積まれる死
夜が明ける前に、朔真は目を覚ました。
炭焼き小屋の屋根は半ば落ちていて、東の空の白みが梁の隙間から細く差している。
火はとっくに消えていたが、灰の下にわずかな温みだけが残っていた。
外は、妙に静かだった。
昨日まで谷の底から絶えず聞こえていた骨の擦れる音が、今は遠い。
消えたわけではない。ただ、何かが息を潜めている時の遠さだった。
朔真は起き上がり、脛の布を締め直した。
向かいでは、湊がもう起きていた。
鍬の刃先を砥石で擦っている。村の農具を、怪物相手に通るよう研ごうとする手つきは不器用だったが、止める気配はなかった。
足元には小さな薬草袋が置かれている。昨夜、火の前で握っていた小夜のものだ。
「寝てねえのか」
朔真が言うと、湊は砥石を止めなかった。
「お前もだろ」
「俺は元から寝つきが悪い」
朔真は小屋の外へ出る。朝の空気は冷たいのに、肺の奥まで湿り気が入ってこない。足元の土まで、夜のうちに少し軽くなったみたいだった。
谷の縁へ目をやる。
霧は昨夜より薄い。それでも白骨の底はまだ遠く、骨柱だけが鈍く白く浮いている。
地面に斜めに突き出た巨大な墓標。あれを見ていると、山そのものが誰かを埋め損ねたまま百年経ったように思えた。
小屋から出てきた湊が、隣へ立つ。
しばらく何も言わずに谷を見下ろし、それから唐突に口を開いた。
「……今さらだけどさ」
「何だ」
「昨日、戻るかって聞いた時、、、ちょっとだけ、戻れって言ってほしかった」
朔真は横目で湊を見る。
湊は谷の方を見たままだった。目の下の隈は濃い。唇も荒れている。それでも逃げたくて言っている顔ではなかった。
「情けねえな」
「怖いに決まってんだろ」
吐き捨てるように言って、湊は自分の鍬を肩に担ぐ。
「でも、戻れって言われたら、多分もっと腹立ってた」
「面倒くせえやつだな」
「兄貴ってそういうもんだろ」
それが冗談なのか、自嘲なのか、朔真には分からなかった。
ただ、その一言で少しだけ歩きやすくなるものがあった。
「今ならまだ引き返せる」
朔真は谷を見たまま言う。
「降りたら、昨日までみたいにはいかねえ」
湊は返事をしない。
代わりに、懐から薬草袋を取り出して握り直した。
「だから行くんだろ」
それだけで足りた。
二人は朝靄の中、谷へ向かった。
◇
降り口は昨夜見つけた獣道のさらに裏だった。
岩肌の裂け目に沿って細く続く、ほとんど道とは呼べない斜面。
少し踏み外せば、そのまま黒泥へ落ちる。湊が先に下り、足を置くべき石だけを短く示す。
山に慣れた人間の動きだった。
朔真は言われた通りに下りながら、ふと昨日の旅人の言葉を思い出す。
――つんで。 ――かえれない。
意味はまだ分からない。
だが、谷へ近づくほど、その言葉だけがはっきりしていく。
やがて斜面がなだらかになり、足元の土が変わった。
柔らかい。
普通の土じゃない。泥でもない。乾いているのに沈む。踏み込むたび、靴底の下でぱき、ぱき、と細いものが折れる。
骨だ。
白い破片が、黒い土の中にいくらでも混じっている。
湊が顔をしかめた。
「最悪だな……」
その先には、小さな石積みがいくつも転がっていた。
誰かがかつて、せめて埋めようとした跡だろう。だが今はどれも半ば崩れ、積んだ石の隙間から指骨や歯が覗いている。
古い木札もいくつか刺さっていたが、文字は風化して読めなかった。
谷の奥からざり、と音がした。
二人同時に身を低くする。
骨柱の方角から、いくつもの影がこちらへではなく、横へ移動していた。
人だ、と一瞬思う。
だが次の瞬間、それが間違いだと分かった。
どれも人の形はしている。背丈もばらばらだ。老人に見えるものも、女に見えるものも、子どもじみた輪郭も混じっている。けれど全員が同じ方向へ、同じ速度で進んでいた。腕の中に何かを抱えたまま、うつむき、ひたすら柱の方へ歩いている。
抱えているのは骨だ。
腕一本。肋骨の束。割れた頭蓋。あるいは、半ば泥にまみれた人の身体そのもの。
