怖くていいのです
潘巧雲でございます。
夜、迎児を一人にしたのは、私の判断でした。
迎児が悪いわけではありません。
怖いものは、怖いままで結構です。
必要なのは、我慢ではなく、手順です。
――今夜は、触らせずに酒を売ります。
シフトを組み直してから、三日目の夜だった。
その日は、私が前半の店先を受け持ち、迎児が後半へ入ることになっていた。
孫二娘は帳場と厨房を行き来し、張青は樽の受け取りで裏へ回っている。
夜半までは、まだ少し時間があった。
私は迎児へ盆を渡し、入れ替わる。
「無理なら、すぐ呼んで」
「はい」
返事はしたが、顔が硬い。
「酒を運んで、空いた器を下げるだけよ。酔った方のお話は、全部聞かなくていいから」
「全部でなくても、よいのでございますか」
「半分も聞いていない人ばかりよ」
迎児は少しだけ笑った。
それを見て、私は裏へ下がった。
夜の客は、昼とは別の顔をする。
酒が入れば声が大きくなり、知らない者同士でも肩を組む。
女へ話しかける時だけ、妙に親しげになる男もいる。
現代でも同じだった。
会社の会食で、役員の隣に座っただけなのに、帰りには名前を呼び捨てにされたことがある。
酒は、人を変えるのではない。
隠すのが面倒になっただけだ。
厨房で器を拭いていると、表から笑い声が上がった。
いつもの騒がしさに聞こえた。
だが、その中に迎児の声がない。
私は手を止めた。
次に聞こえたのは、椅子が床を擦る音だった。
「潘巧雲さん!」
手下の一人が、戸口から顔を出した。
「迎児が、ちょっと……」
私は布を置き、店先へ出た。
奥の卓で、迎児が壁際へ追い込まれていた。
大柄な客が、迎児の手首を掴んでいる。
強く引いているわけではない。
だから周りも、まだ笑っていた。
「一杯くらい、ここで酌をしろと言ってるだけだ」
「離してくださいませ」
「固いこと言うなよ」
迎児は声を出していた。
それでも、身体が動いていない。
私は卓へ近づき、客の前へ酒壺を置いた。
「お待たせいたしました」
男がこちらを見る。
「何だ。今度はあんたか」
「お連れ様の盃が空いております」
言いながら、男の手へ盃を押し込んだ。
迎児の手首から指が離れる。
「さあ。せっかくのお酒が冷めてしまいます」
「俺は、その娘に酌をしてもらいたいんだよ」
「迎児はまだ不慣れでございます。代わりに私が」
笑ってみせる。
愛想ではない。
これ以上、話を広げないための顔だ。
男は不満そうだったが、差し出した盃は受け取った。
一杯注ぐ。
もう一杯、隣の客へも。
「つまみも追加なさいますか」
「じゃあ、肉を」
「承知いたしました」
注文を取ったところで、私は迎児を振り返った。
「厨房へ伝えて」
迎児は頷き、逃げるように奥へ入っていく。
客は怒らなかった。
卓も荒れなかった。
肉が一皿増えた。
商売としては、それで済んだ。
だが、迎児は厨房の隅で震えていた。
「申し訳ございません」
「謝らなくていいわ」
「私が、うまくできなかったから」
「手を掴んだのは、あなたではないでしょう」
迎児は俯いたまま、手首を押さえた。
赤くなってはいない。
それでも、指の跡が残っているように見えるのだろう。
孫二娘が戻ってきたのは、その少し後だった。
話を聞くと、眉間へ皺を寄せた。
「夜の表へ、一人で出したのがまずかったねェ」
「私が組んだ割り振りです」
「だからって、あんた一人のせいじゃないよォ。やってみなきゃ分からないこともある」
孫二娘は卓の方を見た。
さっきの客は、もう肉を食べながら笑っている。
「叩き出すかい?」
「今は必要ありません」
迎児が驚いて顔を上げた。
「ですが」
「店で騒ぎにすれば、面白がる者も出ます。それに、あの客だけ追い出しても、次が来ないとは限りません」
孫二娘が腕を組んだ。
「じゃあ、夜はどうする?」
「三人で出ます」
「アタイら三人かい」
「はい。朝と昼の割り振りを変えます。夜だけは、私と迎児と二娘さんを揃えます」
孫二娘は、少し考えた。
「客は喜ぶだろうねェ」
「そこは、否定できません」
翌日から、夜の店先には三人で立った。
孫二娘を目当てに来ていた客は、私と迎児を見て声を上げた。
翌々日には、街道の向こうからわざわざ寄る者が現れた。
「十字坡には、美人が三人いるそうじゃないか」
誰が数えたのか知らない。
しかも、本人たちの前で言うことではない。
評判が広がるほど、店は混んだ。
