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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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死地に散る札と、大人の背中

朔真たちの足音が、百年前の記憶を閉じ込めたような鬱蒼とした森の奥へ、少しずつ遠ざかっていく。

木々の間を縫って走る三つの背中――朔真、鈴、そして詠の姿が完全に暗がりへと溶け込み、微かな足音すらも風に掻き消された時、玄理(げんり)は小さく、だが確かな安堵の息を吐いた。


「……やれやれ。俺みたいな薄汚い大人が、お前らみたいな真っ直ぐなガキに付き合うのは、本当に骨が折れるぜ」


玄理は、痛む右肩を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。

視線の先には、朝廷の狂気を煮詰めたような二つの異形が立ち塞がっている。

一人は、禁忌呪物を取り込み、左肩から無数の悍ましい腕を生やした利用派の筆頭、藤原有雅(ふじわらのありまさ)。

そしてもう一人は巨漢の暗殺者、斑目(まだらめ)。

彼らは、かつて玄理が所属していた朝廷というシステムの「なれの果て」だった。


「葛城玄理……。かつて討滅隊の次期筆頭とまで謳われた男が、ただの捨て駒としてここで泥を啜るか」

有雅が、自身の左肩からうごめく無数の腕を撫でながら、酷薄な笑みを浮かべる。

「君の才能は惜しかった。我々のシステムに組み込まれれば、より高次な秩序の一部になれたものを。……こんな辺境の森で、何の価値もないガキ共を逃がすために命を捨てる。それが、君の選んだ結末かね?」


「価値がない、だと?」

玄理は、折れ曲がった短槍の柄を地面に突き立て、懐から取り出した何十枚もの呪符を、自身の両腕から首筋にかけて包帯のように巻き付け始めた。

バチバチと、呪符から青白い火花が散り、玄理の肉体の限界を強制的に引き上げていく。それは、自らの命の炎を前借りするような、禁断の強化術だった。


「……有雅。それが、出世競争の果てか。禁忌呪物に手を出して、自分たちの理性を食わせてまで、まだ朝廷っていう腐った椅子にしがみつきてえか」

玄理の眼差しは、酷く冷たく、そしてどこか悲しげだった。

「お前たちが作ろうとしてる『秩序』ってやつの底には、いつだって名もなき民の死体と、すり潰された俺たち下っ端の血が溜まってる。……そんな狂った天秤の上で、俺はもう息をしたくなかったんだよ」


玄理の脳裏に、かつて討滅隊として見殺しにしてきた人々の顔がよぎる。

神を刺激しないためという大義名分のもと、見捨てられた村。切り捨てられた仲間。宗景(むねかげ)の冷徹な計算と、有雅の泥黒い政治の狭間で、玄理は何度も己の刀の重さに絶望してきた。

何も変えられない自分への失望。どうせ世界は狂っているという諦め。だから彼は、一度はすべてから逃げ出した。逃げ出して、封祀寮の片隅で酒と皮肉に溺れる「死んだ大人」になったはずだった。


「黙れ、落伍者が! お前のように逃げ出した負け犬に、私の芸術が理解できるものか!」

有雅が激昂し、左肩の無数の腕が一斉に印を結んだ。

空間が歪み、致死の呪力が圧縮された無数の光線が、豪雨のように玄理へと降り注ぐ。


「……ああ、そうさ。俺は逃げ出した。朝廷の連中が、自分たちの保身のために人をゴミみたいに使い捨てるやり方に吐き気がして、背を向けた」

玄理は地面を蹴った。

強化された脚力が泥を抉り、玄理の身体が弾丸のように木々の間を駆け抜ける。降り注ぐ光線を、腕に巻いた呪符を盾にして弾き落とすが、防ぎきれなかった光の雨が彼の狩衣を焦がし、肉を浅く削り取っていく。


「でもな……!」

玄理は空中で身を捻り、五枚の呪符を扇状に投擲した。

札は有雅の死角に張り付き、小規模な爆発を起こして彼の視界を奪う。その一瞬の隙を突き、玄理は有雅の懐へと肉薄した。


――彼の頭の中には、先ほどまで自分の背中を守っていた二人の若者の姿があった。


穂積朔真。

家族を理不尽に奪われ、復讐という呪いに囚われながらも、誰かの痛みに共感し、決して他者を見捨てようとしない男。

「人でいろ」という親父の言葉を必死に守り、泥にまみれながらも真っ直ぐに立ち上がろうとする、不器用で、熱っ苦しいバカ。


そして、哭代鈴。

感情を持たない道具として作られ、自分を殺すためだけの存在だったはずの彼女。だが、朔真の隣で少しずつ温もりを知り、笑うようになり、泣くようになり、人間であろうと足掻いている哀れで愛おしい少女。


