また座りました
「迎児、最近みんな椅子を近くに置いてない?」
「はい」
「何で?」
「巧雲様が柴進様のお名前を口になさった時、すぐ座れるようにでございます」
「そこまで警戒する!?」
「前回、六人座られましたので」
「事故みたいに言わないで!」
迎児は少し考えてから、私を見た。
「では巧雲様、本日は梁山泊から文が届いても、どうか平常心でお願いいたします」
「大丈夫よ。もう柴進様のことで取り乱したりしないから」
「今、お名前を」
「名前くらい言うでしょう!」
迎児が一歩下がった。
「その距離やめて!」
というわけで第37話。
今度の知らせは、柴進様の容態ではありません。
梁山泊へ、官軍が動きます。
……迎児。
だから何で椅子まで用意してるの?
魯智深様と武松様が二龍山へ戻ってから、数か月が過ぎた。
その間にも、柴進様の容態について梁山泊から何度か知らせが届いていた。
起き上がれるようになり、食事の量も増え、傷の治りも悪くないという。
最初の文を読んだ日は、広間にいた男性陣が全員座った。
二通目からは、迎児が先に内容を確認するようになった。
納得していない。
「巧雲様のためでございます」
「私のため?」
「皆様のためでもございます」
「そっちが本音でしょう?」
迎児は答えなかった。
答えないということは、たぶん当たっている。
ただ、私も少しは学習した。
柴進様が食事を取れていると聞いても、以前のように一日中その姿を想像したりはしない。
少ししか想像しない。
「巧雲様」
「何?」
「今、何をお考えになりましたか?」
「仕事です」
「本当に?」
「本当です!」
広間の向こうでは、張青がこちらを見ると、曹正と施恩までつられて顔を上げた。
楊志様だけは知らぬ顔をしているが、いつでも座れる位置に椅子が置いてある。
非常に腹立たしい。
「最近、皆さん私に失礼じゃありません?」
「最近かい?」
孫二娘が薬箱を整理しながら笑った。
「ずっとだよォ」
「二娘はどっちの味方なの?」
「面白い方」
「最っ低!」
そんなやり取りをしていた日の昼だった。
山門から梁山泊の使いが入ってきた。
今では梁山泊から文が来ても、以前ほど広間が緊張することはない。
以前ほど、である。
使いが封書を差し出した瞬間、張青がさりげなく椅子を引き寄せたのを私は見逃さなかった。
「張青さん」
「何でしょう?」
「何で座る準備してるんです?」
「念のためです」
「迎児みたいなこと言わないで!」
封には閻婆惜殿の名がある。
私は受け取って封を切り、最初に柴進様の名がないことを確認した。
広間の男たちが、露骨に息を吐いた。
「ちょっと!」
孫二娘が腹を抱える。
「アンタら、分かりやすすぎるよォ!」
楊志様が咳払いをした。
「文を読め」
「今、安心しましたよね?」
「読め」
「しましたよね?」
「潘巧雲……」
「はい」
怒られた。
仕方なく文面へ戻る。
数行読んだところで、私は姿勢を正した。
笑っている場合ではなかった。
「……官軍?」
楊志様の表情が変わる。
魯智深様も腕を組んだ。
「何とある?」
私は続きを読んだ。
朝廷から梁山泊討伐の軍が差し向けられ、その指揮を執るのは呼延灼だという。
副将に韓滔、彭玘を従え、騎兵を中心とした軍勢を率いて梁山泊へ向かっている。
梁山泊では、すでに迎撃の準備へ入っていた。
「呼延灼……」
名前に覚えはない。
呼延灼という人物を知らない私にも、文面だけで厄介な相手だということは分かる。
朝廷の命を受けた正規軍で、騎兵を揃え、梁山泊を討つために動いている。
山賊同士の争いとは違う。
さらに文には、呼延灼が馬を横につないで隊列を崩れにくくする戦法を用いる可能性が高いとあった。
「連環馬か」
楊志様が呟いた。
「ご存じなのですか?」
「話だけは知っている。馬を並べ、鎧を着せたまま押し込んでくる。正面から受ければ歩兵には厄介だ」
