南へ向かいました
「迎児、私たちは南へ向かったらしいわ」
「巧雲様、ここは二龍山ですが」
「知ってる」
「では、どなたが南へ?」
「帳面の中の私たち」
迎児が黙った。
「巧雲様」
「何?」
「それは、嘘では?」
「情報管理よ」
「言い方を変えましたね」
「前世では大事だったのよ、そういうの」
「では、私は何と申せば?」
「女二人は南へ向かいました。それ以上は知りません」
「私がその女二人の片方でも?」
「そこは考えないで」
「難しいです」
「私もよ」
というわけで第21話。
私たちは二龍山におりますが、南へ向かったことになっています。
翌朝、私は帳面とは別に、白い紙を一枚用意した。
米でも薪でも酒でもない。
今日書くのは、人の口から出る言葉だった。
「女二人は、南へ向かいました」
まず、そう書く。
嘘は短い方がよい。
けれど、短すぎれば、聞いた人間が勝手に続きを作る。
会社でも口裏合わせが崩れる時は、だいたい誰かが親切のつもりで余計な説明まで付け加えた時だった。
十字坡に女が二人いたことは隠さず、片方は帳面をつけ、もう片方はよく働いていたことまで認める。
店が落ち着いた頃に二人とも去り、南へ向かったらしいが、それ以上は知らない。
そこまでで止める。
この時代にコンプライアンス研修がないのなら、私が作るしかない。
とはいえ、山賊相手の研修資料を作る日が来るとは、前世でも想像していなかった。
「巧雲様」
迎児が少し硬い声で呼んだ。
昨日から、その呼び方になっている。
まだ慣れないらしく、口にする前にほんの少し息を整えていた。
「何でしょう」
「私は、何を覚えればよろしいのでしょうか?」
迎児はいつものように私の半歩後ろへ立っている。
本人も気づいたのだろう。
一度足を動かしかけたが、迷った末にその場へ留まった。
すぐには変わらない。
それでいい。
私は紙を迎児へ向けた。
「全部覚えなくていいわ。一番大事なのは、余計なことを言わないことです」
「南へ向かった、とだけ?」
「そう。どこの南か、誰と行ったか、なぜ行ったかと聞かれても、知らないで構いません」
「知らないことにするのですか?」
「知らない人のように答えるの。そこへ説明を足さないことが大事なのよ」
迎児は眉を寄せた。
「難しいです」
「正直でよろしい」
そこへ孫二娘さんが入ってきた。
張青さんも後ろにいる。
張青さんは紙を見た途端、露骨に嫌そうな顔をした。
「二娘お嬢、これは何です?」
「巧雲が作った嘘の帳面だよォ」
「嘘の帳面ではありません。言うことを揃えるための紙です」
「同じじゃないかァ」
違う。
かなり違う。
だが、説明すると長くなるのでやめた。
孫二娘さんは紙を覗き込み、口の端を上げる。
「南へ向かいました、か。いいねェ。どこへ行ったのか、さっぱり分からないよォ」
「分からなくていいのです」
「姉ちゃんの店にも、これで通させるよォ」
張青さんが頭をかいた。
「アッシは何て言えばいいんで?」
「張青さんは、なるべく何も言わないでください」
「え……」
「二娘さんのことも十字坡のことも知りすぎています。聞かれれば、余計なことまで答える可能性があります」
張青さんは少し傷ついた顔をした。
「アッシ、そんなに危ねえですかい?」
「はい」
「即答ですかい」
孫二娘さんが笑った。
「よかったねェ、張青。黙ってりゃ役に立つってさァ」
「二娘お嬢、それは褒めてますかい?」
「たぶんねェ」
迎児が、ほんの少し笑った。
昨日より軽い笑い方だった。
その後、私たちは広間へ移った。
魯智深殿、楊志殿、武松が待っている。
紙を広げると、魯智深殿は一目見ただけで眉を寄せた。
「細かいな」
「細かくしないための紙です」
「そうは見えぬ」
「皆が違うことを言い始めたら、もっと細かくなります」
「聞かれたら知らぬでよかろう」
「それで済む者ばかりなら苦労はせぬ」
楊志殿が横から言った。
