明かされる盤上と、焦燥の歪み
東の空が白み始めていた。
重く淀んだ雲の隙間から滲む光は、決して希望を告げるものではない。
ただ冷酷に、彼らが立たされている絶望的な現実の輪郭を照らし出すだけの薄明かりだった。
帝都を囲む分厚い結界の外側。
荒涼とした河川敷の冷たい風が、濡れ鼠になった四人の体温を容赦なく奪っていく。
鼻をつく泥の匂いと、微かに混じる血の錆びた鉄の臭いが、彼らが死線を潜り抜けてきたことを証明していた。
「……くそっ、宗景の野郎。やり口が綺麗すぎて反吐が出るぜ」
玄理が、狩衣の裾から滴る泥水を乱暴に絞りながら悪態をついた。
先の激戦の代償は重い。
彼の肩の古傷は無惨に開き、肉体の疲労も体力も限界に近い状態だった。
それでも、元討滅隊エースとして培われた危機管理能力は微塵も衰えていなかった。彼は一切の油断を見せず、即座に周囲の空間へ索敵の呪符を放ち、追っ手の気配が来ていないことを確認している。
「……あの無銘たち、本当に感情がなかった」
鈴が、濡れた黒髪から冷たい雫を滴らせながら、自らの身を守るように膝を抱えて呟いた。
その薄墨色の瞳には、先ほどまで帝都の暗い地下空間で対峙していた「純粋な殺戮機械」たちの、無機質で氷のような刃の残像が焼き付いている。
命のやり取りの中で一切の淀みを見せなかった彼らの姿は、鈴の心に深い恐怖と共鳴を刻み込んでいた。
「あれが、宗景の理想とする『完璧な兵隊』よ。有雅のように民の呪力を集めるのではなく、最初から人間としての機能を削ぎ落とし、国家の歯車として最適化する。……おそらく、私たちを始末した後は、あの無銘たちを新たな管理装置として使うつもりでしょうね」
詠は、防水処理が施された革の鞄から分厚い手帳を取り出し、中のページが水に濡れていないか慎重に確認しながら言った。
彼女の横顔には、かつて朝廷の歴史と血塗られた裏側を記録していた書記官としての、底知れぬ深い軽蔑が浮かんでいる。
「詠」
それまで一言も発さず、ただ黙って泥を落としていた朔真が、低く、地を這うような声で口を開いた。
彼の視線は、遠く西に連なる漆黒の山脈――いまだ朝の光が届かず、夜の帳に取り残されたように重く淀んだ空の下に向けられていた。
「あの山に、最後の柱……『詔』があるんだな」
「……ええ。朝廷が地図から消し去った、百年前の大虐殺の起点。『原初の封地』よ」
詠は手帳のページを捲り、インクの掠れた古びた地図の断片を指差した。
「骸、飢、哭。この三つの柱は、人間の『感情』をエネルギーにして神を縛る杭だった。でも、最後の『詔』だけは違う。あれは、朝廷が神を生み出した罪を正当化し、命令によって神を縛り付けている『権力と隠蔽』の柱。……宗景がどうしても守りたかったのは、あの柱の力よ」
「守る?」
朔真が怪訝そうに眉をひそめる。
「あいつは、神を完全に殺すって言ってたじゃねえか。そのために俺たちを利用して、三つの柱を壊させたんだろ」
「それは嘘じゃないわ。宗景は神を殺すつもりよ。……でも、朔真君の『弔い』で優しく解体するんじゃない。詔の柱の『命令』の権能を乗っ取り、国家のシステムとして神の存在そのものを完全に書き換え、消去するつもりなのよ」
詠の突きつけた非情な事実に、玄理が忌々しそうに舌打ちをした。
「……なるほどな。感情の柱が残っているうちは、力技で壊そうとすれば呪力が逆流して国が滅ぶ。だから、俺たちに爆弾処理をさせた。そして一番厄介な感情の柱が消えた今、詔の柱の全権能を使って、残った神の本体ごと、俺たちのような不都合な真実を知る者を一網打尽にする算段か」
