表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/36

嘘はついていない

潘巧雲でございます。


私は、十字坡で働いているだけです。

ですが、噂は勝手に形を変えます。

誰も嘘はついていないのに――


どうして、そうなるのでしょう。

潘巧雲の名を聞いたのは、石秀が荷を届けた帰りだった。

街道沿いの酒屋で、商人が三人、昼間から盃を重ねていた。

一人は南から来たらしく、日に焼けた顔でよく喋る。

「孟州へ行くなら、十字坡へ寄ってみな。女将がとんでもない別嬪だ」

石秀は隣の卓で、出された飯を食べていた。

十字坡という地名には聞き覚えがある。

旅人が多く通る土地だ。

「孫二娘とかいう女だろう」

別の男が言った。

「前から有名だ」

「今は一人じゃない。女が三人いる」

「三人?」

「女将に、新しく来た女が二人だ。片方はまだ若い。もう片方が、これまた見事な別嬪でな」

商人は盃を干し、酒を足した。

「名を潘巧雲という」

石秀の箸が止まった。

聞き違いかと思った。

潘という姓は珍しくない。

巧雲という名も、探せば他にいるかもしれない。

だが、胸の奥に引っかかった。

石秀は飯を口へ運び、何でもない顔をした。

「随分詳しいな」

声を掛けると、商人がこちらを向いた。

「十字坡へ行ったのか?」

「ああ。二度ほど泊まった」

「その潘巧雲という女は、土地の者か」

「いや。北から流れてきたそうだ」

石秀は盃へ手を伸ばさなかった。

「夫は?」

「さあな。逃げてきたという話だ」

商人の隣にいた男が笑う。

「亭主の官服を盗んで、下女を連れて馬で逃げたとか」

「官服?」

「しかも女二人で男の姿をしていたらしい。大したものだろう」

そこまで聞けば、偶然ではなかった。

潘巧雲は、楊雄の官服を二着持ち出していた。

馬も一頭消えている。

迎児もいなくなった。

家へ戻った時、箱は開いていた。

銭も減っていた。

石秀は、あの夜のことを思い出した。

裴如海を寺の裏へ呼び出した。

二度と潘巧雲へ近づけぬよう、話をつけるためだった。

話だけでは済まなかった。

戻った時には、家は静まり返っていた。

潘巧雲の部屋に人の気配はなく、迎児もいない。

馬屋も空だった。

楊雄は怒った。

石秀も、逃げる理由が分からなかった。

裴如海とのことが露見したと思い、逃亡した。

最初はそう考えた。

だが、あの僧はもういない。

潘巧雲が行き先を知っていたとは思えなかった。

石秀たちが何をしに出たか、察しただけなのかもしれない。

確かなことは何一つなかった。

今、南から来た商人が、その名を口にした。

「その女は、何をしている」

石秀が尋ねると、商人は楽しそうに笑った。

「店へ出ている。客あしらいが上手くてな。前に頼んだ酒まで覚えている」

「客に酌をするのか」

「居酒屋なんだから、酒くらい注ぐだろう」

「男たちに囲まれて?」

商人が眉を上げた。

「何だ。知り合いか?」

「似た名を聞いたことがあるだけだ」

石秀は飯へ視線を戻した。

商人は気にせず話を続けた。

「十字坡の潘巧雲といえば、今ではちょっとした評判だ。どんな酔客でも怒らせず、いつの間にか酒をもう一杯買わせている」

「手を出す者もいるだろう」

「そりゃ、いるさ」

男たちが笑った。

「触れたと自慢していた奴もいたな」

「本当に触れたのか?」

「さあ。あの女、近づいたと思ったら、すぐ盃を持たせるからな。俺は指一本届かなかった」

その場に笑いが起きた。

石秀は笑わなかった。

潘巧雲が男たちの間で働いている。

名を覚えられ、酒を注ぎ、客を呼んでいる。

触れたと吹聴する者までいる。

一方で、触れられなかったという話もある。

どちらが本当なのか。

石秀は商人へ十字坡までの道を聞いた。

孟州へ入る街道。

目印になる川。

日数。

