余計なことは言いません
潘巧雲でございます。
南へ向かったことになった私たちですが――
さっそく探りが入りました。
嘘は、作るより保つ方が大変です。
言葉だけでなく、顔にも出してはいけません。
今回は――
余計なことを言わない練習でございます。
「聞かれました」
麓へ荷を取りに行っていた男が戻ってきたのは、昼前だった。
背負っていた麻袋を下ろす前に、楊志の前へ立った。
その顔を見ただけで、ただの買い出しでは終わらなかったのだと分かる。
私は帳面を閉じた。
「十字坡の女二人のことか?」
楊志が先に聞いた。
男は頷く。
「はい。茶屋で、行商人風の男に」
行商人風――
その言い方だけで、少し嫌な感じがした。
本物の行商人なら、行商人と言えばいい。
風がつく時は、見た目と中身が合っていない。
「何を聞かれた?」
「十字坡にいた女二人は、南へ向かったそうだな、と」
「それで?」
「店が落ち着いた頃に出ていったそうだ。行き先は知らぬ、と答えました」
まずは正しい。
私は息を吐きかけて、止めた。
まだ続きがある顔だった。
「他には?」
楊志が促す。
「片方は帳面をつけていたそうだな、と聞かれました」
部屋の中が、少し静かになる。
私のことだ――
「答えたのか」
「はい。そう聞いた、とだけ」
「余計なことは?」
男は少し目を逸らした。
「……少しだけ」
私は頭の中で、赤い印をつけた。
少しだけ、が一番危ない。
「何を言いましたか」
私が聞くと、男は私の方を見た。
「店をよく回した女だったらしい、と」
孫二娘が、奥で小さく舌打ちした。
「それは要りません」
私は言った。
男はすぐに頭を下げる。
「申し訳ありません」
「謝罪は後で結構です。他には?」
声が少し硬くなった。
自分でも分かったが、緩めなかった。
男は背筋を伸ばす。
「もう一人は若い下女だったのか、と聞かれました。私は、そこまでは知らぬと答えました」
迎児が、私の隣で小さく息を止めた。
今はもう下女ではない。
けれど、外の人間はまだそう呼ぶ。
その言葉は、簡単には消えないらしい。
「孫二娘と張青については?」
楊志が聞いた。
「十字坡の女将は今も店にいるのか。張青はどこにいるのか、と」
来た――
やはり、女二人だけを探しているのではない。
十字坡から二龍山へ伸びる線を探っている。
「何と答えましたか?」
「知らぬ、と。店の者ではないから分からぬ、と申しました」
そこはよい。
だが、相手がそれで納得したとは思えない。
武松が壁際から口を開いた。
「顔は」
「細い顔の男でした。年は三十前後。荷は背負っていましたが、手が行商人の手ではありませんでした」
「武器は?」
「見えませんでした」
「見せぬようにしていたのだな」
武松の声は低かった。
「石秀殿でしょうか?」
迎児が小さく聞いた。
武松はすぐには答えなかった。
「本人か、使いかは分からねえ」
分からない――
その方が厄介だった。
相手の名が分かれば、まだ対応の形が作れる。
分からない相手は、どこまでを偶然と見るかで迷う。
魯智深は大きな椀を置いた。
「面倒だ。来たら殴ればよい」
「来る前に寄せぬ話をしている」
楊志が言う。
「分かっておる」
「分かっておられる顔ではありません」
つい言ってしまった……
魯智深が私を見る。
私は軽く頭を下げた。
「失礼いたしました」
「いや、今のは合っておる」
孫二娘が笑う。
魯智深は不満そうに鼻を鳴らしただけだった。
楊志は男へ向き直る。
「次からは、帳面をつけていたかと聞かれても、そう聞いた、で終わらせろ。よく回した、できる女だった、惜しかった。そういう言葉は要らぬ」
「はい」
「相手が褒めてきても、乗るな」
私は続けた。
「褒め言葉は、質問の形をしていなくても質問です」
男が目を瞬かせる。
「褒め言葉が、ですか」
「そうです。よく働いたそうだなと言われて、そうだと返せば、相手は一つ確かめられます。帳面ができたそうだなに頷けば、私の特徴が一つ固まります」
「では、どう答えれば?」
「聞いた話なので分かりません」
私は短く言った。
「それだけでいい」
楊志が頷く。
「答えを増やすな。相手の言葉を受け取るな」
武松も言う。
「石秀なら、同じ顔は二度使わねえ」
「つまり、次は別の者が聞いてくるということですか」
「そう思っておけ」
迎児の手が、膝の上で強く重なった。
私はその手を見た。
声をかけようとして、やめる。
ここで大丈夫と言っても、たぶん大丈夫にはならない。
ならば、やることを決めた方がいい。
「顔の練習をしましょう」
私が言うと、魯智深が怪訝そうな顔をした。
「顔の稽古か」
「はい」
「顔も鍛えるのか」
「ある意味では」
現代なら、クレーム対応や監査対応のロールプレイである。
ここでその言葉を出しても、誰にも通じない。
出さない方がよい。
