南へ向かいました
潘巧雲でございます。
私と迎児は、南へ向かったことになりました。
もちろん、向かっておりません。
嘘は短く。
余計なことは言わない。
全員で同じことを言う。
今回は、二龍山での情報管理のお話でございます。
翌朝、私は帳面とは別に、白い紙を一枚用意した。
米でも薪でも酒でもない。
書くのは、人の話す言葉だった。
「女二人は、南へ向かいました」
まず、そう書く。
それから、筆を止めた。
嘘は短い方がよい。
けれど、短すぎる嘘は、人によって勝手に肉付けされる。
十字坡で働いていた女二人。
片方は帳面をつけていた。
もう片方はよく働いた。
店が落ち着いた頃、別の場所へ去った。
行き先は南。
それ以上は知らない。
これだけでいい。
むしろ、これ以上はいらない。
余計な親切。
余計な心配。
余計な思い出話。
そういうものが、一番危ない。
会社でもそうだった。
口裏合わせが失敗する時は、だいたい誰かが親切のつもりで余計なことを言う。
この時代にコンプライアンス研修はない。
なら、私が作るしかない。
とはいえ、二龍山で研修資料を作る日が来るとは思わなかった。
「巧雲様」
迎児が、少し硬い声で呼んだ。
昨日から、その呼び方になった。
まだ慣れないのだろう。
呼ぶたびに、少しだけ息を整えている。
「何でしょう」
「私は、何を覚えればよろしいのでしょう」
迎児は私の半歩後ろに立っていた。
本人も気づいたのだろう。
一度足を動かしかけて、迷い、結局その場に留まった。
すぐには変わらない。
それでいい。
私は紙を迎児へ向けた。
「全部覚えなくていいわ」
「え……」
「一番大事なのは、余計なことを言わないことです」
迎児は真剣な顔で頷いた。
「南へ向かった、とだけ」
「そう。聞かれたら、そう答える。どこの南か、誰と行ったか、なぜ行ったか。そこは知らないでいい」
「知らない、と申してよろしいのですか」
「知らないことにしておくのではなく、本当に知らない人が答えるように言うの」
迎児は少し考えた。
「難しいです」
「正直でよろしい」
そこへ、孫二娘が入ってきた。
張青も後ろにいる。
張青は、紙を見るなり顔をしかめた。
「お嬢、これは?」
「巧雲が作ったよォ。嘘の帳面だねェ」
「嘘の帳面ではありません。言うことを揃えるだけです」
「同じことだろォ」
違う。
かなり違う。
だが、説明すると長くなるのでやめた。
孫二娘は紙を覗き込み、口の端を上げた。
「南へ向かいました、か。いいねェ。どこへ行ったか分からない感じがあるよォ」
「分からなくていいのです」
「店の連中にも、これで通させるよォ」
張青が頭をかいた。
「アッシは何て言えばいいんで?」
「張青さんは、なるべく何も言わないでください」
「え……」
「話せば、二娘さんのことを聞かれます。十字坡のことも聞かれます。張青さんは知っていることが多すぎます」
張青は少し傷ついた顔をした。
「アッシ、そんなに危ねえですかい」
「はい」
「即答ですかい」
孫二娘が笑った。
「よかったねェ、張青。黙ってりゃ役に立つってさァ」
「お嬢、それは褒めてますかい」
「たぶんねェ」
迎児が、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方はまだ小さい。
でも、昨日より軽かった。
その後、私たちは広間へ移った。
魯智深、楊志、武松が待っていた。
紙を広げると、魯智深は一目見て眉を寄せた。
「細かいな」
「細かくしないための紙です」
「そうは見えぬ」
「聞かれた時に、皆が違うことを言わないためです」
魯智深は腕を組んだ。
「聞かれたら知らぬでよかろう」
「それで済む者ばかりなら苦労はせぬ」
楊志が横から言った。
魯智深は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
けれど、反論はしなかった。
楊志は紙を受け取り、上から順に目を通す。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「ただし、言い訳を増やすな。女二人は南へ向かった。店が落ち着いた頃に去った。それ以上は知らぬ。これだけでよい」
「私も、そのつもりです」
「惜しかった、よく働いた、心配だ。そういう情を混ぜると探られる」
やはり楊志は鋭い。
情は嘘の穴になる。
