奥様ではありません
潘巧雲でございます。
十字坡から、知らせが来ました。
楊雄と石秀が、私たちを訪ねてきたそうです。
一歩遅ければ、鉢合わせでした。
ですが――
もう、私はあの家の奥様ではありません。
迎児も、ただの下女ではありません。
今回は、呼び名を変えるお話でございます。
十字坡からの使いが来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
私は帳面を広げ、米と薪の数を合わせていた。
二龍山の帳面は、まだ油断するとすぐ杜撰になる。
槍は持ち出した者の名が抜け、酒は魯智深が飲んだ分だけ曖昧になり、米は袋で数える者と升で数える者が混じる。
山の暮らしは大雑把だ。
大雑把でも回るから、皆あまり困っていない。
困る前に整えるのが、こちらの仕事である。
迎児は炊事場へ行っている。
使った薪の束を聞き、戻ってくるところだった。
そこへ、孫二娘が入ってくる。
「巧雲」
声はいつも通りだった。
けれど、顔が笑っていない。
私は筆を止める。
「十字坡からですか」
「そうだよォ」
孫二娘は、戸口の方を一度見た。
誰も続いて入ってこない。
使いの者は外に待たせているらしい。
「来たよォ。楊雄と石秀が」
筆先から、墨が一滴落ちた。
帳面の端に、小さな黒い丸ができる。
私はそれを見ていた。
変なところだけ、妙に冷静だった。
「十字坡へ、ですか」
「昨日の昼過ぎだってさ。男二人。片方は役人上がりの顔。もう片方は、店の奥まで目を通す顔。店の者も、間違いないと言ってる」
楊雄と石秀……
名前だけで、部屋の空気が少し重くなった気がする。
一歩遅ければ、鉢合わせしていた。
十字坡の店先で、楊雄と向かい合っていたかもしれない。
石秀に、帳面や裏口や迎児の顔を見られていたかもしれない。
話し合いという名で、逃げ道を一つずつ塞がれていたかもしれない。
私はため息をつく。
「店の者は、何と?」
「女二人はいた。片方は帳面をつけ、もう片方はよく働いた。店が落ち着いた頃、別の場所へ去った。どこへ行ったかは知らない。そう答えた」
「二龍山のことは?」
「言ってないよォ」
肩から力が抜けそうになったが、すぐに姿勢を戻す。
まだ安心する場面ではない。
「楊雄は納得していないでしょうね」
「してないねェ」
「石秀殿は」
「店の中を見ていたそうだよォ。裏口も、客の座る場所も、帳面を置く場所も」
やはり、そちらの方が怖い。
楊雄は、夫として来る。
石秀は、見てから考える。
怒る男より、黙って見る男の方が厄介な時がある。
そこへ、迎児が戻ってくる。
手には薪の数を書いた小さな板を持っている。
私と孫二娘の顔を見て、すぐに足を止めた。
「奥様……」
その呼び方が、耳に残った。
奥様――
楊雄の家で、毎日のように聞いた呼び名。
寺へ行く時も、父の家へ行く時も、逃げる時も、十字坡でも、迎児はそう呼んでいる。
悪い言葉ではない。
迎児にとっては、私を守るための言葉でもあったのだと思う。
けれど今、その言葉の後ろに楊雄の家が見える。
私は、ゆっくり首を横に振る。
「迎児。そろそろ、その呼び方はやめましょう」
迎児は、目を見開く。
「え……」
「私はもう、楊雄の家の奥様ではありません。あの家から逃げて、十字坡を出て、今は二龍山にいます」
自分で言いながら、胸の奥が少し痛む。
けれど、痛いだけだった。
戻りたい痛みではない。
「では、何とお呼びすれば」
「巧雲様でいいわ」
言ってから、少しだけ変な感じがする。
自分で様をつけさせるのも、現代の感覚ではなかなか強い。
でも、この時代で呼び捨てにする方が面倒になる。
ここは実務で考える。
迎児は、困ったように私を見てくる。
それから、小さく息を吸う。
「……巧雲様」
「はい」
返事をしただけだった。
けれど、背中から何かが一枚はがれたような気がする。
迎児はすぐに頭を下げた。
「申し訳ございません。慣れるまで、少し――」
「謝らないで」
声が少し強くなってしまった。
迎児が肩を震わせる。
私は言い直すように、少しだけ声の大きさを落とす。
「すぐには直らないわよね。それは分かっています。でも、謝らない。そこから始めましょう」
迎児は唇を結んで、頷いた。
「それから、迎児」
「はい」
「あなたも、もう下女ではありません」
今度こそ、迎児は固まった。
「私は……」
「楊雄の家の下女ではありません。私と同じ、二龍山の一員です」
迎児の指が、手にした板を握りしめる。
板の角に、爪の跡がつくほどだった。
「ですが、私は巧雲様のお世話を」
「してくれているわ。助かっています。でも、それは下女だからではありません。あなたが、私と一緒に来ると決めたからです」
迎児はすぐには答えない。
その沈黙が、かえってよかったかもしれない。
すぐに受け入れられることではない。
長く下女として生きてきた身体は、一言で変わらない。
きっと明日も、迎児は半歩後ろに立つ。
私の椀を先に見る。
私が袖を乱せば、言われる前に直そうとする。
呼び方だって、何度も間違えるだろう。
それでも、今日言わなければならない。
楊雄が十字坡まで来た。
なら、なおさら私は、楊雄の奥様のままではいられない。
