外れた刃と、冷たい夜
肉を裂く、嫌な音がした。
「――ぁっ……」
微かな吐息のような声が、夜の森に落ちる。
討滅隊士の容赦のない刃は、母娘を庇うように立ち塞がった少女――鈴の左肩を斜めに斬り裂いていた。
濃紺の装束から、黒に近い血がどっと溢れ出す。
だが、鈴は一歩も退かなかった。
華奢な身体をわずかに震わせながらも、両手を広げ、背後の母娘を隠すようにして立っている。その薄墨色の瞳は、ただ静かに、振り下ろされた刃の主を見据えていた。
朔真の呼吸が、完全に止まった。
(……なんで、だ)
頭の中が真っ白になる。
こいつらは、親父と母さんを殺した『哭代』のはずだ。人間の命など路傍の石としか思っていない、感情を持たない神の猟犬のはずだ。
なのにどうして、あの夜の母と全く同じように、自分の身を挺して背中で誰かを守ろうとしているのか。
「チッ、邪魔だバケモノめ!」
討滅隊士が苛立たしげに舌打ちをし、刀を大きく引き上げた。
彼の目には、民間人である母娘への慈悲など一欠片もない。ただ任務の障害となる「壁」として、哭代の少女ごと一刀両断する。その冷徹な合理性だけが、ギラギラと刃に宿っていた。
「死ねェッ!!」
再び、刃が振り下ろされる。
鈴は動かない。避けることも、短刀で防ぐこともしない。ただ、背後の命を守るためのただの「物体」としてそこにある。
――気がつけば、朔真の身体は地を蹴っていた。
「やめろォォォッ!!」
理屈ではなかった。
ただ、目の前で「誰かを庇う背中」が理不尽に斬り捨てられる光景を、二度も見過ごすことなど、どうしてもできなかった。
ガァァァンッ!!
激しい金属音が夜気を劈く。
朔真の渾身の力で振り上げられた山鉈が、討滅隊士の刀を下から激しく弾き飛ばした。
火花が散る。
「なっ……ガキ、貴様ッ!?」
隊士が驚愕に見開いた目と、朔真の視線が交錯する。
勢いは止まらなかった。刀を弾かれたことで無防備になった隊士の胸元へ、朔真の山鉈の切っ先が、そのままの軌道で深く食い込んだ。
「が、はッ……!」
血飛沫が舞う。
隊士は苦悶の声を上げて後ろへもんどり打ち、泥まみれの地面を転がった。
「あ……」
朔真の手に、人を斬った生々しい感触が残った。
山仕事で薪を割るのとは違う、柔らかく、温かく、そしてひどく重いものを強引に引き裂いた、おぞましい感触。
山鉈の刃から、タラタラと人間の血が滴り落ちている。
自分が何をしたのか、一瞬理解できなかった。
親父の仇を討つために、朝廷の犬になったはずだ。それなのに今、自分は仇である哭代の少女を守り、味方であるはずの討滅隊を斬ったのだ。
「……何故」
ぽつりと、鈴が呟いた。
肩から血を流しながら、不思議そうに朔真を見つめている。
その時だった。
空気が、凍りついた。
物理的な温度低下ではない。背筋を這い上がるような、圧倒的で純度の高い『死』の気配が、朔真の背後から静かに忍び寄っていた。
「――退け」
氷のように澄み切った、凛とした声。
朔真が振り向くより早く、一本の長刀が、月明かりを反射して銀色の弧を描いた。
「え……?」
朔真の背後で、逃げ出そうと身を寄せ合っていた母親が、間抜けな声を漏らした。
次の瞬間。
母親の首筋から斜め下に向かって、音もなく赤い線が走った。
悲鳴を上げる間もなかった。母親の身体が、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちる。その腕に抱かれていた小さな娘も、刃の余波を受けて力なく地面へ倒れ伏した。
血の雨が降る。
「あ……ぁ……」
朔真の喉から、声にならない音が漏れた。
ゆっくりと視線を上げる。
そこに立っていたのは、鈴と瓜二つの顔を持つ、少し背の高い少女だった。
