表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/36

失礼な坊主

潘巧雲でございます。


目を覚ましたら、知らない家の奥様になっておりました。

しかも今日は、亡き夫の命日だそうです。

前夫、今の夫、寺。

そして、下女の迎児。

何も分からないまま、まずは供養へ参ります。

静かに手を合わせて帰るだけのつもりでした。


……失礼な坊主が出てくるまでは。

目を開けた時、最初に見えたのは天井ではなかった。

薄い布だった。

白ではない。

古びた生成りの布が、頭上でわずかにたるんでいる。

空調の音はしない。

白い照明もない。

会社の天井ではなかった。

鼻の奥に、知らない匂いが入ってきた。

木、古い布、香の残り。

それから、どこか湿った土のような匂い。

私は、しばらく動けなかった。

寝起きの一瞬、自分の部屋ではない場所で目を覚ました時の、あの嫌な感じがある。

出張先のホテル。

研修施設。

彼の部屋。

そういうものとは違った。

知らない。

本当に、何も知らない場所だった。

身体を起こそうとして、布団の感触に手が止まった。

布団、というより、薄い掛け物だった。

指先に触れる布の目が粗い。

私はゆっくり手を見た。

白い。

けれど、私の手ではなかった。

指が少し細い。

爪の形も違う。

手首の骨の出方も違う。

息が詰まった。

夢だと思いたかった。

けれど、夢にしては匂いが濃すぎる。

布の手触りも、喉の乾きも、背中の汗も、全部が嫌にはっきりしていた。

「……奥様?」

声がした。

私は反射的にそちらを向いた。

部屋の入口に、若い娘が立っていた。

まだ十代に見える。

粗末ではないが、明らかに身分の低い服を着ている。

こちらを見る目には、心配と怯えが混ざっていた。

奥様――

今、この子は私をそう呼んだ。

「あの……お加減が、まだ」

娘が一歩近づく。

私は返事をしようとして、声が出なかった。

自分の名前を聞きたい。

ここがどこか聞きたい。

あなたは誰かと聞きたい。

でも、それを聞いた瞬間、何かが壊れる気がした。

知らない場所。

知らない身体。

知らない娘。

ここで何も知らない顔をしたら、私はこの部屋の中で終わる。

会社でそういう場面は何度もあった。

会議室に入った瞬間、空気がおかしい時。

資料が一枚足りない時。

役員同士が、こちらの知らない前提で話し始めた時。

最初に慌てた方が負ける。

私は息を整えた。

「……少し、ぼんやりしていただけ」

自分の声が、少し高かった。 けれど、言葉は通じたらしい。

娘はほっとしたように眉を下げた。

「よかったです。今日は、御前様の御命日でございますから」

御前様……

命日……

その二つの言葉が、胸の中で嫌な音を立てた。

「……そうね」

私は知らないまま頷いた。

娘はさらに言った。

「旦那様も、朝のうちにお出掛けになりました。奥様は、いつものお寺へお参りに」

旦那様――

今度は、喉の奥が冷えた。

私は結婚間近だった。

現代では、自分で選んだ相手がいた。

式場の話も、仕事をどこまで続けるかも、まだ全部は決まっていなかったけれど、それでも私は、自分の意思で結婚するつもりだった。

なのに、この身体には前夫がいて、今の夫がいるらしい。

冗談ではなかった。

「迎児、支度を」

部屋の外から、誰かの声がした。

娘がすぐに頭を下げる。

「はい」

迎児――

ようやく、目の前の娘の名前が分かった。

支度を手伝われながら、私は部屋の中を目だけで拾った。

箪笥、鏡台、屏風。

窓の形、水差し、香炉。

どれも見覚えがない。

髪を整えられ、衣を着せられていく。

されるがままになっている自分が気持ち悪かった。

けれど、今は逆らえない。

迎児の手つきは慣れていた。

帯を締める位置も、髪に触れる指も、私よりずっとこの身体を知っている。

私は、この子に着せられている。

この子に連れられなければ、部屋を出ることもできない。

やがて、迎児が小さな声で言った。

「参りましょう」

私は頷き、立ち上がった。

廊下に出た瞬間、足が止まりかけた。

どちらへ行けばいいのか分からない。

右か……

左か……

この家の出口はどこか。

そもそも、ここが誰の家なのか。

迎児が前へ出た。

私は、その半歩後ろを歩いた。

本来なら、奥方である私が前を行くべきなのかもしれない。

けれど、道が分からない。

この門を出るのか。

どの通りを曲がるのか。

どの寺へ向かうのか。

帰る家がどちらにあるのか。

何も知らなかった。

迎児の背中が、今の私にとっては地図だった。

外へ出ると、光がまぶしかった。

空は高く、道は舗装されていない。

人の声、車輪の音、遠くで物売りの声がする。

知らない時代の街だった。

私は歩きながら、自分の呼吸だけを数えた。

慌てるな。

見ろ。

聞け。

名前を拾え。

関係を拾え。

敵と味方を分けろ。

そうしないと、生き残れない。

寺は、思ったより近かった。

門をくぐると、香の匂いが濃い。

供養の支度は、すでに整っていた。

迎児が静かに頭を下げる。