魯智深殿は不満そうだったが、反論はしなかった。
楊志殿は紙を受け取り、上から順に目を通していく。
「悪くない。ただし、言い訳を増やすな。女二人は南へ向かった。店が落ち着いた頃に去った。それ以上は知らぬ。これだけでよい」
「私も、そのつもりです」
「惜しかった、よく働いた、心配している。そういう情を混ぜれば、そこから探られる」
やはり鋭い。
石秀殿なら、言葉そのものより、余計な感情の方を拾うかもしれない。
武松は壁際で黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「石秀は、言葉より顔を見る」
「では、答えを覚えさせるより、余計な顔をさせない方がよいですね」
「そうだ」
「難しいですね」
「だから、話す奴を減らす」
その一言で済ませるあたりが、武松らしかった。
私は紙へ視線を戻した。
十字坡の店だけで同じ話をしていても、それだけでは弱い。
石秀殿が本気で探るなら、店の者が口裏を合わせている可能性くらい考えるだろう。
「楊志殿」
「何だ」
「曹正殿の酒場を使えませんか?」
楊志殿が顔を上げた。
魯智深殿までこちらを見る。
「曹正の店で何をする」
「噂を流します」
孫二娘さんが嬉しそうに笑った。
「巧雲、とうとう山賊らしくなってきたねェ」
「夫から逃げているだけです!」
「やってることは結構悪いよォ」
否定しづらい。
私は咳払いして続けた。
「ただし、こちらから積極的に広めてはいけません。聞かれた時だけ、十字坡にいた女二人なら南へ向かったらしい、と答えてもらいます」
楊志殿が少し考える。
「曹正の酒場なら、旅人も行商人も来る」
「はい。十字坡だけで同じ話を聞くより、別の場所でも同じ噂を聞いた方が自然です」
武松が頷いた。
「石秀が街道を探れば、曹正の店へ寄るかもしれねえ」
「だからこそ、曹正殿だけに嘘を言わせるのではなく、客が勝手に持ち出す形にしたいのです」
魯智深殿が首を傾げる。
「広めるのに、広めるなと申すのか?」
「そこが大事なのです。皆で一生懸命広めたら、不自然でしょう?」
魯智深殿はしばらく考えた。
「面倒だな」
「だから私がやっています」
孫二娘さんが吹き出した。
楊志殿は、もう一度紙を見る。
「曹正には俺から話す。山の下へ下りる者にも、聞かれた時だけ答えさせる。それ以上は言わせぬ」
「お願いいたします」
「ただし、紙は渡すな」
「なぜです?」
「紙を持たせれば、それを気にする。質問された時に目が泳ぐ」
たしかに。
前世でも、丸暗記した人ほど想定外の質問で崩れることがあった。
「では、一人ずつ口で伝えます」
「それがよい」
この山の男たちは、時々、本当に会議慣れしているのではないかと思う。
いや、違う。
命のやり取りに慣れているのだ。
午後には、曹正殿が山へ上がってきた。
大柄な男で、腕も太い。
料理人というより肉屋の方が似合いそうだと思ったら、実際に包丁を扱うのが得意らしい。
楊志殿から事情を聞いた曹正殿は、私を見るなり言った。
「つまり、うちの酒場で嘘をつけと?」
「聞かれた時だけです」
「それを嘘をつくって言うんじゃねえのか?」
「必要な情報だけをお伝えいただくのです」
「女二人は南へ行ったっていう、必要な嘘を?」
「そうです」
曹正殿が楊志殿を見る。
「面倒なのを連れてきたな」
「俺ではない」
即答された。
「武松です」
「俺でもねえ」
武松殿まで否定した。
最終的に、曹正殿の視線が孫二娘さんへ向く。
「アタイに聞くなよォ。勝手についてきたんだから」
全員に捨てられた。
「私は自分で来ました!」
「だから誰も連れてきてないんだろォ」
正論だった。
腹が立つ。
曹正殿は笑いながら、ようやく頷いた。
「分かったよ。客に聞かれたら、南へ行ったらしいって返す。それ以上は知らねえ」
「できれば、興味がない顔でお願いします」
