悪魔本領発揮
「迎児、今度は呼延灼本人が出てきたわ」
「それは大変でございますね」
「そうなのよ。荷車も獣道も、もう見られてるし」
「では、次は何をなさるのでございますか?」
「……まだ考えてる」
「珍しいですね」
「副官になったばかりで、毎回奇策が出てたまるもんですか!」
迎児が少し考えてから、私の顔を見た。
「巧雲様には、まだ一つございます」
「何が?」
「今まで何度も、皆様を座らせてきたものが」
「待って……」
嫌な方向に話が進んでいる。
「迎児」
「はい」
「それ、戦で使うものじゃないからね?」
「そうなのでございますか?」
その顔やめて……
というわけで第42話。
呼延灼本人が来ます。
……迎児。
何でちょっと期待してるの?
「本領発揮かと」
やめて!
「三手目だ」
楊志様の言葉を聞きながら、私は正面の山道へ目を向けた。
呼延灼本人が出てきた。
だからといって、すぐこちらへ駆け上がってこられるわけではない。
そこには、最初に使った荷車がまだ残っている。
燃えた俵は黒く崩れ、木枠もところどころ焦げていたが、車輪へ噛ませた石も、下へ通した丸太も消えてはいない。
焼いたからといって、荷車そのものが跡形もなくなるわけではなかった。
周通殿が山道を見下ろす。
「……あれ、まだ邪魔だよな?」
「邪魔にするために置いたんです」
「いや、そうだけどよ」
下では青州兵が動き始めていた。
盾を前へ並べ、その後ろから兵が荷車へ近づいてくる。
前回のように、何人かを無造作に出して片づけさせるつもりはないらしい。
楊志様が舌打ちした。
「学習しているな」
「呼延灼ですからね」
こちらが一度使った方法を、そのまま受けてくれる相手ではない。
だから、こちらも同じようには守らない。
「全部の荷車を守る必要はありません」
私が言うと、李忠殿がこちらを見る。
「どかされてもよいと?」
「はい、一台を守るために兵を使いすぎたら、向こうの思うつぼです。どかされたら次へ下がって、またそこで止めます」
私は山道の奥を指した。
「弓も、敵を倒すためじゃなくて撤去作業を止めるために使ってください。荷車をどかして盾を並べ直し、負傷者を下げてまた前へ出る。その全部に時間を使わせます」
周通殿が首を傾げた。
「それで勝てるのか?」
「勝ちません」
「は?」
「今日は勝たなくていいんです」
周通殿だけでなく、李忠殿まで黙った。
武松様が先に理解した。
「梁山泊が来るまで持たせるのか?」
「はい、桃花山を今日落とされなければいい。明日も残っていれば、それで十分です」
楊志様はすぐに指示を飛ばした。
弓兵を正面へ戻しすぎず、獣道側にも最低限の兵を残す。
敵が荷車の撤去へ取りかかった時だけ射ち、こちらから無理に戦を広げない。
戦うというより、徹底した嫌がらせだった。
だが、今はそれでいい。
青州兵が最初の荷車へ取りついた。
盾の陰から兵が出て、車輪へ噛ませた石を外そうとする。
「射て!」
矢が飛び、作業の手が止まった。
しばらくして盾を増やして再び出てくるが、こちらが射れば、また引っ込む。
「……地味だな」
「地味でいいんです」
「さっきまで罠とか仕掛けてたのに?」
「毎回派手なことを思いつけると思わないでください!」
副官になったばかりで、次から次へと奇策が出てたまるか……
それでも時間は過ぎていった。
一台目の荷車が、ようやく道の脇へ寄せられる。
青州兵から声が上がったが、その先には二台目がある。
「次、来ます」
私が言うと、楊志様がわずかに笑った。
「嫌な顔をしているぞ」
「誰がです?」
「敵がだ」
見れば、先頭の兵たちは確かに嫌そうな顔をしていた。
一台どかしたのに、また同じものがある。その向こうにもある。
最初から全部が見えていれば覚悟もできるが、一台片づけるたびに次が出てくる方が、たぶん嫌だ。
「性格悪いな、潘副官」
「戦術です!」
「そういうことにしとく」
周通殿の扱いにも、少し慣れてきた気がする。
昼を過ぎても、青州軍は山道を抜けなかった。
こちらも楽ではない。
矢は減り、兵も疲れるうえ、獣道側の動きも見張らなければならなかった。
呼延灼は急がない。
盾を前へ出し、少しずつ障害物を取り除かせている。
苛立って力押ししてくれれば楽なのに、その気配がない。
「……厄介ですね」
「今さら気づいたか」
「気づいてました!」
だから困っているのである。
二台目が動き、三台目へ取りつかれる。
時間は稼げているが、永遠には続かない。
矢の残りを聞き、兵の疲れ具合を確かめながら正面を見ていた時、ふと思い出した。
二龍山で、柴進様のことを考えただけで楊志様が立てなくなった。
いや、正確には違う。
柴進様の名前を聞くたび、毎回ああなったわけではなかった。
無事だと聞いて胸がいっぱいになった時。
会いたいという気持ちが抑えられなくなった時。
触れたいと思ってしまった時。
そういう時だけ、迎児が先に気づいた。
そして男たちが座った。
原因は柴進様ではない。
私の方だ。
