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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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7/8

骨鳴りの谷

 山の朝は、肺が痛くなるほどに冷たく、そして不自然なほどに「乾いて」いた。

本来、この季節の夜明けは、立ち込める朝霧が草木を濡らし、土からは生命が腐敗してまた循環していく、湿った力強い匂いがするはずだった。だが、北へ――「骸の柱」が座する領域へ足を踏み入れるほどに、万物がその瑞々しさを失っていく。

 木々の葉は緑を保ったまま、指で触れれば粉々に砕けそうなほど脆く、風に揺れる音もどこか硬い。まるで、世界そのものが生気を吸い上げられ、巨大な「干からびた標本」へと作り変えられているかのようだった。

「正面は崩れてる。こっち」

 鍬の先で、獣道より少し広い程度の細道を示す。

先を行くみなとが、掠れた声で道を指し示す。

 彼は昨夜、一睡もしていない。手には小夜さよの形見である薬草袋を握りしめ、その指先は白く震えていた。それでも彼の瞳には、絶望を通り越した「執念」が宿っている。

 朔真は何も言わず、その後を追う。

 父・直継なおつぐから譲り受けた鉈は、三ヶ月間の修行と、昨夜の死闘を経て、以前よりもずっと重く、馴染んでいる。

 かつてはただの薪割りの道具だったものが、いまでは家族を奪った者たちを斬るための道具になっている。

 だが今は憎しみだけではない。

 昨夜、湊の妹弔った時の、あの微かな手の感触。

 刃が肉を裂く手応えではなく、何重にも絡みついた「命令(呪い)」が解け、死者がようやく死者として、ただ土に還っていく、あの静かな解放感。

 それが、朔真の指先に「弔う者の重み」を刻んでいた。


 二人分の足音だけが、枯れた下草の上を掠めていくなか、しばらくして、湊が唐突に口を開いた。

「小夜さ」

 朔真は前を見たまま返す。

「何だ」

「熱があるくせに、雪が見たいってうるさかった」

 湊は笑ったわけでもないのに、語尾だけが少し揺れた。

「うちの村、あんまり積もらねえんだ。山の上だけ白くなって、それで終わりで。

 だから、春になったら北の方まで連れてってやるって言ってた」

 言い終わってから、自分で舌打ちする。

「……馬鹿みたいだな。春なんか待たなくても連れてけばよかった」

 朔真は返事をしなかった。

 返す言葉が見つからないのではない。見つかっても、軽くなる気がしないからだ。

 代わりに、前方の匂いに気づいた。

 土の匂いに混じって、薄い腐臭がある。

「止まれ」

 低く言うと、湊がすぐに足を止めた。

 細道の先、木立の隙間に人の背が見える。

 座っているように見えた。

 朔真は山鉈へ手をかけ、身を低くする。湊も鍬を握り直し、その横へしゃがむ。二人で慎重に近づいていくと、それがようやくはっきりした。

 旅人だった。

 木の根元に背を預けたまま、動かない。肩には裂けた荷袋。足元には散った握り飯の欠片。顔色は悪い。だが、もう死んでいるというより、乾いて固まっているように見えた。

「逃げてきたやつか」

 湊が囁く。

 朔真は頷かなかった。

 違和感があった。

 死体にしては、姿勢が整いすぎている。

 その時、旅人の首が、ぎり、と鳴った。

 湊が息を呑む。

 俯いていた顔が、ゆっくりこちらへ向いた。目は半ば落ちくぼみ、口元には土が詰まっている。それなのに、両腕だけが不自然なくらい丁寧に膝の上へ揃えられていた。誰かが座らせたみたいに。

「下がれ!」

 朔真が叫ぶより先に、旅人の身体が立ち上がった。

 立つというより、背骨を一本ずつ糸で引かれたような動きだった。膝が逆に折れ、次の瞬間には跳ぶ。速い。山鉈を抜き、朔真は正面から受けた。刃と骨がぶつかる嫌な感触が腕へ返る。

 軽い。

 だが軽すぎる。

 肉が少ない。人を斬っている手応えが、ほとんどない。

 横から湊が鍬を振るった。旅人の脚を払う。体勢が崩れたところへ、朔真が肩口を裂く。骨が見える。けれど旅人は倒れない。傷口から黒い泥みたいなものをこぼしながら、なお北へ身体を向けようとする。