「そういうこと。神を討つという目的は同じでも、私たちと宗景では『手段』が決定的に対立する。あいつは、百年前の罪をなかったことにして、国を回そうとしているのよ」
「……ふざけんな」
朔真の強く握りしめた拳から、赤黒い血が滲み落ちた。
泥だらけの山鉈の柄が、彼の尋常ではない握力によってギリッと軋む音を立てる。
「じゃあ……俺の親父たちが殺されたのも、その『国を回す』ための計算だったのか」
その凄絶な問いに、その場に重く、息苦しい沈黙が落ちた。
河川敷の風の音さえもが、遠くへ消え去ったかのように思えた。
詠は、手帳のページをそっと閉じ、痛ましそうに、しかし真実を隠すことなく朔真を見つめた。
「……朔真君。あなたの血筋は、百年前、最後まで死者を弔おうとした一族の末裔よ。それは、神にとって唯一の『毒』であり、神を解体できる絶対的な鍵だった」
「……」
「討滅派である宗景は、あなたの血筋を見つけ出し、神殺しの道具として利用しようとした。でも、神と取引をしていた有雅たち利用派は、神にとっての脅威であるあなたの一族を、早めに潰そうとした。……結果として、神の命令を受けた哭代が、あなたの村を襲ったのよ」
朔真の呼吸が、微かに止まった。
自分の家族が理不尽に殺されたのは、単なる運命の悪戯でも、不運な事故でもなかった。
朝廷内部の泥沼の権力争いと、己の存在の保身を図る神の恐怖。
その二つの巨大な悪意が交差した冷酷な盤上で、「消すべき駒」として事務的に処理されただけだったのだ。
血だまりの中で志乃が流した鮮血も。
幼い小春が最期に浮かべた底なしの絶望も。
直継が血を吐きながら遺した最期の言葉も。
彼ら為政者や神にとっては、ただの「障害物の撤去」でしかなかったというのか。
「……そうかよ」
朔真は、俯いたまま短く、ひどく冷たい息を吐いた。
激情に駆られて怒鳴り散らすことすら、彼はしなかった。
ただ、その前髪の奥から覗く瞳の奥には、これまで彼が放ってきたどんな呪力よりも黒く、底知れない「決意」の炎が静かに、しかし爆発的な熱量をもって燃え上がっていた。
「上等だ。宗景がどんな理屈を並べようが、神がどんなに恐ろしかろうが関係ねえ。俺は、親父たちが遺した『弔い』で、あいつらの狂った盤面ごと、全部叩き斬る」
朔真が立ち上がった。
度重なる戦闘で満身創痍のはずのその背中は、不思議なほど真っ直ぐで、大木のように揺るぎなかった。
「……朔真」
鈴が、泥だらけの小さな手で、朔真の袖をそっと引いた。
彼女は、不安そうな、しかし確かな温もりと自我を持った薄墨色の瞳で朔真を見上げている。
「私も、行く。……朔真の家族を殺したのが、私の一族の命令だったとしても。私はもう、道具じゃない。朔真と一緒に、終わらせる」
「ああ。頼むぜ、相棒」
朔真は、鈴の頭に不器用に手を置き、少しだけ乱暴に、だが確かな愛情を込めて撫でた。
鈴はわずかに目を伏せ、冷え切っていた耳の先をほんのりと赤く染めながら小さく頷いた。
「やれやれ。俺みたいな薄汚い大人が、お前らみたいな真っ直ぐなガキに付き合うのは骨が折れるぜ」
玄理が、ズキズキと痛む肩を押さえながら、どこか嬉しそうに立ち上がる。
「詠。道案内は任せるぞ。宗景に先を越される前に、あの腐った柱をぶっ壊す」
「ええ。任せてちょうだい」
四人は、ようやく差し込み始めた朝日に背を向け、いまだ夜の闇に沈む漆黒の西の山脈へと歩みを進めた。
ここから先は、彼らを始末しようとする朝廷の精鋭追手と、目覚めつつある神本体が待ち受ける絶対の死地だ。
――だが、決定的な異変は、彼らが山脈の麓に広がる鬱蒼とした森に足を踏み入れた直後に起きた。
