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届かない場所へ支度します

潘巧雲でございます。


柴進様は、助け出されれば梁山泊へ入られるそうです。

二龍山へは、来られません。

分かっていたことです。

それでも、胸の奥が少し沈みました。

会えない人のために布を選びます。

触れられない人のために薬を包みます。


……仕事中に考えることではありませんね。

届かない場所へ、支度をいたします。

魯智深と武松を送り出した後、二龍山は妙に静かになった。

人がいなくなったわけではない。

広間には楊志がいて、孫二娘がいて、張青がいる。

迎児も、私の隣で控えの紙を整えていた。

けれど、魯智深の大きな声と、武松の重い足音がないだけで、山寨の空気は少し薄くなったように感じられた。

曹正は麓の店にいる。

兵糧や餅は、あとで店から上げさせることになる。

ここで今すぐ数えられる物と、麓から運ばせる物。

それも分けなければならない。

私は帳面を開いた。

高唐州へ向かう者は出た。

次は、残る側の仕事である。

物資や文を運ぶ者。

途中で休ませる場所。

梁山泊へ渡す分。

高唐州到着後に回す分。

書くことは多い。

多すぎる。

こういう時だけ、私は現代の職場を思い出す。

案件が増える時は、必ず同時に増える。

一件ずつ来てほしい。

本当に、順番というものを覚えてほしい。

「巧雲様」

迎児が、小さく声をかけた。

「はい」

「次は、どちらからまとめますか」

「梁山泊へ送る支援物資を先にまとめます。高唐州へ行く分とは別です」

「梁山泊、でございますね」

迎児が控えに書き込む。

私は頷いた。

柴進様は、助け出されれば梁山泊へ入る。

二龍山へは来ない。

そのことは、分かっていた。

梁山泊が動くのだ。

柴進様は梁山泊の人になる。

私がここで何をどれほど整えても、あの方がこの山寨へ戻ってくるわけではない。

それでも、手は止められなかった。

会えないかもしれない人のために、薬を包む。

触れられないかもしれない人のために、布を選ぶ。

声を聞けないかもしれない人のために、文を整える。

仕事としては正しい。

心としては、なかなか厄介である。

孫二娘が薬箱を抱えて来た。

「巧雲、薬はどっちへ多く回すんだい」

「梁山泊へ送る分を厚くしてください。柴進様が救い出された後、すぐ使えるように」

柴進様――

その名を口にした瞬間、自分でも分かるほど声が柔らかくなった。

楊志が、地図から顔を上げた。

孫二娘の目が細くなる。

張青は何か言いかけて、口を閉じた。

迎児だけが、心配そうに私を見ていた。

しまった――

「……薬の話です」

私は付け足した。

孫二娘がにやりと笑う。

「誰も違うとは言ってないよォ」

「今の顔は、言っていました」

「いい顔をしてると思っただけさ」

「仕事中です」

「うん。仕事中だねェ」

孫二娘の声は楽しそうだった。

私は帳面へ目を落とす。

負けてはいけない。

ここは帳面の場である。

恋愛相談室ではない。

「傷薬、打ち身、熱、腹の薬を多めに。眠れない時の薬も入れてください。ただし、眠りすぎるものは駄目です」

「はいはい。蒙汗薬じゃないよォ」

「まだ疑っていません」

「もう疑う顔をしてたよ」

張青が気まずそうに横を向いた。

普段なら余計なことを言う人なのに、今日は妙に黙っている。

それがかえって恥ずかしい。

楊志が咳払いをした。

「布はどうする」

明らかに話を戻してくれた。

ありがたい。

とてもありがたい。

けれど、少し焦っているのも分かる。 武人を焦らせるほど、今の私は変な顔をしているのだろうか。

迎児が布の束を前へ出した。

「傷の手当て用の布でございます」

白い布だった。

洗われ、乾かされ、丁寧に畳まれている。

私はそれを見た瞬間、息が浅くなった。

この布が、柴進様の肌に触れるかもしれない。

傷があれば、その上に当てられる。

熱があれば、汗を拭うかもしれない。

牢で冷えた身体を包むかもしれない。

そんなことを考えてはいけない。

いけないのに、思い浮かぶ――

あの穏やかな目……

こちらを値踏みしなかった声……

屋敷で差し出された手……

節がきれいで、温かそうだった指……

触れたら、どんな熱をしているのだろう……

「巧雲様」

迎児の声が震えた。

私ははっとした。

「……大丈夫です」

「本当に、でございますか」

「ええ。大丈夫です」

嘘である。

たぶん大丈夫ではない。

孫二娘が、薬箱の蓋を閉めた。

「その布、ずいぶん丁寧に見てたねェ」

「品質確認です」

「へえ」

「品質確認です」

「二回言うと、怪しくなるよォ」

楊志がまた咳払いをした。

今度は少し強い。

「潘巧雲、支援物資の名目を決めろ。私情の入った荷札は避けた方がよい」

その言い方は、かなり真面目だった。 けれど、耳の端が少し赤い。

楊志でも焦るのか。

妙なところで感心してしまった。

「はい。名目は傷病者用上等布にします」

私は帳面に書いた。

傷病者用上等布、一包。

梁山泊着後、閻婆惜殿へ引き渡し。

柴進様使用分、必要に応じて。

最後の一行を書きかけて、筆を止めた。

これは、少し近すぎる。

私はその行を塗りつぶした。

書き直す。

傷病者用上等布、一包。

梁山泊着後、要確認。

これなら仕事である。

これなら、誰にも私の手の熱は見えない。

見えないはずだった。

「巧雲様」

迎児が、泣きそうな顔をしていた。

「ご無理をなさっていませんか」

「しています」

