紫蓮衆の蹂躙と、塞がれた祈り
大水脈の広間に、有雅の嘲笑の余韻だけが冷たく響いていた。
青白い光に満ちた地下空間。しかし、そこにあるのは神秘ではなく、底知れない狂気だった。
百万人の民と直結した第三の柱『哭』。
破壊すれば、蓄積された呪力が管を逆流し、帝都の人間すべてが脳を焼かれて狂い死ぬ。有雅が突きつけた「百万人の命の重さ」は、見えない鎖となって朔真の足を石のように縛り付けていた。
「どうする、朔真……」
玄理が、短槍の穂先をわずかに下げて呻いた。
歴戦の元討滅隊士であり、数多の修羅場を潜り抜けてきた彼でさえ、これほど巨大で悪辣な「人質」を前にしては身動きが取れない。刃を振るえば百万が死ぬ。だが立ち止まれば、彼らはこの狂ったシステムの部品として永遠に生気を啜られ続けるのだ。
『賢明な沈黙だ。君たちは所詮、哀れな被害者に過ぎない。大人しく武器を捨て、我が紫蓮衆の養分となりたまえ』
有雅の優雅な声に合わせ、紫蓮衆が、再び刃に青白い呪力を纏わせて静かに歩み出てきた。
彼らの目は、もはや人間のそれではない。瞳孔は開ききり、ただひたすらに力に酔いしれる恍惚だけが張り付いている。腕に深く突き刺さった瑠璃色の管が、ドクン、ドクンと悍ましい心音を立てて脈打ち、彼らに絶え間なく百万人の「悲嘆」と「疲労」を極上のエネルギーとして供給し続けている。
「……ふざけんな。ここで首を洗って待ってろなんて、誰が頷くかよ」
朔真は、ギリッと血が滲むほど奥歯を噛み締め、山鉈を構え直した。
「柱を壊せないなら、柱に繋がってるそいつらをぶっ飛ばして、有雅のところまで道を作るだけだ!」
「朔真! やめろ、お前の刃じゃ相性が悪すぎる!」
詠の悲痛な制止が響くが、それを止める間もなく、朔真は硬い石畳を蹴っていた。
「死に損ないが」
紫蓮衆の一人が、無機質な声と共に、大気を裂くような速度で刀を振り下ろす。
朔真はそれを山鉈の峰でギリギリ受け流し、火花を散らしながら男の胴体へ向けて深く踏み込んだ。
相手は、ただの悪党ではない。システムに繋がれ、自我を溶かされかけている「人間」だ。だからこそ、怒りや憎悪に任せて肉体を破壊するのではなく、相手の奥にある「人だったもの」を見極め、刃に言葉を宿して断ち切る必要がある。それが朔真の戦い方であり、彼の父が遺した「人でいろ」という呪いの本質だった。
朔真は、男の瞳の奥、呪力の源流へと思考を接続する。
――【閉眼】。
一拍だけ、男の動きを止める。そのはずだった。
だが、それが取り返しのつかない最悪の引き金となった。
「――が、あァァァッ!?」
朔真の視界が、唐突に真っ白に爆ぜた。
脳髄のど真ん中に、何十トンもの氷水を直接流し込まれたような、圧倒的で暴力的な質量。
彼が見たのは、目の前にいる紫蓮衆の男個人の感情ではなかった。男の腕に深く突き刺さる管を通じて、逆流するように流れ込んでくる、帝都の「百万人の民の苦しみ」そのものだった。
『……疲れた。もう歩けない』『……お金がない。明日食べるものがない』『……誰も助けてくれない。死にたい』
それは、葦原の町で見たような鮮烈な死の絶望ではない。
幾万、幾十万という、名もなき人々が日常の中で吐き出す、薄く、黒く、重く鈍い悲鳴。一つ一つは小さな溜息でも、百万という数が合わさることで、それは自我を圧殺する巨大な泥の津波となっていた。
それらが、朔真の「死者に共感し、弔う」という特異で繊細な性質を通じて、許容量を何万倍も超えて脳細胞を殴りつけたのだ。
「朔真ッ!」
玄理が血相を変えて叫ぶ。
朔真は手から山鉈を取り落とし、両手で頭を掻きむしるように抱えながら、冷たい石畳の上にうずくまった。目、鼻、耳から一筋の黒い血が流れ落ちる。呼吸すらまともにできず、声にならない悲鳴を上げながら痙攣する。朔真の精神は百万の悲哀に完全に圧殺され、処理落ちを起こしていた。
隙だらけになった朔真を見下ろし、紫蓮衆の男が感情のない虚無の目で、ゆっくりと刀を振り上げる。
「させねえよッ!」
間一髪、暴風のような踏み込みと共に、玄理が横から短槍を突き入れ、男の刀を大きく弾き飛ばした。
だが、玄理の背後の死角から、残る紫蓮衆が一切の感情を排した連携で襲いかかる。
「チィッ!」
玄理は重い斬撃を肩の装甲で強引に受ける。
