梁山泊へ参ります
潘巧雲でございます。
梁山泊との文のやり取りの末、覚書を交わしに行くことになりました。
担当は、私です。
逃げてきた女が、気づけば二龍山の交渉担当。
正直、転職にもほどがあります。
しかも、覚書の後には酒宴までございました。
会議の後に懇親会がつくのは、どこの世界も同じようです。
梁山泊との文のやり取りは、数度続いた。
こちらが条件を出し、向こうが返し、楊志が眉を寄せ、私が削り、また書き直す。
そのたびに、閻婆惜という名が返書の端に添えられていた。
文は相変わらず整っていた。
余計な情はない。
けれど冷たくもない。
必要なところだけを押さえ、こちらの逃げ道も、向こうの逃げ道も、きちんと残している。
本当に、仕事ができる人の文だった。
そして、最終的にこうなった。
覚書を交わすため、二龍山より梁山泊へ赴く。
担当、潘巧雲――
帳面にそう書いた時、私は少しだけ手を止めた。
自分は逃げてきた女である。
下女を連れて、夫の家から逃げた女である。
十字坡で帳面をつけ、二龍山で棒を持たされ、気づけば梁山泊との覚書の担当になっている。
転職にもほどがある。
「巧雲様、本当に参るのですね」
迎児が、荷をまとめながら言った。
「ええ。覚書を交わすだけです」
「だけ、でございますか」
迎児の声には、不安が混じっていた。
無理もない。
梁山泊には楊雄がいる。
石秀もいる。
王英もいる。
本来なら、近づきたくない場所だ。
だが今回は違う。
私は一人では行かない。
魯智深、楊志、武松が同行する。
迎児も一緒だ。
孫二娘、張青、曹正は二龍山に残る。
留守を空けるわけにはいかないし、十字坡から続く人の流れも見ておく必要がある。
孫二娘は、出立前に私を見て笑った。
「巧雲、とうとう梁山泊へ乗り込むのかい」
「乗り込むわけではありません。覚書を交わしに行くだけです」
「同じようなもんだよォ」
「違います」
「そういうところだよ。お前さん、怖いねェ」
張青は横で頷きかけて、私と目が合い、慌てて首を止めた。
「その首、今日は便利に動かないのですね」
「アッシの首にも事情がありまして」
孫二娘が声を立てて笑った。
笑いがあるのは、ありがたい。
そうでなければ、足が重くなる。
梁山泊への道中、魯智深はいつも通り大きかった。
歩いているだけで、道が広がるように見える。
楊志は馬の位置と列の間隔を見ていた。
武松は黙っている。
黙っているが、周囲を見ている。
私はその三人の間にいて、ようやく息ができた。
迎児は私の隣にいる。
以前なら半歩後ろに下がっていただろう。
今は、少し近い。
「怖いですか」
私が聞くと、迎児は小さく頷いた。
「怖いです。けれど、置いていかれる方が、もっと怖かったと思います」
私は返事に少し詰まった。
「置いていきません」
「はい」
迎児の声は小さい。
けれど、震えてはいなかった。
梁山泊が見えた時、胸の奥が重くなった。
規模が大きい。
人も多い。
旗があり、舟があり、武器があり、声がある。
二龍山も荒々しい場所だが、ここはさらに別の塊だった。
梁山泊――
私を探っていた者たちのいる場所。
そして、私の文に返事を寄越した女のいる場所。
門前で出迎えた者たちの中に、楊雄と石秀はいなかった。
王英もいない。
それだけで、相手が本気で整えてきたことが分かる。
代わりに、前に出てきたのは女だった。
赤みを帯びた衣。
静かな目。
派手ではないが、場の中心に立つことに慣れている姿勢。
その女が、私たちへ向かって一礼した。
「梁山泊側の責任者を務めます。閻婆惜でございます」
その名を聞いた瞬間、返書の文字を思い出した。
この人だ――
文の向こうにいた女。
王英を処理し、同盟話を持ち出し、梁山泊の利益と、こちらの怒りを一枚に収めた女。
