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最初の仕事は、帳面ではありません

潘巧雲でございます。


二龍山へ着きました。

帳面を任されるものと思っていたのですが――

最初に渡されたのは、木の棒でした。


――どうやら、新人研修からして違うようです。

夜が明ける前に、私たちは十字坡を出た。

見送りに出た手下たちは、皆、眠そうな顔をしていた。

それでも、誰も軽口を叩かなかった。

孫二娘は店の戸口に立ち、古参の男へ鍵を渡した。

「客を逃がすんじゃないよォ」

「承知しました」

「蒙汗薬も使うんじゃないよォ」

「二度と使わせません」

「店先に立つ娘を雇いなァ」

「帳面も毎日つけなァ」

男は何度も頷いた。

張青は、その横で落ち着かない顔をしている。

馬へ荷を積んでは降ろし、縄を締め直しては、また店の中へ戻ろうとしている。

「張青」

孫二娘に呼ばれ、ようやく足を止める。

「店は逃げないよォ」

「ですが、お嬢」

「置いていくと決めたのはアンタだろォ」

「決めたのはお嬢ですぜ」

「細かいことを言うんじゃないよォ」

最後まで、いつも通りだった。

私は帳面を古参の男へ渡した。

その表紙には、昨日まで自分で付けた汚れが残っている。

「分からないことがあれば、前の日の頁を見てください」

「はい」

「酒と米は、減った数だけ書くこと。払っていない客の名も消さないこと」

「分かりました」

「夜番だけで片づけきれない時は、朝番へ残してください。無理に終わらせなくて結構です」

男は、今度は一度だけ深く頷いた。

それで十分だった。

迎児が私の隣に立つ。

何も言わないが、何度も店を振り返っている。

私も同じだった。

けれど、戻らなかった。

孫二娘が先頭に立ち、張青が荷馬を引く。

私と迎児は、その後ろを歩いた。

空が明るくなる頃には、十字坡の屋根は見えなくなっていた。

二龍山までの道は、思っていたより険しかった。

最初は街道だった。

やがて道幅が狭くなり、畑も人家も消えた。

昼を過ぎる頃には、両側へ岩山が迫っていた。

踏み外せば、斜面を転がり落ちそうな場所もある。

「まだ登るのですか」

思わず尋ねると、孫二娘が振り返った。

「山なんだから、登るに決まってるだろォ」

正論ではある。

聞いた私が悪かった。

迎児は息を切らしながらも、弱音を吐かなかった。

私も、吐かないようにした。

逃亡生活で馬には多少慣れた。

歩くことにも慣れた。

だが、山道に慣れた覚えはない。

二龍山という名前から、もう少し穏やかな場所を想像していた。

完全に私の落ち度だった。

夕方近く、前方の岩陰から声が飛んだ。

「止まれ!」

姿は見えない。

孫二娘が足を止める。

「十字坡の孫二娘だよォ! 武松に言われて来た!」

しばらくすると、岩の上から男が二人降りてきた。

手には槍を持ち、こちらを警戒している。

「武松殿を呼んで参る。そこを動くな」

一人が山道を駆け上がっていった。

待っている間、残った男は何度も私と迎児を見た。

見張りは、孫二娘と張青を知っているらしい。

見慣れない女が二人増えているのだから、当然ではある。

やがて、上から黒い行者姿が現れた。

武松だった。

「来たか」

「来いと言ったのは、あんただろォ」

孫二娘は、いつもと変わらない口調で返した。

武松は張青を見て、次に私と迎児へ目を向けた。

「四人とも上がるのか」

「そうなったよォ」

「そうか」

それ以上は聞かなかった。

武松に案内され、私たちはさらに山を登った。

岩壁の間を抜けると、開けた場所へ出た。

木の柵が巡らされ、その奥には建物がいくつも並んでいる。

山賊の砦というより、小さな村に近かった。

兵がいて、馬もいる。

炊事の煙も上がっている。

十字坡より、ずっと人が多い。

武松は私たちを、一番大きな建物へ通した。

中には男が二人いた。

一人は、大きな身体に僧衣をまとっている。

頭は剃り上げられ、顔つきは恐ろしい。

座っているだけなのに、周囲が狭く見えた。

もう一人は、青い痣のある顔で、鋭い目をしている。

武松とは違う怖さだった。

こちらは、入ってきた人数と荷を、一つずつ確かめている。

「魯智深」

武松が僧衣の男へ声を掛けた。

「十字坡の孫二娘と張青だ。連れが二人いる」

僧衣の男が、私たちを見る。

「ワシが魯智深だ」

声まで大きかった。

隣の男が続ける。

「楊志だ」

孫二娘と張青が頭を下げる。

私と迎児も、それにならった。

魯智深は細かい事情を聞く前に、張青が持っていた荷へ目をやった。

「飯は食ったか」

「途中で少しだけです」

張青が答える。

「なら先に食え。話は腹が膨れてからでよい」

あまりに簡単だった。

楊志が眉を寄せる。

「魯智深、役人に追われている者を入れるなら、事情を確かめるのが先だ」

「腹が減っていては、まともに話せまい」

「追手が今夜にも来るかもしれぬ」

「来たら追い返せばよい」

魯智深は本気で言っているらしい。

孫二娘が笑った。

「話が早くて助かるねェ」

