噂を聞いただけです
「迎児、最近お客様が妙に私のことを知ってない?」
「奥様が有名になったのでは?」
「嫌な有名人ね」
「美人だと評判ですよ」
「そこだけ聞けば悪くないわ」
「旦那様の家から逃げて、官服を盗んで、下女を連れて馬で逃げたとも」
「後半が強すぎるのよ!」
迎児は首を傾げました。
「でも、だいたい本当ですよね?」
「だから困ってるって言ってるでしょう!」
私はまだ十字坡にいます。
なのに、どうやら私の噂だけは、知らないところで届いて欲しくない人にまで届くらしいです。
「迎児」
「はい?」
「こういう時って、嫌な予感しかしないわね」
というわけで第13話。
噂を聞いただけです。
潘巧雲の名を聞いたのは、石秀が荷を届けた帰り――
街道沿いの酒屋で、商人が三人、昼間から盃を重ねていた。
一人は南から来たらしく、日に焼けた顔でよく喋る。
「孟州へ行くなら、十字坡へ寄ってみな。女将がとんでもない別嬪だ」
石秀は隣の卓で、出された飯を食べていた。
十字坡という地名には聞き覚えがある。
孟州へ入る街道沿いで、旅人が多く通る土地だった。
「孫二娘とかいう女だろう」
別の男が言った。
「前から有名だ」
「今は一人じゃない。女が三人いる」
「三人?」
「女将に、新しく来た女が二人だ。片方はまだ若い。もう片方が、これまた見事な別嬪でな」
商人は盃を干し、勝手に隣の酒壺から酒を足した。
「名を潘巧雲という」
石秀の箸が止まった。
聞き違いかと思った。
潘という姓は珍しくないし、巧雲という名も探せば他にいるかもしれない。
それでも、胸の奥に何かが引っかかった。
石秀は飯を口へ運び、何でもない顔をした。
「随分詳しいな。十字坡へ行ったのか?」
「ああ、二度ほど泊まった」
「その潘巧雲という女は、土地の者か」
「いや……北から流れてきたそうだ」
石秀は盃へ手を伸ばさなかった。
「夫は?」
「さあな。逃げてきたという話だぞ」
商人の隣にいた男が笑う。
「亭主の官服を盗んで、下女を連れて馬で逃げたとか」
「官服?」
「しかも女二人で男の姿をしていたらしい。大したものだろう」
そこまで聞けば、偶然ではない。
潘巧雲は楊雄の官服を二着持ち出しており、馬も一頭消えていた。
迎児の姿もなく、家へ戻った時には箱が開き、銭まで減っている。
石秀は、あの夜を思い出した。
裴如海を寺の裏へ呼び出し、二度と潘巧雲へ近づかぬよう話をつけるつもりだった。
話だけでは済まなかった。
家へ戻った時には、すでに静まり返っていた。
潘巧雲の部屋に人の気配はなく、迎児もいない。
馬屋まで空になっているのを見て、楊雄は怒った。
石秀も最初は逃げる理由が分からず、裴如海とのことが露見したと思って逃亡したのだろうと考えていた。
だが、あの僧はもういない。
潘巧雲が行き先まで知っていたとは考えにくい。
自分たちが何をしに家を出たのか、それだけを察して逃げた可能性もある。
確かなことは何一つなかった。
そして今、南から来た商人が、その名を口にした。
「その女は、何をしている?」
石秀が尋ねると、商人は楽しそうに笑った。
「店へ出てるよ。客あしらいが上手くてな。前に頼んだ酒まで覚えてやがる」
「客に酌をするのか?」
「居酒屋なんだから、酒くらい注ぐだろう」
「男たちに囲まれて?」
商人が眉を上げた。
「何だ。知り合いか?」
「似た名を聞いたことがあるだけだ」
石秀は飯へ視線を戻した。
商人は気にする様子もなく続ける。
「十字坡の潘巧雲といえば、今じゃちょっとした評判だ。どんな酔客でも怒らせず、気づけばもう一杯買わされてる」
「手を出す者もいるだろう?」
「そりゃ、いるさ」
男たちが笑った。
「触れたと自慢してた奴もいたな」
「本当に触れたのか?」
「さあな。あの女、近づいたと思ったら、すぐ盃を持たせるからな。俺なんか指一本届かなかったぞ?」
「届かない方が普通だろ」
「金を払って酒まで飲んで、それで届かないんだから大した女だ」
「何しに店へ行ってるんだ、お前は?」
隣の男に言われ、商人が笑った。
その場に笑いが起きたが、石秀だけは笑わなかった。
潘巧雲は男たちの間で働き、名を覚えられ、酒を注ぎ、客を呼んでいるという。
触れたと吹聴する者がいる一方で、実際には近寄る男を巧みにかわしているらしい。
どちらが本当なのか。
あるいは、どちらも本当なのかもしれない。
石秀は孟州へ入る街道と目印になる川、それに十字坡までの日数を商人から聞き、すべて頭へ入れた。
飯を終えると、代金を置いて立ち上がる。