「……また北に向かってるのかよ!」

 湊が怒鳴る。

 その怒声で、旅人の動きが一拍だけ鈍った。

 朔真は踏み込む。今度は首を狙う。刃が半ばまで入る。そこで止まった。骨が噛む。旅人の両手が伸び、朔真の喉を掴みにくる。

 近い。

 その口元から、かすかな音が漏れた。

「……つ、む……」

 朔真の眉が寄る。もう一度、口が動く。

「……つ、ん……で」

 積んで。

 そう聞こえた瞬間、旅人の肩へ力が入った。

 朔真は反射で山鉈を引き、膝で腹を蹴り飛ばす。転がった身体へ跨り、喉元を押さえつけた。

「何をだ」

 聞き返している自分に、朔真は一瞬だけ驚いた。

 返事があるはずもない相手に。

 だが旅人の口は、まだ微かに動いていた。

「……つん、で。。。……かえ、れ……ない」

 土と血に濁った声だった。

 もう意味を持つほどの意識は残っていないはずなのに、その二つの音だけが妙にはっきり耳に刺さる。

 湊が横で息を殺していた。

「何て……」

「知らねえ」

 そう答えながらも、朔真の胸の奥に嫌なものが沈んでいく。

 この辺りでは、死者はただ起き上がるだけじゃない。

 何か目的をもって北へ向かっている。

 旅人の爪が、まだ朔真の袖を掴もうとする。

 その必死さが、人を襲うためというより、別のどこかへ行かなければならないように見えてしまった。

 喉の奥から、自然に音が零れる。

「……ほどけ」

 前の二度より、少しだけはっきりした声だった。

「もう動かなくていい。人の死として、ここで止まれ」

 言い終わると、旅人の目が、ほんの一瞬だけ焦点を取り戻した気がした。

 それから、掴もうとしていた指先から力が抜ける。

 湊が息を呑む。

「止まった……」

 朔真はすぐには立たなかった。

 旅人の乱れた腕を胸の上へ揃え、落ちていた荷袋を抱かせるように置く。そうしてからようやく身体を離す。

 湊が、妙な顔でそれを見ていた。

「……お前、毎回そうすんのか」

「毎回じゃねえ」

「でも今、考えずにやっただろ」

「身体が勝手に動いただけだ」

「それを普通は考えずにやらねえんだよ」

 吐き捨てるみたいに言って、湊は旅人の足元へ落ちた握り飯の欠片を拾った。乾いて、泥を吸って、もう食べ物には見えない。

「逃げる途中だったんだろうな」

 その声には、昨夜より少しだけ他人への重さが混じっていた。

 朔真は周囲を見た。

 木の枝に、布切れがいくつも結ばれている。道しるべのつもりだったのだろう。だが近づいてみると、その何本かには布ではなく、髪が混じっていた。

 湊も気づいて、顔をしかめる。

「……なんだよ、これ」

 答えはない。

 ただ風が吹くたび、髪と布が絡んで鳴った。


     ◇


 昼を回る頃には、道の様子がもっと露骨におかしくなった。

 石が白い。

 最初は山肌の色かと思った。だが違う。近づくと、それは石じゃなく、骨だった。古いもの、新しいもの、獣のもの、人のもの。それが土に半ば埋まり、踏めば乾いた音を返す。

 木々の根元には小さな石積みがあった。誰かが死者を埋めきれず、せめて獣に食わせまいとして積んだものだろう。けれどその石の間から、たまに白い指が覗いていた。

 湊の歩みが遅くなる。

 石積みの一つの前で、とうとう足を止めた。

 小さな草履があった。

 片方だけ。子どものものだ。

「……小夜のじゃない」

 誰に言うでもなく、湊が呟く。

「分かってる」

 朔真が返すと、湊は悔しそうに鼻を鳴らした。

「分かってても、似てると駄目なんだよ」

 その言い方が、少しだけ小春を思わせた。

 名前を呼ぶでもなく、そこにいない誰かへ先に言い訳してしまう感じが。

 朔真は石積みの前にしゃがみ、落ちていた草履を拾った。泥を払い、石の上へ置き直す。ついでに崩れていた石も一つだけ積み直した。

「行くぞ」

 湊は悲しそうに草履を眺めていたが、断ち切るように振り返り、また北に向かった。


     ◇


 日暮れ前、二人は崩れかけた炭焼き小屋を見つけた。

 壁は半分抜け、屋根も落ちかけている。だが風をしのぐには十分だった。湊が枯れ枝を集め、朔真が火を起こす。火がつくと、小屋の中にようやく人間の色が戻る。

 湊は懐から、小夜の形見の薬草袋を取り出した。

 手のひらに乗るほどの大きさで、縫い目は荒い。幼い手で作ったものだと分かる。

「小夜のだ」

 火を見ながら、湊が言う。

「熱が出るたび、母さんがこれ持たせてた。山椒と何かが入ってて、匂い嗅ぐと少し楽になるって」