「……積んでる」
湊が掠れた声で言った。
朔真は答えない。
答えなくても、旅人の言葉と目の前の光景が繋がってしまったからだ。
死者が死者を運んでいる。
突然列の最後尾にいた女の死体が、不意に首だけこちらへ向けた。
目は腐り、片頬の肉も削げている。けれど笑ったように見えた。
「伏せろ!」
朔真が湊の頭を押し下げた瞬間、女が走った。
速い。
正面からではない。斜めへ跳び、泥を蹴り上げながらこちらへ滑ってくる。抱えていた骨を投げ捨て、両手を伸ばす。狙いは首だ。
朔真は山鉈を抜いた。
肩口へ一閃。骨に当たる。浅い。止まらない。女の爪が頬を掠める。横から湊が鍬を差し込んだ。足を払うつもりだったのだろう。だが柔らかい土に刃が沈み、半端に止まる。
その隙に、後ろの列が全部こちらを向いた。
ざり、と。
同時に音が変わる。
いままで骨を積むためだけに動いていたものが、一斉に“邪魔を排すため”の形へ切り替わった。
「来るぞ!」
朔真が叫ぶ。
最初の女の喉元へ膝を入れ、泥へ押し倒す。山鉈を振り下ろす。首が半ば裂ける。だが土に沈んだ白骨がそのまま跳ね上がり、切れた首筋へ噛み合っていく。
再構成。
思った瞬間、足首へ何かが絡んだ。
骨だ。
泥の下から手首だけが伸びて、朔真の脚を掴んでいる。もう一本。さらに一本。死んだままの指が、埋もれた下からいくらでも這い上がる。
「っ、くそ……!」
湊が鍬の柄でそれを叩き潰す。
後ろから来た男の死体が、その肩へ噛みつこうとしていた。
朔真は手近な石を掴み、投げるとこめかみに当たった。男の頭が揺れた一拍ぶんで、湊が鍬の石突きを喉へ突き込んだ。
けれどその背中へ、さらに別の死体が乗り上がる。
数が多い。
しかも全部、ただこちらを喰おうとしているわけじゃない。柱へ戻ろうとしながら、進路を塞ぐ二人だけを排除しようとしてくる。
朔真はひとつ息を呑み、目の前の老婆の首筋へ刃を当てた。
このまま斬ってもまた繋がる。
なら――。
「……ほどけ」
言葉を落とす。
昨日までより深く、低く。
「積まれるな。使われたまま歩くな。人の死として、ここで止まれ」
山鉈を引く。
今度は、ただ切るのではなく、首と肩の繋ぎ目を狙った。刃が通った瞬間、老婆の輪郭がわずかに揺れる。
骨の継ぎ目がばらけ、土色の皮膚の下に、黒い泥が見えた。
その一拍だけ、動きが止まる。
「今だ、湊!」
湊は意味を考えないまま動いた。
鍬の柄で老婆の胸を押し返す。泥へ倒れ込んだ身体が、そこでようやく人の形を保てなくなる。骨が散り、土の中へ沈もうとした。
だが、沈む先が柱の方向へ引かれている。
朔真の眉が寄った。
「戻るな……!」
叫ぶより先に、倒れた死体の上へ白い布が走った。
風でもないのに、細い白が空を裂く。
その布が散った骨へかかると、引かれていた黒泥の流れが一瞬だけ途切れた。
朔真が息を呑む。
斜面の方に、濃紺の影が立っていた。
白布を指に絡め、短刀を下げたまま、こちらを見ている。
「……鈴」
なぜここに来た、と言葉を続けようとしたが、その先は言葉が出なかった。
鈴は新しく走ってきた二体の死者の前へ音もなく入り、その膝裏だけを正確に切った。体勢が崩れたところへ白布を巻きつけ、喉元を締めるようにして泥へ伏せさせる。
殺しているのではない。
留めている。
「解しただけじゃ、戻る」
鈴が短く言った。
平坦な声だ。けれど息は少し荒い。
「どうゆうことだ?」
朔真が問うと、鈴は一瞬だけこちらを見た。
「あなた一人じゃ、完全に弔うことは無理」
何を考えているのかわからない、感情のない声だったが、この場では敵ではないことだけがわかった。
鈴は崩れた老婆のそばへ膝をつき、骨へ触れる。
布の端をそっと掛け、ほとんど聞き取れない低さで何かを告げる。意味は分からない。だが響きだけで、それが祈りの系統にあると知れた。
瞬間、さっきまで柱へ引かれていた骨が、黒泥の流れから切り離され、そこに留まった。
湊が目を見開いた。
「すげえ……」
「見惚れてる場合か」