「殴れば崩れるか?」
魯智深様が聞いた。
楊志様が顔を上げる。
「何をだ?」
「馬をだ」
「近づく前に踏み潰される」
「なら乗っている奴を殴ればよい」
「それができれば誰も苦労せん」
私は額を押さえた。
高廉の術の時も似たような会話をした気がする。
この人は基本的に、殴れる問題なら全部殴るつもりなのだ。
「梁山泊は、こちらに何を求めているんです?」
武松様が尋ねた。
私は文の最後まで目を通す。
「呼延灼軍の動きを見ながら、二龍山にも支援を頼みたいそうです。梁山泊が正面から受ける間に、こちらから動けるなら側面へ圧力をかけてほしい、と」
楊志様がすぐ地図を広げた。
さっきまで椅子を気にしていた男たちが、一斉に机の周りへ集まる。
戦の話になった途端、早い。
「全軍は出せん。二龍山を空にすれば、こちらの守りが薄くなる」
楊志様の指が道筋を追う。
魯智深様が即座に言った。
「ワシが行こう」
今度は、私は止めなかった。
相手は官軍であり、魯智深様は以前、提轄として官側におられ、楊志様にも官軍で兵を率った経験がある。
私が戦場を知らなくても、この二人が適任だというくらいは分かる。
「楊志様も、お願いできますか?」
楊志様がこちらを見た。
「そのつもりだ」
魯智深様も頷く。
「呼延灼の兵がどう動くかを見るなら、楊志がいた方がよい」
「お前に言われんでも分かっている」
「何だと!?」
「軍議中です!」
二人がこちらを見る。
私は地図を指した。
「お二人が出るなら、二龍山には武松様が残ってください」
武松様が眉を上げる。
「俺が?」
「はい、魯智深様と楊志様がそろって出る以上、山に武力をまとめられる方が必要です。孫二娘さんと張青さん、曹正さん、施恩さんも残っていただきます」
武松様は地図を見て、しばらく考えた。
「分かった」
魯智深様が笑う。
「今回は留守番だな、武松」
「柴進殿を助けに行った時は俺も出た」
「今回はワシが行く。山は任せたぞ」
「遊びに行くんじゃありません!」
孫二娘が吹き出した。
「巧雲、もう完全に頭領を叱ってるねェ」
「誰かが止めないと話が進まないんです!」
出す者が決まれば、次は私の仕事だった。
二龍山から出せる兵の数を確認し、山の守りが薄くなりすぎないところで線を引く。
道中の兵糧と水、薬、予備の履物まで含め、帰還が予定より遅れても持ちこたえられる量を見積もった。
「干し肉は増やせます」
曹正が帳面を覗き込む。
「餅も明日の朝までなら揃えられます」
「お願いします。水袋の予備は?」
「店にあります」
「施恩さん、確認していただけますか?」
「分かりました」
施恩が水袋の確認へ向かうと、張青も荷を運ぶ者の人数を数え始め、孫二娘は薬袋を開いて持たせる量を選び始めた。
「傷薬を全部持ってくんじゃないよォ。二龍山の分まで空にしたら、帰ってきた時に困るからねェ」
「必要分は残します」
「ならいいよ」
仕事が回り始める。
こうして誰が何をするか決まり、自分たちで動かせるものが増えていく時間は好きだ。
柴進様の救出を待っていた時より、今回は私たちの手で前へ進められる範囲が広い。
私は帳面へ必要事項を書き込んでいった。
その時だった。
魯智深様が何気なく口にした。
「そうだ。梁山泊へ行くなら、柴進殿にも会えるな」
広間が止まった。
迎児が一歩下がり、張青は椅子へ目をやる。
曹正と施恩まで手を止めたのに、言った魯智深様だけは何が起きたのか分からない顔をしていた。
「何だ?」
楊志様が額を押さえた。
「お前は数か月、何を見ていた」
「何の話だ」
「柴進様に……」
私の声が、自分でも分かるほど柔らかくなった。
迎児の目が潤む。
「文を、届けていただけますか?」
張青が座ると、曹正も続き、施恩にいたっては迷いすらしなかった。
