鶏一羽で、戦になります
潘巧雲でございます。
私を追って南へ向かったはずのお二人は、途中で盗人を拾われました。
そして、その方が鶏を一羽盗まれたそうです。
――夫婦の話より先に、戦が始まりそうでございます。
南へ向かう旅も、幾日目かに入っていた。
楊雄はほとんど口を開かなかった。
夜明け前に宿を出て、日が落ちれば眠る。
食事も早い。
酒は飲まない。
道を尋ねる時だけ人へ声を掛け、それ以外は前を見たまま歩いている。
石秀も無理には話しかけなかった。
十字坡へ着けば、嫌でも潘巧雲と向き合うことになる。
その時、楊雄が何をするつもりなのか。
聞いたところで、同じ答えが返ってくるだけだった。
会ってから決める。
何も決めていないようで、胸の内ではすでに何かを裁いている。
石秀には、そう見えた。
昼を過ぎた頃、二人が街道脇の林に差しかかると、道の先に小柄な男が座り込んでいた。
旅装は汚れていたが、怪我をしている様子はない。
男は二人を見ると、片手を上げた。
「水を少し分けてもらえねえか」
楊雄は足を止めなかった。
石秀が水筒を外す。
「自分の分はどうした」
「朝方、沢で足を滑らせた。水筒まで流されちまってな」
男は水を受け取り、一息に飲んだ。
喉を鳴らしながらも、目は二人の腰や荷を素早く見ている。
石秀は、その視線に気づいた。
「名は」
「時遷だ」
男は水筒を返した。
「アンタは?」
「石秀だ。こっちは兄貴の楊雄」
時遷の眉がわずかに動く。
「楊都頭か」
楊雄が振り返る。
「俺を知っているのか」
「名くらいは……北方で役目に就いている男だろう。人を斬っても顔色一つ変えねえとか」
「誰がそのようなことを言った」
「旅をしてりゃ、いろんな話が耳に入る」
時遷は立ち上がり、衣についた土を払った。
細い――
腕力があるようには見えない。
だが、立ち上がる動きに無駄がなかった。
「二人は南へ?」
「そうだ」
石秀が答えると、時遷は道の先へ目をやった。
「このまま街道を行くと、関所がある。役人が旅人の荷を一つずつ改めてるらしい」
楊雄の顔が曇った。
官服は着ていない。
だが、任地から無断で離れたことを知られれば、面倒になる可能性はあった。
「別の道は」
「ある。独龍岡を抜ければ半日は早い」
「案内できるのか」
「水の礼だ。途中までならな」
楊雄は時遷を値踏みするように見た。
「何をして暮らしている」
「手先を使う仕事を少々」
「盗人か」
時遷は悪びれずに笑った。
「人聞きが悪い。落ちている物を拾うのが、人より少し上手いだけだ」
楊雄は鼻を鳴らした。
石秀は、少しだけ口元を緩める。
「兄貴、道を知っているなら使える」
「好きにしろ」
こうして、時遷が加わった。
歩き始めると、時遷はよく喋った。
道の先にある村。
水が飲める場所。
泊めてくれる寺。
役人が見回る時刻。
どの話も細かい。
石秀が尋ねると、時遷は肩をすくめた。
「見ておけば、後で役に立つ」
「何に使う」
「逃げる時にな」
石秀は笑った。
「正直な奴だ」
「嘘をついても、腹は膨れねえからな」
楊雄だけは黙っていた。
夕方、三人は独龍岡の近くへ入った。
道の両側に林が広がり、遠くに塀が見える。
畑も家も多い。
山間の村にしては、人の出入りが盛んだった。
「この辺りは、祝家荘の土地だ」
時遷が声を落とす。
「祝家荘?」
石秀が聞く。
「大きな屋敷だ。兵も抱えてる。土地の者は皆、祝家の顔色を見て暮らしてる」
「揉めなければよい」
楊雄は先へ進んだ。
時遷が、その背中を見ながら呟く。
「揉めるつもりのない奴ほど、揉める土地なんだがな」
三人は街道沿いの宿へ入った。
小さな宿だった。
表は食事を出す店になっており、裏に馬屋と数部屋がある。
時遷は店へ入る前から、軒下や裏口へ目を走らせていた。
「妙な真似はするな」
楊雄が言う。
「分かってる」
返事だけは早かった。
夕食に出されたのは、粟の飯と青菜の汁だった。
肉はない。
楊雄は気にせず食べたが、時遷は椀を覗き込んだ。
「鳥の鳴き声がしてたよな」
「していたな」
