夫が怖い
潘巧雲でございます。
供養から戻りました。
失礼な坊主とは、ひとまず距離を置きました。
ですが、家に戻れば安心――
というわけでもないようです。
夫――
今の夫です。
まだ名前より先に、その言葉の方が重く感じます。
今回は、家の中のお話でございます。
家の門をくぐる時、私は一度だけ息を止めた。
迎児は何も言わない。
けれど、歩く速さが寺へ向かう時より少し遅かった。
この子も、分かっているのだと思った。
家に帰る、という言葉が、必ずしも安全な場所へ戻る意味ではないことを……
門の内側は静かだった。
庭の隅に水甕がある。
廊下の板は、ところどころ色が違う。
先ほど出る時には見落としていたものが、戻ってくると少しだけ目に入った。
でも、それだけだった。
ここは、私の家ではない。
どこに何があるか少し分かったところで、安心できる場所にはならなかった。
「奥様、お疲れでは」
迎児が心配そうに言った。
「大丈夫」
そう答えてから、私は自分の声を聞いた。
落ち着いている。
落ち着いてしまっている。
こういう時、自分が嫌になる。
本当に危ない時ほど、妙に頭の中が冷える。
会議室で役員同士が揉めた時もそうだった。
誰かが声を荒らげ、誰かが席を立ちそうになり、資料の一枚が火種になりかけた時――
私はまず、お茶を下げ、議事録を伏せ、次の予定を確認した。
感情は後でいい。
まず、場を壊さない。
その癖が、ここでも出ている。
「先にお休みになりますか」
迎児が聞いた。
私は首を振った。
「旦那様は、まだお戻りではないのよね」
「はい。朝のうちにお出掛けになりましたので」
それなら、今のうちに考えられる。
裴如海のことを、夫へ言うべきか。
言わないべきか。
言わなければ、後で別の口から届いた時に困る。
言えば、寺で何があったか説明しなければならない。
どちらも面倒だった。
でも、私は一応、妻という立場らしい。
夫のいる家で、供養の寺の僧を接触禁止にした。
その報告をしないのは、悪手だ。
報告は早い方がいい。
事実だけを短く。
余計な感情は入れない。
私はそう決めた。
夕方近くになって、門の方で人の気配がした。
迎児が先に気づき、背筋を伸ばす。
それだけで、空気が変わった。
足音が近づく。
私は座ったまま、そちらを見た。
入ってきた男は、思っていたより大柄だった。
顔つきは悪くない。
目も濁ってはいない。
ただ、こちらを見る時、最初から私の上に立っている目をしていた。
この人が楊雄――
今の夫……
「戻ったぞ」
低い声だった。
「はい」
私は頭を下げた。
「供養は済んだのか」
「はい。法要は滞りなく」
そこまでは、普通の会話だった。
楊雄は腰を下ろし、私を見る。
疲れているようにも見えた。
外で仕事をしてきた男の顔だ。
だからこそ、一瞬だけ、もしかしたら話は通じるのかもしれないと思った。
その考えは、すぐに消えた。
「寺で、何かあったと聞いた」
もう届いている。
私は一拍だけ置いた。
「若い御僧から、不適切なお声掛けがございました」
迎児が、部屋の端で小さく身じろぎした。
楊雄の目が細くなる。
「不適切とは」
「亡き夫の供養の場で、私の寂しさを慰めるというようなことを仰いました。今後は直接のお声掛けを控えていただき、供養のことは年長の方を通していただくようお願いしました」
できるだけ淡々と言った。
報告書なら、この程度で十分だ。
楊雄はしばらく黙っていた。
心配するなら、ここだ。
妻に不快な言葉をかけた僧に対して、何があったのかと聞くなら、ここだ。
けれど、楊雄が最初に言ったのは違った。
「寺で騒ぎを起こしたのか」
私は、息を止めかけた。
「騒ぎではございません」
「では、なぜ俺の耳に入る」
声は荒くない。
むしろ静かだった。
それが嫌だった。
「相手が御僧でしたので、寺の中で済ませました」
「供養の寺を替えると言ったそうだな」
そこまで届いているのか。
「次に同じことがあれば、と申し上げました」
「誰が決めた」
私は返事に迷った。
楊雄は私を見ていた。
答えを待っている目ではない。
すでに答えを決めている目だった。
「私が、そう判断いたしました」
「お前が?」
たったそれだけの言葉なのに、喉の奥が冷えた。
「はい」
「女が勝手に寺との話を決めるものではない」
謝るべきか。
説明を重ねるべきか。
私は一瞬で考えた。
ここで正面から言い返せば、余計にこじれる。
まずは場を収める。
言い方だけを引き取る。
判断の正当性は後で残す。
「お騒がせして、申し訳ございません」
楊雄の表情が、少しだけ動いた。
「騒ぎを起こした自覚はあるのだな」
違う――
そう言いかけて、私は口を閉じた。
違う。
今の謝罪は、そういう意味ではない。
場を荒立てたことへの形式的な謝罪だ。
でも、この人はそう取らない。
取らないのではない。
そう取る。
「騒ぎを起こしたつもりはございません。ただ、言い方が強すぎたかもしれないと」
「強く言わねばならぬほど、何を言われた」
楊雄の声が少し低くなった。
迎児が息を呑む音がした。
「先ほど申し上げた通りです」
「僧が何の理由もなく、嫁いだ女にそのようなことを言うか」
胸の奥が冷えた。
ああ――
そちらへ行くのか。
「私には分かりかねます」
「お前の振る舞いに、隙があったのではないか」
言葉が、こちらへ投げられた瞬間、部屋の温度が変わった気がした。
裴如海の一歩も気持ち悪かった。
けれど、この言葉はもっと近い。
ここは家の中だ。
この人は夫だ。
逃げるにも、返すにも、距離が近すぎる。