あいつらは、まだこれからなんだ。

俺たち大人が汚して、壊して、諦めてきたこの世界で、あいつらは初めて「終わらせる」ための正しい弔いを見つけた。


「あいつらは……あのガキどもは、未来へ行かなきゃならねえんだ。てめえらみたいな、過去の亡霊にかまってる暇はねえんだよ!!」

玄理の右拳――何十重にも呪符を巻きつけ、鋼のような硬度を持った一撃が、有雅の顔面を捉える。

ゴッ! という鈍い音と共に、有雅の鼻骨が砕け、その華奢な身体が数メートル後方へと吹き飛ばされた。


「ぐ、ぁ……ッ! 下らない感傷だ! お前ごと消え去れ!!」

顔面を血に染めた有雅が狂乱し、さらなる呪力の雨を四方八方へ無差別に降らせる。

木々がへし折れ、地面がクレーターのように抉り取られる。


「……ッ!」

玄理は森の中を駆け抜けながら、巨木を盾にして回避を続ける。

だが、彼の息は既に上がり、呪符による肉体の強化も限界に近づいていた。全身の筋肉が断裂寸前の悲鳴を上げ、視界がチカチカと点滅する。

弔いの力を持たない生身の人間が、禁忌のバケモノを相手にたった一人で立ち回るなど、土台不可能なのだ。


それでも、俺がここで一秒でも長く時間を稼げば、あいつらはその分だけ先へ行ける。

朔真。鈴。

死ぬなよ。どんなに不格好でもいい。生きて、明日を笑え。

俺の落とし前は、ここで――。


玄理が覚悟を決め、最後の呪符の束を握り直した、その時だった。


ドズゥゥゥンッ!!


「な……ッ!?」

玄理の足元の地面が突如として爆発し、黒い影が飛び出してきた。斑目だった。


『コロ……ス……!!』


斑目の首の傷口からは、黒い肉芽が無数に溢れ出し、骨と肉を完全に塞いでいた。

有雅の施した禁忌呪物による、生物の理を超えた異常な再生能力。


「チッ、ゾンビかよ!」

空中に投げ出された玄理に向け、斑目の丸太のような太い腕が、凄まじい風圧を伴って振り下ろされる。

空中にいる玄理に、回避の手段はない。


玄理は咄嗟に、残された短槍を頭上で交差させて防御の態勢をとった。

だが、バケモノと化した斑目の圧倒的な質量と暴力は、呪符で補強したはずの槍の柄を呆気なくへし折り、玄理の肉体を直接強打した。


「が、はァッ……!!」

バキィッ! と、全身の骨が幾つも砕ける生々しい音が響く。

玄理の身体は、ボールのように弾き飛ばされ、大木に激突してそのまま泥まみれの地面へと崩れ落ちた。

口から、大量のどす黒い血が吐き出される。

視界が赤く点滅し、全身の神経が絶叫を上げていた。

肺に穴が開いたのか、呼吸をするたびに血の泡が漏れる。


「終わりだ、葛城」


ゆっくりと、有雅が歩み寄ってくる。

その後ろでは、巨体の斑目が地鳴りを立てて立ち塞がっている。


「お前はここで死に、私があの柱の力を手に入れる。……安心しろ、あの少年たちもすぐに後を追わせてやる。お前の薄っぺらい自己犠牲など、何の意味もなかったということだ」


有雅の左肩の呪肉が、最後の一撃を放つために極大の呪力を収束させ始める。


(……うるせえよ)


玄理は、泥だらけの顔をゆっくりと上げた。

視界はすでにぼやけ、身体は指一本動かすのも億劫だ。

だが、彼の心は、かつてないほどに澄み切っていた。


朝廷の腐敗に絶望し、酒と博打に逃げていた日々。

何も変えられないと諦めていた自分。

でも、朔真と出会って、彼らに剣を教えて、背中を預け合って。


(……悪くねえ、数ヶ月だったぜ)


「……有雅」


玄理は、血に染まった歯を見せて、最期に不敵に笑った。


「てめえは、陰陽の理はよく知ってるだろうが……喧嘩の仕方は、何も分かっちゃいねえな」


「……何?」


「俺は、ただ逃げ回ってたわけじゃねえ。……てめえらの『死角』に、札をばら撒くための時間稼ぎだ」


玄理が、血塗れの右手の指を、小さく、パチンと鳴らした。


その瞬間。

有雅と斑目の周囲、半径数十メートルの森の木々や地面に隠されていた「百枚以上の呪符」が一斉に青白い光を放った。


「なっ……これは!?」


有雅が驚愕に目を見開く。


「俺には朔真みたいな『弔い』の力はねえ。だから、純粋な火力で、てめえらのその醜い肉体を……消し炭にしてやるよ」


玄理は、自身の懐から、最後の一枚――自身の血で真っ赤に染め上げられた『特級の起爆符』を取り出し、それを空高く放り投げた。


「あの世で、宗景への恨み言でも並べてろ。――【紅蓮(ぐれん)・大焼却】!!」


玄理の最後の手印と共に、森全体を包み込むような、青白く、そして目を開けていられないほどの巨大な爆炎のドームが、二体の異形を飲み込んだ。

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