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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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狂気の残滓と、大人の落とし前

御喰様(みくいさま)の焦燥によって引き起こされた「神域の漏出」。

百年前の怨念が渦巻く、血と泥で編まれた漆黒の森を、朔真(さくま)たちは満身創痍の足で駆け抜けていた。


「ハァッ、ハァッ……!」

朔真の呼吸は荒く、足取りは鉛のように重い。先ほどの夜哭(よなき)との死闘のダメージが、ここにきて確かな絶望として全身の筋肉にのしかかっていた。肺に取り込む空気すらもが、呪いに当てられたかのように熱く、喉を焼く。


隣を走る鈴(すず)も、顔色を蒼白にして必死に朔真の背中を追っている。彼女の細い足は幾度も泥に取られそうになりながらも、決して止まることはなかった。


「もう少しよ! この歪んだ空間を抜ければ、第4の柱がある『原初の封地』の谷底に出るわ!」

先頭を走る詠(よみ)が叫んだ、その時だった。


――ズゴォォォォォンッ!!


唐突に、彼らの進行方向にある樹齢数百年はあろう大木が、内側から爆発したように粉々に吹き飛んだ。

木々の悲鳴にも似た裂音が響き渡り、降り注ぐ木片と土煙の中から、巨大な『黒い鉄球』のようなものが、凄まじい速度で朔真へと飛来する。


「なっ……!?」

思考が追いつくよりも早く、朔真が山鉈を構えようとしたその刹那。

横から強烈な力で、玄理(げんり)が朔真と鈴を突き飛ばした。


ドゴォッ!!


鈍く、重い破壊音。玄理がとっさに交差させた短槍の柄に、その『鉄球』が直撃する。

いや、鉄球ではない。至近距離でそれを見た朔真の目は、信じられないものに戦慄した。それは、異常なまでに肥大化し、どす黒い血管が網の目のように浮かび上がった「人間の巨大な拳」だったのだ。


「ぐ、おォォッ!?」

防御の姿勢をとっていたにもかかわらず、玄理の身体が木の葉のように容易く吹き飛ばされ、泥の地面を何度もバウンドして転がった。


「玄理!!」

朔真が叫び、無理やり起き上がろうとした瞬間、濛々と立ち込める土煙の中から、鼓膜を破り、魂そのものを削り取るようなおぞましい咆哮が響いた。


『ァァァァァァァ……コロス、コロスゥゥッ!!』


姿を現したその怪物の全貌を見て、朔真たちは息を呑み、凍りついた。

身長は三メートル近くまで膨張し、かつての面影は完全にひしゃげている。皮膚を内側から突き破って、おびただしい数の黒い呪符が全身にトゲのように生え出ていた。だが、その歪にひしゃげた頭部の造作には、確かな見覚えがあった。


紫蓮衆の特務兵であり、かつて第2の柱で朔真と死闘を繰り広げた巨漢――斑目(まだらめ)だ。


「斑目……!? なんだその姿は……!」

「フフ、フフフ……驚くには値しないさ。彼はただ、朝廷の倉庫に厳重に眠っていた『特級の禁忌呪物』を、致死量を超えて肉体に叩き込んだだけだからね」


這いずるような、それでいて酷く滑稽な声が、森の奥から響いた。ズルズルと泥に足を引き摺るようにして、もう一人の男が現れる。

陰陽寮が誇る天才であり、帝都を恐怖の底に陥れたシステムの中枢――有雅(ありまさ)だった。


だが、その姿もまた、到底まともな人間のそれではなくなっていた。

帝都の地下水脈でシステムが爆発した際、激しい濁流に巻き込まれたのだろう。仕立ての良かったはずの狩衣はボロボロに引き裂かれ、左半身は骨が見えそうなほど酷く焼け爛れている。

何より朔真たちの目を釘付けにしたのは、異様なその「左腕」だった。失われたはずの左腕の断面から、無数の「他人の手首」が蠢く呪肉の塊となって生え出し、どくどくと不気味な脈を打っているのだ。幾重にも重なる指先が、虚空をまさぐり、呪詛を撒き散らしている。