目の前に立つと、思っていたより若い。
けれど、若いだけの女ではない。
閻婆惜は、魯智深へ礼をし、楊志へ目を向け、武松を見て、最後に私を見た。
そこで、ほんの少しだけ表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
他の者なら気づかないかもしれない。
でも、私は気づいた。
秘書課で何度も見た顔だ。
想定外の相手が来た時、顔に出す前に飲み込む顔。
……まさか。
いや、早い。
決めつけるには材料が足りない。
ここで、
「もしかして後輩ですか」
などと聞けるわけがない。
聞いた瞬間、いろいろ終わる。
閻婆惜も、すぐに表情を戻した。
「遠路、お疲れ様でございました。晁蓋様は本日の覚書について了承しております。文面の最終確認は、私が承ります」
晁蓋を呼び捨てにしなかった。
けれど、完全に前に出ている。
梁山泊の責任者。
その言葉が、形だけではないと分かった。
魯智深が豪快に笑う。
「そなたが責任者か。なら話は早い」
「早く済ませたいとは思っております」
閻婆惜は静かに答えた。
「長引けば、余計な口を利く者が増えますので」
王英のことだ。
言わなくても分かる。
広間に通される途中で、視線を感じた。
遠くに、楊雄がいた。
顔は固い。
その少し後ろに、石秀もいる。
石秀は私より先に、魯智深、楊志、武松を見た。
それから私を見た。
以前のような、探る目だった。
だが、今回は違う。
私も見返した。
私はもう、あの家の奥にいた女ではない。
下を向き、言葉を飲み込む女ではない。
今日は、二龍山の覚書を持って来た。
覚書の席には、晁蓋もいた。
呉用もいた。
だが、文面を進めるのは閻婆惜だった。
晁蓋は大きく構え、呉用は時折口を挟む。
しかし、実際に一文ずつ確認し、どこを残し、どこを削るかを判断しているのは閻婆惜だ。
私は文を広げた。
「二龍山側の確認事項を申し上げます」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「第一に、潘巧雲および迎児について、本人の意思なく引き渡しを求めないこと」
閻婆惜が頷く。
「承知しております。梁山泊として、その件を同盟条件と切り離して扱うことを明記いたします」
呉用が少し眉を動かした。
「名を入れるのか」
閻婆惜が即座に答えた。
「入れます。名を曖昧にすれば、後で別解釈が生じます」
私は内心で頷いた。
分かっている。
本当に、この人は分かっている。
「第二に、楊雄殿、石秀殿、王英殿、その他の者による詮索、煽動、接触について、梁山泊側で制すること」
晁蓋が少し重い顔をした。
だが、閻婆惜は先に言った。
「王英殿については、すでに申し渡しております。楊雄殿、石秀殿についても、同様に扱います」
「第三に、道中の安全、物資の往来、情報共有については、互いに妨げないこと。ただし、人の引き渡しは別件として扱うこと」
閻婆惜の目が、少しだけ細くなった。
「同盟と引き渡しは別の話、ということですね」
「はい」
私は答えた。
「そこを混ぜられると困ります」
「同感です」
その一言で、場の空気が少し変わった。
閻婆惜は筆を取り、文面を直した。
手つきが速い。
迷いが少ない。
私は、その横顔を見た。
どこかで見た気がする。
会社の会議室。
社長室前の廊下。
後輩が、資料を抱えて立っていた姿。
けれど、まだ確信はない。
閻婆惜も私を見た。
目が合う。
ほんの一瞬、彼女の唇が動きかけた。
でも、言葉にはならなかった。
互いに、飲み込んだ。
今は覚書の席である。
ここで現代の話をするわけにはいかない。
最終の文面が整った時、魯智深が大きく頷いた。
「これでよい」
楊志も確認し、短く言った。
「問題ない」
武松は私を見てから、文面に目を戻した。