石秀が答える。
「鶏を飼ってるのに、客へは菜っ葉だけか」
「金を払えば出すだろう」
「聞いたさ。一羽は売れねえと断られた」
「なら諦めろ」
楊雄の声には、すでに苛立ちが混じっていた。
時遷は黙った。
そのまま飯を食べ、先に部屋へ引き上げる。
夜半、石秀は香ばしい匂いで目を覚ました。
隣を見ると、時遷がいない。
楊雄も起き上がった。
廊下へ出ると、裏庭の方から煙が上がっている。
時遷は、壁際で鶏を炙っていた。
「何をしている」
楊雄の声に、時遷が振り返る。
「見れば分かるだろ。腹が減ったんだ」
「盗んだのか」
「鶏一羽くらいで騒ぐな。代金は置いてきた」
「幾らだ」
「相場より少し安い」
石秀は額を押さえた。
「それは代金とは言わん」
時遷は焼けた脚を一本折った。
「食うか?」
楊雄が手を払った。
「すぐ火を消せ。朝になる前に出る」
だが、遅かった。
宿の戸が開き、灯りがいくつも現れた。
宿の主人だけではない。
棒や槍を持った男たちが、裏庭へ回り込んでくる。
「鶏を盗んだ奴はどいつだ!」
時遷が鶏を放り出す。
「少し借りただけだ」
「捕らえろ!」
男たちが一斉に踏み込んだ。
石秀は一人の棒を奪い、その腹を突いた。
楊雄も二人を打ち倒す。
時遷は塀へ走った。
跳び上がり、縁へ手を掛ける。
その身軽さなら逃げ切れると思った。
だが、塀の向こうで鈴が鳴った。
次の瞬間、時遷の身体が落ちる。
地面に隠されていた縄が足へ絡み、逆さに吊り上げられた。
「時遷!」
石秀が駆け寄ろうとしたが、男たちが間へ入る。
「兄貴、数が多い!」
さらに門の外から足音が迫っていた。
宿の者だけではない。
祝家荘から応援が来ている。
楊雄が一人を斬り伏せ、石秀の肩を掴んだ。
「退くぞ」
「時遷が!」
「ここで捕まれば、三人とも終わる!」
時遷は逆さに吊られたまま叫んだ。
「行け! 後で助けに来い!」
石秀は歯を食いしばった。
楊雄とともに裏口を破り、林へ走る。
後ろで怒号が上がった。
追手の灯りが木々の間を動く。
二人は道を外れ、藪を抜け、沢へ下りた。
水の中を歩いて足跡を消し、ようやく追手を振り切った時には、空が白み始めていた。
石秀は木へ手をつき、荒い息を整えた。
「時遷を置いてきた」
「分かっている」
楊雄も肩で息をしている。
「戻るぞ」
「今戻れば捕まるだけだ」
「では、見捨てるのか」
楊雄は答えなかった。
遠くで鐘が鳴った。
祝家荘の者が、周辺へ知らせを回しているのだろう。
石秀は昨夜の男たちを思い出した。
宿の者が声を上げてから、兵が集まるまでが早すぎた。
近くの村も道も、すべて祝家荘の目の内にある。
二人だけで押し入っても、時遷へ届く前に囲まれる。
「人手が要る」
石秀が言った。
楊雄は黙ったまま、濡れた袖を絞る。
「祝家荘へ正面から入れるほどの人数がな」
「心当たりがあるのか」
石秀は北西の方角を見た。
「梁山泊です」
楊雄の目が動いた。
「山賊を頼るというのか」
「他に、祝家荘と事を構えられる者がおりますか」
梁山泊の名は、二人とも知っていた。
官軍を退け、各地の豪傑を集めている。
役人から見れば賊徒である。
だが、今の楊雄は役目を離れ、妻を追って勝手に任地を離れている。
石秀もまた、時遷を置いて先へ進む気はなかった。
「兄貴」
「分かっている」
楊雄は立ち上がった。
「時遷を助ける。その後で十字坡へ行く」
石秀は頷いた。
潘巧雲を確かめるための旅だった。
途中で出会った男が鶏を盗み、大きな荘へ捕らえられた。
今度は、その男を救うために梁山泊を訪ねる。
何ひとつ、思い描いた順には進んでいない。
二人は独龍岡を離れ、梁山泊へ続く道を探した。
十字坡は南にある。
潘巧雲も、そこにいる。
けれど今は、時遷が先だった。
この寄り道が、祝家荘を揺るがす戦の始まりになるとは、楊雄も石秀も知るはずがなかった。
迎児でございます。
旦那様方は、まだ十字坡へは来られないようです。
途中で時遷様が鶏を盗み、大変なことになったとか。
――少しだけ、ほっといたしました。




