庇った影
血と泥の匂いに塗れたあの夜から、三ヶ月。
朔真の手のひらには、薪割りのためではない、人を殺すための新しいマメがいくつも重なっていた。
『怒りだけで刃を振るえば、お前自身が怨嗟に呑まれるぞ』
玄理の言葉が、冷たい夜風と共に脳裏をよぎる。
三ヶ月間、血反吐を吐くまで叩き込まれた実戦の歩法。急所の狙い方。そして、化け物に対抗するための呪力への順応。
それらすべては、今夜、この時のためにあった。
合図は、鳥の鳴き真似だった。
短く、乾いた音が林の奥で二度鳴る。
次の瞬間、斜面に伏せていた討滅隊の隊士たちが、いっせいに跳ね起きた。
草を裂く音。鞘走る刃の音。息を殺して溜め込まれていた数十人の殺気が、堰を切ったように夜の森へと溢れ出す。
朔真も地を蹴った。いや、合図を待つより先に、身体が前へ出ていた。
標的は、神域の縁の村へ「供物狩り」に現れたという少数の部隊。
――哭代。
その名を聞いた瞬間から、朔真の胸の奥では、黒く焦げたような怒りがずっと燻り続けていた。
湿った土が足裏で滑る。林を抜ける手前で、前を走る隊士の背中が一瞬邪魔に思えた。遅い、とさえ思った。
仇がいる。それだけで、全身の血が沸騰していた。
「散るな! 確実に囲んで潰せ!」
玄理の怒声と共に、林を抜けた先の開けた場所へと飛び出す。
薄い月光の下、濃紺の装束を纏った影が三つ、ほとんど同時にこちらへ振り向いた。
一人は身の丈ほどもある長刀。一人は手甲。そしてもう一人は、白布を差し色にした短刀。
討滅隊が四方から一斉に斬りかかった、その時だった。
シュッ、と。
刃風すら鳴らない、ぞっとするほど静かな一閃だった。
先陣を切って飛び込んだ討滅隊士の一人が、不自然に足を止め、そのまま崩れ落ちた。
遅れて、その首筋から真っ赤な血が夜空へ噴き上がる。
隊士を斬ったのは、一番背の高い「長刀の少女」だった。
だが、朔真の背筋を凍らせたのは、その速さでも技の鋭さでもない。
少女は、自分が今殺したばかりの隊士の死体に、一瞥もくれなかったのだ。
苦痛に歪む死顔を見ることもなく、人を斬った感触に顔を強張らせることもない。ただ路傍の石を蹴りのけたかのような、完全なる無関心。
血振るいすら省き、からっぽの瞳のまま、流れるような動作で機械的に次の標的へと長刀の切っ先を向ける。
その時、月明かりに照らされた死体の傷口が、朔真の目に飛び込んできた。
――知っている。
あの骨まで達するほど深く、けれど一切の迷いがない冷徹な切断面。血の海に沈んでいた、親父や母さんの身体に刻まれていた傷と、まったく同じ形だった。
(あの女が……!)
憎しみで斬られたのではない。ただの「作業」として、家族は処理されたのだ。
その圧倒的な冒涜に、朔真の中で抑え込まれていた理性が完全に焼き切れた。
「おおおおおッ!!」
朔真は獣のような咆哮を上げ、長刀の少女へと地を蹴った。
だが、その射線を遮るように、もう一つの影が音もなく滑り込んでくる。
ガァンッ!!
