煽る者がいました
潘巧雲でございます。
探りは減りました。
ですが、今度は別の方が楊雄様を煽ったそうです。
女房を逃がして黙っているのか――
だそうです。
逃げたことは、恥ではありません。
その確認から始めるお話でございます。
探りが減ったからといって、安心できるわけではない。
それは分かっていた。
分かっていたつもりだった。
けれど、実際に次の話が届くと、やはり胸の奥が重くなる。
その日、麓から戻った若い者は、最初に楊志のところへ行った。
それから広間へ呼ばれた。
私と迎児も、そこへ呼ばれた。
呼ばれた時点で、良い話ではないと分かる。
現代でもそうだった。
「ちょっといいですか?」
と会議室へ呼ばれる時、だいたい何かが燃えている。
この世界には会議室がないだけで、火種はある。
広間には魯智深、楊志、武松、孫二娘、張青がいた。
魯智深は腕を組んでいる。
武松は壁際に立ち、黙っている。
楊志の顔はいつも通り厳しい。
孫二娘が私を見て、軽く顎をしゃくった。
「巧雲、来たねェ」
「何かありましたか?」
「ありましたねェ」
張青が小さく言った。
孫二娘に見られて、すぐ口を閉じる。
楊志が麓から戻った若い者に目を向けた。
「もう一度、同じように話せ」
「へい」
若い者は少し緊張した顔で頭を下げた。
「梁山泊の酒席で、楊雄と石秀の話が出たそうです。二龍山に探りを入れて叱られた、と」
そこまでは予想の範囲だった。
噂になるのは避けられない。
問題は、その次だった。
「そこで、王英が言ったそうです。女房を逃がして、二龍山に庇われて、それで黙っているのか、と」
広間の空気が、はっきり変わった。
迎児が息を呑む。
私は指先が少し冷えるのを感じた。
王英――
名前は知っている。
実物を見たことはない。
けれど、その名に良い印象はなかった。
扈三娘の件を、私は直接知らない。
せいぜい、扈三娘が断り、侍女が王英を近づけないよう防いだ、という話を聞いたくらいだ。
それでも、梁山泊の中で女をどう見る男なのか、少しは聞いている。
しかも、この流れでその男が楊雄を煽る。
嫌な組み合わせだった。
若い者は続けた。
「王英は、俺なら取り返しに行く、と笑ったそうです。梁山泊の頭領が、女一人に恥をかかされて黙っているのか、とも」
張青が顔をしかめた。
「口の減らねえ御仁ですな」
「張青」
孫二娘が低い声で呼ぶ。
張青はまた黙った。
私は口を開く前に、一度息を整えた。
「楊雄様は、それを聞いたのですか?」
「そこまでは分かりません。ただ、同じ席に近い場所にはいたそうです」
「石秀様は?」
「石秀は黙っていたそうです」
武松が短く言った。
「石秀は分かっている」
「何をですか」
「今動けば、二龍山だけでなく梁山泊にも見られる」
楊志が頷いた。
「石秀はしばらく自分を抑える。だが楊雄は別だ。面子を刺されれば、冷静でいられるとは限らぬ」
面子――
何度も出てくる言葉だ。
私にとっては、命より軽いものに見える。
けれど、この世界では違う。
男の面子、夫の面子、兄弟の面子、頭領の面子。
それが、女の命より重く扱われることがある。
私は、ゆっくり手を握った。
「つまり、王英殿は、煽る者ですね」
楊志が私を見た。
「そうだ」
前回、楊志は言った。
肩身の狭い者には、近づく者がいる。
慰める者、煽る者、利用する者。
今回は、そのうちの一つが来た。
煽る者――
帳面に項目を作るには、あまりにも分かりやすい。
「王英殿は、楊雄様を助けたいのでしょうか」
迎児が小さく聞いた。
誰もすぐには答えなかった。
孫二娘が、先に笑った。
ただし、面白がる笑いではなかった。
「助けたいんじゃないだろうねェ。自分が言いたいだけさ」
「言いたいだけ、ですか」
「女を取り返す男でいたい。女房を逃がされた男を笑いたい。そういう口だよォ」
迎児の顔が強張った。
私は筆を取り出した。
紙を広げる。
こういう時、手を動かした方がいい。
怒りだけでは、何も残らない。
記録すれば、次に使える。
私は聞いた内容を書いた。
梁山泊の酒席。
王英、楊雄を煽る発言。
女房を取り戻せぬのか。
二龍山に庇われて黙っているのか。