濃紺の装束。美しく結い上げられた黒髪。そして、一切の感情を排した、深淵のように黒い瞳。
長刀の少女――『令』。
あの夜、朔真の村を地獄に変えた、研ぎ澄まされた一太刀。純粋な「殺戮の機械」としての圧迫感がそこにあった。
令は、倒れ伏した母娘を一瞥すらせず、長刀に付着した血を軽く振って払う。
まるで、道の端の落ち葉を踏み潰した程度の、ただの「作業」を終えただけ、というように。
「お前は遅い」
令の冷たい視線が、鈴へと向けられた。
「人の前に立ち塞がるなど、無駄な挙動だ。……刃に迷いがあるなら、私が代わりに取り除く」
「……はい」
鈴は、肩の痛みに顔を歪めることもなく、ただ機械的に頷いた。
そのやり取りを見て、朔真の糸がぷつりと切れた。
「てめえら……」
朔真の声が震える。
自分が、討滅隊を斬ってまで作ろうとした時間。
自分が、朝廷という後ろ盾を捨ててまで守ろうとした命。
それが、何の感情もないたった一振りによって、目の前でゴミのように刈り取られたのだ。
「ふざけるなァァァッ!!」
朔真は咆哮を上げ、令に向かって山鉈を振りかぶって突進した。
だが、令は動かない。
朔真の刃が届く直前、彼女の足元の影が不自然に伸び、周囲の空間がぐにゃりと歪み、夜の闇へと溶けて消え去っていた。つぶやいた声だけがかすかに残った。
「邪魔が多いわね、一旦引くわ。」
その声には、朔真など視界に入っていなかった。
「あ、あぁ……くそッ!!」
朔真は、誰もいなくなった空間に向かって、何度も、何度も山鉈を振り回した。
虚しい風切り音だけが響く。
「いたぞ! あそこだ!」
「葛城さん! 穂積のガキが、味方を斬りやがった!!」
背後から、松明の明かりと共に、討滅隊の怒号が押し寄せてくる。
朔真は、ハッと我に返った。
足元には、無残に切り裂かれた母娘の亡骸。
そして、自分が斬ってしまった討滅隊士が、血の海の中で呻き声を上げている。
少し離れた林の入り口から、玄理が鋭い目でこちらを睨みつけていた。その手には、すでに抜身の太刀が握られている。
(……終わった)
朔真は、後ずさった。
もう、ここにはいられない。
仇を討つための居場所も、戦うための力も、すべて失った。
「……くそッ!」
朔真は踵を返し、真っ暗な山の奥へと向かって駆け出した。
「追え! あの裏切り者を逃すな!!」
背後で飛び交う怒号を背に、朔真はただ無我夢中で走った。
枝が顔を叩き、斜面で足を滑らせ、泥だらけになりながら、這いつくばるようにして闇の中を進む。
肺が焼け切れるように痛い。足の裏の感覚はとうに消え失せていた。
どれほど走ったか分からない頃、ようやく背後の松明の光と人の気配が遠のいた。
朔真は太い倒木の陰に転がり込み、泥の地面に膝をついて荒く息を吐いた。吐いても吐いても、足りない。胃の奥が雑巾のように捩れ、込み上げたものをその場に吐き出した。
苦い。
喉が焼ける。
『――人で、いろ』
親父の言葉が、脳裏をぐるぐると回る。
その結果が、これか。
人を守ろうとして、自分が前に出たせいで、結果として誰も守れなかった。
討滅隊を斬って作ったほんの数秒の隙など、あの冷酷な長刀の前では何の意味も持たなかった。自分という存在が、ただ状況を悪化させただけだ。
見捨てればよかったのか。
最初から、哭代の首だけを狙えばよかったのか。
あの母娘を、ただの「肉」として見殺しにすれば、自分はまだ討滅隊にいられたのか。
分からない。
脳の中で、無数の後悔がぶつかり合い、ただ心をすり減らしていく。
暗い森の底は、どこまでも冷たい。
握りしめた山鉈の柄が、自分が流した血と、他人に流させた血で、ひどく冷たく、滑った。
ただ、失った事実だけが、胸の奥で重く、黒く渦を巻いていた。




