失礼な坊主
「迎児、大変よ。目が覚めたら知らない美女になってたわ」
「奥様、ご自分で美女って言うんですか?」
「鏡を見た結果よ。客観的評価です」
「そういうことにしておきます」
「しかも前世でも十分だったのに、色気まで強化されてるの。転生特典の配分がおかしくない?」
「奥様、それ何に使うんです?」
「知らないわよ。秘書だった私に必要なのは情報と地図と引き継ぎ資料なのに、渡されたのがフェロモンよ?」
「役に立たなそうですね……」
「ところがね、迎児。さっそく反応する坊主が出てくるのよ」
「嫌な使い道だった!」
というわけで第2話、目覚めた私が最初に覚えるのは、自分の名前ではありませんでした……
目を開けた時、最初に見えたのは会社の白い天井ではなく、頭上でわずかにたるんだ生成りの布だった。
空調の音も照明の白さもなく、代わりに鼻へ入ってくるのは、乾いた木と古い布に、焚き終えた香が少し混じったような匂いだった。
背中には汗が張りついていて、寝具もホテルのベッドとは比べものにならないほど薄い。
会社の廊下で何かが起きたところまでは覚えている。
食べかけの梅のおにぎりも覚えている。
問題は、その次だ。
「……どこ、ここ」
口から出た声に、自分で違和感を覚えた。
少し高く、妙に艶がある。
喉が乾いているせいかと思いながら起き上がろうとしたところで、寝具へ置いた手が目に入った。
私の手ではない。
そこだけは、一目で分かった。
指は以前より細く、爪の形も違っている。
手首を返してみても骨の出方に見覚えがなく、夢だと思うには布のざらつきも喉の渇きも生々しすぎた。
「……奥様?」
入口から声がして、私は反射的に顔を上げる。
十代半ばほどに見える娘が立っていた。
粗末というほどではないが、私が着ているものより明らかに簡素な服で、こちらを見る目には心配と怯えが混じっている。
今、この子は私を奥様と呼んだ。
自分の名前も、ここがどこかも、この娘が誰なのかも聞きたい。
しかし、それを全部口に出した瞬間、こちらが何も分かっていないことまで相手へ渡すことになる。
会社でも似たような場面は何度もあった。
会議室へ入った瞬間に空気がおかしい時や、役員同士がこちらの知らない前提で話を始めた時ほど、先に慌てた人間から情報を落とす。
私は一度だけ息を整えた。
「……少し、ぼんやりしていただけよ」
声はやはり自分のものではなかったが、言葉は通じたらしい。
娘は安心したように眉を下げる。
「よかったです。今日は先の旦那様の御命日でございますから、お倒れになった時はどうしようかと……」
先の旦那様――
つまり、この身体は一度結婚して、夫を亡くしている……
「……そうね」
知らないまま頷くと、娘は疑わなかった。
「今の旦那様も朝のうちにお出掛けになりましたし、奥様はいつものお寺へお参りにならなければなりませんから」
今の旦那様までいる。
私は現代で結婚間近だった。
自分で選んだ相手がいて、式場の話も、仕事をどこまで続けるかも、まだ全部は決めていなかった。
それなのに、会社で倒れたと思ったら、知らない身体で目を覚まし、前の夫は亡くなっていて、現在の夫まで存在している。
人生の引き継ぎ資料が1枚もない。
秘書にこれは厳しい。
「迎児、奥様のお支度を」
部屋の外から女の声がして、目の前の娘がすぐに返事をした。
「はい」
迎児――
ようやく1つ名前を拾えた。
支度を手伝われながら、私は部屋の中をできるだけ自然に見回した。
箪笥も鏡台も屏風も、水差しも香炉も、何ひとつ見覚えがない。
迎児の手つきだけは慣れたもので、衣を重ね、帯を締め、髪まで迷いなく整えていく。
この子の方が、私よりこの身体の扱いを知っている。
何とも情けない奥様だ。
やがて鏡台の前へ座らされ、磨かれた銅鏡に映った顔を見た瞬間、私は危うく声を上げるところだった。
知らない女がいる。
しかも、とんでもなく綺麗だ。
華やかな目元に、黙っていても妙に色っぽく見える唇。
髪を整えられただけなのに、これから亡夫の供養へ行く人間とは思えないほど艶がある。
前の人生でも、男性社員が私と目を合わせただけで会話を忘れることはあった。
だからといって、強化する必要はない。
フェロモンの悪魔が転生して、もっとフェロモンの悪魔になってどうするのよ……
「奥様?」
鏡越しに迎児が不思議そうな顔をしている。
「……何でもないわ。行きましょう」
立ち上がって廊下へ出たところで、最初の難関が来た。
出口が分からない。
右へ行くのか左へ行くのか、この家の門がどこにあるのか、そもそも今いる家が誰のものなのかさえ知らない。
奥方なら堂々と前を歩くべきなのだろうが、先導した瞬間に物置へ突撃する可能性がある。
迎児が自然に前へ出たので、私は何食わぬ顔で半歩後ろについた。
今の私にとって、この子の背中が地図だった。
外へ出ると、舗装されていない道を人が行き交い、荷を積んだ車の輪が土を鳴らしている。
遠くから物売りの声も聞こえ、服装も建物も、時代劇の撮影所では説明できないほど統一されていた。
どうやら本当に、現代ではないらしい。
ここで騒いでも帰れる保証はない。
