父は、役に立たない
潘巧雲でございます。
夫の家が頼れないなら、父の家はどうでしょう。
そう思って、迎児に道を聞きました。
この身体の父親です。
私にとっては、まだ見知らぬ人でもあります。
助けてほしい、というより――
まずは、使える窓口かどうかの確認です。
結論から申しますと、あまり期待しない方がよさそうです。
朝になっても、家の中の空気は変わらなかった。
昨日のことは、昨日で終わったらしい。
少なくとも、この家ではそう扱われていた。
楊雄は早くに出ていった。
迎児はいつも通りに水を運び、衣を畳み、私の前に膳を置いた。
何もなかった顔をして、日が始まる。
そのことが、一番嫌だった。
騒がれたいわけではない。
泣いてほしいわけでもない。
ただ、昨日あれだけ言葉で心を擦り減らされた後でも、家は平然と朝を迎えるのだと思うと、胸の奥が重くなった。
私は箸を持ったまま、迎児を見た。
「迎児」
「はい」
「父の屋敷は近いの?」
迎児の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、何となく分かる。
その質問は、この家ではあまり出さない方がよいものなのだ。
「潘公様のお屋敷でございますか?」
「ええ」
「歩いて行けぬ距離ではございません」
そこで言葉が切れた。
「ですが……」
迎児は少し目を伏せた。
「奥様が急にお訪ねになりますと、潘公様が驚かれるかと」
驚く――
それは、心配するという意味ではないのだろう。
私は箸を置いた。
「今日は、様子を見に行くだけよ」
「旦那様には」
「長くはかからないわ」
答えになっていない。
自分でもそう思った。
けれど、楊雄に許可を取ってから行くという選択肢はなかった。
昨日のあの人に、父の家へ行きたいと告げれば、また同じ場所へ引き戻される。
誰が決めた。
何のために行く。
俺に言えぬことでもあるのか。
声まで想像できた。
「道が分からないの。案内してくれる?」
迎児は少し迷った後、小さく頷いた。
「はい」
その返事に、私は少しだけ息をついた。
父に会いたいわけではなかった。
この身体の父だと言われても、私には何の記憶もない。
懐かしさも、甘えも、怒りもない。
ただ、確認する必要があった。
この身体の身内は、使えるのか。
いざという時、退避先になるのか。
楊雄から距離を取る手段になり得るのか。
それを見に行く。
情ではなく、確認だった。
支度を整え、迎児を連れて外へ出た。
昨日より、道の見え方は少しだけましだった。
曲がり角の井戸。
軒先に干された布。
野菜を並べる女。
通りの向こうにある古い門。
それでも、一人では歩けない。
迎児が半歩前を行く。
私はその後ろを歩く。
この子の背中は、今日も地図だった。
「奥様」
道の途中で、迎児が小さく言った。
「潘公様には、何と」
「まずは、顔を見に来たと言うわ」
「はい」
「その後は、話しながら考える」
迎児は振り返らなかった。
でも、背中が少し硬くなった気がした。
この子はもう知っているのだろう。
潘公という父が、何を言う人なのか。
潘公の屋敷は、思ったより近かった。
大きすぎるわけではない。
けれど、商いで身を立てた家の落ち着きがあった。
門の作りも、置かれた桶も、下働きの動きも、楊雄の家とは少し違う。
ここは父の家。
この身体が生まれた家。
そう思おうとしても、胸は動かなかった。
迎児が取次ぎを頼む。
しばらくして、中へ通された。
潘公は、奥の部屋にいた。
年を取った男だった。
商いをしてきた人間らしく、目はよく動く。
顔には疲れもあるが、身なりは整っている。
私を見た時、驚きはした。
けれど、立ち上がるほどではなかった。
「巧雲」
名前を呼ばれた。
私は頭を下げた。
「お父様」
口にした瞬間、舌に違和感が残った。
お父様――
この人を、そう呼ぶのか。
潘公は私の顔を眺めた。
「急にどうした。楊雄殿のところで、何かあったのか」
いきなり核心に触れてきた。
私は座りながら、言葉を選んだ。
「大事というほどではございません。ただ、少し気になることがありまして」
「気になること」
「昨日、前の夫の供養へ参りました」
「ああ。命日であったな」
その言い方は、軽くはなかった。
一応、覚えてはいるらしい。
「その折、寺の若い御僧から、不適切な言葉を掛けられました。今後は直接話しかけないよう、寺の年長の方を通していただくよう伝えました」
潘公の眉が少し動いた。
「そのようなことが」
「はい」
「楊雄殿には」
「お話ししました」
「何と言われた」
私は少しだけ黙った。
全部を言うべきではない。
そう思った。
この父が味方かどうか、まだ分からない。
そして、分からない相手にすべてを渡すのは危ない。
「寺で騒ぎを起こしたのかと」
潘公は息を吐いた。
怒りではない。
困ったような息だった。
その時点で、答えの半分は見えた。
「巧雲」
声が少し低くなった。
「お前は、もう一度嫁いだ身だ」
来た――
昨日とは違う口から、同じ種類の言葉が来た。
私は黙っていた。
「楊雄殿は悪い男ではない。役目もある。家もある。お前を粗末にするような男ではなかろう」
粗末にする――
それは、何を基準に言っているのだろう。
食べさせていることか。
屋根の下に置いていることか。
前の夫の供養へ行かせたことか。
「少し厳しいところはあるかもしれぬ。だが、夫とはそういうものだ」
私は膝の上で手を重ねた。
「私の話が、どうにも届かないように思えまして」
「女の話は、届かせ方も大事だ」
潘公は、悪気のない顔で言った。
その顔が、余計に重かった。