私もそれに合わせた。

亡き夫――

その言葉が頭の中に残る。

私には記憶がない。

けれど、この身体にはあったのだろう。

一度、誰かの妻だった記録が……

その方が死んで、今は別の男の妻になっている。

私の意思は、どこにもない。

読経の声が続く間、私は手を合わせていた。

祈る相手の顔は分からない。

それでも、死んだ人に対して雑な気持ちにはなれなかった。

あなたを知らなくてごめんなさい――

心の中で、そう思った。

供養が終わった後、僧が近づいてきた。

年は若く、整った顔をしている。

柔らかく笑っているが、目が笑っていなかった。

「奥方様、本日もようお参りでございました」

迎児の肩が、わずかに強張った。

それだけで分かる。

この男は、よくない。

「御前様も、さぞお喜びでございましょう」

僧はそう言って、私を見た。

仏前で人を見る目ではなかった。

私は静かに頭を下げた。

「法要をしていただき、ありがとうございました」

「ええ。ですが、残された方のお心もまた、慰められねばなりません」

距離が近い。

一歩だけ。

たった一歩だ。

けれど、その一歩が気持ち悪かった。

「奥方様は、まだお若い。御寂しさも、おありでしょう」

迎児が息を呑んだ。

私は顔を上げた。

この手の言葉を、私は知っている。

心配の形をしている。

慰めの形をしている。

けれど、こちらの隙を探っているだけだ。

現代にもいた。

取引先にも、役員の知人にも、会食の席にも――

妻帯者なのに距離を詰める男。

こちらが愛想笑いをすれば、許可だと思う男。

拒めば、冗談だと言う男。

仏門にもいるのか。

私は笑わなかった。

「御僧」

声は思ったより冷たく出た。

裴如海――

と、誰かが遠くから呼んだ。

名前が分かった。

「本日は、亡き夫の供養に参りました」

裴如海の笑みが、わずかに止まる。

「はい。もちろんでございます」

「生きている男に、寂しさを量っていただくために来たのではございません」

周囲の空気が変わった。

迎児がこちらを見た。

年嵩の僧が、奥から顔を上げる。

裴如海はすぐに笑みを戻した。

「これは、失礼を。奥方様のお心を案じたまでで」

「案じていただかなくて結構です」

私は一歩も下がらなかった。

「今後、私へ直接のお声掛けはお控えください。供養のことがあれば、寺の年長の方を通してくださいませ」

「奥方様、それは少々」

「迎児にも近づかないでください」

迎児の肩が、また揺れた。

私は続けた。

「文も、品も、言伝も不要です。次に同じことがあれば、供養の寺を替えます」

裴如海の目から、笑みが消えた。

ほんの一瞬だった。

けれど、見えた。

この男は、拒まれると思っていなかったのだ。

「……承知いたしました」

裴如海は頭を下げた。

形だけは、僧らしく丁寧だった。

私はそれ以上何も言わず、迎児へ目を向けた。

「帰りましょう」

「は、はい」

寺の門を出るまで、背中に視線を感じた。

外の光に出た瞬間、迎児が小さく言った。

「奥様……あのように申されて、よろしかったのですか」

「よくないでしょうね」

迎児が固まった。

私は前を向いたまま続けた。

「でも、黙っていた方がもっと悪いわ」

迎児は何も言わなかった。

帰り道も、私は迎児の後ろを歩いた。

この子がいなければ、私は家へ戻れない。

寺からも、家からも、ひとりでは動けない。

それなのに、もし私が何かを間違えたら、最初に責められるのはこの子なのだろう。

奥様を止めなかった。

奥様を見ていなかった。

奥様に言伝を渡した。

奥様を寺へ連れて行った。

どの言葉でも、この子は潰される。

私は迎児の背中を見た。

細い――

まだ子供のようにも見える。

けれど、この家の中で、私より多くのことを知っている。

そして、私よりずっと逃げ場がない。

家へ戻る門が見えた。

その向こうに、今の夫がいる。

顔も声も、まだはっきり知らない男だ。

けれど、私はもう分かり始めていた。

寺は逃げ場ではない。

父の家も、たぶん違う。

夫の家など、最初から違う。

私は供養に行っただけだった。

それだけで、僧に値踏みされる。

拒めば、迎児が怯える。

帰れば、夫の家が待っている。

私は足を止めなかった。

まだ逃げるとは決めていない。

決められるほど、何も知らない。

けれど、ひとつだけ分かった。

この世界で黙っていると、女の沈黙には、誰かが勝手に名前をつける。

寂しさ、色気、隙、不義。

便利な言葉ばかりだ。

門をくぐる前、迎児がこちらを振り返った。

「奥様?」

私は短く息を吐いた。

「何でもないわ」

そう答えた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

迎児でございます。


あの日の奥様は、いつもと少し違っておられました。

人が変わったように、裴如海様を退け、私にまで近づくなと仰ったのです。

本当に驚きました。


でも――

初めて、守っていただいた気がいたしました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