酒も料理もよく出た。
張青は嬉しそうに帳面を覗き、孫二娘は樽を一つ増やした。
問題も増えた。
常連を名乗る客が、迎児へ馴れ馴れしく声を掛ける。
名前を覚えられたことを、特別扱いされたと思う者もいた。
ある夜、迎児が酒を置いた時、客が腰へ手を伸ばした。
迎児の顔が固まった。
盆が傾き、盃が一つ倒れる。
「おっと」
客は笑った。
触れたのは一瞬だった。
だが、迎児はその場から動けなくなった。
私はすぐに間へ入り、倒れた盃を立てた。
「失礼いたしました。新しいものをお持ちします」
迎児の肩へ手を添える。
「裏へ行って」
返事はなかった。
それでも、足だけは動いた。
その夜、迎児の動きはおぼつかなかった。
男の客が近くを通るだけで、肩が強張る。
厨房にいる手下が声を掛けても、振り向くのが遅れる。
孫二娘は黙って迎児を見ていた。
やがて、私へ顎をしゃくった。
「このままじゃ、表へ立てないねェ」
「立たせません」
「ずっとかい?」
答えられなかった。
迎児は働きたいと言っている。
だが、怖いものを我慢させてまで店先へ出すのは違う。
翌日の昼、私と孫二娘は迎児を空いた卓へ座らせた。
「まず、客の正面へ立たないこと」
私は盆を持ち、卓の横へ立つ。
「斜めから置けば、手を伸ばされても身体までは届きにくいわ」
孫二娘が隣から口を挟む。
「卓の奥まで入るんじゃないよォ。酒を置いたら、半歩下がりなァ」
「手が来たら、盆を間へ入れるの」
「叩くんじゃないよ。客に怪我させたら面倒だからねェ」
「それから、手を空けさせないこと。盃を持たせる。注文を聞く。別の動きをさせればいいわ」
迎児は真剣に頷いている。
「それでも、触られたら」
声が小さくなった。
私は迎児の目を見た。
「私か二娘さんを呼びなさい」
「ですが、お忙しい時に」
「呼ぶのも仕事よ」
孫二娘も頷く。
「客一人より、店の女一人が怯えて使えなくなる方が損だよォ」
言い方は商売だった。
でも、迎児にはその方が届いたらしい。
「怖がっては、いけませんか」
「怖くていいわ」
私は答えた。
「怖い時に何をするか、先に決めておけばいいの」
数日後、迎児は店先へ戻った。
最初は私のすぐ隣から離れなかった。
酒を置くたび、客の手を見ている。
笑顔も少し硬い。
それでも、逃げなかった。
馴染みの客が、迎児の袖へ手を伸ばした。
私は動かなかった。
孫二娘も、少し離れた場所で見ている。
迎児は一瞬だけ息を止めた。
それから、盆を身体の前へ入れた。
「お客様、こちらが空いております」
空いた盃を男の手へ持たせる。
「もう一杯、いかがでございますか」
男は、伸ばした手で盃を掴む形になった。
「お、おう。もらおうか」
迎児は半歩下がり、酒を注いだ。
注ぎ終えると、すぐ卓から離れる。
手は震えていた。
だが、こぼさなかった。
私の横まで戻ると、迎児は小さく息を吐いた。
「できました」
「ええ」
孫二娘が笑う。
「酒まで一杯余計に売ったねェ」
迎児も、ようやく笑った。
それから十字坡の評判は、さらに広がった。
美人が三人いる。
料理も早い。
酒も切らさない。
そして、新しく来た女は、どんな客にも顔を崩さない。
最後の評判だけは、少し違う。
崩していないのではない。
崩す前に、相手の手を盃へ持ち替えさせているだけだ。
それでも客は、私にうまくあしらわれたことまで自慢した。
十字坡の潘巧雲は、自分の顔を覚えている。
好みの酒を知っている。
話を最後まで聞いてくれた。
聞いていない。
半分も――
けれど、噂というものは、こちらの都合では止まらない。
街道を行く商人が、次の町で話す。
旅人が酒の席で名前を出す。
その名がどこまで届くのか、私はまだ知らなかった。
そのうち、話には余計な尾までついた。
北の方から来た女らしい。
夫の家を飛び出したそうだ。
官服を盗み、下女を連れて逃げたという。
だいたい合っている。
合っているから、始末が悪い。
客の口を塞ぐことはできない。
私は目の前の卓を回し、迎児が怖がらずに立てる場所を作るしかなかった。
その頃には、私の名前はもう、十字坡を離れていた。
迎児でございます。
男の方が近づくだけで、身体が動かなくなりました。
ですが、奥様と二娘様は、怖がるなとは仰いませんでした。
盆を前に出して、盃を持たせて、半歩下がる。
――教わった通りにしたら、きちんと酒まで売れました。




