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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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8/8

積まれる死

 夜が明ける前に、朔真は目を覚ました。

 炭焼き小屋の屋根は半ば落ちていて、東の空の白みが梁の隙間から細く差している。

 火はとっくに消えていたが、灰の下にわずかな温みだけが残っていた。

 外は、妙に静かだった。

 昨日まで谷の底から絶えず聞こえていた骨の擦れる音が、今は遠い。

 消えたわけではない。ただ、何かが息を潜めている時の遠さだった。

 朔真は起き上がり、脛の布を締め直した。

 向かいでは、湊がもう起きていた。

 鍬の刃先を砥石で擦っている。村の農具を、怪物相手に通るよう研ごうとする手つきは不器用だったが、止める気配はなかった。

 足元には小さな薬草袋が置かれている。昨夜、火の前で握っていた小夜のものだ。

「寝てねえのか」

 朔真が言うと、湊は砥石を止めなかった。

「お前もだろ」

「俺は元から寝つきが悪い」

 朔真は小屋の外へ出る。朝の空気は冷たいのに、肺の奥まで湿り気が入ってこない。足元の土まで、夜のうちに少し軽くなったみたいだった。

 谷の縁へ目をやる。

 霧は昨夜より薄い。それでも白骨の底はまだ遠く、骨柱だけが鈍く白く浮いている。

 地面に斜めに突き出た巨大な墓標。あれを見ていると、山そのものが誰かを埋め損ねたまま百年経ったように思えた。

 小屋から出てきた湊が、隣へ立つ。

 しばらく何も言わずに谷を見下ろし、それから唐突に口を開いた。

「……今さらだけどさ」

「何だ」

「昨日、戻るかって聞いた時、、、ちょっとだけ、戻れって言ってほしかった」

 朔真は横目で湊を見る。

 湊は谷の方を見たままだった。目の下の隈は濃い。唇も荒れている。それでも逃げたくて言っている顔ではなかった。

「情けねえな」

「怖いに決まってんだろ」

 吐き捨てるように言って、湊は自分の鍬を肩に担ぐ。

「でも、戻れって言われたら、多分もっと腹立ってた」

「面倒くせえやつだな」

「兄貴ってそういうもんだろ」

 それが冗談なのか、自嘲なのか、朔真には分からなかった。

 ただ、その一言で少しだけ歩きやすくなるものがあった。

「今ならまだ引き返せる」

 朔真は谷を見たまま言う。

「降りたら、昨日までみたいにはいかねえ」

 湊は返事をしない。

 代わりに、懐から薬草袋を取り出して握り直した。

「だから行くんだろ」

 それだけで足りた。

 二人は朝靄の中、谷へ向かった。


     ◇


 降り口は昨夜見つけた獣道のさらに裏だった。

 岩肌の裂け目に沿って細く続く、ほとんど道とは呼べない斜面。

 少し踏み外せば、そのまま黒泥へ落ちる。湊が先に下り、足を置くべき石だけを短く示す。

 山に慣れた人間の動きだった。

 朔真は言われた通りに下りながら、ふと昨日の旅人の言葉を思い出す。

 ――つんで。  ――かえれない。

 意味はまだ分からない。

 だが、谷へ近づくほど、その言葉だけがはっきりしていく。

 やがて斜面がなだらかになり、足元の土が変わった。

 柔らかい。

 普通の土じゃない。泥でもない。乾いているのに沈む。踏み込むたび、靴底の下でぱき、ぱき、と細いものが折れる。

 骨だ。

 白い破片が、黒い土の中にいくらでも混じっている。

 湊が顔をしかめた。

「最悪だな……」

 その先には、小さな石積みがいくつも転がっていた。

 誰かがかつて、せめて埋めようとした跡だろう。だが今はどれも半ば崩れ、積んだ石の隙間から指骨や歯が覗いている。

 古い木札もいくつか刺さっていたが、文字は風化して読めなかった。

 

 谷の奥からざり、と音がした。

 二人同時に身を低くする。

 骨柱の方角から、いくつもの影がこちらへではなく、横へ移動していた。

 人だ、と一瞬思う。

 だが次の瞬間、それが間違いだと分かった。

 どれも人の形はしている。背丈もばらばらだ。老人に見えるものも、女に見えるものも、子どもじみた輪郭も混じっている。けれど全員が同じ方向へ、同じ速度で進んでいた。腕の中に何かを抱えたまま、うつむき、ひたすら柱の方へ歩いている。