「私は、亡き夫の供養に参っただけです」
「それは分かっている」
分かっていない声だった。
「お前を疑っているのではない。だが、女は見られ方を考えねばならぬ」
来た――
お前を疑っているのではない。
その言葉の後に、疑いしか続かない時の形を、私は知っている。
責めているわけではない。
ただ確認したいだけだ。
君のためを思って言っている。
現代にもあった。
役員の一人が部下を詰める時、よく使っていた。
「二度目なのだ」
楊雄は言った。
その一言で、胸の中に知らない怒りが生まれた。
二度目――
私は一度目を選んでいない。
二度目も選んでいない。
この身体の過去を知らない。
前の夫の顔も知らない。
今の夫であるあなたのことも、今日初めて見た。
それなのに、二度目という言葉だけが、私の首にかけられる。
「前の夫の供養へ行かせているのも、俺が許しているからだ」
私は、膝の上で指を握った。
許している――
その言葉は、静かに重かった。
「そのことは、ありがたく思っております」
口が勝手に言った。
言った瞬間、間違えたと思った。
楊雄は頷いた。
「分かっているなら、慎め」
謝れば、落ち度になる。
礼を言えば、支配の確認になる。
この家では、言葉の置き場所が違う。
「今後は気をつけます」
「何に気をつける」
楊雄はすぐに返した。
「やましいことがないなら、気をつけることなどあるまい」
私は、息を吐いた。
これは会話ではない。
事情を聞いているのではない。
私を守るためでもない。
最初から、私を悪い位置に置き、そこから謝らせるための手続きだ。
どの答えを選んでも、出口がない。
「迎児」
楊雄が急に名前を呼んだ。
迎児の身体が跳ねた。
「はい」
「お前は見ていたのだろう」
「……はい」
「奥は、寺で声を荒げたのか」
迎児の顔色が変わった。
私は先に口を開いた。
「迎児は関係ありません」
楊雄の目がこちらへ戻る。
「関係があるかどうかは、俺が決める」
静かな声だった。
でも、その一言で分かった。
この家の中では、迎児の口も、私の言葉も、私たちのものではない。
「迎児」
楊雄は続けた。
「その僧とは、前から言葉を交わしていたのか」
迎児が答えられずにいる。
可哀想に……
この子は、何を言っても間違いになる場所に立たされている。
「旦那様」
私は声を落とした。
「迎児は、私を寺へ案内しただけです。何も悪くありません」
「下女を庇う前に、自分の身を正せ」
その言葉で、何かが一段冷えた。
もう駄目だ――
この人には、何を言っても同じだ。
迎児を守ろうとすれば、それも私の落ち度になる。
説明すれば言い訳になる。
謝れば自白になる。
黙れば、後ろめたさになる。
私は口を閉じた。
楊雄は、しばらく私を見ていた。
「黙るのか」
私は答えなかった。
「そうして黙るから、疑われるのだ」
二話目の帰り道で考えたことを思い出した。
この世界で黙っていると、女の沈黙には、誰かが勝手に名前をつける。
今、この人は私の沈黙に名前をつけた。
後ろめたさ――
「今日はもうよい」
楊雄はそう言って、視線を外した。
解放された、とは思わなかった。
ただ、今日は終わっただけだ。
私は頭を下げた。
「失礼いたします」
立ち上がる時、膝が少し重かった。
迎児がすぐに後ろへつく。
廊下へ出て、少し歩いたところで、迎児が小さく言った。
「申し訳ございません、奥様」
私は足を止めた。
「あなたは何も悪くないわ」
迎児は顔を上げなかった。
「でも……私が、うまく申し上げられなくて」
違う。
そう言っても、この子には届かないのかもしれない。
この家では、下の者は先に謝る。
謝って、自分を小さくして、嵐が過ぎるのを待つ。
それが身を守る方法なのだろう。
でも、さっき見たばかりだ。
謝れば、もっと下に置かれる。
黙れば、勝手に意味をつけられる。
説明すれば、疑いの材料にされる。
私は迎児を見た。
この子は、きっとずっとそうして生きてきた。
謝って、黙って、誰かの顔色を見て……
それでも、何かあれば最初に責められる場所で。
「迎児」
「はい」
「次から、何か聞かれても、無理に答えなくていいわ」
迎児が驚いた顔をした。
「ですが」
「私が答える」
そう言ってから、無理だと分かっていた。
私が答えても、守れるとは限らない。
むしろ、さっきのように余計に悪くなるかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
迎児はしばらく私を見て、それから小さく頷いた。
部屋へ戻ると、薄い布がまた目に入った。
朝、目を覚ました時と同じ場所。
知らない天井の代わりに見えた、あの生成りの布。
私はそこに座った。
裴如海は、門の外にいる。
あの坊主は失礼で、危険で、近づけてはいけない男だ。
けれど、楊雄は門の内側にいる。
夫という名前で。
家という場所で。
私の言葉を、私より先に決める顔をして。
外の男を拒めば安全になると思っていた。
でも、違った。
この家では、正しいことを言っても守られない。
謝れば、落ち度になる。
黙れば、後ろめたさになる。
説明すれば、言い訳になる。
この家では、私の言葉は、私を守らない。
私は膝の上の手を見た。
朝見た時と同じ、私のものではない手だった。
けれど、その手を握ったのは、私だった。
迎児でございます。
旦那様は、奥様のお話をお聞きになりませんでした。
奥様も、旦那様の前では本当のお顔をなさいません。
夫婦とは、もっと近いものだと思っておりましたが――
お二人の間は、ずいぶん遠いようでございます。




