百万の燃料と、覚醒の返名
大水脈の広間は、完全な死の静寂に支配されていた。
血の海に沈んだ玄理。呪力を吸い尽くされて倒れ伏した鈴。そして、百万人の悲鳴に脳を焼かれ、石畳の上にうずくまる朔真。
『終わりだ、穂積の生き残り』
有雅の冷酷な声が響く中、紫蓮衆の男が、無防備な朔真の首へ向けて青白い呪力を纏った刀を振り下ろした。
――死ぬ。
朔真の意識は、底なしの暗闇の中で泥のように重く沈んでいた。
百万人の「疲れた」「死にたい」という微小な絶望が、朔真の心を黒く塗り潰していく。抵抗する気力すら湧かない。このまま首を刎ねられれば、この頭を割るような痛みから解放される。
(……人でいろ)
唐突に。
暗闇の底で、あの夜、血を吐きながら親父が残した最後の言葉が響いた。
なぜ、親父はあんなことを言ったのか。
仇を殺せでも、逃げろでもなく、「人でいろ」と。
人を人として見る。それは、相手の痛みや悲しみに共感するということだ。
誰かが流した血をただの赤い液体だと思わず、誰かが落とした涙をただの水滴だと思わないこと。死者をただの肉塊ではなく、かつて笑い、怒り、誰かに愛されていたはずの「人間」なのだと認識し続けること。
それが、穂積という一族が代々受け継いできた、名もなき弔いの根源だった。
だが、今の朔真はその優しすぎる「共感」のせいで、百万人の絶望に押し潰されようとしている。
帝都の地下水脈を通じて流し込まれるのは、今日食べるものがなかった者の空腹。理不尽な役人に殴られた者の痛み。病に倒れ、誰にも看取られずに死んでいく者の孤独。それらが均一にすり潰され、顔のない巨大な泥の波となって、朔真の自我を侵食している。
人を人として見るから、狂いそうになるほど苦しい。全部の痛みを拾ってしまうから、心が千切れる。
なら、いっそ感情を捨てて、ただ殺すだけの獣になれば、この頭を内側から食い破るような痛みは消えるのだろうか。目の前の紫蓮衆をただの「動く肉」と認識し、自分の命を永らえるためだけに殺意を振るう機械になれば、楽になれるのか。
「朔真君、立って!! 奴らの力は無敵じゃない!」
遠くから、詠の悲痛な叫び声が、厚く濁った絶望の泥を突き破って鼓膜を打った。
彼女は、崩落した岩盤の陰から身を乗り出し、喉から血が滲むほどの声で叫び続けていた。
「奴らは百万人の力を『借りている』んじゃない! 帝都の民の悲哀や痛みを、ただの『燃料』として消費しているだけよ!!」
燃料。
そのひどく無機質で、冷たい言葉が、朔真の淀んだ脳裏でバチッと火花を散らした。
――そうだ。
紫蓮衆の男たちは、百万人もの人々の苦しみや声に「共感」しているわけではないのだ。
有雅が作り上げたこの狂ったシステムは、帝都の民が日々の生活で削り落とす命の欠片を、ただの「便利なエネルギー」としてすり潰し、均一化し、彼らの腕の管へと注ぎ込んでいるだけだ。彼らは、他人の苦しみを「自分のためのエネルギー」として消費しているだけだ。
葦原の町で、孤児たちの命を数字で管理し、過労で死ぬまで使い潰し、最後は呪力電池に変えていた朝廷のやり方と、本質は全く同じ。規模が違うだけで、根底にあるのは人間の命を「資源」として扱う底なしの悪意だ。
(親父……そうか。分かったよ)
朔真は、暗闇の中でゆっくりと目を開けた。
濁りきっていた瞳の奥に、かつてないほど鋭く、純度の高い炎が宿る。
獣になれば、痛みは消える。
だが、それは有雅や斑目といった、朝廷の狂ったシステムと同じ側に堕ちるということだ。他人の痛みを都合よく切り捨て、自分だけが強くなった気でいる、あの冷血な化け物たちと同類になるということだ。
他人の命を数字や燃料として消費する連中に対して、自分が打つべき刃は、怒りに任せた「殺意」ではない。
燃料としてすり潰され、名前を奪われ、ただの青白い光に変換されてしまった者たちを、再び「人」として呼び起こすことだ。
ガァァァンッ!!
