいけないんだろうけど……」
「笑っていいですよ。私も何がおかしいのか分からなくなってきました」
戦場で敵味方の男をまとめて前かがみにし、その夜は双方を眠らせず、翌朝には洗濯物まで増やした。
改めて説明すると、本当にひどい。
扈三娘様はまだ笑っていた。
ところが、ふいに表情が止まった。
「……何です?」
返事がない。
扈三娘様は私を見ていた。
顔だけではなく、髪から首元へ視線が落ち、胸元で止まり、また顔へ戻ってくる。
さっきまでの笑いとは違う。
何かを確かめようとしている。
「扈三娘様?」
呼んでも、すぐには答えなかった。
眉を寄せたまま、私の顔を見ている。
そして、ほんの少しだけ唇が動いた。
「……みく……」
ゾクっとした。
懐かしいより先に、気味が悪かった。
この世界で聞くはずのない言葉だったからだ。
姓でも字でもなく、潘巧雲として数年生きてきた私には何の関係もないはずの言葉だった。
なのに、耳へ入った瞬間だけ、身体の奥が勝手に反応した。
「……今、何て言いました?」
扈三娘様がはっとした。
「え?」
「今です。何か言いましたよね」
「……言ってない」
「言いました」
「気のせいじゃない?」
目を逸らした。
絶対に言った。
しかも本人まで、自分の口から何が出たのか分かっていないような顔をしている。
「みく……って」
「ちょっと待って」
今度は扈三娘様が自分の口元を押さえた。
「アタシ、そんなこと言った?」
「言いましたよ」
「何で?」
「私に聞かないでください!」
扈三娘様の顔から笑いが消えた。
呂玉楼様が、私たちを交互に見る。
「何か意味のある言葉なのでしょうか?」
「……分かりません」
「アタシも分からない」
二人とも、本当に分からない。
それが余計に嫌だった。
意味のない言葉なら、どうしてこんなに引っかかるのだろう。
私は扈三娘様を見る。
初めて会った女のはずなのに、見ていると妙に落ち着かない。
顔や声を知っているわけではないのに、もっと別のところで覚えているような気がする。
「……何でしょうね?」
「こっちが聞きたい」
扈三娘様も、さっきから私を見ている。
しばらく妙な空気になったが、先に視線を外したのは扈三娘様だった。
「まあ、いいか」
「いいんですか?」
「分からないもの考えてても仕方ないでしょ。それより呼延灼、青州へ戻るんだよね?」
「そうらしいですね」
「だったら今から追って、青州へ入る前にもう一回叩けない?」
私は固まった。
呂玉楼様が即座に口を挟む。
「三娘様、こちらの兵も疲れております」
「でも今なら背中向けてるじゃない」
「全軍で追えば、伏兵を受ける恐れもございます」
「じゃあアタシたちだけで――」
「行きません」
呂玉楼様の返事が速い。
扈三娘様が不満そうに頬を膨らませた。
「ちょっとくらい」
「駄目です」
「呼延灼だよ?」
「存じております」
私は、そのやり取りを見ていた。
何だろう……
ものすごく嫌な感じがするが、扈三娘様そのものが嫌なのではない。
こういう人を、私は知っている気がする。
止められているのに先に動こうとして、危ないと言われても『でも今なら行けますよね?』という顔をする人を。
今にも馬へ戻りそうな扈三娘様を見ていたら、頭の奥で何かが引っかかった。
言葉が浮かぶ。
意味より先に……
「……のぶ……」
自分の声に、私自身が固まった。
何を言った?
今のは何?
扈三娘様がゆっくりこちらを向く。
「……え?」
心臓が嫌な跳ね方をした。
少なくとも潘巧雲として生きてきた私には、名前にも呼び名にも心当たりのない言葉だった。
それなのに、考える前に口から出た。
「いえ……何でもありません」
「今、絶対何か言ったよね?」
「言ってません」
「言ったでしょ!」
「気のせいです!」
「さっきアタシに言ったこと、そのまま返してるじゃない!」
やばい。
完全に聞かれていた。
「何て言ったの?」
「分かりません!」
「分からないのに言ったの?」
「勝手に出たんです!」
その瞬間、周通殿がまた腰を落とした。
「お前、その言い方やめろ!」
そっちじゃない!
「今の話はフェロモンじゃありません!」
「紛らわしいんだよ!」
扈三娘様が吹き出した。
私も笑いそうになった。
でも笑えなかった。
「のぶ」という言葉が、まだ頭の中に残っている。
何だ、これは?
どうして、こんな言葉が出た?
考えようとすると、何かが出そうで出ない。
扈三娘様も、笑いが引いたあとで私を見つめていた。
「……みく」
「え?」
「やっぱり、さっきアタシ、それ言った気がする」
今度は誤魔化さなかった。
「でも意味が分からない」
「私も、『のぶ』が何なのか分かりません」
「なのに出た?」
「はい」
「気持ち悪いね」
「そこは同意します」
呂玉楼様が静かに首を傾げる。
「お二人とも、以前に聞いた言葉なのではございませんか?」
「それが分からないんです」
「思い出せそうで、思い出せない」
扈三娘様がそう言った瞬間、また胸がざわついた。
何かを思い出しかけている。
そんな感覚だけが、妙に近くにあった。
でも私は、それ以上考えるのをやめた。
無理に引っ張り出そうとすると、触れてはいけない場所へ手を突っ込むような感覚がある。
扈三娘様も同じなのか、珍しく黙っていた。
初対面のはずだし、名前も生まれも違う。
私は潘巧雲で、あの人は扈三娘。
それなのに、互いを見た瞬間だけ、この世界にない言葉が口からこぼれた。
「……変ですね」
「うん……変」
それ以上の答えは出なかった。
やがて扈三娘様が肩を竦める。
「まあ、今は呼延灼の方が先か」
「そこへ戻るんですか」
「だって逃げるんでしょ?」
「やっぱり脳筋……」
最後まで言う前に、また嫌な言葉が頭の奥へ浮かびかけた。
のぶ。
私は慌てて口を閉じる。
今度は言わなかった。
扈三娘様も、こちらを見ながら妙に眉を寄せている。
たぶん、あちらにも「みく」が残っている。
フェロモン兵器の事情聴取は終わった。
なのに、別の厄介なものが残った。
この世界では聞くはずのない二つの言葉。
「みく」と、「のぶ」。
どうして私たちは、初対面の相手を見て、そんな言葉を口にしたのだろう?
巧雲様は、扈三娘様と顔を合わせた途端、妙な言葉を口にされたそうです。
「迎児、『のぶ』って何だと思う?」
「存じません」
「私も分からないのよ」
「扈三娘様は『みく』と?」
「そう。しかも本人も意味が分からないって」
それは少々、不気味でございます。
「前世に関係あると思う?」
「可能性はございますね」
「嫌だなあ……思い出しそうで思い出せないの」
巧雲様は眉を寄せた。
「それより、フェロモンは?」
「出ません」
「知らない言葉は出るのに?」
「その言い方やめて!」
弾は出ないのに、謎だけ増えました。




