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おにぎり、食べられないね

潘巧雲でございます。


――と名乗るには、まだ少し早いかもしれません。

この時の私は、ただの役員秘書でした。

会議の時間を見て、内線を取り、食べ損ねたおにぎりを心配する側の人間です。

まさか次に目を開けた時、夫のいる女になっているとは思いませんでした。

しかも、その夫から逃げることになるとも……


まずは、まだ私が私だった朝の話から始めます。

朝から、ひとつだけ空いている席があった。

始業時刻を過ぎても、その椅子は机の下に収まったままだった。

昨日の帰り際と同じ角度で、背もたれだけがこちらを向いている。

モニターの横には、彼女が貼っていった付箋が一枚残っていた。

私はスマートフォンを耳から離し、画面を見た。

呼び出しは切れた。

返事はない。

メッセージにも既読はつかない。

「まだ駄目ですか」

隣から声がした。

私は首を振る。

「駄目、電話も出ない」

「体調不良ですかね」

「それなら、一回くらい連絡してくると思うんだけど」

若手の娘だった。

昨日は普通に帰った。

夕方、明日の資料の確認をして、少し疲れた顔で

「お先に失礼します」

と頭を下げていた。

それだけだ――

寝坊かもしれない。

スマホを落としたのかもしれない。

体調を崩して、連絡どころではないのかもしれない。

そう思おうとした。

けれど、秘書課の朝は、人ひとり分の穴をそのままにしておけるほど甘くない。

九時半から役員会。

十時四十五分に来客。

十一時二十分に社長の移動確認。

午後の会食先にも、昼前までに最終連絡を入れなければならない。

誰がいないか。

どの予定が空くか。

誰に何を振るか。

どの資料を先に回すか。

そういう細かい綻びは、見なかったふりをするとすぐ広がる。

私は彼女の机から、今日使う予定だったファイルを抜き取った。

勝手に触るのは気が引けたが、仕事は待たない。

「この件、私が持つから、十一時の分だけお願い」

「はい」

返事を聞きながら、私は付箋の端を指で押さえた。

少し浮いていた角が、机にぴたりとつく。

小さなことだ。

けれど、そういう小さな乱れが、妙に気になる朝だった。

十時を過ぎる頃には、秘書課はいつもの顔に戻っていた。

外線が鳴る。

内線も鳴る。

プリンターが短く唸る。

誰かが小走りで資料を運ぶ。

淹れたままのコーヒーが、机の隅で冷めていく。

私は会議室から戻ってきた資料を受け取り、差し替え箇所を確認した。

一枚だけ、日付が古い。

すぐ気づけたことに、少しだけ安心する。

「これ、差し替えます」

「助かります」

会議から戻ったばかりの彼女が、そう言った。

私の一個下の後輩だ。

けれど、後輩というより、戦友に近い。

同じ役員秘書として、同じ会議室の空気を何度も吸ってきた。

急な内線も、無茶な予定変更も、役員同士の妙な沈黙も、一緒に処理してきた。

私たちは、親友ではない。

休日に必ず会うような仲でもない。

それでも、無理をしている時の顔くらいは分かる。

同じ部屋で、同じ種類の面倒を何度も飲み込んできたからだ。

彼女は資料を抱えたまま自分の席に戻り、椅子に腰を下ろした。

その瞬間、ほんの少し肩が落ちた。

「お疲れ」

「ありがとうございます。思ったより長引きました」

苦笑しながら、彼女は机の引き出しを開けた。

中から出てきたのは、コンビニのおにぎりだった。

海苔がしっとりしたタイプの、梅のおにぎり。

彼女はそれを両手で持って、少しだけ嬉しそうな顔をした。

「やっと食べられる」

「朝から何も食べてないの?」

「一口だけです」

よくないわね、と言いかけた時、内線が鳴った。

彼女の机の電話だった。

おにぎりを一口かじったところで、手が止まる。

彼女は一度だけ私を見て、それから受話器を取った。

「はい、秘書課です」

声はいつも通りだった。

でも、目だけが少し変わった。

「はい……ただいま参ります」

受話器を置く。

彼女は食べかけのおにぎりを机の上に置き、立ち上がった。

