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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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4/8

外れた刃と、冷たい夜

肉を裂く、嫌な音がした。

「――ぁっ……」

微かな吐息のような声が、夜の森に落ちる。

討滅隊士の容赦のない刃は、母娘を庇うように立ち塞がった少女――すずの左肩を斜めに斬り裂いていた。

濃紺の装束から、黒に近い血がどっと溢れ出す。

だが、鈴は一歩も退かなかった。

華奢な身体をわずかに震わせながらも、両手を広げ、背後の母娘を隠すようにして立っている。その薄墨色の瞳は、ただ静かに、振り下ろされた刃の主を見据えていた。

朔真さくまの呼吸が、完全に止まった。

(……なんで、だ)

頭の中が真っ白になる。

こいつらは、親父と母さんを殺した『哭代なきしろ』のはずだ。人間の命など路傍の石としか思っていない、感情を持たない神の猟犬のはずだ。

なのにどうして、あの夜の母と全く同じように、自分の身を挺して背中で誰かを守ろうとしているのか。

「チッ、邪魔だバケモノめ!」

討滅隊士が苛立たしげに舌打ちをし、刀を大きく引き上げた。

彼の目には、民間人である母娘への慈悲など一欠片もない。ただ任務の障害となる「壁」として、哭代の少女ごと一刀両断する。その冷徹な合理性だけが、ギラギラと刃に宿っていた。

「死ねェッ!!」

再び、刃が振り下ろされる。

鈴は動かない。避けることも、短刀で防ぐこともしない。ただ、背後の命を守るためのただの「物体」としてそこにある。

――気がつけば、朔真の身体は地を蹴っていた。

「やめろォォォッ!!」

理屈ではなかった。

ただ、目の前で「誰かを庇う背中」が理不尽に斬り捨てられる光景を、二度も見過ごすことなど、どうしてもできなかった。

ガァァァンッ!!

激しい金属音が夜気をつんざく。

朔真の渾身の力で振り上げられた山鉈が、討滅隊士の刀を下から激しく弾き飛ばした。

火花が散る。

「なっ……ガキ、貴様ッ!?」

隊士が驚愕に見開いた目と、朔真の視線が交錯する。

勢いは止まらなかった。刀を弾かれたことで無防備になった隊士の胸元へ、朔真の山鉈の切っ先が、そのままの軌道で深く食い込んだ。

「が、はッ……!」

血飛沫が舞う。

隊士は苦悶の声を上げて後ろへもんどり打ち、泥まみれの地面を転がった。

「あ……」

朔真の手に、人を斬った生々しい感触が残った。

山仕事で薪を割るのとは違う、柔らかく、温かく、そしてひどく重いものを強引に引き裂いた、おぞましい感触。

山鉈の刃から、タラタラと人間の血が滴り落ちている。

自分が何をしたのか、一瞬理解できなかった。

親父の仇を討つために、朝廷の犬になったはずだ。それなのに今、自分は仇である哭代の少女を守り、味方であるはずの討滅隊を斬ったのだ。

「……何故」

ぽつりと、鈴が呟いた。

肩から血を流しながら、不思議そうに朔真を見つめている。

その時だった。

空気が、凍りついた。

物理的な温度低下ではない。背筋を這い上がるような、圧倒的で純度の高い『死』の気配が、朔真の背後から静かに忍び寄っていた。

「――退け」

氷のように澄み切った、凛とした声。

朔真が振り向くより早く、一本の長刀なぎなたが、月明かりを反射して銀色の弧を描いた。


「え……?」

朔真の背後で、逃げ出そうと身を寄せ合っていた母親が、間抜けな声を漏らした。

次の瞬間。

母親の首筋から斜め下に向かって、音もなく赤い線が走った。

悲鳴を上げる間もなかった。母親の身体が、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちる。その腕に抱かれていた小さな娘も、刃の余波を受けて力なく地面へ倒れ伏した。