耳をつんざくような激しい金属音が、大水脈の広間に響き渡った。
詠がハッと息を呑む。
倒れ伏していたはずの朔真が、片膝を立てていた。そして、紫蓮衆の男が容赦なく振り下ろした致死の刀を、下から跳ね上げた漆黒の山鉈で、真っ向から噛み合わせ、完全に受け止めていたのだ。
「なっ……!?」
紫蓮衆の男の無機質な顔に、初めて明確な驚愕の色が浮かんだ。
あり得ない。管を通じて流し込んだ百万人の絶望で、この山猿の精神は完全に破壊されたはずだ。なぜ立ち上がれる。なぜこれほどの膂力で、己の刃を押し返してくるのか。
「……痛えよ」
朔真は、目と鼻から生々しい血を流しながら、地の底から響くような獣のような低い声で呻いた。
紫蓮衆の刃と打ち合っている今この瞬間も、管を通じて百万人の絶望が朔真の脳を焼き切ろうとしている。頭痛で視界が赤く染まり、こめかみの血管が今にも破裂しそうだ。足の筋肉は千切れそうに軋み、全身の骨が悲鳴を上げている。
だが、朔真はもう、絶対に目を逸らさなかった。
「お前らが……他人の痛みも知らねえで、都合のいい燃料にしてるこの力。……その中には、今日生きたかった奴や、泣きたかった奴の声が、ぎっしり詰まってんだよッ!!」
朔真は、全身の筋肉を限界まで軋ませながら、山鉈を力任せに押し返した。
紫蓮衆の男が体勢を崩す。
そして、朔真は男の腕に深く刺さっている「瑠璃色の管」――百万人の呪力が流れるその無機質な経路を、燃えるような眼光で睨み据えた。
武力でこの管やシステムを直接破壊すれば、行き場を失った莫大な呪力が逆流し、帝都の人間が狂い死ぬ。有雅はそれを「最高の人質」として盾にしている。
なら、物理的な破壊はしない。力ずくで叩き壊す必要はない。
彼らの体内に取り込まれている「呪力という名の便利な燃料」を、本来の持ち主である「生きた人間の声」へと戻してやる。
朔真は深く、血の混じった空気を肺の底まで吸い込んだ。
「――お前らは、燃料じゃねえ!」
重い山鉈の刃に、ありったけの弔いの意志を乗せる。
それは殺意ではない。ただのエネルギーとして均一化され、消費されかけている無数の魂の形を、強引に解きほぐすための祈り。あの大虐殺の夜から百年、誰にも名前を呼ばれず、ただの数字として処理されてきた者たちの、奪われた「個」を呼び戻す業。
「数字でも、電池でもねえ! 泣きたきゃ泣け! 怒りたきゃ怒れ! 人の身体を勝手に食い物にしてんじゃねえぞ!!」
――【返名】。
朔真の山鉈が、空気を引き裂き、紫蓮衆の男の胸を浅く薙いだ。
物理的な傷はほとんどない。骨も断たず、肉も裂いていない。だが、刃に込められた強烈な「名前(個)を呼び戻す力」が、男の体内に満ちていた青白い呪力に、直接、容赦なく叩き込まれた。
ドクンッ。
男の身体が、不自然に大きく痙攣した。
「……あ?」
男が、己の腕に刺さった管を呆然と見下ろす。
今まで、冷たく心地よい無限のエネルギーとして男の細胞を満たしていた青白い呪力。それが突如として、ドロドロとした黒い泥へと変色し始めたのだ。
血管を通して、黒い染みが男の全身へと急速に広がっていく。
『……いたい……』
『……かえして……わたしの、いのち……』
『……なんで、おまえだけが、わらっているの……』
「ひっ……!?」
男の体内で、声が爆発した。
朔真の【返名】によって、ただの均一なエネルギーとして麻痺させられていた百万人の呪力が、それぞれ「明確な自我と苦痛を持った人間の怨念」へと反転したのだ。
他人の悲しみを便利な燃料として呑み込んでいた紫蓮衆の肉体は、今や、百万人の生きた怨念を逃げ場なく閉じ込めた「最悪の牢獄」へと変わっていた。
「が、あァァァァァァッ!!?」
紫蓮衆の男が、刀を取り落とし、自分の胸を狂ったように掻きむしりながら絶叫した。
システムとの同調が完全に崩壊する。管から供給される力が、彼を活かすためのエネルギーではなく、彼を内側から食い破る猛毒へと変わったのだ。
「なんだ!? 何をした!」
残る紫蓮衆が、仲間の悍ましい異変に激しく動揺し、朔真へ向けて斬りかかった。
「お前も同じだッ!!」
朔真は、脳を焼く激痛に耐えながら、血の涙を流して山鉈を振るう。
斬撃ではない。刃を峰に返し、紫蓮衆の身体に直接【返名】の言葉を重く、泥臭く打ち込んでいく。
「他人の声で、強くなった気でいるなァッ!!」
ガァンッ! バキィッ!
