鶏一羽だった
「迎児、嫌な予感がするわ」
「またですか?」
「今度こそ、あの二人がこっちへ来る気がするのよ」
「では、逃げる準備を?」
「そうね。馬と銭と着替えを――」
「奥様」
「何?」
「その前に、あちらで何か起きたみたいです」
私は少し考えました。
「……何が?」
「鶏だそうです」
「鶏?」
「はい、一羽です」
待って……
私を追っていた話よね?
どうして途中から鶏が主役になってるの?
「迎児」
「はい?」
「水滸伝って、こういう話だった?」
「私に聞かないでください!」
というわけで第14話。
鶏一羽だった。
南へ向かう旅も、幾日目かに入っていた。
その間、楊雄はほとんど口を開かず、夜明け前に宿を出ては、日が落ちる頃に眠る日々を繰り返した。
食事も早く、酒には手をつけず、道を尋ねる時だけ人へ声を掛け、それ以外は前を見たまま歩いている。
石秀も、無理には話しかけなかった。
十字坡へ着けば、嫌でも潘巧雲と向き合うことになる。
その時、楊雄が何をするつもりなのかを聞いたところで、返ってくる答えは同じだった。
会ってから決める。
何も決めていないようで、胸の内ではすでに何かを裁いている。
石秀には、そう見えた。
昼を過ぎた頃、二人が街道脇の林へ差しかかると、道の先に小柄な男が座り込んでいた。
旅装は汚れているが、怪我をしている様子はない。
男は二人を見ると、片手を上げた。
「水を少し分けてもらえねえか?」
楊雄は足を止めなかったが、石秀は水筒を外した。
「自分の分はどうした?」
「朝方、沢で足を滑らせた。水筒まで流されちまってな」
男は受け取った水を一息に飲んだ。
喉を鳴らしながらも、その目は二人の腰や荷を素早く見ている。
石秀は気づいた。
「名は?」
「時遷だ」
男は水筒を返す。
「アンタは?」
「石秀だ。こっちは兄貴の楊雄」
時遷の眉が、わずかに動いた。
「楊押獄か?」
楊雄が振り返る。
「俺を知っているのか?」
「名くらいはな。北の方で役目に就いてる男だろう?人を斬っても顔色一つ変えねえとか」
「誰がそのようなことを言った?」
「旅をしてりゃ、いろんな話が耳に入る」
時遷は立ち上がり、衣についた土を払った。
細い。
腕力があるようには見えない。
だが、立ち上がる動きには無駄がなかった。
「二人は南へ?」
「そうだ」
石秀が答えると、時遷は街道の先へ目をやった。
「このまま行くと、先に関所がある。今日は役人が旅人の荷を一つずつ改めてるらしいぞ」
楊雄の顔が曇った。
官服は着ていないが、任地から勝手に離れている今、役人に詳しく身元を聞かれるのは面倒だった。
「避ける道はあるのか?」
「少し西へ逸れるが、独龍岡を抜ければ関所には出ない」
「案内できるのか?」
「水の礼だ。途中までならな」
楊雄は時遷を値踏みするように見た。
「何をして暮らしている?」
「手先を使う仕事を少々」
「盗人か?」
時遷は悪びれずに笑う。
「人聞きが悪い。落ちてる物を拾うのが、人より少し上手いだけだ」
楊雄は鼻を鳴らした。
石秀は、少しだけ口元を緩める。
「兄貴、道を知っているなら使える」
「好きにしろ」
こうして、時遷が加わった。
歩き始めると、時遷はよく喋った。
道の先にある村や水の飲める場所、泊めてくれる寺から役人が見回る時刻まで、妙に細かく知っている。
「よく覚えているな?」
石秀が言うと、時遷は肩をすくめた。
「見ておけば、後で役に立つ」
「何に使う?」
「逃げる時にな」
石秀は笑った。
「正直な奴だ」
「嘘をついても腹は膨れねえからな」
楊雄だけは黙っていた。
夕方、三人は独龍岡の近くへ入った。
道の両側には林が広がり、その向こうに畑や家が見える。
山間の土地にしては人の出入りが多く、遠くには高い塀まで続いていた。
時遷が声を落とす。
「この辺りは祝家荘の土地だ」
「祝家荘?」
石秀が聞く。
「でかい屋敷だよ。兵まで抱えてる。独龍岡にはほかに李家荘と扈家荘もある。李家荘の主は李応って豪傑でな。この辺りじゃ祝家が一番幅を利かせてる。近くの村も道も、だいたい祝家の顔色を見てる」
「揉めなければよい」
楊雄は先へ進んだ。
時遷が、その背中を見ながら呟く。
「揉めるつもりのない奴ほど、揉める土地なんだけどな」
三人は街道沿いの小さな宿へ入った。
表では食事を出し、裏には馬屋と数部屋がある。
時遷は店へ入る前から、軒下や裏口へ目を走らせていた。
「妙な真似はするな」
楊雄が言う。
「分かってる」
返事だけは早かった。
夕食に出されたのは、粟の飯と青菜の汁だった。
楊雄は気にせず食べているが、時遷は椀を覗き込む。
「鳥の鳴き声がしてたよな?」
「していたな」
石秀が答えた。
「鶏を飼ってるのに、客には菜っ葉だけか?」
「金を払えば出すだろう」
「聞いたさ。一羽も売れねえって断られた」
「なら諦めろ」
楊雄の声には、すでに苛立ちが混じっていた。
時遷は黙り、そのまま飯を食べて先に部屋へ引き上げた。
夜半――
石秀は、妙に香ばしい匂いで目を覚ました。
隣を見ると、時遷がいない。
楊雄も起き上がる。