火花が弾け、朔真の上段から叩き落とした渾身の山鉈が、空中でピタリと止められた。
受け止めたのは、純白の布を巻いた「短刀の少女」だった。
年は自分と同じか、少し下くらいだろうか。肩甲骨まで伸びた黒髪。透き通るように白い肌。
これほどの膂力を細腕一本で受け流しているというのに、彼女の薄墨色の瞳は、まるで底なしの井戸のように光を反射せず、微塵も感情を揺らしていなかった。
軽い。
力がないわけではない。相手の刃は恐ろしいほど正確に朔真の山鉈の軌道を読み、最も力の逃げる角度で受け流している。
だが、その太刀筋には、怒りも、殺意も、生きるための必死さすらも、何一つ乗っていなかった。長刀の女と同じ。人間の形をした、ただの空っぽの道具。
朔真が再び山鉈を握り直そうとした、その時だった。
「ひ、ひぃぃッ……!」
戦場のど真ん中に、悲鳴が響いた。
開けた場所の端、壊れた家屋の陰から、一人の女が転び出るようにして飛び出してきた。その胸には、小さな娘がしがみついている。
供物として狩られそうになり、隠れていた村の生き残りだった。
「こっちだ、走れ!」
討滅隊の誰かが怒鳴ったのかもしれない。だが、遅かった。
錯乱した母娘は、運悪く討滅隊と哭代が交戦する死地のど真ん中へと足を踏み入れてしまったのだ。
女は状況を理解した瞬間、足を止めた。
目の前にいるのが助けに来た朝廷の兵なのか、自分たちをさらう化け物なのか、判別もつかない顔をしていた。ただ本能だけで、背中を向け、覆いかぶさるようにして娘を庇う。
その姿が、夜の底で鮮明に浮かび上がった。
細い肩。震える腕。それでも、子どもの盾になろうとする背中。
朔真の呼吸が、そこでピタリと止まった。
見覚えのある形だった。
――志乃が、小春を抱き込んで血の海に倒れていた、あの夜の板間の光景と、完全に重なったのだ。
「下がれ、邪魔だッ!!」
討滅隊の隊士の一人が叫び、そのまま駆けた。
庇うためではない。
彼の刃は、目の前に立ち塞がる『障害物』としての母娘ごと、その奥にいる哭代を薙ぎ払う軌道で振り上げられていた。
哭代相手の遭遇戦。民間人が絡めば隙になる。作戦の遂行と、隊員の命を天秤にかければ、少数の犠牲(数字)はやむを得ない。それが、朝廷という組織の冷徹な合理性だった。
朔真の背筋が凍りついた。
親父や母さんを殺した連中を憎んで、力を求めた。なのに、今自分の味方であるはずの連中が、同じように何の罪もない母娘を切り捨てようとしている。
間に合わない。遠い。
朔真が絶望に目を剥いた、その瞬間だった。
別の影が、音もなく夜の空気を切り裂いて飛び込んだ。
純白の布が、月明かりを反射して翻る。
ガキィィィンッ!!
激しい金属音が響き、討滅隊士の刀が弾き飛ばされた。
「なっ……!?」
隊士が驚愕の声を上げる。
朔真もまた、信じられないものを見るように目を見開いた。
討滅隊士の刃から母娘を守ったのは。
さっきまで朔真と打ち合っていた、あの無表情な短刀の少女だったのだ。
少女は、背後にいる母娘をかばうように立ち塞がっていた。
その細い腕。振り返らない立ち方。
それは皮肉にも、あの夜、朔真の母が見せた「守る者」の姿そのものだった。
あり得ない。
感情を持たないはずの哭代が。ただの作業として人を殺していた化け物が。なぜ、敵の刃から民間人を守っている?
討滅隊士たちも想定外の事態に動きを止め、戦場に異様な静寂が落ちた。
少女自身も、己の取った行動の意味が理解できていないかのように、弾き返した自分の短刀をわずかに見下ろしていた。
その時。
少女の少し後方から、あの冷酷な長刀を持った女が、温度のない声で呼んだ。
「――鈴」
その名を呼ばれた瞬間。
短刀の少女の肩が、微かにビクンと震えた。
「無駄な行動は慎みなさい。退いて」
長刀の女の言葉は、絶対的な『命令』だった。
鈴と呼ばれた少女の薄墨色の瞳から、一瞬だけ浮かびかけていた『人間らしい動揺』がスッと消え失せ、再び空虚なガラス玉へと戻る。
朔真は、握りしめていた山鉈の柄がミシミシと軋むのを感じた。
仇を殺すためにここへ来た。
だが、目の前で起きた光景が、朔真の単純な「復讐」の輪郭を、ぐちゃぐちゃに掻き乱していた。