「有雅……てめえ、まだ生きてやがったのか!」

玄理が、口からおびただしい血を吐き出しながら、ゆっくりと立ち上がる。手にした短槍の柄は、先ほどの斑目の一撃を受け、もはや使い物にならないほど完全にひん曲がっていた。


「生きているとも。帝都のシステムは破壊された。私の名声も、地位も、宗景の裏切りによって全て水泡に帰した……」

有雅の残った右目が、狂気と憎悪に血走って極限まで見開かれる。


「だが、まだ終わっていない! 宗景め……私を捨て駒にしたこと、必ず後悔させてやる! そのためには、神の全権能を握る『詔(みことのり)』の柱だけは、奴には絶対に渡せない!」

有雅は自身の左肩で蠢く呪肉の腕を、まるで愛しい我が子でも愛でるかのように撫でながら、カタカタと壊れたからくりのような笑い声を上げた。


「私の命を削ってでも、この禁忌の呪肉で最後の一柱を支配する。……お前たちは、その前にここで死んで、私の贄となれ!!」


『ギィィィヤァァァァッ!!』

有雅の狂気に満ちた叫びに呼応するように、異形と化した斑目が地を蹴り、再び突進してくる。

理性を完全に焼き切ったその一撃は、もはや卓越した武術の片鱗すらない。ただ純粋な「質量と呪力の暴力」が、空間そのものを押し潰す勢いで迫り来る。


「させねえよ!!」

朔真が歯を食いしばり、山鉈を振りかぶって斑目の巨大な拳を迎え撃とうと踏み込んだ。


――が、足に力が入らない。


「っ……!?」

踏み込んだはずの右膝が、糸の切れた操り人形のようにカクンと折れ、朔真は無様に泥へ膝をついた。戦い続け、限界をとうに超えていた筋肉が、これ以上の酷使を拒否し、悲鳴を上げたのだ。


「朔真!!」

鈴が悲痛な悲鳴を上げ、咄嗟に防御の光を展開しようと印を結ぶ。だが、呪力が完全に底を尽きている彼女の指先からは、ひび割れたガラスのような淡い光の粉が舞い散るだけだった。


大木すらも一撃でへし折る斑目の拳が、影を落とし、無防備な朔真の頭上へと無慈悲に振り下ろされる。

逃げ場はない。死を覚悟し、朔真が目を瞑りかけた瞬間。


「――引っ込んでろ、ガキが!!」


空気を震わせる怒声と共に、玄理が横から弾かれたように割り込んだ。

ひん曲がった短槍を己の腕力だけで無理やり突き出し、振り下ろされる斑目の拳の側面を強かに打つ。致命の軌道から僅かに逸れた巨大な拳は、朔真のすぐ真横の地面を深く抉り、凄まじい泥の爆発を引き起こした。


「が、はッ……!」

常人ならば粉微塵になっているであろう衝撃。玄理は吹き飛びそうになる体を必死に足を踏ん張って留め、空いた右手の呪符を斑目の顔面に直接叩きつけて起爆させた。


鼓膜を揺るがす爆発音と共に炎が上がり、さしもの斑目も怯んで数歩後退する。


「玄理……!」

朔真が震える声を絞り出すと、玄理は血まみれの顔のまま、忌々しそうに振り返った。


「言っただろ。お前らはもう、ボロボロだってな」

「玄理、あなた、さっきの一撃で肋骨が……!」

後方から状況を見ていた詠が、顔面を蒼白にして叫ぶ。


朔真は息を呑んだ。玄理の胸部は、ありえない角度で不自然に陥没しており、呼吸をするたびに、ヒューヒューと血の混じった痛々しい音が鳴っていたのだ。


「心配すんな。昔の古傷がちょっと疼いただけだ」

玄理は軽口を叩いて強がりながら、完全に折れ曲がった短槍を未練なく放り捨てた。そして、懐から取り出した何十枚もの真新しい呪符を、自身の両腕に幾重にも巻き付け始めた。