ガガァンッ! と甲高い金属音が鳴り響き、分厚い装甲が紙のように砕け散った。斬撃は肉まで達し、玄理の屈強な肩が赤く染まる。
「玄理!」
鈴が悲痛な叫びを上げ、白布の袖をまくり上げて前へ飛び出した。
朔真が動けない今、自分がやるしかない。相手を直接攻撃する力がなくとも、せめて紫蓮衆に供給されている「呪力の管」のエネルギーを中和し、流れを逸らすことができれば、玄理を援護できるはずだ。
鈴は、薄墨色の瞳に決意を宿し、紫蓮衆の腕に繋がる太い管へ向けて両手を翳した。深く、清らかな息を吸い込む。
『――送る。過ぎた悲しみを』
――【送詞】。
純白の清浄な光が、鈴の小さな手から放たれる。それは、死者の魂を鎮め、泥の呪力を祓う絶対の祈り。
だが、次の瞬間。広間に、有雅の腹立たしいほど優雅で、心底楽しそうな笑い声が反響した。
『……待っていたよ、哭代の娘』
「え……?」
鈴の放った純白の光が、紫蓮衆の管に触れた、その瞬間だった。
光は彼らの動きを止めるどころか、まるで乾ききった砂漠が水を吸い込むように、すさまじい勢いで「瑠璃色の管」の中へと逆流し始めたのだ。
「なっ……!?」
事態を理解した詠が、驚愕に目を見開き、手帳を取り落とした。
『私の作り上げたシステムは、民の悲嘆や絶望を吸い上げるだけではない。君が放つような純度百パーセントの「祈り」や「慈愛」は、システムにとってこの上なく極上のエネルギーなのだよ。哀しみを中和するどころか、より強力な呪力へと変換して彼らに供給される』
ズンッ! と、重低音が空気を震わせた。紫蓮衆の男たちの肉体が、一回り大きく膨張したように跳ね上がった。
鈴の純粋な祈りを吸い上げた彼らの刀から、これまで以上に禍々しく、そして暴力的な青白い呪力の炎が間欠泉のように噴き上がる。
「あ、ぁ……っ」
鈴の顔から、急速に血の気が引いていく。
祈れば祈るほど、救おうと願えば願うほど、自分の力がシステムに喰われ、敵をより強大化させてしまう。両手を下ろして術を止めようとするが、管から発生した強烈な引力が、鈴の体内の呪力ごと強制的に吸い上げ続けている。
「鈴ちゃん! 呪力を切って! あなたが干からびるわ!」
詠が血を吐くような声で叫ぶ。だが、鈴の身体はすでに限界を超えていた。彼女は崩れ落ちるように膝をつき、そのまま糸の切れた操り人形のように冷たい床へ倒れ伏してしまった。
『素晴らしい。これぞ究極の永久機関だ。君たちの必死の抵抗すらも、すべて我が帝都の繁栄の糧となる』
「ふざけ、るなッ!!」
玄理が怒号と共に、自身の血で滑る石畳を踏みしめ、強化された紫蓮衆の一人へ短槍を渾身の力で突き込む。
槍の穂先が男の胸を完全に貫通し、背中から突き抜けた。だが、男はやはり痛みを感じた素振りすら見せない。それどころか、胸に突き刺さった玄理の槍を、自らの素手でガシリと掴み取った。
そして、空いた手で、呪力の炎が燃え盛る刀を無慈悲に振り下ろす。
「ぐはァッ……!!」
玄理の胸元から、派手な音を立てて鮮血が噴き出した。巨体が紙屑のように後方へと吹き飛ばされる。
石畳を赤黒い血で汚しながら何度も転がり、やがて動かなくなる玄理。
「玄理……! 朔真君、鈴ちゃん……!!」
詠が、誰かを守るかのように分厚い手帳を抱きしめ、後ずさる。
だが、戦闘能力を持たないただの書記官である彼女にできることは、もはや何一つ残されていなかった。
床にうずくまり、百万人の声に脳を焼かれて頭を抱えて呻く朔真。
祈りを吸い尽くされ、意識を失って倒れた鈴。
深い斬り傷を負い、血の海に沈んだ玄理。
立っているのは、鈴の力を吸い上げてさらに強大化した紫蓮衆と、絶望に震える無力な詠だけだった。
広間の奥では、大水脈の中心に鎮座する『哭の柱』が、ドクン、ドクンと、彼らの無残な敗北を喰らって嘲笑うかのように脈打っている。
『さて、ゲームオーバーだ。穂積の生き残りよ』
有雅の底冷えするような冷酷な声が、薄暗い地下の底に反響する。
『君の「死者を弔う刃」は、何十万の生者の苦しみの前では無力だった。君が共感しようとする限り、君の精神は耐えきれずに壊れる。……大人しく、私のシステムの一部となりたまえ』
紫蓮衆の男が、完全に無防備となった朔真の首へ向けて、ゆっくりと刀を振り上げた。
百万人の人質。防がれた祈り。そして、敵の力となる自らの正義。
朔真の意識が、圧倒的な絶望の暗闇へと沈み込んでいった。