「酒場の親父に演技までさせるのか?」
「自然さが大事です」
「本当に面倒な女だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてねえよ」
その日の夕方、曹正殿は山を下りた。
迎児には、炊事場の者たちへ外で聞かれた時の答えを伝えてもらった。
「十字坡の女二人について聞かれた時は、南へ向かったとお答えください。行き先は存じない、それだけでお願いいたします」
大きな声ではないが、はっきりしていた。
昨日まで「奥様」と呼びながら半歩後ろにいた子が、今は自分で人へ説明している。
少しだけ嬉しかった。
二日後、曹正殿から知らせが届いた。
酒場へ来た行商人が、十字坡にいた女二人のことを尋ねたらしい。
曹正殿は酒を注ぎながら、
「ああ、南へ行ったって話だぞ。どこかまでは知らねえ」
とだけ答えた。
行商人は、それ以上深く聞かなかった。
けれど隣で酒を飲んでいた別の客が、その話を聞いていたという。
私は報告を聞きながら、帳面を閉じた。
噂が一つ、酒場から街道へ出た。
こちらから追いかけなくても、その客が別の土地で話すかもしれないし、行商人が別の酒場で口にするかもしれない。
どこまで広がるかは分からないが、それくらいでいい。
孫二娘さんが横から私の顔を覗き込んだ。
「嬉しそうだねェ」
「そんなことはありません」
「フェロモンの悪魔が、今度はデマまで撒き始めたよォ」
私は孫二娘さんを見る。
「……二娘さん」
「何だい?」
「フェロモンなんて言葉、よくご存じですね」
孫二娘さんの笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、見逃さなかった。
「……そうかい?」
「そうですよ」
「この辺でも使うんじゃないかねェ」
「使いません」
「言い切るねェ」
「シフトの時も、同じことを思いました」
孫二娘さんの眉が動く。
「覚えてたのかい?」
「忘れる理由がございません」
「巧雲、意外と執念深いねェ」
「話を逸らさないでください」
やっぱり怪しい。
ものすごく怪しい。
けれど、ここで問い詰めても仕方がない。
孫二娘さんが何者であろうと、今は私たちを守る側にいる。
それなら、しばらく観察する。
前世でも、秘書は分からないことをすぐ本人へ聞けばいいというものではなかった。
先に材料を集める。
「何だい、その顔」
「何でもございません」
「絶対何か考えてるだろォ」
「気のせいでは?」
「さっきアタイが使った逃げ方じゃないか!」
迎児が困ったように私たちを見る。
「巧雲様、二娘様と何のお話を……」
「何でもないわ」
「何でもないよォ」
声が重なったせいで、余計に怪しくなった。
私は咳払いして、新しい頁を開いた。
外へ向けては、女二人は南へ行った。
本当の私たちは、二龍山にいる。
その日の夜も曹正殿の酒場には旅人が泊まっており、誰かがあの噂を聞けば、また別の誰かへ話すかもしれない。
石秀殿の耳へいつ届くかは分からないが、嘘はもう私の帳面の中だけにはいなかった。
そして、孫二娘さんへの疑いもまた一つ増えた。
石秀殿がこの噂を拾うのが先か、私が孫二娘さんの正体を掴むのが先か……
今のところ、どちらも分からない。
今日、私は南へ向かったことになりました。
「巧雲様、私は何もしておりませんが……」
「それでいいのよ」
「何もしていないのに、噂だけ旅をするのですか?」
「理想的ね」
「怖いことを爽やかに仰らないでください」
しかも曹正様の酒場から、知らない方がその話を持っていったそうです。
「巧雲様」
「何?」
「その方が誰に話すか、分かるのですか?」
巧雲様が黙りました。
「……分からないわ」
やはり、そこは分からないのですね……
というわけで第22話。
私たちは二龍山におります。
ですが、噂の私たちが次にどこへ行くのかは、もう誰にも分かりません。




