返事を待つだけではいられません
潘巧雲でございます。
梁山泊へ荷を送りました。
ですが、返事はまだ来ません。
荷が届いたかも、柴進様がご無事かも、分かりません。
分からないのなら、待つしかない。
そう思うのですが、どうにも私の内側が落ち着きません。
ただの支援物資です。
ただの薄布です。
ただの仕事です。
……そのはずなのに、二龍山の広間が妙な空気になりました。
私は本当に、何もしていないのですが……
梁山泊へ荷を出した翌朝、私は帳面を開いた。
柴進様救出、続報待ち。
支援物資、梁山泊へ発送済み。
荷到着確認、未了。
未了――
その二文字が、妙に目に刺さる。
梁山泊は近くない。
昨日出した文が、今日返るはずもない。
荷が西の渡しへ着くにも、そこから梁山泊側へ渡るにも、時がかかる。
分かっている――
分かっているのに、私は同じ欄を何度も見ていた。
「巧雲様」
迎児が、そっと声をかけてきた。
「まだ、返事が来る頃ではございません」
「分かっています」
「では、なぜ帳面をそこまで睨んでおられるのですか」
「確認です」
「確認するものが、まだ来ておりません」
正論である。
最近の迎児は、かなり強い。
補佐として頼もしいが、痛いところを刺してくる。
私は筆を持ったまま、息を吐いた。
荷はもう出た。
文も出た。
私にできることは、次の支度くらいしかない。
そう考えた瞬間、指が勝手に動いた。
追加支援候補。
薬、布、湯に使う乾いた草、塩、包帯、替えの衣。
そこで筆が止まる。
布――
傷病者用上等布。
昨日、私が選んだ白い薄布。
柴進様の肌に触れるかもしれない布。
「……」
だめだ――
まただ……
私ではない。
私の手ではない。
ただの布だ。
傷病者用の、きわめて真面目な支援物資である。
それなのに、その布があの方の腕に、肩に、胸元に当てられるかもしれないと思うだけで、胸の奥が甘く疼く。
仕事である。
完全に仕事である。
医療支援である。
そう言い聞かせるほど、なぜか仕事から遠ざかっていく。
これは、業務上たいへんよろしくない。
非常によろしくない。
脳内の稟議が通らない。
「巧雲様……?」
迎児の声が、不安そうに震えた。
「お顔が、赤いです」
「気のせいです」
「お熱があるのでは」
「熱ではありません」
「では、何なのですか」
私は答えに詰まった。
業務上の不具合です。
そう言いかけて、飲み込んだ。
迎児に通じない。
通じたら、それはそれで困る。
「少し、考え事をしていただけです」
「薄布のことですか」
迎児の目に、また涙が浮かんだ。
「泣かないでください」
「泣いておりません」
「もう泣きそうです」
「巧雲様が、薄布のお話になると、いつも苦しそうになさるからです」
私は帳面を閉じかけて、やめた。
閉じても、頭の中の薄布は消えない。
孫二娘が、薬箱を抱えた女たちを連れて広間へ入ってきた。
「朝から空気が濃いねェ」
「薬の確認ですか」
「薬の確認に来たんだけどねェ。入った途端、違うものを吸った気がするよォ」
孫二娘は私を見て、にやりと笑った。
「アンタ、まだ返事も来てないのにそれかい」
「それ、とは何ですか」
「分かってるくせに、聞くんじゃないよォ」
張青がその後ろから顔を出した。
昨日より慎重に、広間の敷居を越える。
「お嬢、俺、外で薪でも割ってきていいですか」
「何でだい」
「ここ、何か……濃いです」
「何が濃いんだい」
「言ったら殴られる気がします」
「言わなくても殴るよ」
ゴン、と鈍い音がした。
張青が頭を押さえてしゃがみ込む。
「まだ何も言ってねえです!」
「顔が言ってたんだよ」
