助かったのに、まだ会えません
潘巧雲でございます。
柴進様が捕らわれたとの知らせから、半月ほどが過ぎました。
帳面の日付だけが増えていき、私の内面は少しも整いません。
そして、梁山泊から急ぎの文が届きました。
柴進様は、救い出されたそうです。
命に別状はないそうです。
魯智深様も、武松様もご無事だそうです。
よかった……
本当に、よかった……
……ただ、安心した途端、どうにも声と空気が危うくなりました。
私はただ、喜んでいるだけなのですが……
柴進様が捕らわれたとの知らせから、半月ほどが過ぎていた。
帳面の日付だけが、律儀に増えていく。
返書待ち。
荷到着確認待ち。
高唐州続報待ち。
魯智深様、武松様、帰還待ち。
柴進様、救出待ち。
待ち、待ち、待ち――
帳面の上では整っている。
だが、私の内面はまったく整っていなかった。
「巧雲様、こちらは昨日の控えです」
迎児が、きちんと揃えた紙を差し出してくる。
泣きながらでも控えを取る子は、泣く前に控えを差し出せる子になった。
頼もしい。
とても頼もしい。
ただ、私の顔色を見るたびに目が潤むのは、まだ直っていない。
「ありがとうございます」
私は控えを受け取り、日付の欄へ目を落とした。
半月――
文字にすると短い……
けれど、柴進様の無事が分からない半月は、普通の半月ではない……
時計があれば、秒針を睨みつけていたと思う。
ないので、帳面を睨んでいる。
現代なら、これは完全にメンタル管理案件である。
「また、同じ欄を見ておられます」
迎児が小さく言った。
「確認です」
「確認するものは、まだ来ておりません」
「来るかもしれません」
「来たら、お知らせいたします」
正しい……
また正しい……
迎児は日に日に、私の逃げ道を塞ぐのが上手くなっている。
広間の端では、孫二娘が薬箱を確認していた。
張青は入口に近い場所で、なるべくこちらを見ないようにしている。
楊志は地図を広げているが、もう逆さにはしていない。
成長である。
ただし、私が「布」と書いた瞬間だけ、手が止まる。
曹正は麓の店と二龍山を行き来し、施恩は武松様宛ての控えや追加の支度を見に来ていた。
二人とも、最近は広間へ入る前に一度深呼吸する。
失礼だと思う……
とても失礼だと思う……
だが、反論しようとすると、孫二娘が笑うので黙ることにしている。
「今日は、薬の追加はなしでよいかと」
私は帳面に目を落とした。
「傷薬、打ち身、熱冷まし、腹の薬。いずれも次便分は用意済み。水袋も替えあり。兵糧は曹正様の店より追加可能」
「呼ばれましたか」
曹正が入口から顔を出した。
「いえ。帳面上の確認です」
「ならよかったです」
「何がですか」
「いえ、何でも」
曹正は目を伏せた……
本当に失礼である……
その時だった。
山道の方から、馬の蹄の音が聞こえた。
広間の空気が、ひゅっと締まる。
張青が立ち上がった。
楊志が地図から顔を上げる。
孫二娘の笑みが消える。
迎児が控えを胸に抱いた。
私は筆を置いた。
蹄の音は近づき、やがて門の外で止まった。
男の声と取り次ぎの声。
足音とともに、若い者が走り込んでくる。
「梁山泊より、急ぎの文にございます!」
息が止まった。
文――
梁山泊からの急ぎの文……
私は立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。
机に手をつくと、迎児がすぐ横に来てくれた。
「巧雲様」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
だが、今ここで倒れる予定はない。
予定で倒れる者はいない、と迎児に叱られる前に、私は文へ手を伸ばした。
封に記された名は、閻婆惜殿。
整った字だった。
変なところで安心する。
この人の文は、乱れていない。
つまり、まだ事態は完全には崩れていない。
そう思わなければ、指が震えそうだった。
私は封を切った。
二龍山、潘巧雲殿。
文面を目で追う。
高唐州攻めにおいて、入雲龍公孫勝殿の術により高廉を破り、城中を制したこと。
柴進殿は井戸より救い出され、梁山泊にて保護したこと。
命に別状はないこと。
魯智深殿、武松殿も無事であり、追って詳報を送ること。
二龍山よりの支援物資は、受領済みであること。
傷病者用上等布を、救出後の手当てに用いたこと。
そこで、文字が滲んだ。
いや、文が滲んだのではない。
私の目が、滲んだ。
「……助かった」
声が出た。
自分の声なのに、遠く聞こえる。
「柴進様が……助かった」
次の瞬間、胸の奥で固く結ばれていたものが、ほどけた。
ほどけただけでは済まなかった。
半月分の息。
半月分の不安。
半月分の熱。
半月分の「触れたい」と「無事でいてほしい」が、一気に外へこぼれた。
私は文を抱きしめるように押さえた。
「よかった……」
声が艶めいたのが、自分でも分かった。
しまった――
そう思った時には、遅かった。
広間が静まり返っていた。
張青が、入口の柱に手をついている。
曹正は半歩下がっている。
施恩は目を伏せたまま動かない。
楊志は文机の端を握りしめ、低く咳払いをした。
孫二娘だけが、片手で口元を押さえ、肩を震わせている。
迎児は泣いていた。
「巧雲様……よろしゅうございました……」
「はい」
私は頷いた。
「本当に……よかった……」
また声が甘くなった。
止めたい。
止めなければならない。
だが、止まらない。
柴進様が生きている……