二撃、三撃。
朔真の【返名】を受けた紫蓮衆の体内で、次々と呪力が「人間の悲鳴」へと反転していく。
「や、やめろ……! 管を、抜け……! 入ってくるなァァァッ!!」
痛覚を麻痺させられ、完璧な兵士として作られていたはずの彼らが、自らの内に目覚めた無数の怨念に内臓を引き裂かれる幻痛にのたうち回る。
石畳の上を転げ回り、彼らは狂乱して自らの腕に刺さった瑠璃色の管を引き抜こうとする。だが、有雅の構築したシステムはそれを許さない。一度繋がれた管は、彼らが死ぬまで「他者の悲しみ」を強制的に注ぎ込み続ける仕様なのだ。
ボキボキボキッ! という悍ましい音と共に、紫蓮衆の身体が内側から異様に膨張し、破裂した。
青白い呪力ではなく、黒い泥と化した怨念が四散し、彼らは自らが喰い物にしていた人々の声に引き裂かれて、完全に自滅した。
『……馬鹿な。あり得ない』
広間の奥の拡声器から響く有雅の声に、初めて明確な「動揺」が混じった。
『私の完璧なシステムが……ただの刃の一振りで、内部から崩壊しただと!? 百万人の呪力を、個人の自我にまで還元するなど、陰陽の理を完全に無視している!』
「理じゃねえんだよ」
朔真は、肩で荒い息を吐きながら、山鉈の切っ先を大水脈の中心――哭の柱へと向けた。
「お前らは、人間を部品だとしか思ってねえから、こういう時に計算が狂うんだ。……人の悲しみは、お前らの都合のいい電池にはならねえ」
有雅のシステムは、呪力を「ただの力」として扱うことを前提としていた。だが、朔真の弔いは、その力に「心」を呼び戻した。
朝廷の冷酷な合理性が、朔真の泥臭い「人間としての意地」に完全に敗北した瞬間だった。
『……おのれ。野蛮な山猿風情が!』
有雅の激怒と共に、大水脈の広間全体が、地震のような激しい震動に見舞われた。
紫蓮衆という「出力先」を失ったことで、大水脈のシステムが完全に均衡を崩したのだ。
ズズズズズズッ……!!
中心に鎮座していた巨大な『哭の柱』の表面から、封印の呪符が次々と弾け飛ぶ。
有雅の制御下から外れた柱が、蓄積された百万人の絶望を抑えきれず、ついにその本来の姿――真の守り神を顕現させようとしていた。
「朔真君、気をつけて! 有雅のシステムが壊れたことで、柱の本体が直接出てくるわ!」
詠が叫ぶ。
柱を覆っていた黒い泥が滝のように崩れ落ち、その中から、ドロドロとした髪の毛のような黒い水が広間中に広がり始めた。
女にも、子どもにも、老人にも見える、定まらない曖昧な人型。
第三の柱の守り神――『夜哭』の顕現だ。
『……どこに行くの』
『……置いていかないで』
『……たすけて……』
夜哭が姿を現した瞬間、鼓膜を通さず、脳髄に直接響く「泣き声」が広間を満たした。
紫蓮衆は倒した。だが、柱に蓄積された百万人の哀しみそのものが消えたわけではない。この巨大な未完の悲しみを「終わらせる」ことができなければ、結局、帝都に呪力が逆流してすべてが終わる。
「……あ、ぁ……」
その時。
床に倒れ伏していた鈴が、ふらつく足取りでゆっくりと身を起こした。
有雅のシステムが崩壊したことで、強制的な呪力の吸収が止まったのだ。
「鈴……!」
朔真が声をかける。
鈴は、真っ青な顔のまま、それでも薄墨色の瞳に確かな意志の光を宿し、夜哭を見据えた。
「……朔真。今度こそ、私が送る。……あの子たちの声を、全部」
「ああ。頼むぜ、相棒」
朔真は、血に濡れた顔で不敵に笑い、山鉈を構え直した。