思わず正直に答えてしまった。

迎児の目がさらに不安になる。

私は慌てて言葉を足した。

「でも、今は無理をする時です。倒れるほどではありません」

「倒れる前に、お休みください」

「倒れる予定はありません」

「予定で倒れる方はいません」

迎児に正論を言われた。

返す言葉がない。

孫二娘がクスクスと笑う。

「迎児の方が強くなってきたねェ」

「よいことです」

楊志が地図を指した。

「梁山泊へ送るなら、文を先に走らせる。荷は護衛をつけて後からだ。曹正の店から上げる兵糧は、麓でまとめて合流させる」

「分かりました」

私は帳面に書く。

文、先行。

荷、後続。

麓の曹正の店より兵糧を上げる。

護衛をつける。

梁山泊側の受取場所、要確認。

その時、外から足音がした。

梁山泊からの第二報だった。

使いはひどく疲れていた。

水を飲ませ、座らせてから文を受け取る。

封を切る手が、少し震えた。

閻婆惜殿の文だった。

高唐州の備えは固い。

高廉の術は厄介。

公孫勝殿への使いを急がせている。

正面から急げば損害が増える恐れあり。

二龍山より兵糧および薬の支援あれば、梁山泊側で受け取る。

柴進殿救出後は、梁山泊にて保護する見込み。

最後の一文で、私は動けなくなった。

柴進殿救出後は、梁山泊にて保護する見込み。

当然である。

分かっていた。

分かっていたはずだった。

けれど、文字で見ると胸に沈む。

柴進様は、ここへ来ない。

私の前には来ない。

助かっても、あの方の息遣いを近くで聞けるわけではない。

この手で薬を差し出せるわけでもない。

布を当てることも、汗を拭うことも、できない。

それなのに、身体の奥はまだ熱い。

会えないと分かっても、触れたい。

遠くへ行くと分かっても、声が聞きたい。

あの方の手が無事なら、それだけでいいと思いたい。

でも本当は、その手に私の指を重ねたい。

駄目だ――

仕事中である……

しかも、周囲に人がいる……

私は息を吸った。

広間が静かになっていた。

楊志は目を逸らしている。

孫二娘は笑わず、こちらを見ていた。 張青は完全に黙りこくっていた。

迎児は今にも泣きそうだった。

全員に伝わっている。

これはまずい。

非常にまずい。

大人の女の恋慕が漏洩している。

情報管理上、最悪である。

「……文を、書きます」

私はどうにか言った。

声が少し掠れていた。

二龍山より梁山泊へ。

兵糧、薬、布、金等物資を送る用意あり。

文を先行し、荷は護衛をつけ後送。

受け取り場所を至急知らせられたし。

柴進殿救出に関し、二龍山は支援を継続いたします。

そこまで書いて、筆を止める。

柴進様のお身体の具合を知らせてください。

怪我はありませんか。

寒くはありませんか。

食事は取れていますか。

どうか、あの方を苦しませないでください。

書きたい言葉は、いくつもあった。

けれど、書かない。

閻婆惜殿なら、余計な一文がなくても分かるかもしれない。

いや、分からなくていい。

分かられたら、困る。

私は文を結んだ。

「これを先に」

楊志が頷いた。

「よい。すぐ出せ」

孫二娘が薬包みを差し出す。

「こっちは荷に回すよォ」

その声は、さっきより少し優しかった。

茶化す時と、そうでない時を分けてくれる。

やはり、この人は鋭い。

迎児が白い布包みを抱えている。

「巧雲様、こちらも……」

「はい。梁山泊へ送る荷に入れてください」

「お名前は」

私は少し考えた。

柴進様用、と書きたい。

けれど、書けば私情になる。

「傷病者用上等布、としてください」

「……はい」

迎児は頷いた。

それでも、その布を他の荷より少し丁寧に抱えていた。

ありがたい。

でも、恥ずかしい。

張青が黙ったまま、荷を担ぐ者を呼びに出て行った。

一言も余計なことを言わなかった。

普段なら驚くところだが、今は助かった。

私は帳面の端に、小さく印をつけた。

梁山泊支援物資。

兵糧、薬、布、金。

柴進殿救出後、梁山泊保護予定。

追加要請待ち。

そこまでで止める。

それ以上書けば、仕事ではなくなる。

外では荷を整える声がしていた。

二龍山は動いている。

魯智深と武松は道を進んでいる。

梁山泊も、高唐州へ向かっている。

私はここにいる。

行けない場所へ文を出す。

届かない手の代わりに布を送る。

抱けない人のために薬を包む。

それが、今の私にできることだった。

「巧雲様」

迎児がそっと言った。

「少しだけ、座り直してくださいませ。お顔の色がよくありません」

私は苦笑した。

「赤いのか、青いのか、忙しいですね」

「笑いごとではございません」

「はい」

叱られた……

けれど、その声に救われる。

私は筆を置き、深く息を吐いた。

柴進様――

どうか、ご無事で……

その言葉は、やはり文には書かなかった。

胸の中でだけ、何度も繰り返す。

届かない場所へ支度をする。

会えない人のために荷を送る。

それでも、何もしないよりはずっといい。

私は次の帳面を開いた。

待つ側にも、まだ仕事はある。

迎児でございます。


巧雲様は、柴進様のお名前が出るたびに、少し違うお顔をなさいます。

赤くなったかと思えば、すぐ青くなられて、見ているこちらの胸まで苦しくなりました。

孫二娘様は笑っておられましたが、楊志様も張青様も、途中から静かでした。

私は、控えを取ることしかできません。


けれど、せめて巧雲様が倒れないよう、隣で見ております。

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