特に石秀のような男には……
武松は壁際で、静かに聞いていた。
しばらくして、短く言う。
「石秀は、言葉より顔を見る」
私は頷いた。
「では、答えを覚えさせるより、余計な顔をさせない方がよいですね」
「そうだ」
「難しいですね」
「だから、話す者を減らす」
その一言で済ませるあたりが、武松らしかった。
楊志が続ける。
「山へ上がる者は絞る。十字坡へ下りる者も同じだ。仕入れの者には、この紙を見せず、言うべきことだけ伝える」
「紙を見せないのですか」
「見せれば、紙があることを覚える。聞かれた時、目が泳ぐ」
たしかに……
マニュアルを丸暗記した人間ほど、想定外の質問で崩れる。
「では、口で伝えます」
「一人ずつだ」
「まとめてではなく?」
「まとめると、余計な笑いが出る。軽口も出る」
それも正しい。
この山の男たちは、時々、本当に会議慣れしているのではないかと思う。
いや、違う。
命のやり取りに慣れているのだ。
午後から、伝達が始まった。
まず十字坡へ戻る使い。
それから、山の下で荷を受け取る者。
炊事場に出入りする者。
張青の古い知り合いと顔を合わせる可能性がある者。
皆に言うことは同じだった。
女二人は、南へ向かった。
店が落ち着いた頃に出ていった。
行き先は知らない。
それだけ……
私は何度も同じ言葉を聞いた。
少しでも言い方が増えれば止める。
「都の方へ、とは言わないでください」
「南の親戚、も不要です」
「よく働いた、までは構いません。惜しかった、は要りません」
「心配している顔をしないでください。知らない人は、そこまで心配しません」
途中で、孫二娘が腹を抱えて笑い始めた。
「巧雲、怖いよォ。客より手下の方が震えてるじゃないか」
「震えても構いません。余計なことを言うよりましです」
「楊志みたいになってきたねェ」
「やめてください」
楊志が近くにいなくてよかった。
いたら、たぶん訂正される。
迎児にも役目があった。
炊事場の女たちへ、同じ言葉を伝えることだ。
最初、迎児は私を見た。
「私が、ですか」
「あなたが一番、炊事場の人たちに近いでしょう」
「でも、うまく言えるか」
「全部言わなくていいの。聞かれたら、南へ向かった。それだけ」
迎児は板を胸に抱え、頷いた。
「はい。巧雲様」
少しして、炊事場の方から迎児の声が聞こえた。
大きな声ではない。
けれど、はっきりしていた。
「女二人は、南へ向かったそうです。どこへ行ったかは、存じません」
存じません――
その言葉が、妙に迎児らしかった。
夕方、山の下へ降りていた者が戻ってきた。
荷を置き、楊志に報告する。
「下の茶店で、十字坡の女二人の噂を聞かれました」
部屋の空気が少しだけ張る。
「何と答えた」
楊志が聞く。
男は背筋を伸ばした。
「店が落ち着いた頃、南へ向かったそうだ、と。行き先は知らぬと答えました」
「相手は」
「行商人でした。深くは聞きませんでした」
武松が目を細める。
「顔は」
「見覚えはございません。ただ、聞き方は軽かったです」
「なら、今は様子見だ」
魯智深は大きく頷いた。
「南へ向かったのだな」
「はい。南へ向かいました」
男が答える。
その言葉を聞いた時、私はようやく息を吐いた。
嘘が、外で形を持った。
もちろん、これで終わりではない。
石秀なら、一つの噂だけで納得しない。
楊雄も、諦めるとは思えない。
それでも、最初の壁は立った。
夜になり、小部屋へ戻る。
私は帳面の端に、新しい項目を書いた。
外向きの話。
女二人、南へ。
本当の居場所は二龍山。
迎児は隣で、薪の板を整理している。
時々、私の袖を直しそうになって、手を止める。
そのたびに、少し恥ずかしそうな顔をする。
「無理に止めなくていいわ」
「でも」
「少しずつでいいの」
迎児は小さく頷いた。
「はい。巧雲様」
その呼び方は、昨日より自然だった。
南へ向かった女二人は、帳面の上でだけ生きている。
私と迎児は、ここにいる。
嘘が一つ、私たちを守る壁になった。
ならば、その壁が崩れないように、毎日見回る。
それも、私の仕事である。
迎児でございます。
私たちは、南へ向かったことになりました。
本当は、二龍山におります。
聞かれたら、余計なことは言わない。
それだけなのに、少し緊張いたしました。
でも、巧雲様に任せていただけたので――
次も、間違えずに申したいと思います。