私は迎児へ向いた。
「迎児。私が聞きます。あなたは答えてください」
「はい」
迎児は背筋を伸ばした。
「十字坡にいた女二人は、どこへ行きましたか」
「南へ向かったそうです」
「どこの南ですか」
「存じません」
「一緒にいた女は、若い下女でしたか」
迎児の目が揺れた。
ほんの少し。
けれど、揺れた。
「……存じません」
「今、少し遅れました」
迎児は唇を噛む。
「申し訳――」
「謝らない」
迎児は慌てて口を閉じた。
「下女という言葉に反応しなくていいわ。外の人はそう言うでしょう。でも、あなたが受け取る必要はありません」
迎児は、ゆっくり頷いた。
「もう一度お願いします」
今度は迎児から言った。
私は同じ質問をした。
「一緒にいた女は、若い下女でしたか」
「存じません」
今度は早かった。
顔も動かなかった。
「よし」
楊志が短く言った。
迎児の肩が、ほんの少し下りる。
次に、張青が前へ出された。
本人はかなり嫌そうだった。
「アッシもやるんですかい」
「張青さんは、特に必要です」
「特に、ですかい」
「特にです」
孫二娘が楽しそうに腕を組んだ。
「聞かれたら、黙るんだよォ」
「お嬢、アッシにも一応、口はありますぜ」
「あるから危ないんだよォ」
その通りだった。
私は張青へ向き直る。
「十字坡の女将は、今どこにいますか」
張青は口を開きかけた。
孫二娘が笑顔で見ている。
張青は口を閉じた。
「……知りやせん」
「少し遅いです」
「難しいんですぜ、これ」
「知っている人が知らないと言うから難しいのです。最初から知らない人の顔をしてください」
「どんな顔ですかい」
「興味のない顔です」
「アッシ、そんな器用じゃありやせん」
「では、眠そうな顔で」
孫二娘が吹き出した。
魯智深まで笑った。
張青は不満そうだったが、次は少しだけましになった。
午後の間、同じ稽古を何度もした。
質問を変え、順番を変える。
褒めたり、急に黙ったり――
相手が答えを足したくなる間を作る。
皆、最初は余計なことを言った。
知らない、と言った後に、たぶん、と続ける。
南へ向かった、と言った後に、どこか遠くだろう、と足す。
心配そうな顔をする。
そのたびに止めた。
「たぶんは、いりません」
「遠くも、いりません」
「心配している顔をしないでください」
「聞かれていないことは、答えない」
孫二娘が横で笑いながら言う。
「本当に楊志が二人になったみたいだねェ」
「それは困ります」
楊志が近くにいた。
しっかり聞いていた。
「何が困る」
「いえ、頼もしいという意味です」
「嘘が下手だな」
「今、その訓練をしているところです」
武松が少しだけ笑った気がした。
夕方、山の下から別の者が戻った。
茶屋では、また別の男が同じようなことを聞いてきたという。
女二人はどこへ行った。
帳面をつけた女は、字が綺麗だったか。
下女は、奥方と呼んでいたか。
そこまで聞かれたらしい。
私は手を止めた。
奥方――
今度は、私の方が少しだけ反応しかけた。
迎児が、こちらを見た。
不安そうではなかった。
むしろ、私の顔を見ている。
私は息を整える。
「それで、何と」
戻った男が答える。
「南へ向かったそうだ。細かいことは知らぬ、と申しました」
「相手は」
武松が聞く。
「年寄りでした。腰が曲がっていましたが、目は若かったです」
武松が頷く。
「使いだな」
「石秀殿の?」
「分からねえ。だが、探っている」
分からない。
だが、近づいている。
それでも、今日は崩れなかった。
夜、小部屋へ戻ると、迎児が茶を置いてくれた。
置いた後、少し迷って、半歩下がる。
そのまま、また半歩戻った。
「戻ってきましたね」
「はい」
「下がるのも、戻るのも、どちらも急がなくていいわ」
迎児は小さく頷く。
「巧雲様も、少しだけお顔が変わりました」
「私も?」
「奥方、と聞いた時です」
見られていたらしい。
私は茶を一口飲んだ。
少しぬるかった。
けれど、今はそれがちょうどよかった。
「私も練習が必要ね」
「はい」
迎児は、少しだけ笑った。
帳面を開き、今日の報告を書き加えた。
茶屋で再度質問あり。
聞き手は複数。
女二人、帳面、下女、奥方の言葉あり。
返答は崩れず。
最後に、少し迷って、もう一行足す。
余計なことは言わない。
顔にも出さない。
筆を置く。
南へ向かった女二人は、今日も南へ向かったままだった。
私と迎児は、今日も二龍山にいる。
壁はまだ薄い。
けれど、立っている。
なら、明日も見回る。
それが今の私の仕事だった。
迎児でございます。
聞かれたら、南へ向かったと申します。
それ以上は、存じません。
今日は、顔にも出さない練習をいたしました。
下女と言われると、まだ少し胸が痛みます。
でも、巧雲様が仰いました。
――私が受け取らなくてもよいのだそうです。