楊志は笑わなかった。

結局、私たちは食事をしながら事情を話すことになった。

休み小屋の手下が蒙汗薬を使ったこと。

役人に孫二娘と張青の名が伝わったこと。

十字坡本店には証拠がないため、古参へ任せてきたこと。

楊志は途中で何度も質問した。

「役人は何人だ」

「分かりません」

「捕らえられた者は、山のことを知っているか」

「二龍山へ来る話は知りません」

「十字坡から、ここまで追える者はいるか」

孫二娘が腕を組む。

「役人にゃ無理だろうねェ」

「油断するな」

楊志は、次に私を見た。

「そなたは、何ゆえ同行した」

「二娘さんがいない十字坡へ残る方が、危険だからです」

「夫が梁山泊にいるそうだな」

「はい」

「戻る気は」

「ございません」

楊志は、それ以上そこへ踏み込まなかった。

「何ができる」

突然、尋ねられた。

「帳面をつけられます。人の働く時間を分け、仕入れと在庫を管理できます」

「他には」

「客の応対を」

「武具は」

「使えません」

正直に答えた。

楊志の視線が迎児へ移る。

「そなたは」

迎児は一瞬、声を失った。

「奥様のお世話と、炊事を少し……」

「武具は」

「使えません」

楊志は黙った。

嫌な沈黙だった。

魯智深が飯を口へ運びながら言う。

「使えぬなら、覚えればよい」

「魯智深は簡単に申す」

「難しく申しても、覚えるものは同じだ」

楊志は、私たちをもう一度見た。

「明朝、稽古場へ来い」

嫌な予感がした――

当たってほしくない予感ほど、よく当たる。

翌朝、私は木の棒を握っていた。

長さは腕ほど。

太さは、片手で持てる程度だった。

迎児も同じ物を持たされている。

楊志は私たちの前に立ち、足元を指した。

「足を揃えるな。押されれば倒れる」

私は右足を少し後ろへ引いた。

「下がりすぎだ」

戻す――

「近い」

少し動かす――

「腰が浮いている」

どうしろというのだろう。

秘書時代にも、新人研修はあった。

けれど、棒を持たされて立ち方から直された覚えはない。

楊志が私の棒を軽く払った。

手から落ちた。

「握りが弱い」

「強く握ると、動かしにくいのではございませんか」

「必要な時に締めろ。常に力むな」

言われてみれば合理的だった。

悔しいが、反論できない。

迎児は、楊志が一歩近づいただけで身体を固くした。

楊志は足を止める。

「怖いか」

迎児は俯いた。

「はい」

「怖がるなとは言わぬ」

迎児が顔を上げる。

「怖くなった時、何もせぬのが一番悪い。下がる。声を出す。間へ物を入れる。どれか一つは選べ」

私が教えたことと、よく似ていた。

迎児は棒を身体の前へ出した。

楊志が近づく。

迎児は半歩下がる。

「もっと声を出せ」

「近づかないでくださいませ!」

山の稽古場へ、迎児の声が響いた。

周囲にいた兵たちが振り返る。

迎児は恥ずかしそうにしたが、棒は下ろさなかった。

「それでよい」

楊志は言った。

褒めたのかどうか、顔からは分からない。

次は私の番だった。

「相手に勝とうとするな」

「勝たなくてよいのですか」

「そなたが正面から武人に勝てると思うか」

「思いません」

「ならば、足を止めて逃げろ。手を打つ。脛を払う。目の前へ土を投げてもよい」

随分と実用的だった。

美しさも、礼儀もない。

生き残ることだけを考えている。

楊志が木刀を構え、切っ先を私へ向けた。

「避けろ」

私は横へ動く。

だが、遅かったらしい。

肩を軽く叩かれる。

めちゃくちゃ痛い。

「今ので刃なら、腕が動かぬ」

「先に言ってください」

「敵が先に言うと思うか」

正しい――

本当に腹が立つほど正しい。

少し離れた場所では、孫二娘が腕を組んで見ていた。

張青も一緒だ。

「巧雲、腰が引けてるよォ」

「見ていないで、代わってください」

「アタイは使えるからねェ」

「では、迎児をお願いします」

「そっちは楊志が見てるだろォ」

まったく役に立たない。

魯智深は、さらに離れた岩の上へ腰を下ろしていた。

大きな禅杖を横へ置き、私たちの稽古を眺めている。

「楊志」

魯智深が呼んだ。

「最初から打ちすぎるな。逃げ出すぞ」

「ここまで逃げてきた者なら、簡単には逃げません」

楊志は私を見る。

「そうであろう」

選択肢を奪われた気がした。

けれど、棒を拾った。

楊雄が来るかもしれない。

役人に見つかるかもしれない。

この山も、いつまでも安全とは限らない。

帳面だけでは、自分の身体は守れない。

「もう一度、お願いいたします」

楊志が木刀を構えた。

「今度は、肩を見るな。足を見ろ」

私は棒を身体の前へ出した。

二龍山での最初の仕事は、帳面ではなかった。

どうやら私は、まず殴られずに逃げる方法から覚えなければならないらしい。

迎児でございます。


二龍山では、声を出すことから教わりました。

怖くても、何もしないよりはよいそうです。


次は、棒を落とさないようにいたします。

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