気持ちがあるところを越えると、自分でも分からない何かが一気に外へ漏れる。
そこまでは、たぶん合っている。
問題は、その先だ。
どこまで届くのか分からない。
誰にだけ効かせることもできない。
一度出たものを途中で止められるかも分からない。
今まで全部、事故だったのだから……
私は隣を見る。
「楊志様」
「何だ?」
「二龍山で、私のせいで立てなくなりましたよね?」
楊志様の顔が止まった。
「……なぜ今それを言う?」
「ワシも聞きたいぞ」
魯智深様まで振り向いた。
武松様だけは、嫌な予感を察したらしい。
「潘巧雲……何を考えた?」
「私、たぶん分かったんです。どういう時に、あれが全開になるのか」
三人とも黙った。
周通殿だけが、分かっていない。
「何の話だ?」
「知らなくていい」
武松様が即答した。
「いや、俺もたぶん関係あるだろ!?」
ある。
非常にある。
私は山道の下を見る。
呼延灼がいる。
その周囲にも青州兵がいる。
当然、全員男である。
「敵だから効かない、なんてことはありませんよね?」
楊志様が額を押さえた。
「待て……お前、それを戦で使うつもりか?」
「時間を稼げればいいんですよね?」
「そういう問題では――」
そこで言葉が止まった。
戦術として考え始めた顔だった。
やめてほしい。
私だって、こんなものを兵器として真面目に検討されたくない。
「発動させるところまでは、たぶんできます」
「たぶん?」
「強さも範囲も分かりません」
「使い物にならんではないか!」
「でも二龍山では楊志様まで立てなかったでしょう!」
「それを実績にするな!」
実績ではある。
認めたくないだけで。
やがて楊志様が苦々しく言った。
「……否定しきれんのが腹立たしい」
「全員、私から離れてください」
「どれくらいだ?」
「それは分かりません」
「結局そこも分からんのか!」
私にできるのは、自分の感情を意図的にそこまで持っていくことだけだ。
その先は制御できない。
周通殿は誰より早く離れた。
「お前、そこまで行くのか!?」
李忠殿が叫ぶ。
「念のためだ!」
学習しすぎである。
私は目を閉じ、柴進様の顔を思い出した。
声を思い出す。
無事だと聞いた時の安堵も、もう一度会いたいと思った時の苦しさも、全部引っ張り出す。
会いたい。
声を聞きたい。
触れたい。
もう一度、あの人の隣に立ちたい。
胸の奥が熱くなり、その熱が一気に身体へ広がった。
事故の時と同じだ。
違うのは、自分でそこまで持ってきたことだけ。
「……来た」
まずい……
でも、今はそれでいい。
「……よし」
「何が『よし』なんだ!」
遠くから楊志様の声が飛んだ。
次の瞬間、正面の青州兵の動きが目に見えて崩れた。
荷車へ取りついていた兵が一斉に腰を引き、盾を支えていた者まで姿勢を保てなくなる。
後ろから押していた兵も足を止め、隊列のあちこちで肩や盾がぶつかった。
「何だ、これは!?」
「盾を上げろ!」
「無理だ!」
「前を詰めろ!」
「だから今は無理だと言っている!」
命令は飛んでいる。
理性も残っている。
なのに、身体がついていかない。
前列が止まったため後列まで詰まり、荷車の撤去も止まった。
騎馬の指揮役まで鞍の上で姿勢を崩し、馬を落ち着かせるだけで精一杯になっている。
これでは、前へ進めない。
そして呼延灼まで無事ではなかった。
遠目にも分かった。
騎上で一度大きく姿勢を崩した。
それでも指揮をやめず、周囲の兵へ何かを怒鳴っている。
やがて青州軍の前列が、少しずつ後ろへ下がり始めた。
「敵、退きます!」
前列を下げなければ盾列を組み直せず、荷車の前に残れば矢を受けるだけになる。
しかも原因が分からず、呼延灼自身まで異変から逃れられていない。
青州軍は混乱して逃げたのではなく、隊列を崩さないまま山道の射程外まで距離を取っていった。
呼延灼が、自分で退かせたのだ。
「……呼延灼にも効いた」
自分で言って、ものすごく嫌になった。
*
その頃、二龍山では――
帳面をめくっていた迎児が、突然手を止めた。
「……巧雲様?」
誰も何も言っていないのに、迎児は桃花山の方角を振り返った。
目に涙が浮かぶ。
「巧雲様ぁ……」
孫二娘が顔を上げた。
「あァ……やったねェ」
「何をでございますかぁ!?」
*
桃花山では、青州軍が本当に後退していた。
私は大きく息を吐く。
「……時間、稼げましたね」
返事がない。
振り返ると、楊志様が前かがみだった。
魯智深様も、武松様も、李忠殿も、かなり離れた周通殿まで同じ姿勢である。
「何で!?」
楊志様が苦しそうな姿勢のまま言った。
「……見事だった」
魯智深様も頷く。
「うむ! よくやったぞ、巧雲!」
武松様まで真顔だった。
「敵を退かせた。十分だ」
「何で全員その姿勢で褒めるんですか!?」
「ワシらも浴びたんだ!」
「だから離れろと言った」
「離れたよ!」
周通殿が叫んだ。
「全然足りてないじゃないですか!」
敵味方を選ばず、範囲の指定もできないくせに、やたらと広い。
……これ、完全にマップ兵器では?
