夜哭の奔流と、拓かれる道
大水脈の底。光の届かない地下空間が、物理法則を嘲笑うかのように軋みを上げた。
メキッ、ボキボキボキッ……!
広間に等間隔で配置されていた紫蓮衆の男たちの肉体が、不自然に膨張し、次々と内側から破裂していく。飛び散るのは鮮血ではない。どす黒く、腐臭を放つ泥だ。
彼らが己の力を底上げするために、燃料として無差別に呑み込んでいた百万人の怨念。それが、朔真の放った【返名】によってただの「力」から「自我」を取り戻し、器である彼らの肉体を内側から食い破ったのだ。
『……馬鹿な。あり得ない……。私の完璧なシステムが……ッ!』
広間の最奥、祭壇に設置された拡声器から、有雅の声が響く。常に余裕を湛え、優雅に他者を見下していたその声には、明確な焦燥と震えが混じっていた。
紫蓮衆という、呪力の「出力先」たる中継点を失った空間。有雅が十年をかけて構築した、百万人の怨念を一方的に吸い上げ、統制するシステムは、今や完全にその均衡を崩していた。
行き場を失い、暴走を始めた膨大な呪力が、大水脈の中心に鎮座する『哭の柱』へと一気に逆流していく。
ゴゴゴゴォォォッ……!!
地下空間全体を揺るがす轟音。
巨大な柱の表面に幾重にも巻き付けられていた封印の呪符が、内側からの異常な圧力に耐えきれず、赤熱しては次々と弾け飛ぶ。宙を舞う燃えカスが、火の粉となって闇を舞った。
「朔真君、気をつけて! 有雅のシステムが完全に壊れた……柱の本体が、直接出てくるわ!」
後方の瓦礫の陰に身を隠し、血の滲む手帳を握りしめた詠が悲痛な声を上げる。
詠の警告と、それは同時だった。
天を衝くほど巨大な柱を覆っていた黒い泥の装甲が、決壊したダムのように崩れ落ちた。
ドロドロとした、無数の女の髪の毛が寄り集まったかのような黒い濁流が、広間の石畳を瞬く間に埋め尽くしていく。足首まで浸かるほどの泥溜まり。その中心部が、ボコボコと沸騰するように泡立ち始めた。
やがて、泥の海から「それ」がゆっくりと立ち上がる。
見上げるほど巨大な、しかし定まらない曖昧な人型。
女のようにも見える。子どものようにも見える。皺枯れた老人のようにも見える。
顔の輪郭は水面のように揺らぎ、泥の表面でいくつもの「口」や「目」が、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
第三の柱の守り神にして、百万の絶望の集合体――『夜哭』の顕現だった。
『……どこに行くの』
『……置いていかないで』
『……たすけて……くるしいよ……』
夜哭がその姿を完全に現した瞬間だった。
空気を震わせる物理的な音ではなく、鼓膜をすり抜け、脳髄の奥底に直接突き刺さる「泣き声」の暴風が、広間を満たした。
老若男女、無数の声が混ざり合った、ノイズのような悲鳴。
「ぐっ……くそッ……!」
朔真は耳を塞ぎたくなる衝動を堪え、山鉈を正眼に構えた。
迫り来る泥の触手を鋭い踏み込みと共に袈裟懸けに斬り払う。だが、手応えがない。斬っても斬っても、泥の触手は別の悲鳴を上げて瞬時に結合し、再生する。
そればかりか、切断された泥の飛沫が朔真の腕や足に纏わりつき、執拗にその体温を奪っていく。
これまでに幾度も対峙してきた異形の怪物たちとは、根本的に何かが違った。
夜哭には、明確な「殺意」も「敵意」も存在しない。
ただ純粋で、底なしの「見捨てられた悲しみ」が、何十万人分も重なり合い、朔真という一つの命を、この暗闇の底で共に泣くための道連れにしようとしているのだ。
重い。ただの物理的な泥の重さではない。
泥に触れるたびに、飢えに泣く赤ん坊の声、病に伏して孤独に死んだ老人の呻き声が、朔真の脳内でフラッシュバックのように爆発する。
加えて、紫蓮衆との戦いで【返名】を連続使用した代償が、今になって朔真の肉体と精神に致命的な負荷を掛け始めていた。心臓が早鐘のように打ち、視界の端がチカチカと赤く明滅する。山鉈を握る指先の感覚は、とうの昔に麻痺していた。
『おにいちゃん……どこ……』
「……ッ!」
泥を振り払おうとした朔真の足が、石畳に縫い付けられたようにピタリと止まった。
周囲を満たす無数のノイズの中から、一際鮮明に、あの夜、燃え盛る家の中で聞いた妹・小春の泣き声が、脳裏を焼き切るように響いたのだ。