孫二娘は平然としている。
私は慌てた。
「二娘さん、私は本当に何もしていません」
「知ってるよォ。何もしてないのにこれだから困るんだねェ」
「これ、とは」
「言わせる気かい?」
言わせてはいけない気がした。
私は視線を帳面へ落とした。
楊志が地図を持って入ってきた。
「何を騒いでいる」
張青が床に座ったまま、楊志を見上げた。
「楊志殿、助けてくだせえ。俺は何も言ってねえのに殴られました」
「余計な顔をしたのだろう」
「顔まで罪ですか」
「時に罪だ」
張青が絶望した顔をした。
楊志は地図を広げ、私の前へ置いた。
「西の渡しまでの道程を再確認する。荷が遅れた場合、次に出す支援の道を分ける必要がある」
「はい」
私は身を乗り出した。
道程、支援、護衛、受け取り、確認。
よかった――
仕事の話だ。
仕事なら落ち着ける。
そう思ったのに、地図の上に置いた自分の指が、妙に熱い。
昨日、薄布の端を確かめた指だった。
この指ではなく、布が行く。
私の手ではなく、布が柴進様に近づく。
その事実が、また胸の奥を揺らした。
「潘巧雲」
楊志の声が、少し低くなった。
「はい」
「布の話から離れろ」
「何も言っておりません」
「顔が言っている」
張青が床で小さく頷いた。
「分かります」
孫二娘の目が光ったので、張青はすぐ口を閉じた。
「布ではありません。支援物資です」
「今は同じだ」
「同じではありません」
「同じだ」
楊志はそう言って地図を押さえた。
だが、その地図は逆さまだった。
私は黙って見た。
迎児も見た。
孫二娘も見た。
張青は、見てはいけないものを見る顔で見た。
「楊志様」
「何だ」
「地図が逆さまです」
楊志はしばらく動かなかった。
それから無言で地図を戻した。
孫二娘が肩を震わせる。
「楊志までやられたかい」
「やられておらぬ」
「地図を逆さに見てた男の言うことじゃないねェ」
楊志は咳払いをした。
昨日より深い咳だった。
「潘巧雲。声を抑えろ」
「声を出していません」
「出していなくても乱れる」
「何がですか」
「士気だ」
士気――
私は筆を置いた……
「私はただ、返事を待っているだけです」
「ただ待っている女の顔ではない」
楊志の声が本気だった。
張青がまた頷きかけ、孫二娘の拳を見て止まる。
迎児がとうとう泣き出した。
「巧雲様……」
「迎児、泣かないでください」
「だって、皆様が困っておられます」
「私も困っています」
「巧雲様ご自身が原因なのにですか」
その一言は痛かった。
原因――
そうかもしれない……
だが、私は本当に何もしていない。
柴進様を思い出しているだけだ。
無事でいてほしいと願っているだけだ。
昨日送った薄布が、あの方の近くへ行くかもしれないと考えているだけだ。
それだけなのに、どうして広間がこのような空気になるのか。
フェロモンという単語が頭をよぎった。
やめよう……
この世界に持ち込む概念ではない。
しかも、自分で言うと死ぬほど恥ずかしい……
「俺、戻った方がいいですか」
入口で声がした。
曹正だった。
麓の店から上がってきたのだろう。
肩には兵糧の追加分についての札を掛けている。
その後ろに、施恩もいた。
武松への伝言か、道中の支度の確認だろう。
二人とも、広間の中に足を踏み入れたところで止まっていた。
「曹正、報告しな」
孫二娘が言う。
曹正は私を見て、楊志を見て、張青を見て、最後に孫二娘を見た。
「報告はしますが……空気が濃いです」
張青が無言で曹正の肩を叩いた。
「分かったか」
「分かりました」
「だろ」
ごん、と二度目の音がした。
張青がまた頭を押さえた。
「分かり合うんじゃないよ」