「社長室?」

「はい、少しだけ」

少しだけ――

そう言う時ほど、少しで済まないことを、私たちは知っている。

彼女は手帳とペンだけを持った。

資料は持っていない。

呼び出しの内容は分からないが、何か確認される程度だと判断したのだろう。

私は机の上のおにぎりを見た。

小さな歯形がついている。

海苔の匂いが、かすかにした。

「おにぎり、食べられないね」

私がそう言うと、彼女は困ったように笑った。

「戻ったら食べます」

「冷たくなるわよ」

「もう冷たいです」

その返しに、思わず笑った。

彼女も小さく笑って、社長室の方へ歩いていった。

背筋はまっすぐだった。

足音は控えめで、廊下の途中で他の音に紛れた。

私はその背中を最後まで見送らなかった。

電話が鳴ったからだ。

その後の一時間は、嫌になるほど普通だった。

電話を受け、来客時間を確認した。

会議資料を差し替えた。

連絡のつかない若手の娘の席を見た。

その席は、まだ空いたままだった。

昼前になっても、若手の娘からの返信はない。

折り返しの電話もない。

昼休み明けには、上に報告しなければならない。

ただ、自宅にいるはずの人間と連絡がつかないだけでは、まだ大げさにしたくない。

そう考えていた時、机の上のおにぎりが目に入った。

食べかけのまま、残っている。

私は手を止めた。

彼女が戻っていない。

社長室へ向かってから、もう一時間が経っていた。

社長との話が長引くことはある。

急な指示が出ることもある。

別室へ回されることもある。

けれど、彼女なら一度くらい連絡を入れる。

少なくとも、机に置いたままのおにぎりを、そのままにはしない。

妙な考えだと思った。

大人が一時間戻らないだけで、何を心配しているのか。

それでも、喉の奥が冷たくなった。

朝から連絡のつかない若手の娘。

社長室へ行ったまま戻らない戦友。

机の上に残された、食べかけのおにぎり。

つながっているはずがない。

そう思うほど、つながっているような気がした。

「少し、社長室の方を見てくる」

隣に声をかけると、相手は不思議そうに顔を上げた。

「何かありました?」

「分からない。だから見てくる」

私は立ち上がった。

廊下に出ると、空調の音がやけに大きく聞こえた。

普段から同じ音はしていたはずなのに、その時だけ耳についた。

社長室へ続く廊下は、秘書課からそう遠くない。

来客が多い時間なら、人の出入りがある。

けれど、その時は妙に静かだった。

壁際の観葉植物。

磨かれた床。

小さく光る案内表示。

社名の入ったプレート。

全部、いつも通りだった。

いつも通りすぎて、気持ちが悪い。

社長室の前まで来た。

扉は閉まっている。

中から声はしない。

私は足を止め、周囲を見た。

彼女はいない。

廊下にもいない。

応接スペースにもいない。

隣の小会議室の扉も閉まっている。

受付側へ戻った気配もない。

では、どこへ行ったのか。

私は社長室の扉を見た。

銀色の取っ手が、廊下の明かりを細く返している。

そこに、自分の顔が歪んで映った。

その瞬間、息が止まった。

何かを思い出したわけではない。

知らないものを見たわけでもない。

ただ、そこに彼女がいないと分かった。

戻っていない。

出てもいない。

けれど、ここにもいない。

それが分かった途端、足元が消えた。

眩暈ではなかった。

貧血でもない。

倒れる、と思う暇もなかった。

廊下の白い光が、薄く伸びる。

社長室の扉が遠くなる。

手を伸ばしたつもりだったが、自分の指先が見えない。

最後に浮かんだのは、食べかけのおにぎりだった。

あれ、彼女はもう食べられないかもしれない。

そんな場違いなことを思った。

次の瞬間、私の記憶は途切れた。

迎児でございます。


奥様は時々、ここではない場所を見ておられます。

その時だけは、お声を掛けてもよいのか迷います。

昔のことは、何も存じません。


ただ――

奥様にも、帰れなくなった場所があるようです。

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