「……っ!?」
最初にその異常に気づいたのは、特異な感覚を持つ鈴だった。
彼女の足が唐突に止まり、両手で耳を強く塞ぎながら、苦悶の表情を浮かべてその場に蹲ったのだ。
「鈴!? どうした!」
朔真が慌てて駆け寄るが、鈴の華奢な体は尋常ではない震え方をしている。
「……こわい」
「怖い? 何がだ?」
「ちがう……私の感情じゃない。……『御喰様』が……すごく、焦ってる。怖い、死にたくない、来るな、って……頭の中に、直接……!!」
鈴の絶望的な悲鳴と共に、周囲の空気が、まるでゼリーのようにぐにゃりと不気味に歪んだ。
「なんだ、これは……!?」
玄理が瞬時に短槍を構え、四方を囲む木々を鋭く睨みつける。
ただの自然の森だったはずの景色が、まるで水面に映った風景が激しく波立つようにブレていた。
直後、青々としていたはずの木々の幹が、腐臭を放つどす黒い泥へと変わり、その表面に「無数の人間の顔」が悍ましく浮かび上がった。
それは、骸の柱や哭の柱で見てきたような、ただの「死者の残骸」ではない。
百年前、生きたまま飢えさせられ、身勝手な儀式の贄としてすり潰された当時の民たちの、鮮明すぎる「恐怖の表情」そのものだった。
『たすけて』
『おなかがすいた』
『いやだ、しにたくない』
木々のざわめきが、人間の怨嗟と絶望の悲鳴に変わる。
地面の土は赤黒い血の色に染まり、踏み出すたびにドチャリ、と臓物を踏みにじるような不快な音を立てた。
「神域の漏出……!?」
詠が、完全に血の気を引いた顔で叫んだ。
「三つの柱が折られたことで、神本体をこの世に縛り付けていた鎖が緩み始めているのよ! 御喰様は今、自分の存在が消えかかっていることにパニックを起こして、この一帯の空間そのものを百年前の『大虐殺の夜』に書き換えようとしているんだわ!」
ゴゴゴゴゴゴ……!!
大地が重く鳴動し、森の奥深くから、物理的な暴風の音を伴った凄まじい「殺意」の波が押し寄せてくる。
それは、これまでの守り神たちとは次元が違った。
世界そのものが、不純物である朔真たちを排除しようと狂気の牙を剥いているのだ。
「チッ、神様がずいぶんとヒステリーを起こしてやがる!」
玄理が、泥の木々の幹から蠢きながら伸びてきた無数の腕を、短槍の鋭い一撃で切り払う。
「朔真! 鈴ちゃんを立たせて! ここにいたら空間ごと百年前の怨念に呑み込まれるわ!」
「わかってる!」
朔真は、耳を塞いで震える鈴の肩を、逃げ場のない恐怖から引き剥がすように強く抱き寄せた。
「鈴、俺を見ろ! あんなバケモノの焦りなんかに呑まれるな!」
「……朔真……っ」
「お前は道具じゃねえ! 俺の隣にいる、ただの鈴だ! あいつの声なんか聞く必要はねえんだよ!」
朔真の腹の底から響く力強い声と、その確かな体温に触れ、鈴の薄墨色の瞳にわずかに理性の光が戻る。
彼女は、朔真の狩衣の胸元をギュッと握り締め、震えながらも己の足で立ち上がった。
「……うん。……行く」
「よし!」
朔真は腰の山鉈を抜き放ち、前方を塞ぐ「百年前の幻影」の分厚い壁に向かって、鋭く踏み込んだ。
「道を開けろ、化け物!!」
【閉眼】の呪力を纏った黒い刃が一閃し、泥と怨嗟で編まれた強固な空間の歪みを、力任せに強引に切り裂く。
バツンッ、と世界が裂ける音が響き、その裂け目の奥から、さらに濃密で暴力的な死の臭いが吹き付けてきた。
終わらせる。
家族の仇を。
この狂った百年を。
世界そのものの圧倒的な拒絶を刃で切り裂きながら、朔真たちは、すべての因縁の始まりの地へと足を踏み入れた。




