逃げた先で、拾われました
潘巧雲でございます。
滄州では、少し危ない方に親切にされました。
その後、南へ向かった先で囲まれました。
今度こそ終わりかと思いましたが――
拾われることも、あるようです。
柴進の屋敷へ着いた時には、日が傾き始めていた。
滄州までの道は、思っていたより長い。
馬に乗っているだけでも腰は痛くなるし、腿の内側は擦れる。
迎児がいなければ、町を出た翌日には馬から落ちていたかもしれない。
屋敷の門前で馬を止めると、門番がこちらを見た。
官服を着た、若い男が二人。
そう見えてくれればよかった。
「柴進様に、お目通りを願います」
なるべく低い声を出した。
陳小九を騙した時よりは、少し上達している。
「どちらから来られた」
「薊州です」
嘘をついた。
滄州から遠すぎず、近すぎず、確かめに行くには面倒そうな場所を選んだ。
門番は私たちの官服と朴刀を見比べた。
「お役目で?」
「事情があり、詳しくは申せません」
便利な言葉だ。
楊雄も使っていた。
門番が眉を寄せた時、奥から男が出てきた。
年は楊雄より少し上だろうか。
身なりは整っているが、威張った歩き方ではない。
門番がすぐに頭を下げたので、その人が柴進だと分かった。
「私に御用ですか」
声まで穏やかだった。
私は馬を下りようとして、足を鐙へ引っかけた。
危うく地面へ落ちかける。
迎児が慌てて手を伸ばした。
「奥――」
最後まで言わせず、腕を掴んだ。
柴進は何も言わなかった。
笑いもしない。
ただ、こちらへ一歩近づき、私が馬から下りるまで待った。
「長い道を来られたようですね」
「……はい」
「まず、中へ。話は休んでからで構いません」
門番へ向き直る。
「湯を用意してください。それから、着替えを二人分」
それだけ指示し、先に屋敷へ戻っていった。
男物を二人分、とは言わなかった。
私は迎児を見た。
迎児もこちらを見ている。
たぶん、もうバレている。
案内された部屋へ入ってしばらくすると、湯と一緒に衣服が運ばれてきた。
女物だった。
迎児が小さく息を呑む。
「いつからお気づきだったのでしょう」
「門へ出てきた時には、もう分かっていたと思うわ」
声か、歩き方か。
馬から下りる時の情けなさか。
全部かもしれない。
それでも、柴進は人前で私たちを女だと言わなかった。
門番にも説明せず、別の部屋を用意した。
湯を使い、久しぶりに髪を下ろす。
官服を脱ぐと、肩が軽くなった。
同時に、不安になった。
官服と帽子がなければ、私たちはただの女二人だ。
迎児は新しい衣を着た後も、落ち着かない様子で戸口を見ていた。
「取られたりしませんよね」
「何を?」
「馬も、お金も……私たちも」
「分からないわ」
安心させるような嘘は言えなかった。
だが、その日のうちに柴進が部屋へ入ってくることはなかった。
夕食も、女の使用人が運んできた。
翌朝、ようやく呼ばれた。
柴進は広い部屋の奥ではなく、庭に面した小さな座敷で待っていた。
側にいたのは、年配の使用人一人だけだった。
「お名前を伺っても?」
「潘巧雲と申します。こちらは迎児です」
本名を言った。
偽名を使うことも考えたが、柴進が本当に頼れる人物か確かめるなら、こちらも一つくらい本当のことを出す必要がある。
柴進は名前を聞いても、顔色を変えなかった。
「追われていますか」
「今は、まだ分かりません」
「今後、追手が来る可能性は?」
「ございます」
「承知しました」
それだけだった。
なぜ追われるのか。
誰から逃げたのか。
盗みをしたのか。
何も聞かない。
「この屋敷にいる間は、私の客人です。外へ出る必要もありません」
「理由を、お聞きにならないのですか」
「話したくなった時に話せばよいでしょう」
柴進は茶を一口飲んだ。
「追われる者には、話せない事情もあります」
一瞬、危なかった。
本当に、一瞬だけ。
この方なら、と思いそうになった。
親切で金持ち。
余計なことを聞かない。
女だと見抜いても態度を変えない。
かなり危ない。
弱っている時に、こういう男へ会ってはいけない。
危うく、今後ともよろしくお願いいたします、と言いかけるところだった。
私は茶へ視線を落とした。
惚れるのは駄目だ。
もう男で失敗したくない。
今のところ柴進には何もされていないが、それとこれとは別である。
「数日、置いていただけますか」
「もちろんです」
「その後は、南へ向かいます」
柴進は引き留めなかった。
「行き先は?」
「まだ決めておりません」
「では、道を選べる程度の支度はしておきましょう」
本当に、話が早い。
屋敷に滞在した数日間、柴進は私たちの部屋へ来なかった。
食事は足りているか、必要な物はあるか。
それも使用人を通して聞くだけだった。
ここにいれば、安全なのかもしれない。
だが、私たちを追って楊雄と石秀が来れば、柴進を巻き込む。
それに、居心地が良くなるほど離れにくくなる。
四日目の朝、出立を申し出た。
門前には、鞍を載せた馬が二頭並んでいた。