「正しいことでも、言い方を誤れば角が立つ。家の中で角が立てば、困るのはお前だ」
困るのは、お前……
助けるとは言わない。
「戻ってくる場所があると思ってはならぬ」
静かな声だった。
私は顔を上げた。
潘公は、私を見ていた。
責めているようではない。
むしろ、心配しているつもりなのだろう。
「父として、言わねばならぬ。お前は二度目なのだ。楊雄殿の家で堪えねば、この先はもっと難しくなる」
父として……
その言葉が、妙に遠く聞こえた。
この人は、父なのだろう。
この身体にとっては。
この世界では。
でも、私にとっては違う。
見知らぬ男が、父という立場で、見知らぬ夫の家へ戻れと言っている。
「分かっております」
私はそう言った。
分かってはいない。
納得もしていない。
ただ、この窓口が使えないことだけは分かった。
その時、外から男の声がした。
「潘公、こちらでよろしいですか」
潘公の顔が少し変わった。
それまで困ったように曇っていた顔が、急に明るくなる。
商いの話をする時の顔なのだろう。
「おお、石秀か。入れ」
石秀――
その名を、私は心の中で拾った。
襖の向こうから、若い男が入ってきた。
背が高く、身のこなしが軽い。
服は上等ではないが、清潔だった。
顔つきは精悍で、人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。
彼は私を見ると、すぐに頭を下げた。
「お嬢様のおいでとは知らず、失礼いたしました」
礼儀はある。
声もまっすぐだ。
悪い印象を持つ方が難しい男だった。
だからこそ、私は少し警戒した。
「石秀、どうした」
潘公が尋ねる。
石秀は、持っていた帳面のようなものを差し出した。
「先ほどの荷は裏へ回しました。脂の悪いところは分けてあります。混ぜれば量は増えますが、客は分かります」
潘公の目が細くなる。
「ほう」
「商いは信用と聞きました。目先で得をしても、次に買ってもらえなければ損です」
「若いのに、よく分かっておる」
潘公は嬉しそうに笑った。
さっきまで、私の話には困った顔をしていた男が……
石秀は続けた。
「それと、刃の悪い包丁が二本ありました。研ぎに出すより、こちらで手入れした方が早いかと」
「お前、包丁も扱えるのか」
「少しだけです。旅の間に覚えました」
「腕も立ち、気も利く。たいしたものだ」
潘公の声には、素直な感心があった。
私は黙ってそれを見ていた。
石秀は、こちらへ割り込んできたわけではない。
ただ、仕事の報告をしに来ただけだ。
礼も失っていない。
むしろ、よくできた若い男に見える。
それでも、胸の奥に小さな嫌な感じが残った。
私の話は、終わっていない。
けれど、部屋の中心はもう石秀へ移っている。
潘公は、私へ向けていた困った顔を捨て、石秀へ身を乗り出していた。
「食わせていただいた恩があります」
石秀は言った。
「この店で使っていただけるなら、できることは何でもします」
「恩を忘れぬ男はよい」
潘公は頷いた。
「今どき、口ばかりの若い者も多いが、お前は違うな」
「買い被りでございます」
石秀は控えめに笑った。
その控えめさまで、よくできている。
迎児が、私の後ろで小さく息を殺しているのが分かった。
この子も何かを感じているのか。
それとも、父と男の話に女が口を出せない空気を知っているだけなのか。
潘公は石秀と、肉の仕入れ、店の番、客筋の話を始めた。
私はその場に座ったままだった。
娘として来たはずだった。
相談とは言わないまでも、せめて退避先になるかどうかを確かめに来た。
その父は、私に――
「堪えろ」
と言った。
そして今、目の前で、石秀という若い男を気に入っている。
父の家に、他人の男が入っていく。
しかも、歓迎されている。
まだ何かされたわけではない。
石秀は無礼ではない。
潘公も悪意で私を退けたわけではない。
それでも、私ははっきり理解した。
ここも、私の場所ではない。
しばらくして、石秀がこちらを思い出したように頭を下げた。
「お話の途中、失礼いたしました」
「いえ」
私は短く返した。
石秀の目が、ほんの一瞬だけ私を見た。
値踏みではない。
不躾でもない。
ただ、よく見る目だった。
人を覚える目。
私は、その目を覚えておくことにした。
潘公はようやく私へ向き直った。
「巧雲、先ほどの話だが」
もう遅い。
私は静かに頭を下げた。
「父上のお考えは、分かりました」
潘公は少しほっとしたようだった。
「分かってくれればよい。楊雄殿の家で、よく務めなさい」
よく務める――
妻は、務めるものらしい。
「はい」
そう答えた声は、自分でも平らだった。
長居をする理由はなかった。
私は席を立ち、迎児もすぐに動く。
潘公は門まで送るでもなく、石秀に何か指示を出していた。
石秀はそれに気持ちよく返事をしている。
外へ出ると、昼の光が少し傾いていた。
迎児が前へ出る。
私はその背中を見た。
父は、私の話を聞いた。
けれど、助ける気はなかった。
夫の家で堪えろ。
二度目なのだから戻るな。
それが、この身体の父の答えだった。
そして父の目は、いつの間にか私ではなく、石秀という若い男へ向いていた。
夫の家は駄目。
寺も駄目。
父の家も、駄目。
私は迎児の背中を追った。
この子だけが、まだ私を置いていかなかった。
迎児でございます。
潘公様なら、奥様のお話を聞いてくださると思っておりました。
ですが、戻って堪えろと仰るだけでした。
石秀様には、あんなに楽しそうにお話しなさるのに――
帰り道も、私は奥様の前を歩きました。
今度は、置いていかないために……