「……有雅」

玄理は、狂気に染まり果てたかつての同僚を、酷く冷たく、そしてどこまでも悲しげな目で見据えた。


「それが、出世競争の果てか。……禁忌呪物に手を出して、自分たちの人間としての理性を食わせてまで、まだ朝廷っていう腐った椅子にしがみつきてえか」

「黙れ、落伍者が! お前のように途中で逃げ出した負け犬に、私の芸術が理解できるものか!」


有雅の左肩から生えた無数の腕が一斉にわななき、悍ましい呪力の光線を一斉に放つ。

玄理は両腕に巻いた呪符を瞬時に盾にしてそれを弾き落とすが、圧倒的な数と出力の前には防ぎきれず、漏れた光線が彼の狩衣を無残に焦がし、肉を深く裂いた。


「……ああ、そうさ。俺は逃げ出した。朝廷の連中が、自分たちの保身と権力のために、人をゴミみたいに使い捨てるやり方に吐き気がして、背を向けたんだ」

玄理の脳裏に、凄惨な記憶がフラッシュバックする。かつて討滅隊として、上の命令に逆らえず見殺しにしてきた、名もなき民たちの絶望に満ちた顔。


権力に逆らえない自分への失望。どうせこの世界は、最初から最後まで狂っているという諦め。それが、玄理という男を長い間、無気力な傍観者へと縛り付けていた。


「でもな……」

玄理は、背後を振り返った。そこには、泥まみれになりながら膝をつく朔真と、彼を必死に支えようとする鈴の姿があった。


理不尽に家族を殺され、朝廷の道具として扱われ、それでもこの世界そのものを呪うのではなく、誰かのためにボロボロになって刃を振るう、愚かで、真っ直ぐな子供たち。


「こんな不器用なガキどもが、必死に『人間』でいようとしてるのに。……大人の俺が、いつまでもケツを割って逃げてるわけにはいかねえんだよ」

玄理の全身から、これまで彼が決して見せることのなかった、青白く、圧倒的な質量を伴う重厚な呪力の炎が立ち上った。周囲の泥が熱で蒸発し、空気が震える。


それは、かつて「次期筆頭」とまで呼ばれ、畏怖された討滅隊エースとしての、真の力だった。


「玄理……お前、まさか……」

朔真が、その背中から立ち上る凄まじい決意と、死の予感に目を見開く。


「詠! 朔真と鈴を連れて、このまま一気に封地へ向かえ!!」

玄理が、こちらを振り返ることなく叫んだ。


「なッ……バカ野郎! あんなバケモノ二人相手に、一人で残る気か!!」

「勘違いすんな。俺は死ぬ気はねえ」


玄理は、肩越しに振り返り、ニヤリと笑った。それは、初めて出会った時から変わらない、胡散臭くて、どうしようもなく頼りになる不良大人の笑みだった。


「あいつらは、朝廷が生み出した『俺たちの世代のツケ』だ。ガキのお前らが、これ以上背負う必要はねえ。……大人の落とし前は、大人がつける」


「玄理……!」

「行け、朔真!! お前の『弔い』は、こんなところで終わらせるような、安いモンじゃなかったはずだろ!!」


その言葉に、朔真は奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。

残って一緒に戦うと言うのは簡単だ。だが、限界を迎えた今の自分の体では、玄理の足手まといにしかならない。残れば、玄理が命を懸けて作ろうとしているこの覚悟を、完全に無駄にすることになる。


血の滲むような葛藤の末、朔真は顔を上げた。


「……死んだら、化けて出ても許さねえからな、不良ジジイ」

「へっ。誰がジジイだ。俺はまだ三十代だぜ」


朔真は鈴の手を強く引き、詠と共に森の奥――第4の柱がある方向へと、振り返らずに駆け出した。


『逃ガサ……ナイッ!!』

標的を失った斑目が激昂し、地鳴りを立てて朔真たちを追おうとする。

だが、その進路を、青白い炎を纏った呪符の壁が完全に塞いだ。


「よそ見してんじゃねえぞ、バケモノ」

玄理が、両腕に巻いた呪符を眩いほどに光らせながら、二人の異形の前に堂々と立ちはだかる。

その背中は、かつてないほどに大きく、そして揺るぎない覚悟と静かな怒りに満ちていた。


「さあ、やろうぜ、社畜ども。……有給の取り方も知らねえ可哀想なてめえらに、俺が永遠の休暇をくれてやるよ」


理性を捨てた純粋な悪意と、遅すぎた責任を背負った男の、最後の死闘が始まろうとしていた。

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