「二頭も?」
思わず聞くと、柴進は当然のように答えた。
「一頭に二人で乗っていては、逃げる時に不便でしょう」
やはり、何もかも分かっている。
旅装も用意されていた。
女物ではなく、遠目には男にも見える簡素な衣だった。
官服より目立たず、動きやすい。
朴刀も返された。
路銀まで増えている。
「いただきすぎです」
「返せる時に返してください」
「返せなかったら?」
「その時は、別の誰かを助ければよいでしょう」
また、危なかった。
私は深く頭を下げた。
「お世話になりました」
「いつでも戻ってきて構いません」
その言葉に甘えそうになる前に、馬へ乗る。
今度は一人一頭だ。
迎児は自分の馬の手綱を取り、少し得意そうな顔をしている。
「奥様、大丈夫ですか」
「今のところは」
正直、もうお尻が痛かった。
柴進の屋敷を出て、私たちは南へ向かった。
何日か進み、孟州へ近づいた頃だった。
道の両側から男たちが現れた。
三人――
後ろにも二人。
どう見ても、道を尋ねに来た顔ではない。
「馬を置いていきな」
先頭の男が言った。
私は手綱を握ったまま、迎児の前へ馬を寄せた。
「金なら少しございます」
「馬も金もだ」
「この子には触れないでください」
男たちが笑った。
「兄ちゃん、随分かわいい声してるじゃねえか」
まずい――
低い声を出したつもりだったが、陳小九ほど簡単には騙されてくれない。
朴刀へ手を伸ばす。
重いことは知っている。
まともに振れないことも。
それでも抜こうとした。
男が笑いながら近づいてくる。
「やる気か?」
「来ないでください」
「だから、その声じゃ怖くねえって」
結局、囲まれた。
殴られはしなかった。
馬から引きずり下ろされることもない。
ただ、前後を固められ、
「頭領に見てもらおう」
と言われた。
連れていかれた先は、道沿いの居酒屋だった。
十字坡――
看板の下に、一人の美しい女が立っている。
だが、柴進とは別の意味で近づきにくい。
腕を組み、私と迎児を上から下まで眺める。
視線が顔から胸元へ下り、腰、手、馬へ移った。
「男二人を連れてきたのかい?」
「それが、どうも妙で」
手下が答える。
女は私の前まで来た。
「帽子、取りなァ」
「お断りします」
「ああ、そうかい」
女は笑った。
「じゃあ、その胸に巻いてる布を外しな。苦しいだろォ?」
迎児が私を見た。
完全にバレている。
私は帽子を取った。
迎児も諦めて髪を出す。
手下たちが騒ぎ始めた。
「女だったのか」
「二人ともかよ」
女は私たちではなく、手下を睨んだ。
「見りゃ分かるだろうがァ!何年アタイの下で働いてんだい」
男たちが黙る。
この人が孫二娘だ。
名前は、すぐに分かった。
十字坡の女主人。
道中で聞いたことがある。
孫二娘は私へ顔を向けた。
「女二人で、男のなりして馬二頭。しかも朴刀まで持ってる。何から逃げてきた?」
「夫です」
答えると、孫二娘は一度瞬きをした。
それから、声を上げて笑った。
「亭主からかい!」
馬鹿にされたのかと思った。
だが、孫二娘の目に嘲りはなかった。
「下女まで連れて?」
「迎児です」
「同じじゃないのかい」
「違います」
孫二娘は私と迎児を交互に見た。
「その馬は、どこで手に入れた?」
「滄州で、柴進殿にいただきました」
「じゃあ、亭主の家を出た時は?」
「夫の官服を二着と、馬を一頭。銭も少々、借りました」
「借りた?」
「返すつもりはございません」
孫二娘は、声を上げて笑う。
「そいつは盗んだって言うんだよォ。度胸あるねェ」
初めてだった。
逃げたことを責められなかった。
恥とも、我慢が足りないとも言われない。
むしろ褒められた。
「行く当ては?」
「今のところ、ございません」
「滄州へ戻れば?」
私は少し黙った。
「戻れば、甘えてしまいそうですので」
孫二娘は、また笑った。
「正直だねェ」
店の中を親指で示す。
「働く気はあるかい?」
「ございます」
即答した。
孫二娘が眉を上げる。
「まだ何をするかも言ってないよォ」
「食事と寝る場所がいただけるなら、働きます」
「ただ飯を食わせる気はないからねェ」
「望むところです」
孫二娘は迎児を見る。
「そっちも?」
迎児は私ではなく、孫二娘を見て頷いた。
「働かせてください」
「決まりだ」
孫二娘は手下へ向き直った。
「馬を繋いでやんな。荷も運べ。客じゃないよォ、今日から働く女衆だ」
さっきまで私たちを囲んでいた男たちが、今度は素直に馬を引いていく。
私は十字坡の居酒屋を見上げた。
夫の家でもない。
父の家でもない。
立派な屋敷でもなかった。
けれど、ここでは逃げたことを責められなかった。
それだけで、少し息がしやすくなった。
迎児でございます。
柴進様は、とてもお優しい方でした。
奥様が少しだけ危ないお顔をなさったので、私は見ないふりをいたしました。
その後は盗賊に囲まれましたが、孫二娘様に拾っていただきました。
――今度の居場所は、長く続くとよいのですが。




