落としません
潘巧雲でございます。
二龍山での朝は、棒を振ることから始まります。
帳面ではありません。
新人研修です。
楊志様は厳しく、魯智深様は大きい方でした。
今回は――
落とさないお話でございます。
二龍山での暮らしが始まってから、私は朝ごとに木の棒を持たされていた。
最初の三日は、立っているだけで終わった。
足の置き方。
腰の落とし方。
棒を握る位置。
楊志は、同じことを何度でも直した。
「右足が近い」
「昨日も同じことを申しました」
「昨日直したから、今日は違うと思ったのです」
「違わぬ」
容赦がない――
秘書時代にも、同じ書類を何度も差し戻す上司はいた。
けれど、足の置き方まで差し戻された経験はない。
迎児は、私より覚えが早かった。
力はないが、言われた通りに動く。
声を出すことにも少しずつ慣れ、楊志が近づけば、棒を前へ出して距離を取れるようになった。
「止まってくださいませ!」
最初は震えていた声も、今では稽古場の端まで届く。
私は声だけなら負けていない。
問題は、その後だった。
「声を出して満足するな」
「満足はしておりません」
「足が止まっている」
「今、動こうとしていました」
「動いてから申せ」
正しい――
いちいち正しいので、反論するほど自分が損をする。
楊志は、私たちに勝ち方を教えなかった。
手を打つ。
脛を払う。
棒を相手の目の前へ突き出す。
逃げる方向を見る。
倒れたら、起き上がるより先に身体を丸めて頭を守る。
どれも格好はよくない。
だが、格好で命は拾えないらしい。
その日の稽古には、山の兵が何人か混じっていた。
私たちの相手をさせるため、楊志が呼んだ者たちだった。
「力は入れるな。動きを見せるだけでよい」
楊志が念を押す。
兵たちは頷いた。
そのうちの一人が、私の前へ立った。
若い男が、こちらを見て笑っている。
「女相手に、どこまで打てばよいので?」
「今申した通りだ」
楊志の声が低くなる。
男は肩をすくめた。
始まる前から嫌な感じがした。
合図と同時に、男が踏み込んでくる。
私は横へ避け、棒を前へ出した。
だが、男は止まらない。
木刀が棒を弾いた。
手首に衝撃が走る。
次の瞬間、肩を押され、地面へ倒れた。
息が詰まった。
男が笑う。
「この程度ですか」
起きようとした時、楊志が男の手首を掴んだ。
何が起きたのか分からなかった。
気づけば、男は膝をつき、木刀を落としていた。
「何をした」
楊志の声は静かだった。
怒鳴られるより、ずっと怖い。
「少し強く入っただけです」
「力は入れるなと命じた」
「ですが、これでは稽古になりませぬ」
楊志は男の腕をさらに捻った。
男の顔から笑いが消える。
「弱い者へ力を見せるのが稽古か」
「違います」
「女なら、乱暴に扱ってよいと思ったか」
男は答えなかった。
楊志が手を離す。
男は腕を押さえたまま、頭を下げた。
「下がれ」
男はすぐに稽古場を離れた。
私はまだ地面に座っていた。
手首がじんじんする。
肩も痛い。
楊志がこちらを見る。
「立てるか」
「はい」
差し出された手はなかった。
自分で立てということらしい。
それでも、急かされなかった。
棒を拾い、立ち上がる。
楊志は私の手首を見た。
「腫れれば冷やせ。今日は終わりだ」
「まだできます」
「できるかどうかを決めるのは、そなたではない」
また腹が立つ言い方だった。
だが、先ほどの男へ向けた声とは違っていた。
私を弱いから外すのではない。
壊さないために止めている。
その違いくらいは、分かる。
迎児が駆け寄ってきた。
「奥様、大丈夫でございますか」
「少し痛いだけよ」
「少しには見えません」
「それは言わないで」
遠くで見ていた孫二娘が、こちらへ歩いてくる。
「楊志も面倒見がいいねェ」
「見ていたなら、助けてください」
「楊志が先に動いたからねェ」
「そういう問題ではございません」
孫二娘は笑いながら、私の手首を覗き込んだ。
「折れちゃいないよォ」
「診察が雑です」
その時、稽古場の入口から大きな声がした。
「何を騒いでおる」
魯智深だった。
事情を聞くと、魯智深は一度だけ頷いた。
それから、先ほどの兵が去った方角を見る。
「追い出すか」
「そこまではせぬ」
楊志が答える。