梁山泊の頭領が女一人に恥をかかされてよいのか。
書きながら、気分が悪くなった。
女一人――
便利な言葉である。
私の意思も、迎児の意思も、十字坡で働いた日々も、二龍山で生きている今も、すべて削ってくれる。
残るのは、楊雄の面子だけ。
本当に、都合がいい。
「巧雲様」
迎児が私の手元を見ていた。
「はい」
「私たちは、恥をかかせたのでしょうか」
その声は、小さかった。
私は筆を止めた。
迎児は、自分を責めているのではない。
けれど、その言葉を聞いてしまったのだろう。
女房を逃がした。
女一人に恥をかかされた。
そう言われれば、逃げた側が悪いように聞こえる。
私は迎児を見た。
「違います」
少し強く言いすぎたかもしれない。
迎児が目を丸くした。
私は声を整えた。
「恥をかいたのは、私たちが逃げたからではありません。私たちを物のように扱おうとして、それを他人に見られたからです」
迎児は黙って聞いている。
「逃げたことは、恥ではありません」
そう言いながら、私自身にも言っている気がした。
逃げたことは、恥ではない。
生きるために逃げた。
迎児を連れて逃げた。
十字坡へ行き、二龍山へ来た。
それを恥と言われる筋合いはない。
魯智深が、低く唸った。
「その通りだ」
その一言は、大きかった。
迎児の肩から、少しだけ力が抜ける。
楊志が紙を見た。
「王英の言葉は、広がる」
「広がりますか」
「分かりやすいからだ。女房を取り戻せぬ男。女一人に恥をかかされた男。酒席では、そういう言葉が回りやすい」
嫌な意味で、分かる。
悪意のある言葉ほど短い。
短い言葉ほど、人の口に乗る。
きちんと説明する側が、いつも不利になる。
現代でも、炎上案件はだいたいそうだった。
事情を三枚の資料で説明しても、相手は一行の悪口で全部を壊す。
この世界でも同じらしい。
本当に嫌になる。
「では、こちらも短くしておきましょう」
「何をだ」
楊志が聞く。
私は紙の下に、別の文を書いた。
潘巧雲および迎児は、本人の意思により二龍山に留まる。
二龍山は、本人の意思なく引き渡さない。
楊雄、石秀、その他いかなる者による詮索も、二龍山への干渉として扱う。
張青が、目を丸くした。
「また強い文を書きますなァ」
「出すとは言っていません。控えです」
「控えでこれですかい」
「いざという時、すぐ使えるようにしておくだけです」
孫二娘が、楽しそうに笑った。
「巧雲、もう文の武器庫だねェ」
嫌な言い方だ。
でも否定しきれない。
武松が文を見て、短く言った。
「置いておけ」
「使いますか」
「来ればな」
来れば――
その一言で、広間の空気がまた少し重くなった。
王英の言葉が楊雄の耳に入ったなら、楊雄は動くかもしれない。
石秀が止めても、面子を刺激された男は、止まらないことがある。
私はその可能性を帳面に書いた。
王英。
煽る者。
酒席にて楊雄の面子を刺激。
内容、女房を取り戻せぬのか。
楊雄が単独または少人数で動く可能性。
石秀は抑える側に回る可能性あり。
ただし、楊雄の面子が勝てば制止不能。
書き終えて、私は筆を置いた。
肩身が狭くなった者には、近づく者がいる。
本当に、その通りになった。
けれど、近づいてきたのは、助ける者ではなかった。
煽る者だった。
「巧雲様」
迎児が、もう一度私を呼んだ。
「逃げたことは、恥ではないのですね」
「ええ」
私は答えた。
「逃げられたことを恥にするかどうかは、楊雄様の問題です。私たちの問題ではありません」
迎児は、ゆっくり頷いた。
「はい」
その返事は、前より少しだけ強かった。
私は帳面の端に、今日の題を書いた。
煽る者がいました。
そこまで書いてから、少し迷った。
そして、小さくもう一行だけ足した。
煽られても、こちらの意思は変わりません。
それは記録というより、確認だった。
私と迎児が、また誰かの面子に巻き込まれないための……
迎児でございます。
探りは減りましたが、今度は煽る方が出てきたそうです。
女房を逃がして黙っているのか、と……
巧雲様は、逃げたことは恥ではないと仰いました。
私も、そう思いたいです。
それにしても――
女の方に相手にされない殿方は、少し嫌ですね。