いや――
ここまで来たら、名前を付けてもいいかもしれない。
超弩級広域無差別敵味方識別不能型・潘巧雲式むんむんフェロモン前かがみネオサイクロンメロメロストロングフルバースト砲。
……長い。
そして最低である。
「潘巧雲」
前かがみのまま、楊志様が言った。
「副官としては、よくやった」
「その姿勢で言わないでください!」
日が落ちる頃、青州軍は山の下まで退いて陣を整えていた。
逃げたわけではない。
呼延灼は、まだいる。
私はその陣の灯りを見ながら考えた。
昼は稼げた。
でも、夜は?
「……楊志様」
「何だ?」
「青州軍、今から寝ますよね?」
「寝るだろうな」
少し間が空いた。
楊志様の顔が変わった。
「待て」
「何です?」
「お前、まだやる気か?」
「明日の攻撃を遅らせたいんですよね?」
「こちらも寝られなくなるぞ!」
「……そこは、まあ」
「まあ、ではない!」
それでも、やった。
一度きっかけを掴んでしまえば、昼ほど感情を高めなくても反応が出ることは分かった。
青州軍の灯りが減る頃、柴進様の顔を思い出し、会いたいという気持ちを意識して引っ張り上げる。
胸の奥が熱を持ったところで止めておくと、しばらくして山の下から男たちのざわめきが聞こえてきた。
効いている。
静かになるまで待つ。
今度は声を思い出す。
また、ざわめきが広がった。
桃花山側からも悲鳴が上がる。
「巧雲! もう勘弁してくれ!」
魯智深様である。
「敵も寝てません!」
「ワシらも寝ておらん!」
正論だった。
昼ほど感情を高めていないのに、どこまで届いているのかは相変わらず分からない。
できるようになったのは、発動のきっかけを作ることだけ。
敵味方も、範囲も、結局選べない。
それでも青州軍がようやく寝静まりそうになるたび、私は間を置いて繰り返した。
こちらも眠れない。
向こうも眠れない。
それでも時間だけは、確実に過ぎていく。
翌朝――
桃花山では、朝から妙に洗濯をしている男が多かった。
山の下を見ると、青州軍の陣でもやたらと洗濯物が干されている。
「……青州軍も洗濯してません?」
楊志様は答えなかった。
武松様もこちらを見ない。
魯智深様に至っては、無言で自分の衣をすすいでいる。
そして季節外れだというのに、どこからともなく栗の花のような匂いが漂っていた。
私は鼻を押さえた。
……考えないことにしよう。
周通殿が死んだ目でこちらを見る。
「なあ、潘副官」
「何です?」
「二度と夜にやるな」
「でも、敵も眠れてないですよ?」
「俺たちも眠れてねえんだよ!」
その時、山の下で太鼓が鳴った。
全員が動きを止める。
洗濯物の向こうで、呼延灼の旗が上がった。
一晩寝かせなかった。
朝から洗濯までさせた。
それでも、攻めてくるらしい。
「……元気ですね、呼延灼」
楊志様が私を睨んだ。
「お前が言うな」
時間は稼いだ。
だが、まだ足りない。
巧雲様は、本当に本領を発揮されたそうです。
「迎児、その言い方やめて」
「呼延灼様まで退かせたのでございましょう?」
「味方まで前かがみになったけどね!」
「夜もお使いになったとか」
「時間を稼ぐためよ!」
「皆様、眠れなかったそうですね」
「敵もだから!」
翌朝は、敵味方ともに洗濯物が増えたそうでございます。
「そこまで言わなくていいから!」
「栗の花のような香りも――」
「迎児!」
ですが、呼延灼様はまだ退きません。
「……あれだけやったのに」
「はい」
巧雲様――
悪魔の本領を発揮しても、戦は終わらないようでございます。
「その呼び方やめて!」
というわけで次回。
寝不足のまま、まだ続きます。