『どうして、あのよる、たすけてくれなかったの……?』
見上げた先。
夜哭の巨大で曖昧な顔が、一瞬だけ、涙でぐしゃぐしゃになった小春の顔に変わった。
幻覚だと分かっている。敵の呪術だと分かっている。
だが、あの夜、熱を出し、母の帰りを一人で待っていた妹の姿が、鮮明に蘇る。
「小春……違う、俺は……!」
無意識だった。
朔真が思わず声を絞り出し、弁解するように、泥の顔に向かって一歩、足を踏み出した――その瞬間だった。
グンッ、と。
世界が、不快な音を立てて歪んだ。
前へ進んだはずだった。
だが、朔真の身体は夜哭から急激に遠ざかり、広間の端、巨大な空間の入り口付近まで、まるで見えないゴムで弾かれたように強制的に引き戻されていた。
逆に、遥か遠くにいるはずの夜哭の胴体から放たれた泥の腕が、あり得ないパースを描いて異常な長さに伸び、朔真の首元へ迫ってくる。
空間の法則が、完全に裏返っていた。
「朔真君! 返事をしちゃ駄目!」
瓦礫の陰から、詠の焦燥しきった声が飛ぶ。
「夜哭は、音と記憶に干渉する精神汚染の怪物よ! 呼ばれても絶対に振り向かないで! 声に応えれば応えるほど、奴との『繋がり』が深くなって、距離の認識が壊されるわ!」
「分かってる……分かってるが……!」
朔真は歯を食いしばり、首元に迫った泥の腕を山鉈の峰で叩き落とす。
頭では、それが百万人の怨念が作り出した幻聴だと理解している。
だが、己の弱さの象徴である妹の声で「助けて」と泣かれて、心が波立たないはずがない。
母の使いで家を離れていたが故に、家族を炎から救えなかったという、拭いがたい罪悪感。夜哭は、人間の最も脆く、最も隠しておきたい「後悔」の傷口を正確に抉り出し、そこへ泥のような悲しみを流し込んでくる。
『……おいてかないで……』
『……なんで、お前だけが生きている……俺たちを置いて……』
今度は、死んだはずの親父の声までもがノイズに混じる。
不器用で、いつも背中を丸めていた親父の、責めるような低い声。
視界が完全に狂い始める。
前に一歩踏み出すたびに、天地が逆転し、足元が底なしの沼に沈んでいくような激しい錯覚に襲われる。
右へ躱したはずが、左から泥の津波が押し寄せてくる。
距離感。方向感覚。平衡感覚。すべてが夜哭の「声」によって支配され、朔真の脳をハッキングしていく。
ドシャッ!
回避の方向を誤った朔真の身体に、夜哭の放つ無数の手が絡みついた。
四肢を捕らえられ、山鉈を持つ右腕に、何十人もの人間がぶら下がっているかのような絶望的な重みがのしかかる。
(俺が……あの時、家にいれば……)
泥の冷たさが、衣服を透かして肌から骨へ、そして心へと浸透していく。
抗う力を失い、朔真の意識が、泥の底の、暖かくすら感じる暗闇へと沈みかける。
――その時だった。
ポン、と。
朔真の背中に、小さく、ひだまりのように温かい手が触れた。
背後に立つはずのない気配。
ハッと目を見開いた朔真の視界の端に、薄墨色の髪が揺れた。
鈴だった。
彼女は、自身の残された命の時間を削るようにして、枯渇しかけていた呪力を極限まで振り絞り、有雅のシステムが崩壊して呪力暴風が吹き荒れる広間の中を駆け抜け、朔真の背後まで辿り着いていたのだ。
「鈴……!? 馬鹿野郎、無理すんな! お前はもう呪力が……!」
「平気。……私が、朔真の道を塞ぐ声を、退ける」
鈴の薄墨色の瞳は、かつてないほど強く、透き通るような光を宿していた。
彼女が両手を前へ翳し、印を結んだ瞬間。
純白の光の帯が、鈴の足元から波紋のように広がり、朔真の周囲を半球状のドームで覆い尽くした。
ジジュゥゥッ! という音と共に、朔真の四肢に絡みついていた黒い泥の手が、見えない光の壁に焼かれ、弾き返されていく。
「……朔真。聞いて」
鈴の声は、狂い咲く幻聴の渦の中で、信じられないほど静かで、一本の糸のように澄み切っていた。
「泣かないで。悲しまないで。それは、朔真の妹じゃない。親父さんでもない」
鈴の白い指先が、夜哭の巨大な顔を指差す。
「あれは……泣き終われなかった、知らない誰かの声。悲しみの形を借りた、迷子たち」
鈴の静かな言葉が、朔真の心に何重にも掛けられていた冷たい呪縛を、スーッと解きほぐしていく。
そうだ。