鈴が言い終わる前に、地面が大きく脈打った。
谷の中央。
骨柱の根元近くで、黒泥が波立っている。
さっきまで列を作っていた死者たちが、一斉に歩みを止めた。全員が骨を抱えたまま、その場で膝を折る。いや、折らされたように見えた。
次の瞬間、地の底から低い音が響く。
吠え声とも、呻きともつかない、腹の奥を擦る音。
湊の顔から血の気が引いた。
「来る……」
骨柱の根元が、持ち上がった。
違う。
柱そのものが動いたのではない。その前に積み上がっていた骨塚が、下から押し割られている。白いものがいくつも噴き上がり、墓石みたいな骨板が並ぶ背が、泥の中からゆっくり現れた。
四足寄りの巨体。ーー骸喰。
胸から腹にかけて裂け目のような口があり、その奥で砕けた骨が軋み合っている。歩くたび、谷の底の白が吸い上げられ、巨体のどこかへ継ぎ足されていく。
顔は、定まらない。
定まらないのに、朔真が視線を固定した瞬間だけ、そこに小さな輪郭が浮いた。
小春に似ていた。
次の瞬間には、志乃の横顔に近くなる。
さらに直継の目元が混じる。
見間違いだ。分かっている。分かっているのに、身体だけが遅れる。
「朔真!」
湊の声で、辛うじて息を吸った。
巨体が、こちらを見ていた。
その巨体の下、地面の泥が盛り上がる。埋もれていた骨の手がいくつも伸び、二人と一人の足首を掴もうとする。鈴が白布で一本を払い、朔真が別の一本を蹴り砕く。だが数が多い。
骸喰が一歩、踏み出した。
それだけで谷の底が沈む。
湊が鍬を握る手を震わせた。
「……あれ、小夜じゃないよな」
問いではなかった。
祈りに近い、否定の確認だった。
骸喰の顔はまた揺れる。今度は、本当に小さな子どもの面差しに寄る。
湊の膝が笑った。
その一瞬の揺らぎを見て、骸喰の腹が裂けた。
噛みつく。
朔真は反射で湊を突き飛ばした。自分が前へ出る。山鉈で受ける。衝撃が腕を貫き、骨が軋む。重い。昨日まで相手にしていた死人とは、重さの質が違う。押し潰される。墓の下へそのまま埋め込まれそうな重みだ。
喉の奥で、複数の声が鳴る。
女の声。子どもの声。老人の声。
帰りたい、寒い、痛い、積まれる、まだ、まだ。
声が多すぎて、頭が割れそうだった。
「っ……」
膝が沈む。
黒泥が足首まで呑み込んでくる。
その時、横から白布が骸喰の顔へ叩きつけられた。
鈴だった。
布が巻きついた瞬間、揺れていた輪郭が一拍だけ乱れる。朔真はその隙に半歩ずれ、山鉈を引き戻す。湊が倒れたままの姿勢から鍬を振り上げ、骸喰の前脚へ叩き込んだ。浅い。だが、体勢がわずかに崩れる。
鈴が低く言う。
「顔を見るな。知っている顔の幻覚を見せているだけ」
それは朔真に言ったのか、湊に言ったのか分からない。
ただ、その言葉でようやく、目の前の揺らぎが“家族”ではなく“そう見せている何か”へ戻る。
朔真は泥の中で踏ん張った。
息を吸う。
骨と腐臭と土の臭いが肺を焼く。
それでも、今度ははっきり分かった。
斬るべきなのは、顔じゃない。似せている場所だ。
骸喰の胸の奥で、さっきから子どもの声だけが妙に近い。
そこが継ぎ目だと。直感で感じる。
朔真は山鉈を握り直し、泥を蹴った。
「湊、下がれ!」
鈴は白布を握ったまま、骸喰と朔真の間合いを見ていた。
「次で止める」
朔真は頷いた。言葉はいらなかった。
骸喰が再び踏み込み、腹の裂け目を大きく開く。鈴の白布が走る。骨板の隙間へ絡みつく。巨体がわずかに止まる。
一拍。
それで十分だった。
朔真は前へ出る。
狙うのは顔ではない。胸の奥、子どもの声が漏れる継ぎ目。
山鉈を振りかぶった、その瞬間――
骸喰の胸の裂け目から、小さな声がした。
あまりにも近く、あまりにもよく知っている響きで。
朔真の呼吸が、止まった。
「……兄ちゃん」
それは、小春の声に似すぎていた。
刃が、止まる。
止まってしまった自分を、朔真は次の瞬間に呪った。
骸喰の巨体が、こちらへ覆いかぶさる。
黒泥が跳ね、白骨が空へ散った。