「もう行くのか?」
「急ぐ用ができた」
石秀は酒屋を出た。
歩きながら、潘巧雲の話をどこまで楊雄へ伝えるべきか考える。
聞いたことを、そのまま話せばよい。
余計な判断を加えなければ、嘘にはならない。
だが、何を先に言うかで、話の形は変わる。
潘巧雲は生きており、迎児も一緒らしい。
十字坡で働き、客に人気があり、男に触れたと語る者までいる。
最後の話だけ先に言えば、楊雄は怒るだろう。
生きていたと先に言えば、受け取り方は少し変わるかもしれない。
石秀は歩きながら、何をどの順番で伝えるべきか何度も考え直した。
楊雄の家へ着いたのは、日が暮れる前だった。
門を叩くと、楊雄自身が出てきた。
石秀の顔を見るなり、何かを察したように眉を寄せる。
「どうした?」
「兄貴、巧雲殿らしい女の話を聞きました」
楊雄の表情が変わった。
「どこだ?」
「孟州の十字坡です」
二人は奥へ入った。
楊雄は座る前に尋ねる。
「間違いないのか?」
「名は潘巧雲。北から来た女で、若い女を一人連れているそうです。官服と馬を持って逃げたという話まで広まっています」
楊雄の拳が、膝の上で固くなる。
「本人だ」
「おそらく」
「何をしている?」
石秀は一度、息を置いた。
何から言うか。
酒屋からここまで考えていたはずなのに、楊雄を前にすると答えは一つしかなかった。
「居酒屋で働いております」
「居酒屋?」
「十字坡の孫二娘という女の店です。夜は客前に立ち、酒を運んでいると」
楊雄の顔から、わずかに血の気が引いた。
「男どもの酌をしているのか?」
「そのようです」
「他には?」
石秀は商人たちの笑い声を思い出した。
「客あしらいが上手く、評判になっているそうです」
楊雄は黙った。
「触れたと自慢する者もいると聞きました。ただし、実際には巧みにかわしているとも――」
最後まで言った。
だが、楊雄が聞いたのは前半だけだったらしい。
「触れた?」
「噂です」
「火のないところに煙は立たん」
石秀は答えなかった。
潘巧雲が裴如海に袖を取られた時も、楊雄は同じように考えていた。
僧が理由もなく家へ来るはずがない。
何かきっかけがあったに違いない。
あれから潘巧雲は逃げ、今度は十字坡まで離れた。
それでも楊雄は、まったく同じ場所へ戻っている。
「夫の家から逃げて、酒場で男どもに愛想を振りまいているのか?」
楊雄は立ち上がった。
「兄貴、まだ全てが本当と決まったわけではありません」
「なら、確かめる」
「十字坡まで行くおつもりですか?」
「行く」
迷いはなかった。
「俺の官服を盗み、馬を奪い、銭まで持って逃げた。そのうえ男相手に商売をしているというなら、放ってはおけん」
「巧雲殿を連れ戻すのですか?」
楊雄は、すぐには答えなかった。
「会ってから決める」
その言葉が何を意味するのか、石秀には分からなかった。
怒鳴るのか、縛って連れ帰るのか、それとも事情を聞くのか。
楊雄自身にも、まだ決まっていないのかもしれない。
「石秀、お前も来い」
「もちろんです」
答えた後で、石秀は胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
最初に潘巧雲のことを楊雄へ伝えたのも自分だった。
裴如海が袖を取ったところを見て、その事実を知らせた。
今も同じで、酒屋で聞いた話を楊雄へ伝えただけである。
嘘はついていない。
それでも、潘巧雲は前より遠くへ逃げた。
翌朝、二人は楊雄の家を発った。
楊雄は口数が少なく、石秀も余計なことは言わなかった。
南へ向かう道は長い。
十字坡で潘巧雲がどのように暮らしているのか、商人たちの話のうちどこまでが真実なのか……
会えば分かる。
石秀は、そう考えた。
だが、その道が十字坡へまっすぐ続いていないことを、二人はまだ知らなかった……
奥様の噂が、とうとうあの方々に届いたそうです。
「奥様、噂を聞いただけですよね?」
「その“だけ”が怖いのよ」
「でも、まだ十字坡には来てませんよ?」
「迎児、そういうこと言うと来るの」
「何がです?」
「面倒事が」
奥様は店の外を見ました。
「……今のうちに逃げましょうか?」
「まだ何も起きてないでしょう!」
「前もそう思ってたら、夜中に逃げることになったのよ!」
それを言われると、何も返せません。
ただし、今回は少し違うようです。
「奥様」
「何?」
「誰か来る前に、別の何かが来るみたいですよ?」
「それ、一番嫌なやつ!」
というわけで第14話。
どうやら、まっすぐ十字坡には来ないそうです。




