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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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弔う手

どこまで走ったのか、自分でも分からなかった。

 林を抜け、斜面を滑り、倒木を跨ぎ、息が切れても止まれなかった。止まれば、さっきの光景が追いついてくる気がしたからだ。


母娘の死。

 無表情のまま振られた、れいの長刀。

 そして、その前に確かに立っていた、すずという名の少女の背中。


 朔真はようやく、大きな杉の根元で膝をついた。

 肺が焼けるみたいに痛い。頬の傷は乾きかけた血で引きつり、脛の裂け目は歩くたびに熱を持っていた。握ったままの山鉈が重い。指を開こうとしても、うまく開かなかった。


「……はっ、はぁっ、くそ……ッ!!」

 吐き捨てた声が、ひどく空っぽだった。

 守るんじゃなかった。

 あの母娘を見捨てて、最初から哭代だけを狙えばよかった。

 そうすれば、討滅隊士を斬ることもなかった。朝廷から追われることもなかった。少なくとも、何一つ守れなかったという結果だけは残らなかったかもしれない。

 だが、その考えのすぐ後ろから、別の声が追いすがる。

 それでも、見捨てられたのか。

 脳の奥で、答えがぶつかっていた。

 見捨てればよかったのか。飛び出したのが間違いだったのか。あの場で動いたことそのものが、ただの独りよがりだったのか。

 分からない。

 分からないまま、父の最期の言葉だけが浮かぶ。


『人でいろ。』と直継の言葉が頭をよぎる。

「親父……」

 人でいた結果がこれなら、そんなものは呪いに近い。

 朔真は傷口を確かめ、着物の裾を裂いて脛へ巻いた。玄理なら雑だと殴るだろう。だが今は、きつく縛って血が止まればそれでよかった。

 夜気はまだ冷たい。東の空がようやくわずかに薄むらさきへ変わり始めている。

 眠るつもりはなかった。けれど一度目を閉じた拍子に、意識が底へ落ちた。


     ◇


 目を開けた時、最初に聞こえたのは鴉の声だった。

 朔真は反射的に身体を起こし、すぐに顔をしかめた。脛が疼く。だが、眠ったのはほんのわずかな間らしかった。空はまだ朝になりきっていない。

 その時、風が匂いを運んできた。

 煙と、血と、湿った土の匂い。

 朔真は弾かれたように顔を上げ、山鉈を握り直す。息を殺し、匂いのする方へ慎重に足を進めた。


 斜面の草に残った踏み跡。折れた若枝。低い灌木に引っかかった白布の切れ端。そして、乾ききっていない血の色。

 追ううちに、山は少しずつ開けていった。

 やがて木々の切れ間から、小さな集落が見えた。

 村というには小さすぎる。五、六軒の家と、細い畑、崩れかけた土蔵。つい昨日まで人が暮らしていた温度だけが、まだかすかに残っている。

 だが今は静かだった。


 戸は半端に開き、柵は折れ、畑の畝には踏み荒らされた跡がある。地面のあちこちに血が黒くこびりつき、軒先には壊れた箕や桶が転がっていた。

 襲われたのだと、一目で分かった。

 朔真は身を低くして家々の影を抜けた。

 人の死体は見えない。

 逃げたのか、連れ去られたのか、それとも家の中にあるのか。戸口の闇が口を開けている。だが今、確かめる余裕はなかった。

 裏手の細い獣道に、引きずったような跡があったからだ。

 朔真は息を殺して進んだ。


 道は集落の裏山へ入り、やがて浅い窪地へ出た。周囲を低木に囲まれた、捨て場にも見える陰地だった。そこで朔真は足を止める。

 石の上に、死体が並んでいた。

 六つ。

 年若い者ばかりに見えた。男か女かも曖昧な、痩せた身体。人の形はしているのに、どれも何かが薄い。顔立ちは違うはずなのに、輪郭の作られ方が不自然なほど似ていた。まるで同じ手癖で何度も削った木像みたいに。

