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帳面には、書きません

潘巧雲でございます。


武松様が、十字坡へお見えになりました。

二娘さんとは、ただの知り合いではなさそうです。


ですが――

その件は、帳面には書きません。

祝家荘が落ちてから、十字坡の客足は少しずつ元へ戻っていた。

道を塞いでいた兵はいなくなり、止まっていた荷も動き始めていた。

宿に居座っていた商人たちは発ち、馬屋にも空きができていた。

ようやく落ち着ける。

そう思った日の夕方、店の戸口に大きな影が立った。

黒い行者衣姿。

肩には荷を負い、腰には二振りの戒刀。

首から下げた数珠まで、普通の旅人が身につければ浮いて見えるはずなのに、その男には妙に馴染んでいた。

店の声が、わずかに小さくなる。

男は中へ入ると、客の顔より先に窓と裏口を見た。

どこから入られても動けるよう、無意識に確かめているようだった。

旅に慣れているというより、襲われることに慣れている。

迎児も何かを感じたらしい。

盆を胸元へ寄せ、私の近くへ戻ってきた。

男の視線が、店の奥で止まる。

孫二娘は盃を拭いていた。

いつもなら、客が入った時点で声を掛ける。

それが、その時だけ手を止めた。

ほんの一瞬だった。

「久しぶりだな、二娘」

男が言った。

孫二娘は盃を置く。

「まだ生きてたのかい、武松」

武松――

その名なら何度か聞いている。

景陽岡で虎を素手で打ち殺した男。

人を斬り、行者姿となり、今は二龍山にいる豪傑――

噂の中では、もう少し人間離れしていた。

実際に見ても十分に怖いけれど、少なくとも虎の毛皮を着てはいなかった。

「酒はあるか」

「酒屋で何を聞いてんだい」

孫二娘は自分で酒壺を取り、卓へ置いた。

私にも迎児にも任せなかった。

武松は腰を下ろしたが、戒刀は外さない。

孫二娘も向かいには座らず、卓の横に立ったままだった。

仲がよいようには見えない。

嫌っているとも言い切れない。

ただの古い知り合いなら、もう少し気楽に話せるはずだ。

「今でも客に蒙汗薬を飲ませてるのか」

武松が盃を持ちながら言った。

店の端にいた手下が、何も聞かなかったふりで床を見た。

孫二娘は鼻で笑う。

「あんたには効かなかっただろォ」

「あれを効かなかったで済ませるのか」

「今は使ってないよォ」

武松の目がわずかに動いた。

「やめたのか」

「巧雲が来てから、そんな物に頼る必要がなくなったのさァ」

孫二娘は、私を顎で示した。

「酒と飯を出して、宿代を取る。夜は女三人で店に立つ。前より客が増えて、金も残るようになった」

「普通の商売になっただけではございませんか」

「その普通ができてなかったんだよォ」

武松が私を見る。

「この女が変えたのか」

「勝手に人の働く時間を分けて、品の数を減らして、帳面まで付け始めやがった」

「勝手ではございません。二娘さんに許可をいただきました」

「言われてみりゃ、そうだったかねェ」

忘れているのか、誤魔化しているのか分からない。

武松は盃を傾けた。

「蒙汗薬を使うより儲かるなら、その方がいい」

「そういうことだよォ」

反省ではなく、採算で犯罪をやめている。

それでも、やめたことには違いない。

過程はともかく、結果は健全だった。

迎児が私の袖を小さく引いた。

「あの方は……」

「今は近づかなくていいわ」

声を落として答えた。

酔って騒ぐような男には見えない。

だからといって、安全だと決める理由にもならない。

私は料理を運んだ。

「お待たせいたしました」

武松の視線が、顔から手元へ落ち、足元まで下りる。

短い間に、私が武器を持っていないことも、身のこなしが鈍いことも見抜かれた気がした。

「見ねえ顔だな」

「少し前から、こちらで働いております」

孫二娘が口を挟む。

「亭主の家から逃げてきた女だよォ」

「二娘さん」

紹介が雑すぎる。

武松は私の顔を見た。

「名は」

「潘巧雲と申します」

今度は、はっきり反応した。

「楊雄の女房か」

迎児の身体が固くなる。

私は盆を下ろし、武松の前へ立った。

「以前は、そうでございました」

「以前?」

「戻るつもりはございません」

孫二娘は黙っていた。

武松も、すぐには答えない。

楊雄と石秀は梁山泊に入った。