 抱えているのは骨だ。

 腕一本。肋骨の束。割れた頭蓋。あるいは、半ば泥にまみれた人の身体そのもの。

「……積んでる」

 湊が掠れた声で言った。

 朔真は答えない。

 答えなくても、旅人の言葉と目の前の光景が繋がってしまったからだ。

 死者が死者を運んでいる。

 突然列の最後尾にいた女の死体が、不意に首だけこちらへ向けた。

 目は腐り、片頬の肉も削げている。けれど笑ったように見えた。

「伏せろ!」

 朔真が湊の頭を押し下げた瞬間、女が走った。

 速い。

 正面からではない。斜めへ跳び、泥を蹴り上げながらこちらへ滑ってくる。抱えていた骨を投げ捨て、両手を伸ばす。狙いは首だ。

 朔真は山鉈を抜いた。

 肩口へ一閃。骨に当たる。浅い。止まらない。女の爪が頬を掠める。横から湊が鍬を差し込んだ。足を払うつもりだったのだろう。だが柔らかい土に刃が沈み、半端に止まる。

 その隙に、後ろの列が全部こちらを向いた。

 ざり、と。

 同時に音が変わる。

 いままで骨を積むためだけに動いていたものが、一斉に“邪魔を排すため”の形へ切り替わった。

「来るぞ!」

 朔真が叫ぶ。

 最初の女の喉元へ膝を入れ、泥へ押し倒す。山鉈を振り下ろす。首が半ば裂ける。だが土に沈んだ白骨がそのまま跳ね上がり、切れた首筋へ噛み合っていく。

 再構成。

 思った瞬間、足首へ何かが絡んだ。

 骨だ。

 泥の下から手首だけが伸びて、朔真の脚を掴んでいる。もう一本。さらに一本。死んだままの指が、埋もれた下からいくらでも這い上がる。

「っ、くそ……!」

 湊が鍬の柄でそれを叩き潰す。

 後ろから来た男の死体が、その肩へ噛みつこうとしていた。

 朔真は手近な石を掴み、投げるとこめかみに当たった。男の頭が揺れた一拍ぶんで、湊が鍬の石突きを喉へ突き込んだ。

 けれどその背中へ、さらに別の死体が乗り上がる。

 数が多い。

 しかも全部、ただこちらを喰おうとしているわけじゃない。柱へ戻ろうとしながら、進路を塞ぐ二人だけを排除しようとしてくる。

 朔真はひとつ息を呑み、目の前の老婆の首筋へ刃を当てた。

 このまま斬ってもまた繋がる。

 なら――。

「……ほどけ」

 言葉を落とす。

 昨日までより深く、低く。

「積まれるな。使われたまま歩くな。人の死として、ここで止まれ」

 山鉈を引く。

 今度は、ただ切るのではなく、首と肩の繋ぎ目を狙った。刃が通った瞬間、老婆の輪郭がわずかに揺れる。

 骨の継ぎ目がばらけ、土色の皮膚の下に、黒い泥が見えた。

 その一拍だけ、動きが止まる。

「今だ、湊!」

 湊は意味を考えないまま動いた。

 鍬の柄で老婆の胸を押し返す。泥へ倒れ込んだ身体が、そこでようやく人の形を保てなくなる。骨が散り、土の中へ沈もうとした。

 だが、沈む先が柱の方向へ引かれている。

 朔真の眉が寄った。

「戻るな……!」

 叫ぶより先に、倒れた死体の上へ白い布が走った。

 風でもないのに、細い白が空を裂く。

 その布が散った骨へかかると、引かれていた黒泥の流れが一瞬だけ途切れた。

 朔真が息を呑む。

 斜面の方に、濃紺の影が立っていた。

 白布を指に絡め、短刀を下げたまま、こちらを見ている。

「……鈴」

 なぜここに来た、と言葉を続けようとしたが、その先は言葉が出なかった。

 鈴は新しく走ってきた二体の死者の前へ音もなく入り、その膝裏だけを正確に切った。体勢が崩れたところへ白布を巻きつけ、喉元を締めるようにして泥へ伏せさせる。

 殺しているのではない。

 留めている。

「解しただけじゃ、戻る」

 鈴が短く言った。

 平坦な声だ。けれど息は少し荒い。

「どうゆうことだ?」

 朔真が問うと、鈴は一瞬だけこちらを見た。

「あなた一人じゃ、完全に弔うことは無理」

 何を考えているのかわからない、感情のない声だったが、この場では敵ではないことだけがわかった。

 鈴は崩れた老婆のそばへ膝をつき、骨へ触れる。

 布の端をそっと掛け、ほとんど聞き取れない低さで何かを告げる。意味は分からない。だが響きだけで、それが祈りの系統にあると知れた。

 瞬間、さっきまで柱へ引かれていた骨が、黒泥の流れから切り離され、そこに留まった。

 湊が目を見開いた。

「すげえ……」

「見惚れてる場合か」

 鈴が言い終わる前に、地面が大きく脈打った。

 谷の中央。

 骨柱の根元近くで、黒泥が波立っている。

 さっきまで列を作っていた死者たちが、一斉に歩みを止めた。全員が骨を抱えたまま、その場で膝を折る。いや、折らされたように見えた。

 次の瞬間、地の底から低い音が響く。

 吠え声とも、呻きともつかない、腹の奥を擦る音。

 湊の顔から血の気が引いた。

「来る……」

 骨柱の根元が、持ち上がった。

 違う。

 柱そのものが動いたのではない。その前に積み上がっていた骨塚が、下から押し割られている。白いものがいくつも噴き上がり、墓石みたいな骨板が並ぶ背が、泥の中からゆっくり現れた。