「よし」
晁蓋が印を押した。
二龍山側は魯智深が名を記し、楊志が確認し、最後に私が控えを受け取った。
その控えの端に、私は小さく書いた。
梁山泊にて覚書――
責任者、閻婆惜。
対応、潘巧雲。
迎児、同席。
書いてから、少し胸が熱くなった。
迎児も同席――
そこを残したかった。
逃げる時、迎児は私の後ろにいた。
今、覚書の席で、迎児は私の隣にいる。
それだけは、絶対に書いておきたかった。
覚書が済むと、晁蓋が酒宴を設けると言った。
形式上、断るわけにもいかない。
覚書の後に懇親会。
どこの世界でも、会議の後には飲食がついてくるらしい。
できれば欠席したかった。
だが、席はすでに整えられていた。
閻婆惜の采配なのだろう。
私と迎児は、魯智深と武松の近くに座らされた。
楊志は斜め前。
王英、楊雄、石秀は遠い。
席次も文書と同じで、意思表示なのだと分かった。
盃が回り、肉が出され、梁山泊の男たちが笑う。
魯智深はよく飲み、晁蓋も機嫌よく応じる。
武松は必要な分だけ飲み、楊志はほとんど酔わない。
私は酒を口につけるだけにした。
迎児も同じだ。
その時、視線を感じた。
遠い席に、王英がいた。
近づいてはこない。
だが、目だけがこちらに来ている。
顔ではない。
話でもない。
私と迎児の衣や髪や、座り方をなぞるような目だった。
気持ちが悪い。
私が顔を動かすより先に、閻婆惜が気づいた。
彼女は一度だけ王英を見た。
声は上げない。
眉も荒げない。
ただ、静かに目を伏せた。
怒ったのではない。
いや、怒ってはいたのだろう。
けれど、それを宴席には出さなかった。
次の瞬間、閻婆惜が近くの者へ何かを小さく告げた。
席が動いた。
酒を運ぶ者の流れが変わる。
魯智深が笑いながら身を乗り出し、武松が盃を置いた。
二人の影が、こちらと王英の間に入る。
王英から、私たちは見えにくくなった。
なるほど――
怒鳴らず、場を壊さず、視線だけを切った。
これは文書より怖いかもしれない。
閻婆惜は何事もなかったように、晁蓋へ言葉を返している。
その顔は穏やかだった。
けれど私は、少しだけ分かった。
この人も、我慢している。
我慢しながら、処理している。
宴が終わる頃、私はもう一度、控えの文を確認した。
覚書はある。
名前も入っている。
迎児も同席として残した。
これで、何もかも安全になるわけではない。
けれど、なかった時よりはずっとましだ。
帰り際、閻婆惜が私に近づいた。
「潘巧雲殿」
「はい」
「本日は、助かりました。文面が明確でしたので」
「そちらこそ、話が早くて助かりました」
少しだけ、沈黙が流れた。
言いたいことがある。
おそらく、向こうにもある。
閻婆惜が静かに微笑んだ。
「また、文で」
私は頷いた。
「ええ。また、文で」
それ以上は言わなかった。
梁山泊を出る時、楊雄はまだ遠くにいた。
石秀もいる。
王英は、こちらを見なかった。
私は控えの文を懐に入れた。
梁山泊へ来た。
覚書を交わした。
宴にも出た。
そして、文の向こうにいた女と会った。
まだ何も確かではない。
けれど、一つだけ分かる。
この世界で、私はもう一人ではない。
迎児が隣にいる。
魯智深、楊志、武松が前後にいる。
二龍山がある。
そして梁山泊には、閻婆惜という責任者がいる。
逃げるために始めた道が、いつの間にか、誰かと文を交わす道になっていた。
私は小さく息を吐いた。
次に書く文は、もう少しだけ、怖くないかもしれない。
迎児でございます。
巧雲様は、梁山泊へ覚書を交わしに行かれました。
私も、お供いたしました。
前は後ろを歩いているだけでしたが、今回は同じ席におりました。
控えにも、私の名を残してくださいました。
少し怖い場所でした。
けれど、巧雲様の隣にいられたことは、嬉しかったです。