 その死体のそばに、鈴がいた。

 ひとりだった。

 昨夜の濃紺の装束は肩のあたりで裂け、白布を巻いただけの傷口にまだ赤が滲んでいる。顔色は悪い。けれど手は止まっていなかった。

 一体ずつ、死体の瞼を閉じる。

 口元の血を拭う。

 白布を胸まで掛け、指先を静かに揃える。

 その手つきが、あまりにも見覚えのあるものだった。

 直継が死者の目を閉じる時の指の置き方。

 志乃が布を掛ける時の、皺の伸ばし方。

 名も知らない村人にまでしていた、あの沈黙の手つき。

 喉の奥が焼けた。

 哭代が。

 あの夜、自分の家族を殺した側の人間が、どうしてそんな手で死者に触る。

 朔真は藪の陰に立ち尽くした。

 怒りより先に、理解できなさが来た。

 その時、鈴がひとつ息を吐いた。

 誰に向けたのでもない、ひどく小さな声だった。

「……あれさえ、いなければ」

 朔真の指が、山鉈の柄へ食い込む。

 鈴はもう一体の頬を拭い、ほとんど聞こえない声で続けた。

「使われずに済んだのに」

 そこで、朔真は思わず藪を踏み分けていた。

 葉擦れの音がした瞬間、鈴の肩が跳ねた。

 手が反射で短刀へ伸びる。だが、抜き切る前に止まった。こちらの顔を見たからだ。

 目だけが、強く細くなる。

「……なんで、あんたがここにいるの」

 朔真は答えなかった。

 足元の死体へ視線を落とし、それから鈴の手元を見る。

 白布の掛け方。指の重ね方。瞼を閉じる、あの手つき。

 見間違いようがなかった。

「……何してる」

 低すぎて、自分でも他人の声みたいだった。

 鈴は少し黙った。

「見れば分かる」

「ふざけるな」

 言いながら一歩、踏み込む。

「哭代が、そんなことするな」

 鈴の目がわずかに揺れる。

 だがすぐに消えた。

「放っておけば、獣に食われる」

「だから弔うのか」

「……死んだなら、終わらせないと」

 朔真の眉がひくりと動いた。

 同じだ、と頭のどこかが言った。

 父も母も、そうしていた。敵味方なんて関係なく、死んだなら終わらせるものだと、言葉にしなくてもそうしていた。

 その一致が、余計に許せなかった。

「お前らが殺したんだろ」

 声が軋んだ。

「村を襲って、人を攫って、家族を殺して。今さら何を――」

 鈴はすぐに返さなかった。

 代わりに、足元の亡骸の髪をそっと払う。

「この子たちは、違う」

「何が違う」

「……写し子」

 初めて聞く言葉だった。

 朔真は眉を寄せる。

「何だ、それ」

 鈴は少しだけ迷うように黙った。

 それから、吐き捨てるでもなく言う。

「哭代の手足。増やすための器。任務で死ぬための子」

 朔真は死体を見た。

 似ているのに、似すぎている顔。薄い輪郭。人の形をしているのに、どこか空洞みたいな気配。

「人じゃねえって言うのか」

「そうは言ってない」

 鈴の返答は短い。

「だから、終わらせてる」

 その声は平らだったが、どこか硬く割れていた。

 朔真はさっきの言葉を思い出す。

 ――あれさえ、いなければ。

「さっきの、あれさえいなければというのは、どういう意味だ」

 鈴は答えない。

 答えないまま立ち上がり、朔真と一定の間合いを取った。警戒は解いていない。逃げるか、斬るか、まだ決めていない目だった。

「……前のあんたなら、もう斬ってた」

 昨夜のことを覚えているのだと、その言い方で分かった。

 朔真の指が、柄を強く握る。

「今でもそのつもりだ」

「じゃあ、斬ればいい」

 鈴の声は震えていなかった。

 だが投げやりでもなかった。ただ、そこに余計な飾りがなかった。

「でも、私をここで殺しても、哭代は止まらない」

 朔真の目が細くなる。

「何だと」

 鈴は一瞬だけ、山の奥を見た。

 社のある方角だと、朔真には直感で分かった。