助かった……
井戸から救い出された……
梁山泊で保護されている……
命に別状はない……
その一文だけで、身体の奥から熱が上がってくる。
私は文面をもう一度見た。
傷病者用上等布を、救出後の手当てに用いた。
「……使っていただけたのですね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「私の選んだ布が……」
張青が、無言で両手を前に置いた。
なぜその構えなのかは聞かない。
聞くと全員が困る気がする。
楊志が鋭く言った。
「潘巧雲」
「はい」
「文を置け」
「嫌です」
即答してしまった。
広間がまた固まる。
私は慌てて言い直した。
「いえ、確認がまだです。文面の確認が」
「抱きしめて確認するものではない」
「抱きしめてはいません」
「近い」
「文です」
「今は違う」
楊志は本気で言っていた。
孫二娘がとうとう笑った。
「楊志、無理だよォ。半月分だ。文一枚で済んでるだけ、まだましさ」
「ましなのか」
「ましだねェ」
張青が小さく首を横に振った。
「お嬢、俺はましとは思えません」
ゴン、と音がした。
「言うんじゃないよ」
「今のは殴られると思いました」
「分かってるなら黙りな」
曹正がそっと手を上げた。
「俺、店に戻って餅を焼いてきましょうか」
「なぜですか?」
私が聞くと、曹正は困った顔をした。
「こういう時、何か食わせた方が落ち着くかと」
「私は子供ではありません」
「今の広間は、子供の話ではないです」
何の話なのか。
聞きたくない。
施恩が控えめに言った。
「柴進殿がご無事とのこと、まずは何よりです。武松殿もご無事なら、こちらも安堵いたしました」
その言葉で、私は文に目を戻した。
魯智深様、武松様も無事。
「よかった……武松様も、魯智深様も……」
今度は声を抑えられた。
少しだけ……
楊志が息を吐く。
「詳報は後か」
「はい。追って送るとのことです。柴進様は梁山泊で保護。命に別状なし。二龍山の支援物資も受領済み」
「なら、返書を書く」
「はい」
仕事と返書。
確認と受領。
そして礼。
私は文机へ向かい、筆を取った。
手が震えていた。
でも、書ける。
二龍山より梁山泊、閻婆惜殿へ。
柴進殿救出の報、確かに拝受いたしました。
魯智深殿、武松殿の無事も確認いたしました。
支援物資の受領および使用につき、確認いたしました。
柴進殿のご容態につき、可能であれば続報をいただきたく存じます。
二龍山は、必要に応じ追加支援を整えます。
そこまで書いて、筆が止まる。
柴進様のお声は……
お身体は……
寒くはなかったか……
井戸の中で、どれほど苦しかったのか……
あの布は、どこに触れたのか……
駄目だ――
また感情が昂ぶってくる。
私は目を閉じた。
「巧雲様」
迎児が泣きながら、そっと控えを差し出す。
「先ほどの文、写しを取ります」
「お願いします」
「それと……」
「はい」
「柴進様は、ご無事です」
その一言で、また喉が詰まった。
「はい」
私は小さく頷いた。
「ご無事です」
声が震えた。
甘さと涙が混ざり、自分でも手に負えない声になった。
張青が壁を向いた。
曹正も壁を向いた。
施恩はさらに目を伏せた。
楊志は天井を見た。
孫二娘は笑いすぎて、とうとう薬箱に手をついた。
「すみません」
私は文机に額を近づけた。
「今の私は、非常に業務に向いておりません」
「知ってるよォ」
孫二娘が優しくも容赦なく言った。
「でも、書いてるだけ偉いじゃないか」
「偉いのでしょうか」
「偉いよ。広間がこの有様でも、返書は整ってる」
それは褒め言葉なのか?
たぶん、褒め言葉だ。
楊志が咳払いをした。
「潘巧雲。柴進殿は助かった。だが、まだ戻らぬ。礼と追加支援の文を書け。それが今の役目だ」
「はい」
私は筆を握り直した。
柴進様は助かった。
でも、まだ会えない。
まだ声も聞けない。
まだ手も届かない。
それでも、生きておられる。
それだけで、世界が少し戻った気がした。
帳面に新しい欄を作る。
柴進様、救出。
梁山泊にて保護。
命に別状なし。
魯智深様、武松様、無事。
支援物資、受領済み。
追加支援、要請待ち。
未了の文字が、ひとつ消えた。
全部ではない。
会えるまでは、まだ終わらない。
柴進様の声を聞くまでは、私の内側はきっと落ち着かない。
それでも、今日は書ける。
助かった人のために、次の支度を書くことができる。
私は返書の最後に、仕事の言葉だけを残した。
二龍山は、引き続き支援いたします。
書かなかった言葉は、胸の奥に押し込めた。
柴進様――
どうか、もう一度お会いできますように……
その願いまで文にしてしまえば、また広間が危険になる。
だから私は黙って筆を置いた。
黙っただけで、張青がまた壁を向いた。
本当に失礼である……
迎児でございます。
梁山泊から、急ぎの文が届きました。
柴進様は救い出され、命に別状はないとのことです。
魯智深様も、武松様もご無事だそうです。
本当に、よろしゅうございました。
巧雲様は、文を抱きしめるようにしておられました。
楊志様に止められても、なかなか手放せないご様子でした。
私は、また泣いてしまいました。
けれど、今度は悲しくて泣いたのではありません。
柴進様がご無事だと分かって、胸がいっぱいになったのです。
それでも、巧雲様はまだ柴進様にお会いできません。
ですから、控えを取り、返書を整えました。
――会える日まで、私も隣でお支えいたします。




