残った者たちも戦っていました
潘巧雲でございます。
魯智深様と武松様が、無事に戻られました。
柴進様のご様子も、直接うかがえることになりました。
ありがたいことです。
本当に、それだけなのです。
ですが、私がお尋ねするたびに、皆様が少しずつ後ろへ下がっていきます。
……なぜでしょう。
私はただ、柴進様のお話を聞きたいだけなのですが……
柴進様救出の報が届いてから、五日が過ぎた。
梁山泊へ出した返書も、追加の薬も、すでに山を下りている。
帳面の上では、ようやく一区切りがついた。
けれど、私の内側はまだ終わっていなかった。
柴進様は生きておられる。
命に別状はない。
梁山泊で手当てを受けている。
そこまで分かっているのに、お顔を見られない。
お声も聞けない。
あの方が本当に息をしておられるのか、自分の目では確かめられない。
安心したはずなのに、安堵が熱へ変わって居座っている。
厄介である。
非常に厄介である。
「巧雲様」
迎児が、戸口から顔を出した。
「山道に人影が見えたそうです」
私は筆を止めた。
「梁山泊からですか」
「まだ分かりません。ですが、先頭が二人だと」
二人――
その言葉に、広間にいた者たちが一斉に顔を上げた。
楊志は地図を畳み、張青は腰を浮かせた。
曹正と施恩も入口へ目を向ける。
孫二娘だけは薬箱の蓋を閉めながら、口元を緩めた。
「帰ってきたんじゃないかねェ」
胸が強く鳴った。
私は立ち上がった。
立ち上がっただけなのに、張青が半歩退いた。
「何ですか」
「いえ」
「まだ何もしておりません」
「存じています」
それで退く方が失礼ではないだろうか。
門の方が騒がしくなる。
やがて、聞き覚えのある豪快な声が響いた。
「おう! 留守の間、変わりはなかったか!」
魯智深だった。
その後ろから、武松が静かな足取りで入ってくる。
二人とも旅装のままではあったが、目立った傷はない。
疲れは見える。
それでも、無事に帰ってきた。
迎児が息を呑んだ。
私は、考えるより先に前へ出ていた。
「魯智深様。武松様」
二人がこちらを見る。
「お帰りなさいませ」
声が、自分で思っていたよりも柔らかくなった。
魯智深の足が止まった。
武松も、ほんのわずかに肩を引いた。
あれ……
「ご無事で、本当によろしゅうございました」
胸の内側がほどける。
柴進様を救いに行った二人が戻った。
あの方が助かったという報が、急に現実味を帯びた。
「柴進様を……救ってくださって、ありがとうございました」
今度は、はっきり分かった。
魯智深がたじろいだ。
あの魯智深が、である。
武松は目を伏せ、片手を腰の帯へ添えた。
刀に触れたわけではない。
ただ、立つ位置を確かめるような動きだった。
「潘巧雲」
魯智深が咳払いをして、こちらを見た。
「うむ。柴進殿は助かった。弱ってはおったが、命はある」
「はい」
「宋江殿らが、梁山泊で手厚く看ておる」
「はい」
「だから……その、そう案じるな」
語尾が妙に弱い。
私は首を傾げた。
「案じてはおりますが、今は嬉しいのです」
「それが分かるから困るのだ」
武松が平静を装って言った。
広間の奥で、誰かが息を漏らした。
見ると、張青が両手で顔を覆っている。
曹正は俯いたまま肩を震わせ、施恩は武松を見ていた。
その目には、助けを求める者の必死さがあった。
楊志が一歩進み出る。
「魯智深、武松」
声が重い。
「話がある」
魯智深は眉を上げた。
「何だ。留守の間に敵でも来たか」
「来てはいない」
「ならば何だ」
楊志は一度、私を見た。
それから、きっぱりと言った。
「我らは二十日近く、耐えた」
「何にだ」
「潘巧雲にだ」
失礼である。
「楊志様」
「今は黙っていてくれ。我らにも言わせろ」
張青が魯智深の前まで進み、深く頭を下げた。
「魯智深様、どうかお助けください」
「お、おう」
張青の声は、わずかに震えていた。
曹正まで、その隣で頭を下げる。
「戻られたからには、何とかしていただきたい」
施恩も武松へ向き直った。
「武松殿からも、どうかお口添えを」
魯智深と武松が、そろって黙った。
「お前たち、何に追われておるのだ」
「魯智深様と武松様が援軍に出てから、広間の空気が変わりました」
張青が訴える。
「空気?」
「薄布を見ても変わります」
「薄布で?」
「帳面を見ても変わります」
「帳面でも?」
「文が届いた日は、壁を向かねば耐えられませんでした」
魯智深は張青を見たまま、言葉を失っていた。
武松が眉を寄せる。
「大げさではないのか」
その一言に、曹正が勢いよく顔を上げた。
「大げさではありません」
施恩も続いた。
「武松殿。俺も最初は、皆が何を騒いでいるのかと思いました」