小春は、こんな風に人を恨んだり、暗闇から足を引っ張ったりするような妹じゃない。
親父も、生き残った俺を責めるような男じゃない。あいつらは、最期まで俺の無事を祈ってくれていたはずだ。
これは、朝廷の身勝手な都合によって理不尽に命を奪われ、誰にも弔われることなく、ただ暗闇に捨て置かれた無数の魂が、朔真の「後悔」という記憶の形を借りて『泣いている』だけなのだ。
「朔真なら……解せる。あの泥の奥を、見て。彼らの本当の悲しみを」
鈴の展開した結界が、夜哭の放つ精神汚染をギリギリのところで中和し、空間の歪みを補正していく。
有雅のシステムが崩壊した今、この大水脈において、鈴の光が強制的に吸い取られることはもうない。彼女の命の光は、真っ直ぐに朔真を守るために使われていた。
これなら、奥に届く。奴の核に。
「……ああ。目ぇ覚めたわ。頼むぜ、相棒」
朔真は深く、血の混じった息を吸い込み、限界を迎えていたはずの足に再び力を込めた。
重く垂れ下がっていた山鉈を、上段に構え直す。
瞳から迷いは消えていた。
「玄理! 詠! 俺が道をこじ開ける! 巻き込まれるなよ!」
後方で脇腹の傷を押さえながら立ち上がる玄理と、物陰の詠が、朔真の背中を見て短く頷く。
「行くぞォォッ!!」
朔真は、石畳を砕くほどの勢いで地を蹴った。
夜哭が反応する。
百万人の悲しみが物理的な質量を持った泥の津波に変わり、広間を呑み込む勢いで牙を剥いて襲いかかる。
だが、鈴の放つ純白の光の矢が、迫り来る泥の津波を左右に切り裂き、朔真が走るための一本道、光の回廊を作り出していく。
『……いたい……おいてかないで……!』
夜哭の巨大な顔が、異常な速度で朔真の眼前に迫る。
再び、小春の泣き声を模倣した絶叫が放たれた。
声に応えさせ、距離感を狂わせ、空間の淵へ突き落とそうとする強烈な呪力の圧。
だが、今の朔真の目は逸れなかった。
声に応えれば距離が狂うのなら。
応える(対話する)のではなく、ただ「受け止める(認知する)」だけでいい。
「……ああ、聞こえてる。お前らがどれだけ苦しかったか、痛かったか。全部な」
朔真は、目をカッと見開き、迫る泥の顔の奥深く――無数に蠢く呪力の結節点、外殻を形成する百万人の声の束を束ねている「要」の一点のみを、真っ直ぐに睨み据えた。
彼らの悲しみを否定するのではなく、あるがままに認知する。
その瞬間、夜哭の輪郭が激しくブレた。
彼らは「拒絶されること」「忘れ去られること」を何よりも恐れる怪物の集合体だ。朔真に真っ向からその存在と悲しみを受け入れられたことで、攻撃へと向かっていた呪いのベクトルが、一瞬だけ行き場を失って霧散したのだ。
距離が、縮まる。
刃の届く領域(ま合い)。
「聞こえてる。……だから、もう泣かなくていい。お前らの夜は、ここで終わっていいんだ!!」
――【弔詞】。
朔真の全身の筋力が爆発し、己の命の炎さえも乗せた山鉈が、大気を引き裂く音と共に、夜哭の曖昧な胴体を真横に深く薙ぎ払う。
それは、敵の命を奪うための殺意の斬撃ではない。
百万人の声を無理やり一つに縛り付け、理不尽な怪物として固定していた、有雅の呪縛の糸のみを断ち切るための一撃。
ズバァァァンッ!!
空間そのものが割れたかのような、凄まじい衝撃音が響き渡る。
朔真の山鉈から放たれた斬撃の軌跡が、夜哭の巨体を真っ二つに両断した。
「おおおおおォォォ……!」
断末魔ではない、解放の嘆息のような音が漏れる。
黒い泥の外殻が四散し、霧のように消えていく。
そして、泥が晴れたその内側から、無数の青白い光の球――名もなき死者たちの魂の断片が、夜空に瞬く星々のように、美しく大水脈の空間へと溢れ出した。
外殻が完全に解体された。
大水脈の底、石畳の中央に、ついに第三の柱の真の「核」が露出する。
ドクン、ドクン、と。
泥の鎧を失い、剥き出しになった黒い心臓のような核が、微弱な鼓動を打っていた。
「今だ、鈴ッ!!」
山鉈を振り抜いた姿勢のまま、朔真の叫びが大水脈に響き渡った。
外殻は解いた。百万の怨念は、ただの迷える魂へと還った。
あとは、この大空間に溢れ出した百万の魂を、再び朝廷の神に喰われる前に、あるべき場所へ「送る」だけだ。
朔真の後ろから、鈴が静かに、ゆっくりと前へ歩み出る。




