骨鳴りの谷
山の朝は、肺が痛くなるほどに冷たく、そして不自然なほどに「乾いて」いた。
本来、この季節の夜明けは、立ち込める朝霧が草木を濡らし、土からは生命が腐敗してまた循環していく、湿った力強い匂いがするはずだった。だが、北へ――「骸の柱」が座する領域へ足を踏み入れるほどに、万物がその瑞々しさを失っていく。
木々の葉は緑を保ったまま、指で触れれば粉々に砕けそうなほど脆く、風に揺れる音もどこか硬い。まるで、世界そのものが生気を吸い上げられ、巨大な「干からびた標本」へと作り変えられているかのようだった。
「正面は崩れてる。こっち」
鍬の先で、獣道より少し広い程度の細道を示す。
先を行く湊が、掠れた声で道を指し示す。
彼は昨夜、一睡もしていない。手には小夜の形見である薬草袋を握りしめ、その指先は白く震えていた。それでも彼の瞳には、絶望を通り越した「執念」が宿っている。
朔真は何も言わず、その後を追う。
父・直継から譲り受けた鉈は、三ヶ月間の修行と、昨夜の死闘を経て、以前よりもずっと重く、馴染んでいる。
かつてはただの薪割りの道具だったものが、いまでは家族を奪った者たちを斬るための道具になっている。
だが今は憎しみだけではない。
昨夜、湊の妹弔った時の、あの微かな手の感触。
刃が肉を裂く手応えではなく、何重にも絡みついた「命令(呪い)」が解け、死者がようやく死者として、ただ土に還っていく、あの静かな解放感。
それが、朔真の指先に「弔う者の重み」を刻んでいた。
二人分の足音だけが、枯れた下草の上を掠めていくなか、しばらくして、湊が唐突に口を開いた。
「小夜さ」
朔真は前を見たまま返す。
「何だ」
「熱があるくせに、雪が見たいってうるさかった」
湊は笑ったわけでもないのに、語尾だけが少し揺れた。
「うちの村、あんまり積もらねえんだ。山の上だけ白くなって、それで終わりで。
だから、春になったら北の方まで連れてってやるって言ってた」
言い終わってから、自分で舌打ちする。
「……馬鹿みたいだな。春なんか待たなくても連れてけばよかった」
朔真は返事をしなかった。
返す言葉が見つからないのではない。見つかっても、軽くなる気がしないからだ。
代わりに、前方の匂いに気づいた。
土の匂いに混じって、薄い腐臭がある。
「止まれ」
低く言うと、湊がすぐに足を止めた。
細道の先、木立の隙間に人の背が見える。
座っているように見えた。
朔真は山鉈へ手をかけ、身を低くする。湊も鍬を握り直し、その横へしゃがむ。二人で慎重に近づいていくと、それがようやくはっきりした。
旅人だった。
木の根元に背を預けたまま、動かない。肩には裂けた荷袋。足元には散った握り飯の欠片。顔色は悪い。だが、もう死んでいるというより、乾いて固まっているように見えた。
「逃げてきたやつか」
湊が囁く。
朔真は頷かなかった。
違和感があった。
死体にしては、姿勢が整いすぎている。
その時、旅人の首が、ぎり、と鳴った。
湊が息を呑む。
俯いていた顔が、ゆっくりこちらへ向いた。目は半ば落ちくぼみ、口元には土が詰まっている。それなのに、両腕だけが不自然なくらい丁寧に膝の上へ揃えられていた。誰かが座らせたみたいに。
「下がれ!」
朔真が叫ぶより先に、旅人の身体が立ち上がった。
立つというより、背骨を一本ずつ糸で引かれたような動きだった。膝が逆に折れ、次の瞬間には跳ぶ。速い。山鉈を抜き、朔真は正面から受けた。刃と骨がぶつかる嫌な感触が腕へ返る。
軽い。
だが軽すぎる。
肉が少ない。人を斬っている手応えが、ほとんどない。
横から湊が鍬を振るった。旅人の脚を払う。体勢が崩れたところへ、朔真が肩口を裂く。骨が見える。けれど旅人は倒れない。傷口から黒い泥みたいなものをこぼしながら、なお北へ身体を向けようとする。
「……また北に向かってるのかよ!」
湊が怒鳴る。
その怒声で、旅人の動きが一拍だけ鈍った。
朔真は踏み込む。今度は首を狙う。刃が半ばまで入る。そこで止まった。骨が噛む。旅人の両手が伸び、朔真の喉を掴みにくる。
近い。
その口元から、かすかな音が漏れた。
「……つ、む……」