迎児も、奥様の下女のままではいけない。
孫二娘が、腕を組んで笑う。
「いいじゃないか。二龍山の迎児だねェ」
迎児は、慌てて頭を下げた。
「そのような、私はまだ……」
「まだ、でいいわ」
「今日からでいいの」
迎児はもう一度、今度は少しだけ深く頷く。
「はい。巧雲様」
今度の呼び方は、さっきより少しだけ自然に聞こえる。
私たちは、そのまま魯智深たちのいる広間へ向かった。
孫二娘が先に使いの者から話を聞いていたため、魯智深、楊志、武松はすでに事情を知っていた。
魯智深は大きな椀を前に置き、眉間に皺を寄せている。
楊志は腕を組んでいた。
武松は壁際に立ち、こちらを見るだけだった。
「来たか」
魯智深が言った。
「はい」
私は座る前に頭を下げた。
「十字坡に、楊雄と石秀が参りました。店の者は、私と迎児が別の場所へ去ったと答え、二龍山の名は出しておりません」
「よい」
魯智深は短く言った。
「来れば追い返す」
ありがたい。
とてもありがたい。
ただ、それだけでは足りない。
楊志が先に口を開いた。
「追い返す前に、ここへ辿らせぬ方がよい」
「分かっておる」
魯智深が答える。
「分かっておられるなら、話が早くて助かります」
言ってから、少し後悔した。
完全に会議の癖だ。
けれど、魯智深は怒らなかった。
「なら、申せ」
私は頷く。
「楊雄は、面子を捨てられません。妻に逃げられた男ではなく、妻を迎えに来た夫として振る舞うはずです。正面から、もっともらしい言葉で来ます」
誰も口を挟まない。
「石秀殿は違います。あの方は、人と場所を見ます。十字坡で私たちを見つけられなかったなら、次は人の流れを見ます。店へ出入りする者、仕入れ、山道、張青殿の知り合い。探るのは、石秀殿です」
武松が、静かに頷く。
「石秀は勘が利く。見たものを忘れねえ」
「なら、二龍山に上がる者を絞る」
楊志が、物静かに話す。
「十字坡からの使いは限る。山の下で聞かれた時は、孫二娘と張青の名を出さぬ。女二人については、南へ向かったで通す」
「南、ですか」
「嘘は単純な方がよい」
それは正しい。
設定を盛りすぎた嘘は、だいたいバレる。
「私と迎児は、しばらく山の表へ出ません」
「それがよい。だが、顔を知る者が来た時の動きも決めておく」
「楊雄が来たら?」
孫二娘が、全員に聞いた。
魯智深が椀を置く。
「ワシが会おう」
「魯智深が出れば、話が早いだろうな」
武松が、魯智深を見て頷く。
「早い方がよかろう」
「奴等が戻って、梁山泊へ告げる。二龍山が女房を隠しているとな」
魯智深は不満そうに鼻を鳴らした。
楊志が落ち着いた声で話す。
「まずは俺が受ける。山へ逃げ込んだ者を、本人の意思なく渡さぬと告げる。必要なら魯智深が出る」
「石秀殿は?」
私が聞くと、武松が壁から離れた。
「俺が見る」
短い――
だが、言いたいことは分かった。
「私が会う必要はありますか」
口にした瞬間、喉が固くなる。
実際、会いたくない。
けれど、会わずに済む保証はない。
楊志は、私をまっすぐ見た。
「今はない」
「今は、ですか」
「いずれ必要になるかもしれぬ。その時は、そなたが決める」
魯智深が頷く。
「そうだ。そなたが自分で行くと言わぬ限り、誰にも渡さぬ」
前にも聞いた言葉だった。
けれど今日は、違って聞こえた。
楊雄は、十字坡まで来た。
石秀は、店を見た。
一歩遅ければ、私は捕まっていたかもしれない。
それでも、この人たちは同じことを言う。
私を返さない、と――
私は頭を下げる。
「お願いいたします」
「礼は後でよい」
魯智深が言う。
「まずは飯を食え。顔色が悪い」
「この状況で、食欲がある方が不思議です」
「食わねば考えも鈍る」
また正しい――
この山の男たちは、腹が立つほど正しい時がある。
広間を出る時、迎児がそっと私の袖を掴んだ。
すぐに、はっとして手を離そうとする。
「申し訳――」
「謝らない」
迎児は口を閉じた。
少しして、小さく言う。
「巧雲様」
「はい」
「私、まだ下女のように動いてしまいます」
「いいわ。急には変わらないもの」
「でも、変わりたいです」
私は、迎児を見る。
その言葉だけで、今日は十分だった。
小部屋へ戻ると、帳面の端に墨の丸が残っている。
さっき、私が動揺して落としたものだ。
私は新しい紙を出し、十字坡からの報せを書く。
楊雄、石秀、十字坡へ来訪。
二龍山の名は出ていない。
女二人は南へ向かったことにする。
山へ入る者を制限。
それから、少し迷って、もう一行足した。
迎児――
二龍山の一員。
正式な帳面に書くことではない。
でも、消さなかった。
私はもう、楊雄の家の奥様ではない。
迎児も、奥様の下女ではない。
一歩遅ければ、戻されていたかもしれない。
けれど一歩早く、ここまで来れた。
ならば次は、呼び名から変える。
私が帳面を閉じる手は、もう震えていなかった。
迎児でございます。
今日から、奥様ではなく、巧雲様とお呼びすることになりました。
まだ、少し慣れません。
つい後ろへ下がってしまいますし、謝りそうにもなります。
けれど、巧雲様は言ってくださいました。
――私はもう、下女ではないそうです。