孫二娘の声は低かった。
施恩は曹正の後ろで、困ったように立っている。
「これは……軍議ですか」
「軍議だ」
楊志が即答した。
「かなり危険な軍議だ」
「危険なのは敵ではなく?」
「今は味方だ」
私は耐えきれずに言った。
「皆様、本当に失礼ではありませんか」
全員が一瞬、黙った。
孫二娘だけが楽しそうに笑う。
「巧雲、アンタが悪いんじゃないよォ」
「では、何が悪いのですか」
「柴進殿が悪いねェ」
「柴進様は何もしておりません」
「何もしてない男の名だけで、この有様だよォ」
返す言葉がない。
本当にない。
曹正が咳払いをした。
「麓の店から、餅と干し肉をもう少し上げられます。水袋も替えを二つ。追加要請があれば、明後日以降に出せます」
「助かります」
私は急いで帳面を開いた。
曹正報告。
餅、干し肉、追加可能。
水袋替え、二つ。
次便、明後日以降。
仕事だ。
仕事をしていれば、少しは戻れる。
だが、筆を持つ手がまだ熱い。
柴進様は、食べられているのだろうか。
牢の中で、冷えた飯を与えられてはいないか。
熱があれば、水は足りているか。
傷があれば、布は――
また薄布へ戻った。
私は自分の額を押さえた。
「駄目です」
「何がだい」
孫二娘が笑いを含んだ声で聞いた。
「考えが、すぐ薄布へ戻ります」
広間が、また静かになった。
張青が小さく言う。
「自白した……」
孫二娘が拳を上げたので、張青は床に伏せた。
楊志は天井を見た。
曹正は下へ戻りたそうな顔をした。
施恩は目を伏せ、迎児は泣きながら控えを取っている。
私は深く息を吸った。
「よろしいですか。私は本当に、柴進様のご無事を案じているだけです」
「それは分かってるよォ」
孫二娘が言った。
「ただ、案じ方が良い女過ぎるんだよ」
「意味が分かりません」
「分からないままでいな。たぶん、その方がいい」
楊志が地図を畳んだ。
「潘巧雲」
「はい」
「返事はまだ来ぬ。荷もまだ着かぬ」
「はい」
「だが、次の支援は整えろ。待つ間にできることをする。それだけだ」
ようやく、まともな言葉が来た。
私は頷いた。
「承知しました」
「それと」
「はい」
「布の字を見る時は、少し離れろ」
張青が吹き出しかけた。
孫二娘の拳を見て、すぐに咳払いへ変える。
私は、悔しいことに何も言い返せなかった。
帳面に、次の欄を作る。
追加支援候補。
薬、兵糧、水袋、替えの衣、布。
返書待ち。
荷到着確認、未了。
返事は来ない。
荷が届いたかも分からない。
柴進様の無事も分からない。
それでも、私は筆を置かなかった。
待つだけで済むほど、私の内側はおとなしくない。
けれど、暴れるものをそのまま外へ出すわけにもいかない。
だから、欄を作る。
名目をつける。
荷札を考える。
次の支度を整える。
たとえ二龍山の広間を少しばかり騒がせても……
私は、柴進様へ届く道を、もう一本増やしたかった。
迎児でございます。
梁山泊からの返事は、まだ来ませんでした。
巧雲様は、帳面を開いて待っておられました。
けれど、薄布の文字を見るたびに、お顔が赤くなったり、苦しそうになったりなさいました。
私は、どうしたらよいのか分かりませんでした。
楊志様も、張青様も、曹正様も、施恩様も、困っておられました。
孫二娘様だけは笑っておられましたが、張青様には拳骨を落としていました。
私は、また泣いてしまいました。
巧雲様が何もしていないことは、分かっています。
でも、何もしていないのに広間の空気が変わるので、余計に怖かったのです。
それでも控えは取りました。
泣いていても、補佐は補佐でございます。