 布袋を握る指先に、力が入る。

「俺、小夜が死んじまうあの日、自分だけ逃げようか迷ったんだよ」

 朔真は黙っていた。

「抱えてく余裕なんかないって、分かってたし、熱あるし、足も遅いし、村のやつらも急げって言うし…だから一回、本気で置いてく気だった。

 でも、これが懐に入ってるのに気づいて、小夜を置いて逃げるの、違うだろって思って……戻った」

 最後言葉が、ひどく重かった。


 朔真は火の向こうで山鉈の刃を布で拭っていた手を止める。

 その感覚は分かる、と言うのは簡単だ。

 だが分かると言ったところで、湊が軽くなるわけでもない。

 だから少し考えてから、短く言った。

「戻ってよかったとは、まだ言えねえ」

 湊が顔を上げる。

「でも、戻らなかったらもっと駄目だったんだろうな」

 火が、ぱき、と弾けた。

 湊はしばらく何も言わなかった。

 やがて小さく笑ったような、泣きそうになったような顔で、鼻をすすった。

「お前、慰めるとかしねぇのな」

「優しいこと言う柄じゃねえ」

「そこはちょっと言えよ」

「無理だ」

 そのやり取りで、ほんの一瞬だけ小屋の中に生きた空気が戻る。

 湊は薬草袋を握り直し、火へ向かって低く呟いた。

「小夜、俺、北まで行く。今度こそ途中で逃げねえ」

 それは誓いの形をしていた。

 朔真はそれ以上口を挟まなかった。


     ◇


 夜を越える前に、もう一度だけ動くことにしたのは、骨の音が近すぎたからだった。

 小屋の中にいても聞こえる。

 ざり、ざり、と乾いた擦過音。風の音に紛れるほど小さいのに、止まる気配がない。何か巨大なものが、土の下で身じろぎしているみたいだった。

「寝てる場合じゃねえな」

 湊が立ち上がる。

 朔真も火を踏み消し、外へ出た。

 薄い霧が落ち始めている。

 二人は音の方角へ進んだ。やがて木々が途切れ、斜面の縁へ出る。

 そこで、湊が息を止めた。

 朔真も止まる。

 谷が、開けていた。

 いや、谷と呼んでいいのか分からない。

 底が見えないほど広い窪地の一面に、白いものが散っている。石ではない。骨だ。人の骨、獣の骨、判別のつかないものまで、黒泥の中へ幾層にも沈み、折り重なっている。

 その中央に、柱があった。

 斜めに地から突き出た、巨大な骨の柱。

 肋骨、指、歯、長い背骨の断片が半ば埋まり合い、一本の柱の形を無理やり作っている。夜霧の中でそこだけが鈍く白く、まるで山そのものが墓になったみたいだった。

 近くもないのに、骨と骨が擦れる音が聞こえる。

 ざり、ざり、と。

 谷の底を見下ろせば、ところどころで土が脈打っていた。盛り上がり、沈み、また盛り上がる。まるで地面の下に埋めたもの全部が、北へ寄っていこうとしているみたいに。

「……あれか」

 湊の声は、ほとんど息だった。

 朔真は答えない。

 谷の中央、骨柱の根元近くで、ひときわ大きな影が動いたからだ。

 四足に近い。

 背には墓石みたいな骨板が並び、身じろぎするたび地面の白を吸い上げて、その巨体へ継ぎ足していく。顔は見えない。見えないのに、一瞬だけこちらを向いた気がした。

 その輪郭が、ひどく嫌な形に揺れる。

 小さな顔にも、女の横顔にも見えた。

 見間違いだと分かるのに、心臓だけが先に冷える。

 湊が鍬の柄を握る音がした。

「……笑えねえ」

「笑う場所じゃねえ」

 朔真は山鉈へ手をかけた。

 柄の感触が、妙に冷たい。

 けれど目は逸らさない。

 あの柱がある限り、土へ戻したはずのものまでまた起こされる。湊の妹も、村の死者も、いずれ全部あそこへ引かれる。

 そう分かってしまった。

「戻るか」

 湊が訊く。その声は震えていたが、逃げたい響きではなかった。

 朔真は谷を見たまま答える。

「戻らねえ」

「……だよな」

「だが、今日は下りない。ここから先は、踏み方を間違えると埋まる」

 湊が小さく頷く。

 その時、谷の底から低い音が響いた。

 吠え声にも、呻きにも聞こえる。

 骨柱のそばの巨影が、ゆっくりと頭を持ち上げる。

 それに合わせて、谷のあちこちの土が一斉に脈打った。

 まるで、歓迎するみたいに。


 朔真は息を吐く。

「……明日だ」

 そう言って自分の中の覚悟を決めていた。

 あそこへ下りる。復讐をするためだけではない。これからの犠牲を終わらせるために。

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