朔真の眉が寄る。もう一度、口が動く。
「……つ、ん……で」
積んで。
そう聞こえた瞬間、旅人の肩へ力が入った。
朔真は反射で山鉈を引き、膝で腹を蹴り飛ばす。転がった身体へ跨り、喉元を押さえつけた。
「何をだ」
聞き返している自分に、朔真は一瞬だけ驚いた。
返事があるはずもない相手に。
だが旅人の口は、まだ微かに動いていた。
「……つん、で。。。……かえ、れ……ない」
土と血に濁った声だった。
もう意味を持つほどの意識は残っていないはずなのに、その二つの音だけが妙にはっきり耳に刺さる。
湊が横で息を殺していた。
「何て……」
「知らねえ」
そう答えながらも、朔真の胸の奥に嫌なものが沈んでいく。
この辺りでは、死者はただ起き上がるだけじゃない。
何か目的をもって北へ向かっている。
旅人の爪が、まだ朔真の袖を掴もうとする。
その必死さが、人を襲うためというより、別のどこかへ行かなければならないように見えてしまった。
喉の奥から、自然に音が零れる。
「……ほどけ」
前の二度より、少しだけはっきりした声だった。
「もう動かなくていい。人の死として、ここで止まれ」
言い終わると、旅人の目が、ほんの一瞬だけ焦点を取り戻した気がした。
それから、掴もうとしていた指先から力が抜ける。
湊が息を呑む。
「止まった……」
朔真はすぐには立たなかった。
旅人の乱れた腕を胸の上へ揃え、落ちていた荷袋を抱かせるように置く。そうしてからようやく身体を離す。
湊が、妙な顔でそれを見ていた。
「……お前、毎回そうすんのか」
「毎回じゃねえ」
「でも今、考えずにやっただろ」
「身体が勝手に動いただけだ」
「それを普通は考えずにやらねえんだよ」
吐き捨てるみたいに言って、湊は旅人の足元へ落ちた握り飯の欠片を拾った。乾いて、泥を吸って、もう食べ物には見えない。
「逃げる途中だったんだろうな」
その声には、昨夜より少しだけ他人への重さが混じっていた。
朔真は周囲を見た。
木の枝に、布切れがいくつも結ばれている。道しるべのつもりだったのだろう。だが近づいてみると、その何本かには布ではなく、髪が混じっていた。
湊も気づいて、顔をしかめる。
「……なんだよ、これ」
答えはない。
ただ風が吹くたび、髪と布が絡んで鳴った。
◇
昼を回る頃には、道の様子がもっと露骨におかしくなった。
石が白い。
最初は山肌の色かと思った。だが違う。近づくと、それは石じゃなく、骨だった。古いもの、新しいもの、獣のもの、人のもの。それが土に半ば埋まり、踏めば乾いた音を返す。
木々の根元には小さな石積みがあった。誰かが死者を埋めきれず、せめて獣に食わせまいとして積んだものだろう。けれどその石の間から、たまに白い指が覗いていた。
湊の歩みが遅くなる。
石積みの一つの前で、とうとう足を止めた。
小さな草履があった。
片方だけ。子どものものだ。
「……小夜のじゃない」
誰に言うでもなく、湊が呟く。
「分かってる」
朔真が返すと、湊は悔しそうに鼻を鳴らした。
「分かってても、似てると駄目なんだよ」
その言い方が、少しだけ小春を思わせた。
名前を呼ぶでもなく、そこにいない誰かへ先に言い訳してしまう感じが。
朔真は石積みの前にしゃがみ、落ちていた草履を拾った。泥を払い、石の上へ置き直す。ついでに崩れていた石も一つだけ積み直した。
「行くぞ」
湊は悲しそうに草履を眺めていたが、断ち切るように振り返り、また北に向かった。
◇
日暮れ前、二人は崩れかけた炭焼き小屋を見つけた。
壁は半分抜け、屋根も落ちかけている。だが風をしのぐには十分だった。湊が枯れ枝を集め、朔真が火を起こす。火がつくと、小屋の中にようやく人間の色が戻る。
湊は懐から、小夜の形見の薬草袋を取り出した。
手のひらに乗るほどの大きさで、縫い目は荒い。幼い手で作ったものだと分かる。
「小夜のだ」
火を見ながら、湊が言う。
「熱が出るたび、母さんがこれ持たせてた。山椒と何かが入ってて、匂い嗅ぐと少し楽になるって」
布袋を握る指先に、力が入る。
「俺、小夜が死んじまうあの日、自分だけ逃げようか迷ったんだよ」