「命に背く者は、戦でも勝手をするぞ」
「だから、次は外さぬよう教える」
魯智深は鼻を鳴らした。
「そなたは甘いのか厳しいのか分からぬな」
「それを魯智深が申すか」
二人のやり取りに、孫二娘が吹き出した。
私は笑えなかった。
手首が痛かったからではない。
楊志は、私を守るために男を止めた。
だが、その男をただ捨てるのではなく、次は間違えないようにすると言った。
厳しいだけではない。
甘いだけでもない。
面倒な人だと思った。
同時に、少しだけ信じてもよいとも思った。
その日の夕方、私は帳場代わりの小部屋で、武具と米の出入りを書き直していた。
手首を休めろと言われたはずなのだが、楊志から渡されたのは二龍山の帳面だった。
「身体を使えぬなら、できることをせよ」
休ませる気があるのか、ないのか。
――判断に困る。
二龍山の帳面は、思っていた以上に自由だった。
槍が一本減っているのに、誰が持ち出したか書かれていない。
米は大袋で数える者と、升で数える者が混じっている。
酒に至っては、魯智深が飲んだ分だけ記録がない。
「これは在庫管理ではなく、記憶力への挑戦ですね」
思わず呟く。
迎児が隣で、炊事場から持ってきた木札を並べていた。
「魯智深様の分は、どのように書けばよいのでしょう」
「飲んだ分だけでいいわ」
「分からないそうです」
「では、一壺増やして書きましょう」
「多すぎませんか」
「足りないよりは安全です」
そこへ魯智深が入ってきた。
「何が一壺だ」
「魯智深様がお飲みになった酒です」
「ワシはそれほど飲んでおらぬ」
「記録がございませんので、多めに見積もっております」
魯智深は帳面を覗き込み、難しい顔をした。
「細かいな」
「細かくしなければ、なくなってから困ります」
「なくなれば買えばよい」
「買う銭がなくなったら、どうなさいますか」
魯智深は黙った。
勝った――
ほんの少しだけ気分がよくなった。
だが、魯智深は怒らなかった。
帳面を閉じるでも、女が口を出すなと言うでもない。
「なら、任せる」
それだけだった。
「よろしいのですか」
「分かる者がやればよい。ワシが見ても分からぬ」
あまりにも簡単に認められ、こちらが困った。
夫の家では、私が何かを決めるたび、誰の許しを得たのかと聞かれた。
父の家では、女が出過ぎるなと言われた。
この山では、できるならやれと言われる。
乱暴な場所なのに、妙なところで息がしやすい。
魯智深が出ていこうとした時、足を止めた。
「そういえば、そなたの亭主が来たらどうする」
手が止まった。
迎児も顔を上げる。
「戻るつもりはございません」
「なら、戻らねばよい」
「ですが、梁山泊の者を連れて来るかもしれません」
「何人来ようと同じだ」
魯智深は振り返った。
「ここへ逃げてきた者を、亭主が来たから返す道理はない。そなたが自分で行くと言わぬ限り、誰にも渡さぬ」
迷いのない声だった。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
柴進殿に救われた時とは違う。
あの方の屋敷では、客として守られた。
ここでは、山の一員として守られている。
同じ恩でも、形が違った。
「ありがとうございます」
頭を下げると、魯智深は大きく笑った。
「礼は要らぬ。その代わり、酒を一壺多く書くのはやめよ」
「それとこれは別でございます」
魯智深の笑い声が、部屋の外まで響いた。
翌朝、私はまた稽古場に立った。
楊志は、昨日のことなどなかったように木刀を構えている。
「手首は」
「動きます」
「なら始める」
相変わらず厳しい。
けれど、その厳しさを、前ほど嫌だとは思わなかった。
魯智深は居場所を守る。
楊志は、その場所で生き残れるようにする。
柴進殿ほど遠くから仰ぎ見る方々ではない。
もっと近くで、毎日のように腹を立てさせられる。
それでも、敬うに足る人たちだと思った。
私は棒を構えた。
「今日は落とすな」
「善処いたします」
「落とす顔をしている」
失礼な――
だが、今度は落とさなかった。
迎児でございます。
楊志様は、怖い方です。
けれど、怖がる私を笑いませんでした。
奥様も、今日は棒を落としませんでした。
――私も次は、もう少し大きな声を出したいと思います。