 四足寄りの巨体。ーー骸喰。

 胸から腹にかけて裂け目のような口があり、その奥で砕けた骨が軋み合っている。歩くたび、谷の底の白が吸い上げられ、巨体のどこかへ継ぎ足されていく。

 顔は、定まらない。

 定まらないのに、朔真が視線を固定した瞬間だけ、そこに小さな輪郭が浮いた。

 小春に似ていた。

 次の瞬間には、志乃の横顔に近くなる。

 さらに直継の目元が混じる。

 見間違いだ。分かっている。分かっているのに、身体だけが遅れる。

「朔真!」

 湊の声で、辛うじて息を吸った。

 巨体が、こちらを見ていた。

 その巨体の下、地面の泥が盛り上がる。埋もれていた骨の手がいくつも伸び、二人と一人の足首を掴もうとする。鈴が白布で一本を払い、朔真が別の一本を蹴り砕く。だが数が多い。

 骸喰が一歩、踏み出した。

 それだけで谷の底が沈む。

 湊が鍬を握る手を震わせた。

「……あれ、小夜じゃないよな」

 問いではなかった。

 祈りに近い、否定の確認だった。

 骸喰の顔はまた揺れる。今度は、本当に小さな子どもの面差しに寄る。

 湊の膝が笑った。

 その一瞬の揺らぎを見て、骸喰の腹が裂けた。

 噛みつく。

 朔真は反射で湊を突き飛ばした。自分が前へ出る。山鉈で受ける。衝撃が腕を貫き、骨が軋む。重い。昨日まで相手にしていた死人とは、重さの質が違う。押し潰される。墓の下へそのまま埋め込まれそうな重みだ。

 喉の奥で、複数の声が鳴る。

 女の声。子どもの声。老人の声。

 帰りたい、寒い、痛い、積まれる、まだ、まだ。

 声が多すぎて、頭が割れそうだった。

「っ……」

 膝が沈む。

 黒泥が足首まで呑み込んでくる。

 その時、横から白布が骸喰の顔へ叩きつけられた。

 鈴だった。

 布が巻きついた瞬間、揺れていた輪郭が一拍だけ乱れる。朔真はその隙に半歩ずれ、山鉈を引き戻す。湊が倒れたままの姿勢から鍬を振り上げ、骸喰の前脚へ叩き込んだ。浅い。だが、体勢がわずかに崩れる。

 鈴が低く言う。

「顔を見るな。知っている顔の幻覚を見せているだけ」

 それは朔真に言ったのか、湊に言ったのか分からない。

 ただ、その言葉でようやく、目の前の揺らぎが“家族”ではなく“そう見せている何か”へ戻る。

 朔真は泥の中で踏ん張った。

 息を吸う。

 骨と腐臭と土の臭いが肺を焼く。

 それでも、今度ははっきり分かった。

 斬るべきなのは、顔じゃない。似せている場所だ。

 骸喰の胸の奥で、さっきから子どもの声だけが妙に近い。

 そこが継ぎ目だと。直感で感じる。

 朔真は山鉈を握り直し、泥を蹴った。

「湊、下がれ!」

 鈴は白布を握ったまま、骸喰と朔真の間合いを見ていた。

「次で止める」

 朔真は頷いた。言葉はいらなかった。

 骸喰が再び踏み込み、腹の裂け目を大きく開く。鈴の白布が走る。骨板の隙間へ絡みつく。巨体がわずかに止まる。

 一拍。

 それで十分だった。

 朔真は前へ出る。

 狙うのは顔ではない。胸の奥、子どもの声が漏れる継ぎ目。

 山鉈を振りかぶった、その瞬間――

 骸喰の胸の裂け目から、小さな声がした。

 あまりにも近く、あまりにもよく知っている響きで。

 朔真の呼吸が、止まった。

「……兄ちゃん」

 それは、小春の声に似すぎていた。

 刃が、止まる。

 止まってしまった自分を、朔真は次の瞬間に呪った。

 骸喰の巨体が、こちらへ覆いかぶさる。

 黒泥が跳ね、白骨が空へ散った。

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