一緒に行く人は、決まっています
潘巧雲でございます。
十字坡を離れることになりました。
ですが、今度は逃げるだけではありません。
行き先も――
一緒に行く人も、決まっています。
武松が十字坡を訪れてから、季節が一つ変わった。
梁山泊へ入ったばかりの楊雄と石秀は、勝手に山を離れられないらしい。
店は相変わらず繁盛していた。
十字坡には、本店とは別に、街道沿いの休み小屋がいくつかある。
旅人へ水や簡単な食事を出し、夜になれば本店へ案内するための場所だった。
朝番が厨房を開け、昼番が宿と馬屋を整え、日が傾けば夜番が店先へ立つ。
誰が休むかも、誰が仕入れへ行くかも、前の日には決まっている。
最初の頃は割り振りを忘れていた手下たちも、今では木札を見れば勝手に動いた。
張青も帳面をつけるようになった。
字はあまり綺麗ではない。
数の桁も時々、書き間違える。
それでも、酒が何壺残っているか、米をいつ買うべきかは分かるようになった。
「巧雲さん、昨日より肉が減ってるんですがね」
「夜番の方が勝手に食べました」
「誰です?」
「帳面に印がありませんので、全員の取り分から引きます」
近くで聞いていた手下たちが、一斉に騒いだ。
結局、食べた者が名乗り出た。
正直でよろしい。
最初から言えば、もっとよろしいのに。
迎児も店へ馴染んでいた。
男の客が近づけば、今でも少し肩が固くなる。
けれど、盆を間へ入れ、半歩下がることを忘れない。
酔客に袖を引かれても、盃を持たせて逃げられるようになった。
「迎児ちゃん、もう一杯くれよ」
「先ほど、これで最後と仰いました」
「覚えてたのか」
「忘れておりません」
客が笑い、迎児も小さく笑う。
私は帳場から、その様子を見ていた。
この店へ来たばかりの頃、迎児は休むことさえ怖がっていた。
今では、自分の番が終われば寝床へ戻る。
悪いことをしている顔もしなくなった。
孫二娘は、以前より厨房へ入らなくなった。
入らなくなったというより、入ろうとすると追い出される。
「お嬢、今日は休みでしょう」
張青に言われ、孫二娘が眉を寄せる。
「少しくらい鍋を見たっていいだろォ」
「お嬢が触ると、皆が自分の仕事を取られたと思うんですぜ」
「面倒な店になったねェ」
そう言いながら、少し嬉しそうだった。
十字坡は、孫二娘が一日中立っていなくても回るようになった。
それが役に立ったのは、ある雨の日だった。
昼を過ぎた頃、一人の男が裏口から入ってきた。
十字坡の手下ではあるが、本店では働いていない男だった。
街道を少し南へ下った場所で、休み小屋を任されている。
衣は泥だらけで、片方の袖が裂けていた。
頬にも血がついている。
孫二娘は、その姿を見るなり立ち上がった。
「何をやった」
声が低かった。
男は床へ膝をついた。
「申し訳ありません」
「何をやったか聞いてんだよォ」
「客に、薬を……」
店の空気が変わった。
張青が戸を閉める。
表では、事情を知らない者が客の注文を受けていた。
酒を求める声が上がり、料理を運ぶ足音も聞こえる。
店はいつも通り動いていた。
私は迎児を帳場の内側へ下がらせた。
「蒙汗薬かい」
孫二娘が尋ねる。
男は顔を上げられないまま頷いた。
「使うなと言ったはずだよォ」
「銭を持った役人に見えたので、昔のようにやれば」
「昔のように?」
孫二娘の声から、さらに熱が消えた。
男は慌てて言い直した。
「殺すつもりはありませんでした。少し眠らせて、銭だけ取ろうと」
十分に悪い。
しかも、言い訳として一つも機能していない。
「それで?」
張青が聞いた。
「二人連れでした。一人には効きましたが、もう一人が飲まずに逃げました。追った仲間が捕まりまして」
「口を割ったのか」
「十字坡の者だと……二娘様と、張青殿の名も出したようです」
孫二娘が目を閉じた。
男は続ける。
「捕まった奴が、二娘様の名を出せば役人も怯むと思ったようで」
逆だった。
孫二娘の名を出せば助かると思い、役人へ自分から十字坡との関係を教えた。
ここまで綺麗に裏目へ出せるのは、ある意味才能だと思う。
「役人は、いつ来る」
「早ければ明日にも」
張青が息を吐いた。
「お嬢、どうします」
孫二娘はすぐに答えなかった。
蒙汗薬など、もう使っていない。
名を出されたのは孫二娘と張青だけで、本店で蒙汗薬を使った証拠はない。
旅人を眠らせて、金や荷を奪うこともない。
酒と飯と宿代で、十分に儲かっている。
それでも、昔のやり方は消えていなかった。