朔真は黙っていた。
「抱えてく余裕なんかないって、分かってたし、熱あるし、足も遅いし、村のやつらも急げって言うし…だから一回、本気で置いてく気だった。
でも、これが懐に入ってるのに気づいて、小夜を置いて逃げるの、違うだろって思って……戻った」
最後言葉が、ひどく重かった。
朔真は火の向こうで山鉈の刃を布で拭っていた手を止める。
その感覚は分かる、と言うのは簡単だ。
だが分かると言ったところで、湊が軽くなるわけでもない。
だから少し考えてから、短く言った。
「戻ってよかったとは、まだ言えねえ」
湊が顔を上げる。
「でも、戻らなかったらもっと駄目だったんだろうな」
火が、ぱき、と弾けた。
湊はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく笑ったような、泣きそうになったような顔で、鼻をすすった。
「お前、慰めるとかしねぇのな」
「優しいこと言う柄じゃねえ」
「そこはちょっと言えよ」
「無理だ」
そのやり取りで、ほんの一瞬だけ小屋の中に生きた空気が戻る。
湊は薬草袋を握り直し、火へ向かって低く呟いた。
「小夜、俺、北まで行く。今度こそ途中で逃げねえ」
それは誓いの形をしていた。
朔真はそれ以上口を挟まなかった。
◇
夜を越える前に、もう一度だけ動くことにしたのは、骨の音が近すぎたからだった。
小屋の中にいても聞こえる。
ざり、ざり、と乾いた擦過音。風の音に紛れるほど小さいのに、止まる気配がない。何か巨大なものが、土の下で身じろぎしているみたいだった。
「寝てる場合じゃねえな」
湊が立ち上がる。
朔真も火を踏み消し、外へ出た。
薄い霧が落ち始めている。
二人は音の方角へ進んだ。やがて木々が途切れ、斜面の縁へ出る。
そこで、湊が息を止めた。
朔真も止まる。
谷が、開けていた。
いや、谷と呼んでいいのか分からない。
底が見えないほど広い窪地の一面に、白いものが散っている。石ではない。骨だ。人の骨、獣の骨、判別のつかないものまで、黒泥の中へ幾層にも沈み、折り重なっている。
その中央に、柱があった。
斜めに地から突き出た、巨大な骨の柱。
肋骨、指、歯、長い背骨の断片が半ば埋まり合い、一本の柱の形を無理やり作っている。夜霧の中でそこだけが鈍く白く、まるで山そのものが墓になったみたいだった。
近くもないのに、骨と骨が擦れる音が聞こえる。
ざり、ざり、と。
谷の底を見下ろせば、ところどころで土が脈打っていた。盛り上がり、沈み、また盛り上がる。まるで地面の下に埋めたもの全部が、北へ寄っていこうとしているみたいに。
「……あれか」
湊の声は、ほとんど息だった。
朔真は答えない。
谷の中央、骨柱の根元近くで、ひときわ大きな影が動いたからだ。
四足に近い。
背には墓石みたいな骨板が並び、身じろぎするたび地面の白を吸い上げて、その巨体へ継ぎ足していく。顔は見えない。見えないのに、一瞬だけこちらを向いた気がした。
その輪郭が、ひどく嫌な形に揺れる。
小さな顔にも、女の横顔にも見えた。
見間違いだと分かるのに、心臓だけが先に冷える。
湊が鍬の柄を握る音がした。
「……笑えねえ」
「笑う場所じゃねえ」
朔真は山鉈へ手をかけた。
柄の感触が、妙に冷たい。
けれど目は逸らさない。
あの柱がある限り、土へ戻したはずのものまでまた起こされる。湊の妹も、村の死者も、いずれ全部あそこへ引かれる。
そう分かってしまった。
「戻るか」
湊が訊く。その声は震えていたが、逃げたい響きではなかった。
朔真は谷を見たまま答える。
「戻らねえ」
「……だよな」
「だが、今日は下りない。ここから先は、踏み方を間違えると埋まる」
湊が小さく頷く。
その時、谷の底から低い音が響いた。
吠え声にも、呻きにも聞こえる。
骨柱のそばの巨影が、ゆっくりと頭を持ち上げる。
それに合わせて、谷のあちこちの土が一斉に脈打った。
まるで、歓迎するみたいに。
朔真は息を吐く。
「……明日だ」
そう言って自分の中の覚悟を決めていた。
あそこへ下りる。復讐をするためだけではない。これからの犠牲を終わらせるために。