二人が廊下へ出ると、裏庭の方から煙が上がっていた。
時遷は壁際にしゃがみ込み、鶏を炙っている。
「何をしている?」
楊雄の声に、時遷が振り返った。
「見れば分かるだろ。腹が減ったんだ」
「盗んだのか?」
「鶏一羽くらいで騒ぐな。代金は置いてきた」
「幾らだ?」
「相場より少し安い」
石秀は額を押さえた。
「それは代金とは言わん」
時遷は焼けた脚を一本折った。
「食うか?」
楊雄が手を払う。
「すぐ火を消せ。朝になる前に出るぞ」
だが、遅かった。
宿の戸が開き、いくつもの灯りが現れた。
出てきたのは宿の主人だけではない。
棒や槍を持った男たちが、裏庭へ回り込んでくる。
「鶏を盗んだ奴はどいつだ!」
時遷が鶏を放り出した。
「少し借りただけだ!」
「捕らえろ!」
「だから金は置いたって!」
「足りてねえんだよ!」
「そこかよ!」
男たちが一斉に踏み込んだ。
石秀は向かってきた男の棒を奪い、その腹へ突き込む。
楊雄も二人を打ち倒した。
時遷は塀へ走る。
一気に跳び上がり、縁へ手を掛けた。
その身軽さなら逃げ切れる。
石秀がそう思った瞬間、塀の向こうで鈴が鳴った。
時遷の身体が消える。
「時遷!」
次の瞬間、男の悲鳴が頭上から落ちてきた。
「逆だ! 逆になった!」
地面に仕掛けられていた縄が足へ絡み、時遷は逆さに吊り上げられている。
「何でそんな罠があるんだ!」
「知るか!」
石秀が駆け寄ろうとしたが、男たちが間へ入った。
門の外からも足音が迫ってくる。
「兄貴、数が増えてる!」
宿の者だけではない。
祝家荘から応援が来ている。
楊雄は一人を斬り伏せると、石秀の肩を掴んだ。
「退くぞ!」
「時遷が!」
「ここで捕まれば三人とも終わる!」
時遷は逆さに吊られたまま叫んだ。
「行け! 後で助けに来い!」
「お前が言うな!」
「俺が言わなきゃ誰が言うんだ!」
石秀は歯を食いしばり、楊雄とともに裏口を破って林へ走った。
後ろでは怒号が上がり、追手の灯りが木々の間を動いている。
二人は道を外れて藪へ入り、沢へ下りた。
水の中をしばらく歩いて足跡を消し、ようやく追手を振り切った時には、空が白み始めていた。
石秀は木へ手をつき、荒い息を整える。
「時遷を置いてきた」
「分かっている」
楊雄も肩で息をしていた。
「戻るぞ」
「今戻れば捕まるだけだ」
「では見捨てるのか?」
楊雄は答えなかった。
遠くで鐘が鳴っている。
祝家荘の者が、周辺へ知らせを回しているのだろう。
石秀は昨夜の男たちを思い返した。
宿の者が声を上げてから兵が集まるまでが早すぎる。
近くの村も道も、すべて祝家荘の目の内にあるらしい。
二人だけで押し入っても、時遷へ届く前に囲まれる。
「人手が要る」
石秀が言った。
楊雄は黙ったまま、濡れた袖を絞っている。
「この辺りに、祝家荘へ物を言える者はいないのか?」
石秀の問いに、楊雄が顔を上げた。
二人ともこの土地には詳しくなかったが、時遷は昨日、祝家荘の話をした時に別の名も口にしていた。
独龍岡には、祝家荘だけがあるわけではない。
石秀はその時の話を思い返した。
「李家荘……」
楊雄が眉を寄せる。
「何だ?」
「昨日、時遷が言っていました。独龍岡には祝家荘のほかに李家荘と扈家荘があると」
「それがどうした」
「李家荘の主は李応。独龍岡でも名の通った豪傑だそうです」
楊雄は黙って聞いている。
「祝家荘と同じ土地にいる者なら、こちらより話が通じるかもしれません。少なくとも、いきなり正面から乗り込むよりはましです」
「断られたら?」
「その時は、別を考えます」
楊雄は少しの間、沢の流れを見た。
十字坡へ急ぎたいのは明らかだった。
それでも、昨日まで一緒に歩いていた男を置き去りにして、潘巧雲だけを追うことはできないらしい。
「時遷を助ける」
やがて楊雄が言った。
「李家荘へ行くぞ」
石秀は頷いた。
潘巧雲を確かめるための旅だった。
それが途中で拾った男の鶏一羽から祝家荘と揉め、その男を救うため、今度は会ったこともない李応を頼ることになった。
何ひとつ、思い描いた順には進んでいない。
二人は独龍岡を離れるのではなく、さらに奥へ入った。
十字坡は南にあり、潘巧雲もそこにいる。
けれど今は、時遷が先だった。
そして二人がこれから門を叩く李家荘もまた、この騒ぎとは無関係では終われない。
鶏一羽だった。
本当に、始まりはそれだけだった。
奥様を追っていたはずの方々が、李家荘へ向かったそうです。
「迎児、どうしてそうなったの?」
「時遷様が鶏を盗んだからでは?」
「原因が軽すぎるのよ!」
しかも、その時遷様は祝家荘に捕まったそうです。
「鶏一羽ですよね?」
「鶏一羽ね」
「それで李家荘まで?」
「行ったらしいわ」
奥様が遠い目をしました。
「私、夫から逃げた話を書いてるはずなんだけど」
「いつから奥様が書いてるんですか?」
「そこは流して!」
ともかく、あの方々が十字坡へ来るのは少し先になりそうです。
「安心していいんでしょうか?」
「李家荘まで巻き込んでる時点で無理ね」
というわけで第15話。
今度は李家荘です。