血の雨が降る。

「あ……ぁ……」

朔真の喉から、声にならない音が漏れた。

ゆっくりと視線を上げる。

そこに立っていたのは、鈴と瓜二つの顔を持つ、少し背の高い少女だった。

濃紺の装束。美しく結い上げられた黒髪。そして、一切の感情を排した、深淵のように黒い瞳。

長刀の少女――『れい』。

あの夜、朔真の村を地獄に変えた、研ぎ澄まされた一太刀。純粋な「殺戮の機械」としての圧迫感がそこにあった。

令は、倒れ伏した母娘を一瞥すらせず、長刀に付着した血を軽く振って払う。

まるで、道の端の落ち葉を踏み潰した程度の、ただの「作業」を終えただけ、というように。


「お前は遅い」

令の冷たい視線が、鈴へと向けられた。

「人の前に立ち塞がるなど、無駄な挙動だ。……刃に迷いがあるなら、私が代わりに取り除く」

「……はい」

鈴は、肩の痛みに顔を歪めることもなく、ただ機械的に頷いた。

そのやり取りを見て、朔真の糸がぷつりと切れた。

「てめえら……」

朔真の声が震える。

自分が、討滅隊を斬ってまで作ろうとした時間。

自分が、朝廷という後ろ盾を捨ててまで守ろうとした命。

それが、何の感情もないたった一振りによって、目の前でゴミのように刈り取られたのだ。

「ふざけるなァァァッ!!」

朔真は咆哮を上げ、令に向かって山鉈を振りかぶって突進した。

だが、令は動かない。

朔真の刃が届く直前、彼女の足元の影が不自然に伸び、周囲の空間がぐにゃりと歪み、夜の闇へと溶けて消え去っていた。つぶやいた声だけがかすかに残った。

「邪魔が多いわね、一旦引くわ。」

その声には、朔真など視界に入っていなかった。


「あ、あぁ……くそッ!!」

朔真は、誰もいなくなった空間に向かって、何度も、何度も山鉈を振り回した。

虚しい風切り音だけが響く。


「いたぞ! あそこだ!」

「葛城さん! 穂積のガキが、味方を斬りやがった!!」

背後から、松明の明かりと共に、討滅隊の怒号が押し寄せてくる。

朔真は、ハッと我に返った。

足元には、無残に切り裂かれた母娘の亡骸。

そして、自分が斬ってしまった討滅隊士が、血の海の中で呻き声を上げている。

少し離れた林の入り口から、玄理げんりが鋭い目でこちらを睨みつけていた。その手には、すでに抜身の太刀が握られている。

(……終わった)

朔真は、後ずさった。

もう、ここにはいられない。

仇を討つための居場所も、戦うための力も、すべて失った。

「……くそッ!」

朔真は踵を返し、真っ暗な山の奥へと向かって駆け出した。

「追え! あの裏切り者を逃すな!!」

背後で飛び交う怒号を背に、朔真はただ無我夢中で走った。

枝が顔を叩き、斜面で足を滑らせ、泥だらけになりながら、這いつくばるようにして闇の中を進む。

肺が焼け切れるように痛い。足の裏の感覚はとうに消え失せていた。

どれほど走ったか分からない頃、ようやく背後の松明の光と人の気配が遠のいた。

朔真は太い倒木の陰に転がり込み、泥の地面に膝をついて荒く息を吐いた。吐いても吐いても、足りない。胃の奥が雑巾のように捩れ、込み上げたものをその場に吐き出した。

苦い。

喉が焼ける。

『――人で、いろ』

親父の言葉が、脳裏をぐるぐると回る。

その結果が、これか。

人を守ろうとして、自分が前に出たせいで、結果として誰も守れなかった。

討滅隊を斬って作ったほんの数秒の隙など、あの冷酷な長刀の前では何の意味も持たなかった。自分という存在が、ただ状況を悪化させただけだ。

見捨てればよかったのか。

最初から、哭代の首だけを狙えばよかったのか。

あの母娘を、ただの「肉」として見殺しにすれば、自分はまだ討滅隊にいられたのか。

分からない。

脳の中で、無数の後悔がぶつかり合い、ただ心をすり減らしていく。

暗い森の底は、どこまでも冷たい。

握りしめた山鉈の柄が、自分が流した血と、他人に流させた血で、ひどく冷たく、滑った。

ただ、失った事実だけが、胸の奥で重く、黒く渦を巻いていた。

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