武松は二龍山にいる。

それでも豪傑同士の噂は届くのだろう。

私のことを聞いて来た可能性もある。

考えている間に、武松は料理へ箸を伸ばした。

「そうか」

それだけだった。

「理由は、お聞きにならないのですか」

思わず尋ねた。

武松がこちらを見る。

「聞いてほしいのか」

「いいえ」

「なら聞かねえ」

あまりに簡単だった。

夫の家では、説明しても信じてもらえなかった。

父の家では、話しても戻って堪えろと言われた。

石秀殿は、見たものを兄へ届けた。

この男は、聞かないと言った。

面倒なだけかもしれない。

私の事情など、心底どうでもよいのかもしれない。

それでも、勝手な理由をつけられるよりはましだった。

武松は酒を飲み終え、店の中を見回す。

「随分、繁盛してるな」

「誰のおかげだと思ってるんだい」

孫二娘がまた私を示す。

「働く時間を分けただけです」

「そのおかげで、朝から夜までアタイが働かなくて済むようになった」

「休みの時間にも店へ出てくるではありませんか」

「気になるんだから仕方ないだろォ」

武松が少し笑った。

孫二娘も口元を緩める。

客へ向ける笑い方ではなかった。

昔の話を説明しなくても分かる者へ向ける顔だった。

その夜、武松は宿へ泊まることになった。

「馬屋で構わねえ」

「客間が空いてるよォ」

「俺を泊めても平気なのか」

孫二娘の指が、酒壺の口で止まった。

「あんたが今さら、何を遠慮してんだい」

武松は答えない。

迎児は意味が分からない顔をしていた。

私は分からないふりをした。

世の中には、問いただしても誰も幸せにならない会話がある。

夜中、喉が渇いて目を覚ました。

廊下へ出ると、裏庭から低い声が聞こえた。

孫二娘と武松だった。

姿は見えない。

「まだ、あの時のことを」

武松が言った。

「言うんじゃないよォ」

孫二娘の声は、昼間よりも低かった。

「先に仕掛けたのはアタイだ」

「だからといって」

「済んだことだ。今さら掘り返すなァ」

そこで会話が途切れた。

蒙汗薬を盛ったこと。

武松には効かなかったこと。

孫二娘が負けたこと。

そこまでは、昼間の話から分かる。

だが、今の言葉は殴り合いだけを指しているようには聞こえなかった。

これ以上は聞かない方がいい。

私は水を諦め、部屋へ戻った。

翌朝、武松は日の出前に発つ支度をしていた。

孫二娘は店先で腕を組み、迎児は少し離れた場所に立っている。

私が出ると、武松がこちらへ顔を向けた。

「楊雄が来たら、どうする」

「話はいたします」

「戻るのか」

「戻りません」

「なら、ついて行くな」

随分と簡単に言う。

簡単にできないから、私は官服を盗み、夜の町を馬で逃げたのだ。

武松は続けた。

「ここにいられなくなったら、二龍山へ来い」

孫二娘が眉を寄せる。

「勝手にアタイの働き手を連れてく話をするんじゃないよォ」

「困った時の話だ」

「困らせなきゃいいだけだろうがァ」

「お前一人で梁山泊を相手にする気か」

孫二娘は答えなかった。

武松が私を見る。

「魯智深の兄貴なら、追われた女を売り渡したりはしねえ」

魯智深――

花和尚と呼ばれる二龍山の頭領。

また、知らない男の名前だった。

それでも、逃げ道が一つ増えたと思えば悪くない。

「覚えておきます」

武松は頷いた。

それから孫二娘へ向き直る。

「また来る」

「好きにしなァ」

歓迎している言葉ではない。

だが、孫二娘は武松が道の向こうへ消えるまで、その場を動かなかった。

迎児が私の隣へ来る。

「武松様と二娘様は、どのようなご関係なのでしょう」

「さあ」

私は孫二娘の背中を見た。

「聞かない方が、長生きできそうね」

孫二娘が振り返る。

「何をこそこそ話してんだい」

「何でもございません」

本当に何も知らない顔で答えた。

二龍山、魯智深、武松――

逃げた先で道を選べるなら、名前はいくつあってもいい。

ただし、孫二娘と武松の間に何があったのかだけは、帳面へ書かないことにした。

迎児でございます。


武松様は、とても怖いお方でした。

ですが、二娘様だけは、少し違うお顔をなさっていました。


何があったのかは――

私も、聞かないことにいたします。

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