「それで」
「広間に入って、すぐ分かりました」
「何がだ」
施恩は言葉を探した。
しかし、うまく言い表せなかったらしい。
「……近寄ってはいけないと」
私は何もしていない。
本当に、何もしていない。
孫二娘が横で腹を抱えて笑い始めた。
「帰ってきたばかりだってのに、もう泣きつかれてるよォ」
「孫二娘は平気だったのか?」
武松が尋ねる。
「アタイは女だからねェ。それに、これくらいの色気でひっくり返ってちゃ、店なんぞやってられないよ」
孫二娘はそう言って、艶のある目で笑った。
確かに、この人も十分に妖艶である。
方向が違うだけで、男を黙らせる力は持っている。
同性である私には、それがよく分かる。
張青が小さく付け加えた。
「お嬢は平気でした。俺は平気ではありませんでした」
「余計なことを言うんじゃないよ」
拳骨が落ちた。
魯智深は、張青、曹正、施恩、楊志の顔を順に見た。
最後に、私を見る。
その視線を受けた瞬間、また胸が熱くなった。
「柴進様は、どのようなご様子でしたか」
聞きたかった。
どうしても、直接聞きたかった。
「お怪我は、お顔の色は、お食事は取れておりますか。井戸の中で寒くはなかったのでしょうか。私が送った布は――」
「待て待て待て!」
魯智深が両手を前へ出した。
武松も一歩退いた。
広間の隅で、楊志が目を閉じる。
「これだ」
低い声だった。
「我らが申し上げているのは、これだ」
私は口を閉じた。
魯智深は大きく息を吐き、額を拭った。
「なるほど」
「分かっていただけましたか」
張青の声が震えている。
「うむ。これは……たしかに近い」
「でしょう」
「声だけで来るとは思わなんだ」
武松が真顔で言った。
「柴進殿の名が出ると、さらに強くなる」
「そうなのです」
曹正と施恩が同時に頷いた。
何なの、この団結は……
私は自分の頬に手を当てた。
熱い……
たぶん、顔も赤い……
「申し訳ございません」
謝ると、魯智深がすぐ首を振った。
「いや、潘巧雲が悪いわけではない」
「そうだ」
武松も続ける。
「恩人を案じ、無事を喜んでいるだけだ」
「そうなのです」
私は力強く頷いた。
「私はただ、柴進様がご無事で嬉しいだけなのです」
魯智深と武松が、同時に視線を外した。
背後で、楊志が言う。
「だから厄介なのだ」
あまりにも正論で、返す言葉がない。
孫二娘は涙を拭うほど笑っていた。
「潘巧雲、アンタはもう少し自覚した方がいいよォ」
「自覚はあります」
「足りないねェ」
「十分あります」
「それで今の声かい」
反論できなかった……
魯智深は腕を組み、しばらく考え込んだ。
男たちは、その判断を待つように静かになる。
「よし」
やがて、魯智深が言った。
「柴進殿が戻るまで、潘巧雲を一人で抱え込ませるな」
楊志が眉を寄せた。
「我らの苦しみを減らす話ではないのか」
「案じるから、こうなるのだろう。ならば仕事を分け、文が来ればすぐ知らせ、妙な想像をする暇を減らせ」
「理屈は分かる」
「それから、布は見せるな」
張青たちが深く頷いた。
「心得ました」
私は納得できない……
「布は必要な物資です」
「必要な時だけ出せ」
武松が静かに言った。
「今の潘巧雲には、その方がよい」
二人にまで言われると、さすがに堪える。
「では、柴進様のご容態だけ、詳しく教えていただけますか」
広間がまた静かになった。
魯智深が顔を引きつらせる。
武松は目を閉じた。
張青たちは、すでに壁の方を向いている。
孫二娘だけが、平然と私の隣へ来た。
「ほら、聞きな。アタイはここにいるよ」
その声が妙に優しかった。
私は小さく息を吸った。
「お願いいたします」
魯智深は観念したように、柴進様を井戸から救い出した時のことを語り始めた。
弱っていたこと。
身体に傷があったこと。
それでも意識を取り戻し、礼を言ったこと。
梁山泊へ運ばれ、薬と食事を与えられたこと。
しばらく休めば、起き上がれるだろうということ。
私は一言も聞き漏らすまいと、帳面に記した。
今度は誰も止めなかった。
ただ、柴進様が私の送った布を身につけているかもしれないと考えた瞬間、魯智深と武松まで壁を向いた。
長く山を留守にしていた二人は、その日ようやく知った。
二龍山に残った者たちも、別の戦をしていたのである。
迎児でございます。
魯智深様と武松様が、無事に戻られました。
巧雲様も、柴進様のご様子を聞くことができました。
それは本当によろしいことなのですが、皆様はなぜか少しずつ壁の方へ下がっていかれました。
孫二娘様だけは、いつも通りでございました。
私は巧雲様のお隣で、きちんと控えを取りました。