「あれがいる限り、写し子は増える。哭代も増える」

 そこで初めて、声の底にかすかな熱が混じった。

「誰を何人殺しても、止まらない」

「お前らの神様のことか」

 問い返すと、鈴はすぐには頷かなかった。

 その代わり、唇の端がわずかに硬くなる。

「……御喰様」

 吐き出すようでも、拝むようでもない呼び方だった。


 朔真はその名を胸の中で転がす。

 朝廷は厄災の神と言っていた。喰らうものだと。

 だが目の前の少女は、憎悪と服従が混ざったみたいな声で、その存在を呼んだ。

「だったらお前は何で従ってる」

 問いは鋭く出た。

「止めたいなら、何で人を襲う」

 鈴の視線が、初めて真正面から朔真へ刺さる。

「……襲ってきたのは、そっちも同じ」

 返しは短かった。

 事実だった。

 討滅隊も哭代を待ち伏せし、巻き込まれた母娘ごと斬ろうとした。朔真自身、その只中で隊士を斬った。

 だから余計に腹が立つ。

「俺はお前らとは違う」

「そう」

 鈴は否定しなかった。

「でも、昨夜死んだ母娘は、その違いで助からなかった」

 胸のど真ん中を突かれたみたいだった。

 朔真の口が、言葉を失う。

 その時だった。

 石の上に並んだ亡骸の一つが、ひくりと痙攣した。

 朔真は反射で山鉈を構える。

 細い喉から、濡れた息が漏れる。開きかけた目は焦点を結ばず、口元だけがわずかに動いた。

「……ま、ま……」

 鈴がすぐに膝をついた。

 短刀を抜く。

 朔真は一瞬、止めようとして、動けなかった。

「もういい」

 鈴はそうとだけ言って、短く刃を落とした。

 苦しみは一息で止まった。

 それから彼女は何もなかったみたいにその目を閉じ、白布を掛ける。

 朔真はしばらく動けなかった。

 殺したのに、送り方だけはあまりに丁寧だったからだ。

 その矛盾が、ひどく気持ち悪くて、ひどく痛かった。

 やがて鈴が立ち上がる。

 遠くで、鳥とは違う鋭い音が鳴った。

 合図だ。

 鈴の表情が一瞬で固くなる。

「誰か来る」

「哭代か、討滅隊か」

「どっちでも同じ」

 その言い方に、朔真はほんの少しだけ目を細めた。

 本気でそう思っている声だった。

 鈴は白布を結び直し、背を向けかける。

「待て」

 朔真が呼び止めた。

 鈴は振り返らない。

「柱のこと、どこまで知ってる」

 その一言で、彼女の肩がわずかに強張った。

「……誰に聞いたの」

「朝廷だ」

 鈴はゆっくり振り向いた。

 その目に初めて、はっきりした嫌悪が浮かぶ。

 だが朔真に向いたものではない。もっと大きなものへ向いた嫌悪だった。

「四つの柱を折らないと神は死なない。そこまでは聞いた」

「それで?」

「一つ目はどこだ」

 鈴はすぐには答えなかった。

 また遠くで合図が鳴る。今度は少し近い。

 風が木を揺らし、白布の端が揺れた。

「言え」

 朔真の声は低い。

「ここでお前を斬るより、そっちを壊した方が親父たちのためになるなら、、、そうする」


 鈴は朔真を見た。

 昨夜、自分を庇った母娘ごと討とうとした隊士を、この男は斬った。

 だからといって信じる理由なんて一つもない。

 それでも、鈴は小さく息を吐いた。

「……北」

「北のどこだ」

「骨の沈む谷」

 その答えが落ちた瞬間、山の空気が少しだけ変わった気がした。

「骸の柱がある」

 朔真の指が、山鉈の柄を握り直す。

 鈴はすぐに続けた。

「でも、今のあんたが行っても死ぬ」

「行かなきゃ何も終わらない」

「終わらせる気で行くと、喰われる」

 短い沈黙が落ちた。

 朔真は石の上に並ぶ亡骸を見た。

 写し子。

 使われるだけの器。

 殺しても殺しても増える前線。

 その前で弔いをする哭代の少女。