まず周囲を見て会話を聞き、名前と人間関係を拾いながら、誰を信用できるのか確かめるしかない。
寺は家からそれほど遠くなかった。
門をくぐると香の匂いが濃くなり、供養の支度はすでに整っていた。
迎児が頭を下げたので、私もそれに合わせる。
亡き夫の顔は分からない。
この身体には思い出があったのかもしれないが、今の私には何も残っていなかった。
それでも、知らないからといって死んだ人を雑に扱う気にはなれず、読経の間は静かに手を合わせた。
あなたを知らなくて、ごめんなさい……
心の中だけでそう謝った。
供養が終わって顔を上げた時、少し離れた場所にいた若い僧と目が合った。
整った顔立ちの男だったが、その視線は私の顔で一度止まり、身体へ落ちかけてから、慌てたように戻ってきた。
その瞬間、前世でも何度か見た視線だと分かった。
フェロモンの悪魔、時代を越えて通常営業らしい。
僧は柔らかな笑みを作りながら近づいてきたが、迎児の肩がわずかに強張ったのを私は見逃さなかった。
「奥方様、本日もようお参りでございました。先の旦那様も、さぞお喜びでございましょう」
「法要をしていただき、ありがとうございました」
頭を下げた私に、僧はさらに一歩だけ近づいた。
「ですが、残された方のお心もまた、慰められねばなりません。奥方様はまだお若い。御寂しさも、おありでしょう」
迎児が小さく息を呑む。
心配しているような言い方をしながら、こちらの隙を探っている。
この手の男なら現代にもいた。
会食の席で妙に距離を詰め、こちらが愛想笑いをすれば許可を得たつもりになり、拒めば冗談だったことにする。
仏門にもいるのか……
職場を越え、時代を越え、業種まで越えてくるとは思わなかった。
「裴如海」
奥の方から年嵩の僧が呼んだ。
名前まで手に入った。
私は目の前の男へ視線を戻す。
「裴如海様」
「はい」
「本日は亡き夫の供養に参りました。生きている男性に、私の寂しさを量っていただくためではございません」
裴如海の笑みが、わずかに止まった。
「もちろん、そのようなつもりでは――」
「でしたら、今後は私へ直接お声掛けなさらないでください。供養について何かございましたら、寺の年長の方を通していただければ結構です」
周囲の空気が変わる。
迎児が驚いた顔で私を見たが、ここで終わらせるつもりはなかった。
「迎児にも近づかないでください。文も品も言伝も不要です。同じことが続くようでしたら、供養をお願いする寺を替えます」
裴如海の目から、一瞬だけ笑みが消えた。
拒まれると思っていなかった顔だ。
「……承知いたしました」
形だけは丁寧に頭を下げる。
私はそれ以上付き合わず、迎児へ「帰りましょう」と声をかけた。
寺の門を出るまで背中へ視線を感じていたが、振り返らなかった。
外へ出ると、迎児が何度かこちらを見上げた末、ようやく口を開いた。
「奥様……あのように申されて、よろしかったのですか?」
「よくはないでしょうね」
迎児の足が一瞬止まりかけた。
「でも、黙って受け入れた方がもっと面倒になるわ。それに、あなたまで巻き込まれるでしょう?」
「わたし、ですか?」
「文を受け取った、言伝を届けた、会うのを止めなかった。何かあったら、あなたの責任にもされるんじゃない?」
迎児は返事をしなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
帰り道でも私は迎児の半歩後ろを歩いた。
この子がいなければ、今の私は自分の家へ帰ることさえできない。
それなのに何か問題が起きれば、奥方より先に下女の方が責められるのだろう。
迎児はまだ若く、身体も細い。
けれど、この世界については私よりずっと多くのことを知っていて、逃げ場だけは私より少ない。
やがて家の門が見えてきた。
寺は逃げ場にならないし、亡夫の家へ戻ることもできない。
実家が頼れるのかはまだ分からず、今の夫の家については、門の場所をようやく覚えた程度だった。
それでも、今日1日で1つだけ理解したことがある。
女が黙っていると、その沈黙を都合よく解釈する人間がいる。
寂しいのだろう、誘っているのだろう、拒んでいないのだろうと、こちらが言ってもいない意味を勝手につけられる。
だったら、黙らない方がいい。
門をくぐろうとした時、内側から男の声がした。
「巧雲」
迎児の顔から、さっと血の気が引く。
私は足を止めた。
低い声の主が、門の向こうからこちらへ歩いてくる。
そして迎児が、私にしか聞こえない声で囁いた。
「……旦那様です」
奥様、目が覚めたその日にお寺で喧嘩しました。
「迎児、人聞きが悪いわ。私は丁寧にお断りしただけよ」
「『近づかないでください』まで言ってましたよね?」
「必要な確認事項よ」
「確認事項でお坊様の顔から笑顔が消えるんですか?」
「消えたわね」
「認めた!」
しかも奥様は、その後ずっと私の後ろを歩いていました。
「だって道が分からないもの」
「さっきまであんなに強かったのに!」
「強さと方向音痴は別問題よ」
そうして無事に家へ戻ったと思ったら、今度は門の向こうから旦那様が出てきました。
「迎児、その顔やめて。不安になるから」
「不安なんです!」
次回、奥様の今の旦那様です。