楊志様まで静かに椅子へ腰を下ろし、気づけば魯智深様だけが立っている。
「何でお前ら座るんだ?」
武松様が腕を組む。
「そのうち分かる」
「書きます!」
私は帳面を閉じた。
胸の奥が急に熱くなる。
柴進様へ直接、文を届けてもらえる。
私が書いたものがあの方の手に触れ、その字を柴進様ご本人が読む。
「巧雲様ぁ……」
迎児が泣いた。
「まだ何も書いてないでしょう!」
孫二娘が笑いすぎて薬袋を落とした。
「巧雲、全方位乱射する前に座んなよォ!」
「私が座っても意味ないでしょう!」
魯智深様がようやく事情を察したらしい。
「……ああ」
その場へ座った。
「何で納得した途端に座るんですか!」
武松様まで少し離れた。
全員が失礼である。
私は筆を取った。
「短いお見舞いの文です。ご無事を伺えて安心しております、どうかご養生ください。それだけです」
「恋文じゃないのかい?」
孫二娘が聞く。
「違います!」
「会いたいとは?」
「書きません!」
「触りたいとは?」
「書くわけないでしょう!」
広間の男たちが一斉に姿勢を変えた。
「二娘!!」
孫二娘は腹を抱えている。
迎児が泣きながら私の横へ座った。
「私が拝見いたします」
「何で?」
「補佐でございます」
「またそれ!」
私は文を書いた。
ご無事を伺い、安堵いたしました。
どうか今は、お身体を第一になさってください。
本当に、それだけにした。
会いたいし、声も聞きたい。
もう一度、あの方の顔を見たいと思ったけれど、それは書かなかった。
それなのに、迎児がまた泣いた。
「何で!?」
「お顔が……」
「顔は文に入らないでしょう!」
後ろで椅子がいくつも軋んだ。
聞かなかったことにする。
翌朝――
魯智深様と楊志様が兵を率いて山を下りることになった。
兵糧も薬も揃い、梁山泊側との合流地点も確認してある。
柴進様への文は、魯智深様の懐へ入った。
「絶対に渡してくださいね」
「分かっておる」
「なくさないでください」
「なくさん」
「濡らさないで」
「分かった」
「折らないで――」
「潘巧雲」
楊志様に止められた。
「はい」
「魯智深を信用しろ」
「……はい」
魯智深様が不満そうな顔をする。
「ワシより文の方が心配なのか?」
「どちらも心配です!」
「ならよい」
いいのだろうか。
武松様が二人へ言う。
「山は任せろ」
「おう」
「頼む」
私は一行を見送った。
今度の相手は、朝廷から差し向けられた正規軍。
その動きを知る魯智深様と楊志様が、梁山泊を支えるために山を下っていく。
二人の姿が木々の向こうへ消えるまで見届けてから、私は広間へ戻った。
帳面を開く。
新しい日付の下へ、出陣の記録を書き加えた。
魯智深様、楊志様――梁山泊支援のため出陣。
ここから先は、また知らせを待つことになる。
けれど、待っている間にも二龍山を守り、必要な物を整え、帰ってくる人たちの場所を残しておかなければならない。
私は筆を置き、二人が向かった方角を見た。
その先では、連環馬を率いる呼延灼と梁山泊の戦が始まろうとしている。
そして魯智深様の懐には、私の文がある。
……どうか無事に、柴進様まで届きますように。
魯智深様と楊志様が、梁山泊へ向かわれました。
「巧雲様」
「何?」
「お手紙、無事に届くとよろしいですね」
「そうね。ちゃんと柴進様が読んでくださるといいわね……」
巧雲様のお顔が、また少し緩みました。
私はそっと距離を取ります。
「迎児?」
「はい」
「何で離れるの?」
「念のためでございます」
「もう誰もいないでしょう!」
「武松様がお残りです」
「そこ!?」
……忘れておりました。
まだ四人、いらっしゃいました。
というわけで第38話。
梁山泊では、呼延灼との戦が始まります。
巧雲様――
お手紙の返事が来る前に、まず無事に帰ってきていただきましょう。