 何一つ理解できたわけではない。赦す気もない。むしろ余計に腹の立つことばかり増えた。

 だが一つだけ、昨夜までとは違う形で見えた。

 哭代を何人斬っても、その奥にあるものを断たなければ終わらない。

 それだけは、嫌でも分かった。


 鈴はすでに半歩、距離を取っていた。

 逃げるための足だ。

 あるいは、朔真が斬りかかってきた時に備えるための。

 その緊張の中で、朔真はふいに写し子へ目を向けた。

 喉元に残る浅い裂け目。閉じきらない口。焦点を失った目。人の形をしているのに、最後まで道具として使われたことだけが、その顔に薄くこびりついている。

 鈴が何かを言う前に、朔真はその亡骸のそばへ膝をついた。

「……何してるの」

 鈴の声に、朔真は答えない。

 山鉈を脇へ置き、死者の乱れた指を揃える。

 土に汚れた頬を、袖で一度だけ拭った。

 それは、考えてやった動きではなかった。

 身体が覚えていた。

 父がしていたこと。

 母がしていたこと。

 あの村で、穂積の人間が死者にしていたこと。

 朔真は目を伏せる。

 喉の奥に、自然と音が浮かんだ。

 幼い頃から聞かされ、手伝わされ、意味も分からず覚えた言葉だ。

「――ほどけ」

 低い声が、朝前の冷えた空気へ落ちる。

「名を失くしたものも、ここで終われ。誰かの器じゃなく、お前自身の死として還れ」

 鈴の目が、はっきりと見開かれた。

 朔真は気づかない。

 ただ、死者だけを見ていた。

「命令で、死ぬな。……誰のものでもなく、お前として終われ」

 最後の一言を落とした時だった。

 風が、浅く揺れた。

 それだけのはずなのに。

 石の上の写し子の顔から、張りついていた何かが、ほんのわずかに抜けたように見えた。

 苦痛でも怨みでもない、ただの若者の死に顔へ戻るみたいに。

 強張っていた口元が、ほんの少しだけ和らいで見えた。

 朔真の喉が詰まる。

 今のは錯覚かもしれない。

 朝の光の加減かもしれない。

 けれど、そうと片づけるにはあまりにも静かだった。

 鈴は息を呑んだまま、朔真を見ていた。

 その顔から、いつもの硬さが消えている。

 警戒でも、敵意でもない。

 もっと別の――ありえないものを見る目だった。

「……どうして」

 かすれた声が落ちる。

 朔真が顔を上げる。

 鈴は一歩、無意識に近づいていた。

 震えるほどではない。けれど、その目は確かに揺れていた。

「その弔詞……」

 そこで朔真の眉がわずかに寄る。

 鈴は写し子の顔と、朔真の手元を交互に見る。

 あの変化を見逃していない目だった。

 そして、確信に届きかけた声で、ぽつりと漏らす。

「あなた……」

 鋭い笛の音が、山の奥から裂けた。

 追手の合図だ。

 今度は近い。

 鈴の顔が一瞬で引き締まる。朔真も反射で山鉈を掴んだ。

 木立の向こう、複数の気配がある。

 討滅隊か、哭代か、あるいはその両方か。

 どちらにせよ、この場に留まれば面倒になる。

 鈴は言いかけた言葉を呑み込んだまま、朔真を見る。

 問いを投げるには時間が足りない。

 朔真もまた、その続きを聞く気にはなれなかった。

「……次は、逃がさないかもしれない」

 それだけ言って、朔真は踵を返す。

 鈴は呼び止めなかった。

 ただ、消えかけた声で、もう一度だけ唇を動かす。

「あなたは――」

 最後までは、聞こえなかった。

 朔真は木々の奥へ踏み込み、気配の薄い斜面へ身を滑らせる。

 背後に残ったのは、白布を掛けられた写し子たちと、答えに届きかけて止まった沈黙だった。

 夜明けの光の中で、朔真の足は北を向く。

 骨の沈む谷。

 骸の柱。

 そして、自分でもまだ知らない、自分の血の行き先へ。

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