どれも頭へ入れた。

飯を終えると、代金を置いて立ち上がる。

「もう行くのか」

「急ぐ用ができた」

石秀は酒屋を出た。

潘巧雲の話を、どこまで楊雄へ伝えるべきか考えた。

聞いたことをそのまま話せばよい。

余計な判断を加えなければ、嘘にはならない。

だが、何を先に言うかで、話の形は変わる。

潘巧雲が生きている。

迎児も一緒らしい。

十字坡で働いている。

客に人気がある。

男に触れたと語る者がいる。

石秀は歩きながら、何度も順番を入れ替えた。

楊雄の家へ着いたのは、日が暮れる前だった。

門を叩くと、楊雄自身が出てきた。

石秀の顔を見るなり、何かを察したように眉を寄せる。

「どうした」

「兄貴。巧雲殿らしい女の話を聞きました」

楊雄の表情が変わった。

「どこだ」

「孟州の十字坡です」

二人は奥へ入った。

楊雄は座る前に尋ねた。

「間違いないのか」

「名は潘巧雲。北から来た女で、若い女を一人連れているそうです。官服と馬を持って逃げたという話まで広まっています」

楊雄の拳が膝の上で固くなる。

「本人だ」

「おそらく」

「何をしている」

石秀は一度、息を置いた。

「居酒屋で働いております」

「居酒屋?」

「十字坡の孫二娘という女の店です。夜は客前に立ち、酒を運んでいると」

楊雄の顔から、わずかに血の気が引いた。

「男どもの酌をしているのか」

「そのようです」

「他には」

石秀は商人の笑い声を思い出した。

「客あしらいが上手く、評判になっているそうです」

楊雄は黙った。

「触れたと自慢する者もいると聞きました。ただし、実際には巧みにかわしているとも」

最後まで言った。

だが、楊雄が聞いたのは前半だけだったらしい。

「触れた?」

声が低くなる。

「噂です」

「火のないところに煙は立たん」

石秀は答えなかった。

潘巧雲が袖を取られた時も、楊雄は同じように考えた。

僧が理由もなく家へ来るはずがない。

何かきっかけがあったに違いない。

今度も、同じ場所へ戻った。

「夫の家から逃げて、酒場で男どもに愛想を振りまいているのか」

楊雄は立ち上がった。

「兄貴、まだ全てが本当と決まったわけでは」

「なら、確かめる」

「十字坡まで行くおつもりですか」

「行く」

迷いはなかった。

「俺の官服を盗み、馬を奪い、銭まで持って逃げた。そのうえ、男相手に商売をしているというなら、放ってはおけん」

「巧雲殿を連れ戻すのですか」

楊雄はすぐには答えなかった。

「会ってから決める」

その言葉が何を意味するのか、石秀には分からなかった。

怒鳴るのか。

縛って連れ帰るのか。

事情を聞くのか。

楊雄自身にも、まだ決まっていないのかもしれない。

「石秀、お前も来い」

「もちろんです」

答えた後で、石秀は胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。

最初に潘巧雲のことを楊雄へ伝えたのも、自分だった。

裴如海が袖を取ったところを見た。

その事実を知らせただけだ。

今も同じだ。

聞いた話を伝えただけである。

嘘はついていない。

それでも、潘巧雲は前より遠くへ逃げた。

翌朝、二人は楊雄の家を発った。

楊雄は口数が少なく、石秀も余計なことは言わなかった。

南へ向かう道は長い。

十字坡で潘巧雲がどのように暮らしているのか。

商人たちの話のうち、どこまでが真実なのか。

会えば分かる。

石秀は、そう考えた。

だが、その道が十字坡へまっすぐ続いていないことを、二人はまだ知らなかった。

迎児でございます。


奥様のお名前が、遠くまで知られるようになりました。

嬉しいことだと思っておりましたが――


噂というものは、誰の耳へ入るか分からないのでございますね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