本店から離れた場所で、孫二娘の名を使い、まだ続けていた者がいた。
「巧雲」
突然呼ばれた。
「はい」
「この店は、アタイと張青がいなくても回るかい」
嫌な聞き方だった。
「何日ほどでしょう」
「分からないねェ」
「戻る予定は?」
「それも分からない」
私は孫二娘を見る。
もう決めている顔だった。
「二龍山へ行くおつもりですか」
張青が驚いて振り返る。
孫二娘は舌打ちした。
「あんた、話が早すぎるよォ」
「他に、役人が簡単に踏み込めない場所を存じませんので」
「武松の奴が、来いと言ってたからねェ」
孫二娘は腕を組んだ。
「役人が来る前に、アタイと張青は消える。この店まで潰させる気はないよォ」
張青が口を開く。
「お嬢、アッシは残ります」
「何言ってんだい」
「店を任せるなら、誰かが」
「アンタも名が割れてるよォ。残って捕まりたいのかい」
張青は黙った。
孫二娘は古参の手下を一人呼んだ。
長く十字坡にいる男で、店の仕事も一通り知っている。
最近は昼番をまとめ、仕入れにも出ていた。
「明日から、アンタが店を見なァ」
男は目を見開いた。
「アッシが?」
「帳面は巧雲が付けてる。仕入れは張青が教えた。困ったら、書いてある通りにやりなァ」
「二娘様は、いつお戻りに」
「店を潰さなきゃ、そのうち戻るよォ」
帰るつもりはある。
その一言で、少しだけ空気が軽くなった。
私は帳場に置いた帳面を見た。
朝番、昼番、夜番。
仕入れ先。
米と酒の残り。
そして、宿代を払っていない客の名。
必要なことは、ほとんど書いてある。
私がいなくても、すぐには困らない。
そこで、ようやく孫二娘の言葉の意味に気づいた。
アタイと張青がいなくても回るかい。
私と迎児は数に入っていない。
「二娘さん」
「何だい」
「私と迎児も参ります」
孫二娘が眉を上げた。
「アンタらは残りなァ」
「お断りします」
「店にいた方が安全だよォ」
「二娘さんがいない十字坡の、どこが安全なのですか」
孫二娘が黙る。
「楊雄と石秀は梁山泊におります。二娘さんがいれば、この店へ来ても勝手なことはできません。ですが、残された方々へ、梁山泊の頭領を相手に私を守れとは申せません」
古参の男が気まずそうに目を逸らした。
責めているのではない。
命を懸けろと言えないだけだ。
「迎児を置いていくつもりもございません」
迎児が帳場の内側から顔を出した。
「私も、奥様と参ります」
孫二娘が額を押さえる。
「二龍山がどんな所かも知らないだろォ」
「ここへ来た時も、十字坡がどんな所か存じませんでした」
「アタイら、最初はアンタらから馬を盗むつもりだったんだよォ」
「存じております」
「今さら思うけど、よく残ったねェ」
私もそう思う。
ただ、あの時は他に行く場所がなかった。
今は違う――
孫二娘が行く場所へ、自分でついて行くと決めている。
「店はどうするんです」
張青が尋ねた。
私は帳面を閉じた。
「残します」
「本当に回りますかね」
「回していただきます」
任された男が背筋を伸ばした。
「必ず守ります」
「守るのは店だけではありません。働く方を朝から夜まで使わないこと。仕入れた物は必ず書くこと。勝手に蒙汗薬を使う者がいたら、店へ入れないこと」
男は何度も頷いた。
孫二娘が笑う。
「最後が一番大事だねェ」
「今回の原因ですから」
雨は、夕方まで降り続いた。
私たちは表へ戻り、いつも通り店を開けた。
客へ酒を出し、料理を運び、空いた卓を片づける。
夜明け前には、ここを離れる。
そう思うと、見慣れた柱や傷のついた卓まで、少し違って見えた。
寂しくないと言えば嘘になる。
けれど、店を畳むわけではない。
戻る場所は残る。
夜半、最後の客が帰った後、私は翌日の割り振りを書いた。
自分の名も、孫二娘の名も、張青の名もない。
迎児の名も外した。
空いたところには、別の者の名を入れた。
帳面を閉じると、孫二娘が横から覗く。
「本当に、アタイらがいなくても回るんだねェ」
「そのために組みましたから」
「じゃあ、二龍山へ行くかァ」
随分と簡単に言う。
だが、私も今度は迷わなかった。
最初に家を出た夜は、行き先を知らなかった。
今は、二龍山という名を知っている。
そして、一緒に行く人も決まっていた。
迎児でございます。
十字坡を離れると聞き、少し寂しくなりました。
ですが、奥様がお決めになった道なら、私も参ります。
今度は、ただ従うのではございません。
私も、自分で選びました。




